9日目‐1
ネネが再び目を覚ましたのは、聞き逃せぬ雑音のせいだった。
夢は見ていたようだが、どんな夢だったかは思いだせない。汗ばむ身体と高まったままの鼓動がその余韻をもたらしているのみ。
それよりもネネは、現の方が気になった。
視界に入り込む世界はすっかり日の神に支配されている。クチナが立ち去っていった夜は過ぎ去って長いのだろう。それならば、ネネの近くには食べ物と飲み物を集めてきたクチナが眠っているはずなのに。
「クチナ……?」
傍には誰もいなかった。
眠る前にはいた弱くて優しいアヤカシ達も、今や日陰の更に闇の底へと身を潜めて姿を現さない。ネネの傍にいるのは虫や無害なケダモノといった昼の世界の住人ばかりだった。
「ねえ、クチナ。いるんでしょう?」
ネネは周囲に向かって再び声をかけた。
日光に照らされ影を強める人気のない朽ちた小屋の様子は、月光に照らされている時よりも何故だか寂しげで、その空気を吸っているだけでも体が冷えてしまいそうだった。
物音はあまりしない。虫の音や鳥の歌声、ケダモノたちの囁き声ばかり。その中で、ネネを目覚めさせる雑音はしたのだ。容赦なく草を踏みしめるそれは、確かに足音だった。
それがクチナでなければ、誰だというのだろう。
「クチナ」
立ち上がって音の聞こえた方向へと呼びかけると、間もなく、草むらは揺れ、音を鳴らしていた主は現れた。
その姿を見た瞬間、その形を見た途端、ネネは凍り付いてしまった。
そこにいたのはクチナではなかった。人ではなく、ケダモノ。真っ黒な体毛に包まれ、白い三日月の印を胸に刻んだ二匹のケダモノ。
子熊だった。
――熊……。
子供とはいえ、だいぶ大きい。それに、まだ母熊が傍にいることだってあり得るだろう。クチナは近くにいない。子熊たちだけがネネをじっと見つめている。その目、その表情は、決して物珍しい人間を好奇心のみで見つめているわけではなさそうだった。
まるでネネをずっと探していたかのような表情。
――まさか、白鬼の仲間……?
白鬼も熊の姿をしていたのだ。そうじゃないとどうして言えるだろう。怯えて後ずさりするネネを見て、子熊たちは草むらから体を乗り出してきた。四足でのしのしと地面を踏み荒らし、子供にしては非常にたくましい体を見せつけるように迫ってくる。
小屋に隠れても今更の事。
――どこにいるの、クチナ……。
ネネは怯えを隠せないまま子熊たちを見つめた。だが、子熊たちは隠れているネネを見ると、急に人のように立ち上がり、首をかしげ、そして口を開いたのだった。
「ねえ、人間のお姉ちゃん。隠れたって意味ないよ」
少年のような声で片方が喋り、ネネの様子を窺う。
「そんなに怖がらなくたって、ボクたち、悪いことしないよ?」
そしてもう片方の子熊も、少女のような声で言った。
「ねえ、出てきて。お姉ちゃん、他所の国の人なんでしょ?」
どちらもまさしくネネの理解できる人語であった。ならば、ただのケダモノでもないのだろう。ますます白鬼の仲間らしい。恐ろしさのあまり、ネネは震えを抑えて叫ぶように言った。
「あっちに行って。白鬼の仲間と話すことなんてないわ」
すると、二匹の子熊はびっくりしたように目を丸くし、互いに顔を見合わせてから唇を尖らせて答えたのだ。
「失礼な。ボク達は白鬼の仲間なんかじゃないよ!」
「あたし達、あなたを探しに来たの。ねえ、お姉ちゃん、ネネっていう人なのでしょう?」
子熊たちに問われるも、ネネはやはり恐怖に身がすくんだ。
名前まで知られているのは不気味だった。何故、自分を探しに来たのか。探している相手など、白鬼以外では、大鴉などの大蛇様の味方しか思いつかない。
白鬼の仲間ではないのならば、彼らの仲間であるのだろうか。
