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8日目‐2

 筆頭の忠告もむなしく、逃げる時間は残されてはいなかった。

 クチナはネネの手をしっかりと握りしめ、迫りくる影を睨みつけていた。その手ににじむ汗を感じ、ネネもまた絶望的な状況を知った。


 オニたちでさえも逃げてしまった理由。

 オキツネ様が一山の主の座を失った理由。


 白鬼。

 細石を荒らすその者は、非常に神々しい真っ白な巨熊の姿をしている。その顔もまた荘厳として、初めて目にするネネからすれば、眼差しの奥に燻る邪気さえなければ、今でも細石の人間のために神通力を惜しみなく発揮する美しい氏神に見えなくもなかった。


 だが、その外見などまやかしであるのだと一瞬にしてネネは理解した。

 敵意を込めたクチナの睨みに向かって吠え、幾人もが流した血で穢れてきたのであろうその巨大な牙を見せつけながら人語で言ったのだ。


「騒動の元は貴様らだな、小娘ども」


 そして、鋭い双眸でネネとクチナを見比べた。


「化け蛇と人間か。だが、不可解だ。神鳥めが狼狽しておる。忌々しい千代鶴が飛び立ちながら貴様らを探しておるのだ。何故かな」


 目を細める白鬼を前に、クチナは蛇斬を構えだした。


 ――震えている。


 どう見ても、武者震いではないだろう。緊張はネネにも伝わり、立っているのでさえ辛いくらい足の力が抜けてしまいそうになった。折れてしまいそうな心を必死に保ちながら、ネネはクチナに身を寄せる。

 そんな二人を見て、白鬼は真っ赤な口を大きく開けて嗤うような表情を見せた。


「ほう、俺の姿を前にしても屈せぬか。小娘の癖に勇気があるものだ。それに気になる。神鳥がなぜ慌てているのか。千代鶴共がなぜ、俺に歯向かうよりも貴様らを探すことを優先しているのか……」


 そうして、白鬼は桃色の鼻をぴくりと動かしてから言った。


「……大蛇。確か、蛇穴を支配する女神は百年に一度の生贄を得てさらなる神通力を得るのだったな。焦る神鳥、踏み荒らす化け蛇共。奴らが探す貴様らは、ひょっとして――」


 と、そこまで白鬼が口走るや否や、クチナが目にもとまらぬ速さで動いた。

 妖刀の刃が煌き、白鬼の美しい白毛を赤く染めようと狙う。だが、白鬼はその動きすら見切り、クチナとネネから距離を取った。巨体には見合わぬ俊敏な動き。ただ力にくるっているだけではなさそうなその様子に、ネネは更に警戒を深めた。


「威勢のいい奴だ。だが、その反応は、俺の予想もあながち間違ってはいないということだろうな。なるほど、蛇穴の秘宝か。まさか細石で拾えるとは思わなかった。その味もきっと約束されたものなのだろうなぁ」

「べらべらとよく喋る熊だ。白鬼だか何だか知らないけれど、ネネは渡さない!」


 クチナがようやく吠えた。

 震えをこらえるようなその大声は、ふつふつと闘志を呼び覚ます。その覇気に共鳴するかのように、妖刀蛇斬は怪しげに光り輝いた。

 だが、いかにクチナが虚勢を張ろうと、白鬼は鼻で笑うばかり。


「渡さない、か。結構。それなら貴様から先にいただくまでよっ!」


 太い腕が振り上げられる。

 その溜めに溜めた一振りに少しでも当たれば堪らないだろう。クチナはネネを素早く抱えると、白鬼からできるだけ距離を離した。いかに俊敏であろうとその体が巨体な熊であるのは変わらない。蛇神の血を引く小柄なクチナの方が、すばしっこさでは上手だった。その有利を存分に生かすべく木々の間へと逃げ込み、できるだけ入り組んだ場所へとそのまま逃げ込んだ。しかし、白鬼の力はクチナとネネの姿を隠してくれる木々を丸ごと薙ぎ払い、無理やり開けた空間を作り出し始めていた。


 まともに戦うなど、どう考えても得策ではないだろう。

 ネネの姿を必死に抱え、クチナはただ逃げることに専念し始めた。逃げるのには慣れているはずだ。イヌから、影鬼から、鬼灯から、そしてキツから逃げた。追い詰められても運を味方にして切り抜け、ここまで来た。まるで、天の神とでもいうべき何かがネネとクチナの夢を叶えるべく守ってくれているかのように、幸運が二人を守ってくれたのだ。


