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9日目‐2

 灼熱の炎の山を十三ほど抱える大島の、七つの国を治める神々。その尊き力は人の力を優に超えるは当たり前のことだけれど、中でも蛇穴を治める蛇神大蛇の恵みは抜きんでたものである。

 ネネは常々そう習った。


 蛇穴に生まれ、蛇穴に育ち、そして蛇穴の為に殺されていく存在として生まれた命。せめて自分が身を投じる神が偉大なものであると知ることは、ネネにとって唯一の救いであった。

 クチナと共にこうして教えられた役目を放棄する罪作りの旅にあっても、大蛇様への信仰の根本は変わらない。稀な神通力を保つべく、ネネのような生贄が必要なのだと漠然と捉えていた。

 そして、こうして双子熊の告白を聞きながら、ネネの中でその思いは一層強いものへと変じていた。


 ――神様は万能ではないのね。


 月の光を浴びながら、岩場の狭間でぐっすり眠る双子熊の寝顔を見つめながら、ネネはクチナと身を寄せ合い、静かに周囲の音を聞いていた。

 今宵はあまり進まないほうがいい。


 昼も夜も苦も無く空を舞う千代鶴たちの羽ばたく音が二人を緊張させ始めたのは日が落ちて間もなくの頃。見つかれば、大鴉に居場所が分かってしまうだろう。そうなれば、追ってきているキツなどに伝わってしまうかもしれない。見つからないには、身を潜めながら休むのが一番だ。

 そうこうしている内に、双子熊は眠り落ち、ネネとクチナだけが音を聞きながら周囲を窺い始めていた。

 眠りこける熊たちを見つめながら、クチナがぽつりと呟いた。


「母の仇、か」


 それは、まだ空が明るかった時のこと。


 双子熊が告げたのは、白鬼への恨みと神鳥様への不満だった。

 一山の主であった双子熊の母。細石に入って間もなくネネ達が出会ったオキツネ様と同じく神鳥様の命を受けてその山林を治めていたのだが、白鬼は突然現れた。溢れる力を発散させるかのように、獣や草花を痛めつける彼の出没に、神鳥様への忠誠心から討ち取るべく戦ったが、敗れ、見せしめとしてその首を取られてしまった。双子熊が嘆くのは、その際、神鳥様も大鴉様も母を全く助けてくれやしなかったことであった。


 別に見捨てたかったわけではないだろう。ネネは分かっていた。大蛇様が尊い力を持っているのは生贄のおかげ。生贄を得られぬ神は、限られた力しか発揮できない。助けたくても、助けられなかったのだろう。

 だが、そんな事情など、母を奪われた子熊には関係のないこと。

 双子熊は誓った。

 神鳥様を頼らずに、自分たちで母の敵討ちをするしかないのだと。そのためには、クチナの持つ妖刀が必要なのだと。


 ――せめて刀だけでも貸してくれ、か。


 必死な二匹の姿が、ネネの頭をよぎっていく。


「それでここまで必死になるなんて、きっといいお母さんだったのだろうね」


 クチナは寂しげに言った。


「わたしには母はいない。本当はいるし、今も生きているはずだけれど、殆ど会わせて貰えなかった。生まれて間もなく大蛇様の迎えが来たから」

「……わたしと一緒ね」


 黒の少女だとクチナは名乗った。

 赤の少女とどこか似た存在だが、具体的にそれが何なのかをネネはまだ知らないままだ。クチナは教えてくれそうで教えてくれない。何か教えるには引っかかるものがあるのかもしれない。


 ――だから、こうして少しずつしかクチナの事を知れない。


「でも、わたしには雌鶏様がいたわ。もしもあの日、あなたが雌鶏様を殺していたら、きっとわたし、一生あなたを恨んでいた。そうじゃなくて、本当によかったと今でも思うくらい」


 唸る蛇斬の残影と流れる守人の血潮。その血が乾かぬうちに雌鶏様の白い首筋へと突き付けられた刃の光。そして、一抹の慈悲もない眼差しで周囲をけん制するクチナの声。

 それがネネにとってのクチナとの出会いだった。


 ネネにとってあの光景は、今思い出しても恐ろしいものであった。その後、あの時には想像しなかったほどにクチナのこともまたかけがえのないものへと変わったが、そんな今であっても、恐怖は薄れない。

