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1日目‐2

 外の空気を吸ったのは初めてだったのかもしれない。


 ネネはクチナに抱かれたままそんな事を考えていた。随分呑気なものだと自分でも思ったけれど、どんなに文句を言ってもクチナは解放してくれない。話しすら聞いてくれない中、ネネはいつの間にか状況を諦めてしまっていた。


 ――ああ、どうしてこんな事に。


 逃げるクチナに従いながら、胸に広がるのは罪悪感ばかりだった。ネネは信じてきた。生贄として模範的であることこそ尊いのだと。それなのに、このクチナという少女のせいで台無しだ。せめて自分でも逃げられたら良かったのかもしれないのだけれど、守人や雌鶏様の従者たちが血を流したあの光景がどうしても頭をちらついて、思い通りに動けなかったのだ。


 もしも言う事を聞かなかったら、自分もああやって斬られてしまうのではないか。

 痛がる彼らの姿を思い出せば思い出すほど、ネネの恐れは膨れ上がった。


 そうこうしている間に、クチナはひたすら一方を目指して走り続けていた。ネネの匿われていた里はとっくに見えなくなり、何処を見渡しても同じような木々ばかり。そんな風景が何度も過ぎ去っていってからようやく、クチナは走るのを止めて立ち止まったのだった。抱えていたネネを地面に下ろしつつも、その手は握り締めたまま。離れようとしても、黙ったままそれを許さないクチナに、ネネはとうとう文句を言った。


「放して。放してよ」


 嫌悪感を包み隠さず顔に出して、ネネはクチナのその美しい顔を睨みつけた。


「村に帰してよ。わたしは赤の少女なのよ」

「うん、知っている。だから連れ去ったの。帰りたければ、力で訴えなよ。君を返すつもりはないし、鬼灯の里にも帰らない。このまま一緒に八花に行くんだ」

「わたしは行きたくない。行くなら一人で行けばいいじゃない。どうしてわたしを連れていくの? お願い、雌鶏様の所に――大蛇様の所に帰してよ!」

「それは駄目。君を大蛇様に渡すわけにはいかない。八花に行くためには、君にもついて来て貰わないと」


 うんと引っ張られて、ネネはふらついた。抵抗しようにもクチナの力は強過ぎて、腕が引っこ抜かれそうなくらいだった。きっとそれはクチナが確かに鬼灯の者であるからなのだろう。しかし、それなら何故、大蛇様を困らせるような事をするのか。


「どうして? ねえ、ねえってば!」


 腕が引きちぎられそうになりながらも、ネネはどうにかクチナの手から逃れた。そのまま距離を取ろうとする彼女を見て、クチナは冷静に目を細める。その双眸はすでに赤みを失い、この国の大半の人間と変わらない鳶色をしている。それでも、異様に冷たい笑みが恐ろしくて、ネネは震えてしまいそうだった。


 そんなネネにクチナは再び手を差し伸べる。


「おいで」


 静かな声で放たれたそれは、命令だった。


「勝手は許さないよ。わたしの言う事は聞いた方がいい。痛い目に遭いたくないならね」

「見下さないで。今に村の人たちが助けに来てくれるわ。大蛇様の目は何処でも見渡せるのよ。今此処に居ることだってきっとお見通しのはず」

「そうだね。確かに大蛇様はわたし達を見ているだろうね。でも――」


 と、その時、クチナがそっと妖刀を構えた。その刃の輝きにネネの動きが止まる。まさか本当に斬るつもりなのだろうか。そう思うと、鼓動は早まり、想像も出来ない痛みと血の色が思考を蝕んでいった。


「い……いや……」


 怯えるネネにクチナは容赦しない。妖刀を構えたまま、目にもとまらぬ速さで動いてしまった。


「やめて!」


 ネネの悲鳴がこだまする。

 しかし、それにかぶさるように聞こえてきたのは、ケダモノと人語の混ざったような悲鳴だった。


 はっと我に返ってみれば、ネネのすぐ傍にてもがく生き物がいた。見たことのない姿の生き物。雌鶏様に与えられた本にも口伝にもないような異形のもの。

 アヤカシ。

 クチナに対してよりもずっとずっとその言葉の似合う化け物が、すぐ傍で痛みのあまりのた打ち回っていた。


「これは……」

「下位のアヤカシだよ。君の美味しそうな香りに誘われたみたいだね」


 そう言ってクチナが妖刀を降ると、美しい雨滴のようにアヤカシの流した血が飛び散った。その一方、刃はちっとも穢れていない。美しく不気味に輝いて、持ち主であるクチナの姿を照らしていた。