 ――それならば今回もどうか。


 ネネは願った。願うべき相手など分からない。

 それでも、願った。


 此処で追いつかれれば、大蛇様の使者に囚われるよりもずっと惨いことになる。生贄にされるわけでもない死の恐怖は、直接的にネネを震え上がらせた。

 そんなネネを必死に抱えながら、クチナは真っ直ぐ逃げ続けた。後ろから突風のように迫りくる白鬼は一切振り返らず、逃げ道だけをその目に捉えて木々を斬る風のように走り抜けていく。

 そうしている内に、辺りは少しずつ暗くなり、ざわざわという虫のさざめきのような雑音が響き始める。


 夜が近づいて来ようとしているのだろうか。

 しかし、それにしては何かおかしかった。

 ふとネネは上空に目を向けた。クチナが走るとき、いつもならば目まぐるしく移り変わる地上の景色とは違って、空の景色はゆっくりと変わる。だが、今日は違った。見上げてすぐに、ネネの目には奇妙なものが映り込んだのだ。


 紙で出来た鳥。

 様々な色、様々な模様の高価な紙で折られた無機質な大量の鳥たちが、羽ばたきながら空を覆いつくしていたのだ。


「これって……もしかして……」


 頭をよぎるのはオキツネ様の言葉。

 千代鶴という名前。

 目を奪われるネネ。一方、クチナはその気配を察知しつつも見つめることはなく、ただただ先へと走っていた。背後では白鬼が追い続けている。紙で出来た鳥を見つけると激しく吠えて、怒鳴り散らした。


「来たな、神鳥の使い走り! 細切れにしてくれる!」


 白鬼の吠える声に合わせ、紙で出来た鳥たちはくるくると旋回し、そのまま風に逆らうようにネネとクチナの周囲へと一気に下降してきた。

 鋭い紙の翼がネネの傍を横切っていく。一つ一つは頼りなくとも、多数集まれば脅威となる。クチナの逃げ足もやや鈍り、やがては止まってしまった。


「くそ、前が見えない……」


 焦りを露わにしながら妖刀でその紙を斬りつけようと構えたその時、急に前方の視界が開け、声が響いたのだった。


「どうかお止め下さい」


 そこにいたのは、鋭い嘴を持つ鳥の面を被った一人の人間だった。

 いや、本当に人間なのだろうか。ネネの目から見ても、不可思議な杖を一つだけ持って紙の鳥を操っているその人物は、ただの人間とは思えない怪しい気配が漂っていた。

 アヤカシだろうか。

 それにしては、あまりにも神々しい。


「お初にお目にかかります。私は大鴉おおがらすの者。この土地を治める我らが始祖神鳥の命と共に細石と天翔を見守る者」


 大鴉。神鳥様に従うもの。ならば、侍らせている紙の鳥はオキツネ様の忠告にあった式神なのだろう。

 クチナが緊張を深め、ネネもまた身を竦める。

 細石国を治める神鳥様は大蛇様と親しい御方。大蛇様の命に逆らって逃げ続ける二人にとって、味方であるなどとどうしていえるだろうか。


「せっかくお越しいただいたのに申し訳ありませんが、あなた方の旅もこれで終わりにしなくてはなりません。白鬼めの牙に囚われる前に、我らの偉大な父の翼の下に隠し、母君の元へお返ししましょう。さあ」


 大鴉が手を伸ばす。

 それを見て、クチナはケモノが毛を逆立てるように力んだ。


「来ないで。神鳥様の命だとしても、わたしは従わない。従う必要なんてない。君たちが心配せずとも細石は通り過ぎるだけだ。危害を加えたりはしない。天翔へと抜けるまでそう長くはかからないはず。だから、此処を通して!」


 千代鶴に囲まれる中、クチナは必死に大鴉へと訴えた。

 白鬼の猛々しい声がすぐそばで聞こえてくる。暴れまわって少しでも千代鶴を減らそうとしているのだろう。

 時間はあまりない。もたもたしていれば、すぐにでも白鬼は千代鶴を破り尽くして再びネネとクチナを襲うだろう。

 だが、大鴉は面の下に素顔を隠したまま、杖で激しく地面を突いてから言った。


「その気がなくとも、あなた方の行動は災いを招いている。ただでさえ細石は白鬼めに荒らされているのです。そのうえ、あなた方まで現れては堪らない。さあ、私と共に来るのです。その体に悪しき損傷が生じる前に、悪鬼の力があなた方に害なす前に、本来いるべき場所に戻りなさい」