 クチナに対する怯えは、その出会いのせいなのだろうか。

 時折、ネネは疑問を覚えては、答えを見つけられずに悩み続けた。

 今もそう。そんな時、クチナはいつも悩むネネの表情を窺い、そして、何処か申し訳なさそうに目を逸らすのだった。


「そうならなくて、よかった」


 クチナはぽつりと言った。

 鞘に納められた妖刀を抱えて俯き、不安げな横顔を夜闇へと向けている。周囲を警戒し続けているのだろうけれど、その姿がまるでネネの姿を避けているように見えて、ネネは少しだけ寂しく感じた。


「蛇斬はね、いつだって命を吸いたがっている。あの時もそうだった。君を含め、全ての人間たちを見て、刃が怪しげに輝いていた。自分から飛び込んできた守人の血ではなく、君か、せめて雌鶏の血を、とわたしに訴えてきていた」

「……それでも、あなたは傷つけなかったのね」

「君も、雌鶏も、大人しくしてくれたからね。ただそれだけ。……それだけのことだったんだ」


 暗い表情のまま、クチナは言う。


「君を連れ去ってからしばらく、わたしはずっと葛藤していた。君にぶつけた数々の脅しは、全部本当の事だよ。君がもしもわたしに従わなかったら、ひょっとしたら君を殺していたかもしれない。そうじゃなくても、足を切り落としていたかもしれない。そのくらい、冷たい気持ちで君を連れまわしていたんだ」


 淡々とした口調で語り続けるクチナを、ネネは見つめた。否定はできなかった。連れ去られてからしばらく、自分に向けられた眼差しを思い出してみても、クチナの暴力的な感情は垣間見えたものだった。

 今はそうではない。そうではなくとも、そうであった過去は変わらない。

 クチナは目を逸らしたまま続けた。


「だから、君はもっとわたしを恨んだっていい。わたしを信用せずにいたっていい。今の君の感情は、きっと特殊なもの。わたしへの恐怖で歪められてしまったものなんだ。それを忘れないで」

「違う……違う!」


 他所を見続けるクチナに抱き着く形で、ネネは訴えた。


「わたしの感情は偽りなんかじゃない。万が一、偽りだったとしても、もう元には戻せない。戻せない以上、始まりなんてどうだっていいの。大切なのはこの先だもの。わたしは……わたしは、あなたの事が――」


 と、そこまで言ったネネの唇に、クチナはそっと指を当てた。

 驚いて見つめるネネを真正面から見つめるクチナ。その双眸は人間のような鳶色をしていて、穏やかに細められていた。


「その先は、いつか二人で八花に行けたときに聞かせて」


 微笑みながら言うその顔は、しかし何故か悲しげで、月光も相まってネネにはいっそう寂しく見える。それがまたネネの心を不安にさせた。

 不安を抱えたまま、冷えたクチナの体を温めるように抱きしめながら、ネネは何度も頭の中で一つの質問を行き来させていた。口に出すか、否か。何度も迷いながら、気を吸い取られている感触にただ浸り続けた。


「ねえ、クチナ」


 そして結局、ネネは今一度、クチナを真っ直ぐ見据えて訊ねたのだった。


「あなたは何者なの? 黒の少女って、何者なの?」


 その顔を見つめてみれば、クチナは戸惑いを露わにしていた。かすかに目を泳がせ、逃れる先を探し、しかし結局見つからず、観念したように両眼を閉じて口を開いた。


「黒は再生の色」


 唱えるようにそう言った。


「蛇穴の全ての人間たちとの約束を果たすために、百年に一度の再生の時が来ようとしている」

「その再生に、黒の少女は必要な存在なの?」

「そう……だね。君もわたしも大蛇様にとって必要な生贄なんだ。蛇穴のために、と大蛇様はいつも言っていた」

「皆の為に命を捧げることは尊いことだって雌鶏様も言っていたわ。それを信じてわたしはただ待っていた。でも、あなたは違ったのね」

「わたしも……幼い頃は信じていた。尊い御役目なんだって。……でも、ある時……ある時、見てしまったんだ。大蛇様がわたしを巡って兄さんや姉さんと話しているところを」


 そこまで言って、クチナは押し黙った。

 記憶に呑まれてしまっているのだろうか。その目が、その心が、いまや遠き場所となってしまった不浄の大地鬼灯の里へと囚われていくような気がして、ネネは怖くなって、クチナの体をぐっと抱きしめた。


「御免」


 ネネの背を抱き返しながら、クチナは俯き気味に言った。


「やっぱり、今、話せるのは此処までだ。でも、いつか話す。絶対話すよ。八花に行けたときか、その前かは分からないけれど……」

「分かった。それまで待っている」


 ぽっきりと折れてしまいそうなクチナの心を包み込んで守り抱くように、ネネはそう言った。


 ――黒の少女が何者でもいい。


 ネネは心の中でそう言った。


 ――だって、クチナはクチナだもの。


 自分に言い聞かせるように、確認するように、ネネは口から漏らさず心の中で唱えていた。クチナは黙ったまま身を寄せるネネの温もりを確かめ、そして、ゆっくりと力を抜いて鞘に納められた妖刀を地面に置いた。