だが、子熊たちはそれも否定した。
「ボク達は双子熊。ネネという人を探してって、匂いをたどってここまで来た」
「蛇のお姉ちゃんよ。名前は確か……クチナ。わかるでしょう?」
そこでようやく、ネネの体から恐怖が抜け落ちたのだった。
「クチナ?」
その名前を繰り返し、ネネは慌てて小屋から乗り出した。
「今、クチナと言った? ああ、あなたたち、クチナの居場所を知っているの?」
やっと話を聞く気になったネネに、双子熊は二匹して溜息を吐いた。
「ようやく聞いてくれるんだね」
「あのね、蛇のお姉ちゃんは今、人間のお里にいるの」
「人間の里?」
「この近くのお里よ。大鴉様の罠にはまって、一人では逃げられなくなっているの」
「とにかくついて来て。このままだと迎えが来てしまうって焦っていたから……」
クチナが捕まった。大鴉の罠にはまった。
半信半疑ではあったが、眠りにつく前に見たクチナの様子を思い出し、ネネは心配を深めた。ネネは存分に気を渡した。すぐに眠りに誘われてしまうほどに渡したつもりだった。けれど、それは気休めに過ぎないかもしれない。限界を迎えたクチナの体を、かろうじて動かし続けていただけだったかもしれないのだ。
――ああ、クチナ。
双子熊の言う事が本当ならば、大変なことだ。
迎えとは鬼灯たちのことだろう。影鬼と泥人形ならば、ひょっとしたらもう来ているかもしれない。ならばせめて、囚われてしまったクチナの傍にいたい。
――離れ離れはいや。
「分かった、すぐに案内して!」
ネネの一声を受けるなり、双子熊たちは走り出した。
その二つの黒い影を追ってネネもまた走る。思えばここしばらくは、クチナに縋り付いて進むことが多かった。自分の足で大地を踏み、走るということはあまりなかったことを実感した。
子熊たちと進みながら、段々とクチナの囚われているという里へと近づいていく。人の姿を見かけるようになり、ネネは心臓が跳ね上がりそうなくらい緊張しはじめた。
双子熊は人に見つからない場所へとネネを誘導する。案内する先は、頑丈な気で出来た小屋であった。格子付きの窓が見えるなり、ネネは息を飲んだ。
――クチナがいる。
壁で阻まれ何も見えないが、ネネは確かに感じた。
金木犀のような香り。それだけではなく、ずっと傍で感じていた気配は、今すぐに縋り付きたいほど恋しいものだった。
思わずその名を口にしそうになり、ネネはぐっと唇を結んだ。
どこに人間がいるか分からない。見つからずにどうにか救わなくては。静かに辺りを見渡すネネに、双子熊がそっと囁いた。
「見張りが三、四人。刃物を持っている物騒な人たち。でも、ただの人間だから全然怖くないよ」
「あたし達が脅かしてみるから、その隙に中に入って」
ネネがその言葉に頷くと、双子熊たちはさっそく前へと飛び出して行った。
「行こう」
その背を見送りつつ慎重に距離を取り、小屋の入り口を物陰から見つめる。程なくして双子熊たちの襲撃を受けた人間たちの騒ぎ声が聞こえ、熊たちの狙い通りどんどん小屋から離されていった。
その様子を十分確認してから、ネネは小屋の中へと踏み込んだ。掘っ建て小屋の中は決して複雑ではなく、入ってすぐに牢屋は見えた。建物の半分ほどが檻になっている。真っ先にネネの目を捕らえたのは、クチナではなく妖刀蛇斬。小屋の隅に忘れ去られたように立てかけてあった。
――金木犀の香り。
香ってくるのはそちらからであった。
「ネネ……?」
と、牢の中よりその声が聞こえ、ネネははっとした。
見れば、牢の中にクチナはいた。鳶色の人間に近い目に哀しげな色を浮かべ、申し訳なさそうにネネの姿を見つめていた。
「クチナ」
