6日目‐1
目が覚めて間もなく、ネネはクチナに連れられて町を目指した。
時刻は太陽が真上に昇る昼。
狐火林は妙に明るく、アヤカシなどとはまさに無縁のものだった。それでも、当のアヤカシであるクチナが言うには、昼間はあらゆる物の影でアヤカシ達は眠るらしい。活発だった夜とは違って、昼は殆ど動けない。強過ぎる日光は毒だとアヤカシは思っているらしい。
「実はわたしも御日様の光はあんまり好きじゃないんだ」
説明ついでにクチナはそう言った。
「人間の中にもそういう人はいるね。今から行く狐尾町なんかも、昼の顔と夜の顔があるらしくてね、夜の顔も狐火のような提灯だらけで面白いのだって。夜は昼とは違う人たちが活動しているのだそうだよ」
「それも学んだの?」
ネネは訊ねた。
真面目に学びを受けていたが、聞いた覚えのない話だったからだ。
不思議そうにしているネネをクチナは振り返り、軽く笑った。
「ううん、前に姉さんが言っていたの。その目で見たっていう話さ」
そう答えると、再び行く手を向き直って語り出す。
「蛇穴の何処かで揉め事があるとね、大蛇様が監視するんだ。手を下すかどうか、解決させるべきかどうか。判断するだけのためにも御使いが必要だ。オニは本来、そういう時に駆り出されるんだ。姉さんは長くオニをやっているから、蛇穴のあちこちを回ったって。姉さんだけじゃなくて、鬼灯の者なら普通は蛇穴の端から端まで行くことになるくらい駆けまわるんだって」
「知らなかった。鬼灯の人って忙しいのね」
「うん、そうだね。これも大蛇様のご命令だから仕方ないんだ。人間たちの暮らしを守る為でもあるし、鬼灯の一族の平和の為でもあるんだって」
「クチナも町に行ったことはあるの?」
その問いに、一瞬だけクチナの歩みが止まりかけた。
「ううん。これまでに沢山、オニや見習い子たちが色んな町へ行く任務はあったけれど、わたしは……どの町にも行けなかった。一緒に稽古をしていた同世代の見習い子達が、練習がてら行かしてもらうことになった時にね、わたしも行きたいとお願いしたのだけれど、駄目だって大蛇様が御止になった。里から出すわけにはいかないって」
「どうして?」
「『任務は危険なもの。滅多にないけれど、鬼灯の者でも犠牲になることだってある。何かあったら、とても困る。頑丈なのは確かだけれど、死なないわけじゃないのだから、悪人にそこをつかれたら堪らない。そうじゃなくても、何らかの理由で里に戻れないようなことがあったら大変だ』って、そう言っていた」
「黒の少女だから、なの?」
その問いに黙って肯くクチナを見て、ネネはふと牢での生活を思い返した。
友達も作らせてもらえず、集落どころか牢からですら殆ど出して貰えない生活。疑問を覚えないふりをしているので精一杯で、本当は外から子供達の声が聞こえてくる度に悩みや疑問を抱えてきたのだ。
そんなネネに比べれば、クチナは自由な方だっただろう。
けれど、普通の少女ではない。普通の少女として過ごす事を許されず、堪りかねてクチナは逃げ出すに至ったのだろう。
――きっとこの人もわたしと同じだったのでしょうね。
ネネは心の中でそう思うに留め、クチナに言った。
「じゃあ、あなたも本当に町は初めてなのね。……どんなところなのだろう」
文字で知り、聞いた話でしか触れてこなかった外の世界。
ネネにとっては生まれ故郷である集落の様子すら想像もつかない世界だった。クチナに攫われる形で外に出る事となった時は、その感動に浸るどころではなかったのだが、今になればもっと目で見ておきたかったとも思ってしまうほどだった。
赤の少女を産み育てる人形の里では、大蛇様に仕える雌鶏様の唄の呪術によって、その恩恵を直接受け取ることが出来る。そのため、蛇穴一の美しさを誇る黄金の稲が生まれるそうだ。稲だけではなく、少し遠出をすればもっと他の作物も見られただろう。
軽く学んだ程度では、その光景など頭に思い浮かべられない。
ネネにとってはクチナが連れていってくれる道中の草花の一つ一つですら真新しいものに感じられたくらいなのだから。