「いるべき場所だって……?」


 震えながらクチナが噛みつく。

 ネネを抱きしめる腕にも力がこもり、恐怖と苦しさがネネを襲う。血走った色の双眸。殺伐とした気配。殺気立った視線が大鴉――他国の神の子孫へとすでに向けられている。

 妖刀がそんなクチナの暴力性を際立たせるように輝いた。


「そんなの、お前たちに決められて堪るか!」


 絶叫と共にクチナは走り出す。

 その背を押すように、ネネはすべてをクチナに託した。気の渡し方はもう十分に心得ている。それがどのくらい戦うクチナの役に立っているかは分からないけれど、託すことしか出来ないネネの期待に応えるかのように、これまでのクチナは疲れを見せない動きを見せてくれた。

 そして、大鴉を前にした今も、それは同じだった。


 蛇斬とネネの両方をしっかりと手放さず、クチナは小鳥を襲う蛇のように地を這って大鴉へと迫っていく。うねる様なその動き。大鴉の面の下でその目の色が変わったものの、もう遅い。

 斬りつけると見せかけて、立ち塞がる大鴉を勢いよく飛び越えると、そのまま北へと向かってただひたすら走り続ける。


「逃がさない!」


 大鴉が千代鶴たちを送り出そうとする。

 しかし、その最中、白鬼の激しい咆哮が響き渡った。千代鶴に阻まれていた白鬼が解放されてしまったのだ。真っ先に鉢合わせるのは大鴉の方。混乱に乗じる形で、クチナはネネを抱えてとにかく前へと逃げた。


 岩生の森林の先へ。遠い北の天翔の地を踏むために、ネネが流しこむ清水のような気だけを頼りに、クチナは走り続けたのだった。岩生の森林はまだまだ続く。クチナが走り続けても、二人の耳にこびりついた白鬼の咆哮は、そう簡単には消えず、いつまでもすぐ後ろについて来ているような恐怖は残り続けた。


 だが、少しずつ変わりゆく景色の向こうに、段々と細石の神鳥様の守護に頼る人間たちの住まう集落が見え隠れし始めた頃、千代鶴の姿も見られなくなってしばらく経ったこともあり、次第にその恐怖も薄れていった。


 やがて、クチナはネネの手を引いて、人里離れた小屋の影に身を顰めた。空き小屋らしきその場所。人の気配は遠く、長く人には使われてはおらず、人ならざる者のみが身を寄せるような場所となっていた。


「今日は此処で休もう」


 そう言って、土埃にまみれた小屋の影にネネを座らせると、クチナは周囲をぐるりと窺った。辺りはもう暗い。周囲では力の弱いアヤカシが身を寄せ合い、震えている。十分にその気配を探ってから、クチナは小声でネネに言った。


「危ない気配はないみたい。待っていて。水と食べ物を探してくるから」


 そういって立ち去ろうとするクチナに、ネネは慌てて縋り付いた。


「待って、クチナ……」


 恐怖は薄れたはずだった。それでも、クチナが離れると思った瞬間、ネネは怖くなった。クチナがいなくなってしまうのではないか、置いて行かれてしまうのではないかと。

 怖がり、震えるネネに縋られ、クチナはその背をそっと撫でる。


「ネネ。安心して。すぐに戻ってくる。此処は安全な場所だよ。周りに危険なアヤカシはいない。あの白鬼とかいうやつも、千代鶴も、大鴉もいない。いるのはネネに危害を加えない優しい闇だけ。だから、怖がらないで」

「本当……?」


 震えながら見つめるネネの視線の先で、クチナは静かに微笑む。黒くて長い髪が夜風に揺れ、穴の開いた小屋の壁より月明かりが二人を照らしている。幻想的な異国の夜に包まれながら、クチナはネネの頬を優しく撫でた。


「本当だよ。ネネを襲うような奴はいない。だから、此処で待っていて。万が一、何か起こったらすぐに駆け付けるから」


 そして、ネネが頷くのを待ってから、クチナは森林へと消えていった。その背中が見えなくなるまで存分に見送ってから、ネネはようやく小屋に隠れた。

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