 惚けるネネの手を再び掴みあげ、クチナは言った。


「こういう奴らに捕まったらね」


 と、クチナはネネの目を覗きこむ。


「きっと信じられないくらい痛い思いをするよ。アヤカシは誰だって、新鮮な内臓が大好きなんだ。特に君は特別な生贄だから、狙ってくる奴は多いだろうね。思慮の足らないアヤカシやケダモノは、君がいくら大蛇様のものだって分かっていても、誘惑に負けて攫おうとするだろう」

「そ、そんな!」


 ネネは絶望した。


 この世界には恐ろしい生き物が沢山いるから牢から出てはならないと雌鶏様に言われて育ったのは確かだった。けれど、外に出てこんなにも早く思い知る事になるとは思わなかった。これでは、一人きりで迎えを待つことも困難だろう。今のアヤカシのことだって、クチナがいなければ、とっくに喰い殺されていたかもしれないのだから。


「アヤカシといっても思慮の足らない者を罪人にするのは君だって心苦しいだろう? だから、わたしと来るしかないんだ」

「そんなの酷い……」

「酷くて結構。憎まれたとしても、罵られたとしても、君はわたしのものなんだ。大蛇様のものでも、人間たちのものでもない。だから、返してはやらないよ」

「酷い……」


 泣きそうになりながらも、ネネはもはや抵抗出来なかった。


 いつか生贄にされると聞かされても怖くはなかった。それが集落だけではなく蛇穴全体のためだと聞いていたし、尊いことなのだと信じてきたからだ。そんなネネでも、ケダモノやアヤカシに無様に喰い殺されるのは嫌だった。大蛇様以外のものに命を捧げるのは最大の禁忌。百年に一度の赤の少女としてあるまじきことなのだ。


 ――どうにか、迎えを待つしかないのかしら。


 考えを変える気もなさそうな少女に引っ張られながら、ネネはただただ途方に暮れた。大蛇様はきっと見ているはず。それならば、どうか早く迎えを寄越して欲しい。そして、この傲慢で歯止めの効かない少女を止めて欲しい。そう静かに願った。


「泣いているの?」


 歩きながら、溜め息混じりにクチナは言った。


「泣いても無駄だよ。何も変わりやしない」

「分かっている。冷血なあなたに泣き落としなんて通用しない事くらい」


 腹が立つやら情けないやらで、涙ぐみながらも口酸っぱく言うネネに、クチナは苦笑をしながら歩み続けた。


「冷血か。そうだね、否定はしない」


 何を言っても無駄だった。

 どんなにネネが嫌がろうと、クチナは容赦なく従わせる。こんなに乱暴な扱いを受けるのも初めてであったネネは、歩めば歩むほど、ますますクチナという傲慢な少女が憎らしくなっていった。


 ――外など知らないままでいい。


 声に出す事も出来ないまま、ネネは必死に訴える。


 ――わたしは赤の少女なのだから。


 それでも幾ら心を守ったところで、クチナを止められない以上、ネネのいるべき場所は遠ざかるばかりだった。明けゆく空の色は時間の流れを残酷にネネへと教えた。殆ど休むことなくクチナに連れ回されて、今此処が蛇穴のどのあたりなのかですら分からない。


 そこは、やけに開けた丘だった。

 陰鬱な夜の闇が薄らいでいく中、霧に包まれた林よりぬけて、じわじわと現れようとしている太陽が山間に見えて、やっとネネは方角を知れた。日の神は東の山より顔を出し、西の山へと帰っていく。東が右で、西が左。ならば、クチナが目指しているのは北の方角なのだろうとネネはそっと頭に入れた。


「そろそろ休もう」


 日の出を見つめながらクチナが言った。次第に強まる日の神の影にさり気なく眉をひそめつつ、日陰に向かうこともなくネネの隣に寝転んだ。片手には妖刀。もう片手ではネネの手を掴んで離さない。引っ張られるままに座りこむネネを見上げ、クチナはからかうような笑みを向ける。