そんなネネにとって、町は更に遠い存在であった。
集落だけではなく、町も都も赤の少女が足を踏み入れるような場所ではない。赤の少女として生まれてしまったネネが知るべき場所は、人形の里にある卵の殻のような牢と鬼灯の里にある大蛇様の御殿という二つだけ。慰めに教養は与えられても、それを活かす場は与えられないのが生贄なのだ。
それはきっとクチナも同じなのだろう。
何となくではあるが、ネネはそう思った。
「どんなところだろうね」
クチナはぼんやりとした様子で言った。
「姉さんの話だけじゃうまく想像も出来ない。挿絵なんか見たって、全体は分からない。どんな人が住んでいて、どんな雰囲気なのかは行ってみないと分からない。だから」
「だから?」
「わたしもちょっと楽しみなんだ。人間たちがどんな暮らしをしているのか。絵や文や会話じゃ分からないようなところまで見たいなって」
ネネの手を引っ張りながら、クチナは柔らかな笑顔を見せる。
その笑顔に釣られて、ネネの頬も緩む。
攫い攫われた関係であったことなんてすっかり忘れてしまうような雰囲気であった。まるで、幼い頃からの友人と遊んでいるだけのよう。
ネネは感じた。これが、同じ集落で普通に生まれ育った子供達の日常なのだろうか。牢の中で寂しく聞いたあの無邪気な声の正体なのだろうか、と。
「それにね」
ふとクチナの表情が少し変わる。
人間の少女のように無害そうであった笑みに微かな妖気が含まれた。見つめているのはネネの背後。何も言ない林の道のずっと遠くを見つめていた。
「それに、町では影鬼も現れない。大蛇様は蛇穴の人間たちを愛しているからね。いくら使役している愛玩だからといって、その人間を食べる恐れのある影鬼たちを町なんかに送る事は出来ないんだって」
「そうなの? じゃあ、オニは?」
「勿論、影鬼が入れないってなると泥人形のオニたちも現れない。泥人形は影鬼が呼ばないと作られないからね。当り前だけれど、本体は別だよ。鬼灯であることを隠して入りこむことだって出来る。姉さんたちはそうやって、直接その目で町を見てきたんだ。町に留まるのもいいけれど、あんまりもたもたしていたらオニの本体が来ちゃって、人目につかない場所で連れ去られちゃうかもしれない」
「じゃあ、いつまでもはいられないのね」
「そういうこと。残念だけれど、でも、ちょうどいいのかも。わたし、お金とか持ってないし。ネネは?」
訊ねられ、ネネは黙って首を横に振った。
ネネにとっては半ば忘れていたことだった。学びを受けた際に、金銭というものについても教えられたが、何しろ自分で使ったことがないので、正直あまりぴんとこなかった。人形の里も含めた集落では金銭だけではなく、物々交換もよくあると聞いたのだが、それもやはりネネに対しては身近ではなく、想像しにくいことだった。
赤の少女であるネネは、大蛇様やその神託を受けた雌鶏様がよしとしたものしか与えられなかった。求めるという手段も思いつかぬまま、ただ与えられるものを受け取って生きてきたネネにとって、金銭は果てしなく遠い存在だったのだ。
「だよねえ。持っているわけないよね」
クチナは溜め息を吐く。
「聞いた話じゃ、町ではお金がないと本当にご飯も食べられないんだって。森や山のようにその辺に食べ物が落ちているわけじゃない。寝泊まりにもお金がかかるって聞いた。今までみたいに適当な場所で寝泊まりしていたら怪しまれるかも」
「じゃあ、ますますあんまり居られないのかしら」
「うん。通るだけって感じかも。でも、通るだけでも、今の内に色々見ておこう。八花に行ったら同じような場所で暮らすかもしれないしさ。人間たちがどんな風に暮らして、どんなに風にお金のやり取りをしているのか、何となくでも見ておこうよ」
「うん、そうだね」
八花に行ったら。
その仮定はネネにとって、とても胸の踊ることだった。
共に過ごし、共に暮らすのはどんなに楽しいのだろう。赤の少女であることから解放されるのは、どんなに気が楽なのだろう。
想像すればするほど、ネネは背後が気になった。