 岩場に身を隠す形で寄り添いあう二人。

 近くでは双子熊の寝息ばかりが響いている。怪しげな気配は渦巻いているものの、今すぐに迫ってくるような危険は感じられない。それでも緊張は常に感じられた。


 ――蛇穴とは違う空気。


 白鬼のせいなのだろうか。殆ど外を知らないネネであっても、この細石という場所の空気が蛇穴に比べ、見えない針が無数に存在しているかのようにぴりぴりとしている。非常に落ち着かないものだった。


 ――でも、星だけは同じ。


 クチナに身を寄せたまま、ネネはぼんやりと夜空を見つめていた。

 月明りと星明り。それまで文字や図でしか知らなかったその全貌。

 初めてクチナに連れられて、まじまじと空を見上げた時をふと思い出した。連れだされた焦りもあって、その時はあまり堪能する気になれなかった。それでも、星の輝きは心に焼き付く景色であって、大蛇様への信仰心をふと忘れてしまうくらい見惚れるようなものでもあった。


 今は尚更のこと。

 大蛇様や蛇穴への罪悪感が薄れていくにつれて、前よりももっと夜空に心を囚われることが出来てしまう。


 ――八花でも同じ空が見えるのかしら。


 見つめながら息を吐くネネの隣で、クチナがぽつりと言った。


「星、綺麗だね」


 眠たげに、そして寂しげに、クチナもまた空を見つめていた。


「こんなに空は綺麗なのに、地上では嘆きに満ちている。細石は蛇穴とは違うっていつか姉さんが言っていたけれど、本当みたいだね。蛇穴では考えられないほど混沌としている」


 クチナの言葉に、ネネはふと近くで眠りこける双子熊の姿を見た。

 双子熊の必死の訴えに、クチナはきちんと答えていない。しばらく考えさせてくれと二匹の訴えを抑え、今に至るのだ。


「どうするの、この子たちの頼みは」

「……わたしじゃ到底白鬼には敵わない。蛇斬を頼れば対等かもしれないけれど、そんなことをしていたらオニやキツ達に追いつかれてしまうだろうし、そうじゃなくても大鴉に見つかっちゃうよ」

「じゃあ……」


 退けるのだろうか。

 ネネにはそれも可哀想に思えた。訴えてくる二匹は、幼い子熊の外見も相まって非常に痛々しいものに思えたからだ。

 しかし、クチナはその意を受け、ゆっくりと首を振った。


「放っておくことも出来ない。この子たちはわたしを助けてくれたから。だから、考えているんだ。どうやったらこの子たちに敵討ち以外の未来を見つめてもらえるだろうかって」

「それってつまり、この子たちも連れていくってこと?」

「察しがいいね。そうだよ。別に八花じゃなくたっていいさ、この子たちが住めそうな安全な山林まで一緒に行く気はないかって聞いてみようと思う」

「聞いてくれるかしら。あんなに必死だったのに」

「……そこなんだよね」


 伸びをしながらクチナは頭を抱える。

 妖刀を貸すことはもちろん出来ないだろう。そもそも、子熊に貸したところでうまく使えるはずもない。ネネもまたクチナと共に考えた。親の敵討ちという大義に囚われてしまった純粋な子熊の心の氷を溶かす方法はないものか。

 考えてみたものの、あまり上手くはまとまらなかった。


「ネネ」


 ふとクチナの手がネネの額を撫でていった。


「そろそろ寝なよ。疲れたでしょう。今宵は千代鶴の気配も白鬼の気配もないみたいだから。明日も北の方角を目指して歩き通しだから、今のうちに寝よう」


 そう言いながら、クチナはさり気なくネネの気を吸い取っていく。


「そう、ね……」


 倦怠感と撫でられる幸福感が合わさって、ネネの意識の大半を睡魔が覆いつくしていく。その眠気に全てが包まれてしまうより先に、ネネはクチナの顔を見つめ、言ったのだった。


「おやすみ、クチナ。また明日」


 ゆっくりと眠りに落ちていくネネの顔を、鳶色の眼差しで見つめながら、クチナもまたそれに答えた。


「おやすみ、また明日ね」


 その声が響くと同時に、ネネはすっかり眠りへと誘われていった。

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