すぐに近寄り、その温もりを確かめる。幸い怪我はなく、縛られてもいない。ただ硬い木の格子に阻まれ、落ち着きなくその場にいた。
「ごめんね、ネネ。この様だ。本当にみっともない」
「とにかく無事でよかった。クチナ、わたし――」
そこまで言って泣き出しそうになるネネの唇へ、クチナは格子越しにそっと指を当てて言う。
「蛇斬――妖刀をわたしに」
すぐにその言葉に従い、ネネは蛇斬を格子の隙間に潜らせた。受け取るや否や、クチナの目が蛇斬と共に赤く輝いた。
――あの色だ。
赤は特別な色。それでも、ネネはクチナの赤い目だけは苦手だった。鳶色の目をしている時も、赤色の目をしている時も同じクチナであるはずなのに、萎縮してしまうような緊張感が宿っているためだろう。
――どうして怖いのだろう。
赤は神聖な色。それなのに、クチナの赤い目を見ると、ネネは自分も殺されてしまうのではないかという恐怖を覚えてしまうのだ。
「ネネ、離れていて」
言われるままにネネが離れると、クチナはあっという間に蛇斬を鞘より解き放ち、硬い木を粉々に壊してしまった。
物音に怯んでいる間にクチナはネネの手を掴み、引き寄せた。
「さ、逃げよう」
そして、ネネの体を軽々と背負うと、そっと付け加えたのだった。
「助けてくれたお礼は後で。何がいいか考えていて」
一瞬だけ恥ずかし気に笑うと、すぐさま走り出したのだった。
小屋の外では既に人間たちが戻って来ようとしていた。ネネを案内した双子熊がそれを阻もうとしていたが、二人の姿を見るなりすぐにそばを離れて、刃から逃げだした。
人間たちは逃げていく双子熊を捕らえようとするも、脱走したクチナとその背に負われるネネの姿に気づくなり、血相を変えて近寄ってきた。
「しっかり捕まっていて」
聞こえてきたその声が響き終わらぬうちに、クチナはすでに人間たちをその刃に捉えていた。
いつものように殺しはしない。
それでも深手は与えている。
仕方ないと分かっていても、ネネは怖かった。同じ人間が、苦痛に呻いて倒れる音を聞くのは苦手だった。この怯えはクチナに伝わっているのだろうか。そっと疑問に思うも、戦うクチナの表情は面のように変わらず、ただ赤い血の線を生み出しているだけ。
クチナがあっという間にその場にいたすべての人間を斬ってしまうと、双子熊たちがすぐに駆け出し、里の外れへとつながる林の中へと導いた。
「こっち、蛇のお姉ちゃん、早く!」
片方が少女の声で手招く。
その誘導に、クチナは黙って従った。
人間たちが増えぬ前に、双子熊は里から遠く離れた岩場へと身を隠す。それに追いついたクチナが軽く一息ついてネネを降ろすと、双子熊はケダモノのくせににやにやしながら二人を見つめたのだった。
「助かってよかったね、お姉ちゃんたち」
「ホント、お使いキツネが来る前でよかったよかった。捕まったところ、ボク達が見ていなかったら、どうなっていたんだろうねー」
くすりと笑い合う双子熊に、クチナは大きく溜息を吐いた。
「――で? 見返りは?」
「さっすが、話が早いなあ。正直言って、お姉ちゃんみたいな人に恩を売れてよかった。大鴉様々だね」
軽口を叩く少年熊をクチナが軽く睨みつける。
機嫌が悪くなったらどうしようとネネは恐れたが、双子熊はちっとも恐れてはいない。
「あのさ、蛇のお姉ちゃん、その刀って特別なものなんだよね。あたし達が見たところ、きっと力あるアヤカシも斬れちゃうくらいのものね」
「力あるアヤカシどころか神に匹敵する者も斬れるらしいよ。お前たちみたいな未熟なアヤカシなんて、藁束を斬るよりも楽だろうね」
冷たく言い放つクチナだったが、双子熊には通用しなかった。
「そりゃあ、凄いや」