「君も寝たら? アヤカシはもう恐れなくてもいい。ケダモノだって、わたしが追い払ってやるからさ」

「眠れるわけがないわ。だってここは、わたしのいるべき場所じゃないもの」


 ネネは俯き、嘆いた。今だってクチナに握られている手を振り払う事は出来ない。さり気なくもクチナは、女神の血を引く鬼灯の一族たる怪しげな力でネネの手を掴んでいる。生贄に過ぎないただの人間であるネネが敵うはずもなかった。


 ――ああ、それならどうして。


 ネネは一人考えた。


 ――どうしてこの人は女神に逆らうのだろう。


 鬼灯の一族について、ネネはあまり詳しくない。ただ、大蛇様の子孫であり、始祖神を守るために存在しているのだとしか聞いて来なかった。彼らを見たことがないわけではない。何かしら特別な事情があるときは、里を訪ね、時にはネネの様子を見に来たこともあった。ただ、誰もが面を被っていて、その素顔を曝したりはしなかった。

 クチナのように素顔をさらして、あからさまに女神に反逆するような真似をする者なんて他にも居るのだろうか。


 ――この人の目的は、一体何?


 逃げることも出来ないまま、ネネは考え続けた。


「じゃあ、起きていてもいいけれど、勝手にふらふら歩いちゃ駄目だよ。この辺りは乱暴なケダモノが多いから……」


 目を閉じながらクチナは言う。

 そのまま吸い込まれるように眠っていくのをネネは感じた。日の神の眼光に曝されるクチナの寝顔は、明るい場所で見ればいっそう美しいものに思えた。だが、彼女の顔でもっとも印象的なものは目だ。赤く輝く目。鳶色の目。どちらもネネの心を掴んで放さない奇妙な魔性を秘めていた。


 ――いったいこの人は何者なのだろう。


 黒の少女。

 そう口走った。それは何なのか、まだ聞けてはいない。何処となく赤の少女に通ずるこの名称は、一体何なのだろう。ただの鬼灯の少女であるわけではない。そうネネは感じていた。女神への反抗にも何か理由があるのだろうか。しかし、どんな理由なのか、それが、この蛇穴に暮らす者たち全ての安息を覆してまでしなくてはならないことなのか。


 ――わたしは嫌だ。


 自由な片手で膝を抱えてネネは一人憂鬱さに苛まれていた。


 ――皆の為にも、この身を御捧げしなくては。


 それが赤の少女。これまでずっと紡がれてきた歴史。百年に一度産まれてくる代々の赤の少女が大蛇様にその身を捧げたお陰で、蛇穴には富がもたらされた。故郷を彩る黄金の穂も、様々な色をなす食物も、皆、大蛇様が大地を鎮め、災厄が溢れぬように邪をその身に引き受けてくれる為。そんな大蛇様への慰めとして、自分は立派に「赤の少女」をやり遂げなくてはならない。それが、今まで精一杯愛をくれた雌鶏様や養ってくれた人々への恩返しでもあるとネネは信じてきた。


 ――ああ、それなのに、この人は。


 黒の少女とは何だろう。

 ネネはすやすやと眠るクチナの顔を見つめた。

 身勝手で憎らしくも、心の底から嫌うまでに至らないのは、自分が向かうべき鬼灯の里から抜け出してきた何か特別な少女であるためなのだろうか。それとも、その肩書は呪われたものなのか。


 ――どうしたらいいの、雌鶏様。


 うつらうつらと眠気が差し迫る中、ネネはひたすら考え込んでいた。

 どうしたらこの状況を変えられるのか。どうしたら元いた場所に戻れるのか。どうしたらクチナに勝つことが出来るのか。

 考えても答えは全く見つからない。


 ――ああ、雌鶏様。早く迎えに来て。


 結局、そんな泣きごとを抱えることしか出来ない。そんな絶望に浸るネネに更に追い打ちをかけるように、抗えぬ眠りの波は押し寄せる。


 ――眠りたくないのに。


 心身の疲労は雨水のようにネネの身体へと沁み込んでいく。


 ――眠りたくない……。


 やがて、光に包まれる世界と別れを告げさせるように、ネネの瞼は閉じられていった。

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