無邪気に笑い飛ばすのはきっと、クチナが本気でそんなことをしないと分かっているからだろう。
「そんなに強いならさ、その刀で白鬼なんかも斬れちゃうんじゃない? 神鳥様が手を下せないのをいいことに、調子に乗っているあの悪党の首をちょちょいと」
少年熊が物騒な身振りをする中、クチナは呆れ顔でもう一つ溜息を吐き、そのままネネの隣にしゃがみこんだ。
「簡単に言うねえ。大鴉なんかの安っぽい罠に容易くかかったわたしに、あれを斬れ、だって?」
「安っぽい罠って?」
思わず口から飛び出したネネの問いに、クチナはうっと口ごもった。代わりに、口を開いたのは少女熊であった。
「この人ったらね、あなたに化けた大鴉にまんまと騙されたのよ。あなたがついて来たと思っちゃって、注意力を失っちゃったの」
「わたしと間違って?」
首をかしげるネネの横で、クチナがむっとした表情で怒鳴る。
「こら、勝手に言うな」
「確かに蛇のお姉ちゃん程度の実力じゃ、正直、白鬼の相手なんて大変かもしんないけどさ」
「悪かったね」
「でも、その刀があれば違うでしょ。ねえ、お姉ちゃん……お姉ちゃんたち」
と、急に双子熊を取り巻く空気が変わった。
からかうような子供らしい表情は消え去り、子熊なりに真剣な眼差しでクチナとネネを見つめたのだった。
「あなた達なら、あたし達には出来ないことができる」
「お姉ちゃんの持つその刀なら、白鬼の悪行を止められる」
「お願い、蛇のお姉ちゃん、どうかその刀で白鬼の息の根を止めて」
「細石の混乱を治めてほしいんだ」
交互に縋る二匹の子熊。その必死さに、クチナは戸惑いを浮かべた。ネネはそんなクチナを横目に、これまでを軽く振り返った。
これまでクチナは強かった。
刀を手に戦い、殆どのアヤカシを凌駕する。彼女が苦戦していたのは同じ鬼灯の者くらいで、その他ならば強敵であっても勝ち進んできた。危険が迫っても、力が底を突きそうになっても、ネネが力を与えることができれば、その状況を覆すことだってできたのだ。
だが、白鬼はどうだろう。
たとえば、オニとオニの筆頭。クチナを追い詰める力を持ちながら、彼女たちは白鬼との直接対決を避けた。彼女たちでさえも泥人形の体では危険だと判断して退避したのだ。
――そんな相手を倒すことなんて出来るのかしら……。
疑問しか浮かばないネネの横で、クチナは頭を抱えながら双子熊に告げた。
「手を貸してくれたのは本当に助かった。君たちがいなかったら、どうしようもなかっただろう。それは認める。認めるけれど、そのお礼に君たちに力を貸すのは、はっきり言って無理だよ」
苦い表情で首を横に振るクチナに、双子熊は縋り付いた。
「そんな、無理じゃないよ。その刀なら、白鬼の首を取れるよ」
「そうだよ。その刀なら出来るよ。だって神様だって斬れるんでしょ? 出来ないわけがないじゃない!」
人間の子供のように食い下がる二匹に、クチナは呆れつつ諭した。
「そういうのはね、土地の神様に頼むものなの。それこそ、大鴉様に頼みなよ。余所者なんて放っておいて、さっさと白鬼退治してくださいってさ」
しかし、そのクチナの言葉に、双子熊はあからさまな不機嫌顔となって首をぶんぶんと振ったのだ。
「大鴉様なんて頼れないよ」
少年熊が言い、少女熊も表情を暗くする。
「神鳥様なんて信じない」
その強い否定に、クチナもネネも驚いた。
怒りと悲しみ。ケダモノであるはずのその顔に浮かぶはっきりとした感情を読み取って、ネネはそっと二匹を窺った。
「どうして? 神鳥様はここの守り神なのでしょう?」
自分たちの神を信じないその幼い獣を怖がらせぬよう、ネネは努めて訊ねたのだった。
「訳を教えて」
その言葉に、二匹は瞳を潤ませながら顔を見上げたのだった。