南の方角からはるばる歩んだ道のりがある。その先では今もきっと攫われていった大切な生贄を求めて嘆く雌鶏様の姿があるだろう。使いに送ったイヌ達は敗れ、もはや神の血筋の者たちに頼らなくてはならないこの状況下で、集落にて帰りを待つ雌鶏様はネネに対して何を想っているのか。
――きっと、クチナを庇った事は知られているのでしょうね。
雌鶏様は大蛇様と直接繋がっている存在。
不可思議な唄の力と大蛇様に授けられた特別な目だけではなく、その言葉を直接聞くことで人間たちに指示を送ることが出来るのだ。
ネネがクチナを庇ってイヌたちを拒んだことも耳に入っていないわけがない。
どんなに嘆いていることだろう。
しかし、いくらその姿を想像しようとしても、ネネの頭にはすぐにクチナと共に歩む未来への憧れが浮かび、罪悪感を覆い隠してしまうのだ。その感覚はまるで、妖術にでも囚われたようだった。決して不快ではない、心地よい妖術だ。そうして、その妖術らしきものに身を預けて共に進むこと暫く。日が少し傾いてきたかという頃合いに、二人の前にはその光景が見えてきた。
「ああ……あれが、町だ」
クチナがそう言って立ち止まる。
門と高い壁に仕切られた一帯。開けっぱなしの門の傍では人間たちが何やらうろついている。旅の者らしき風貌の者たちが、何やら話し込んでいた。今から町を去る一行なのだろうか。その他は、すべて門の向こう。つまり、町の中を歩いているのがちらほらと見える。
「あれが、町……」
ネネは茫然としてしまった。
門は思っていたよりも大きく、町を構成する建物一つ一つも体操立派なものに思えた。きっとネネの住んでいた集落とは比べ物にならない程、人が住んでいるのだろう。それでも、蛇穴一の人口を誇る都までとは行かないのだから、恐ろしい。そうネネは思った。
「行こう」
クチナに引っ張られ、ネネは恐る恐る歩んだ。
二人が林道を抜けると、門の外で油を売っていた旅の一行らしき大人達がじっと視線を送ってきた。少女二人きりで来るには不自然だと感じたのだろうか。はたまた、単に興味本位で見つめているだけなのか。
ネネが緊張している中、とうとうその一人が話しかけてきた。
「御嬢ちゃん方、林で一体何をしていたんだい?」
クチナがぴたりと立ち止まり、ネネもそれに従った。
話しかけてきたのは、妙に厚着をし、顔も殆ど見えない男であった。彼の仲間も見れば、同じように顔や頭を殆ど隠していた。長旅の為だろうか。それにしては、温暖な気候の蛇穴においてあれほどまでに厚着をするのは苦しそうだとネネは思った。
横で、クチナはじっと旅人達に視線を送る。
「それを聞いて、どうするつもり?」
緊張しているのが声で分かった。
鳶色の目も、髪も、蛇穴の人間によくある色。容姿はなかなか美しいだけで、あとは人間の娘と変わらない。異質な事と言えば、林から現れたことだけ。そして帯刀していることくらいだろうか。
クチナが緊張するのも無理はない。
ネネは不安に思いながらそのやり取りを見守った。
「どうするって、どうもしないさ。ただ、我々も余所者だからね。林の事を聞けたらいいと思っただけだよ」
顔は殆ど見えないが、笑っているのはネネにも分かった。この男には他意はないように見える。しかし、クチナは気を抜かず、じっと心まで覗くようにその男と連れの者たちとを見比べてから、答えたのだった。
「心配せずとも、キツならいなかったよ。でもその代わり、キツより厄介な人たちが来ちゃうかもしれない。町の人には黙っていてあげるから、さっさと行ったら?」
クチナの言葉に旅人たちは静かに笑う。
一方、話に置いてきぼりのネネはクチナの手をぐっと握ってその後ろにさり気なく隠れた。状況はよく分からないけれど、旅人達の鋭い視線に耐えきれなくなってきたのだ。友好的に話していても、そのろくに見えない目からは血の気の多いものを感じた。
それは、クチナがたまに見せるものにも似た雰囲気だった。
「厄介な人たちってのは、君の同胞の事かな?」
男の言葉にネネは怯えた。
やはり勘違いではない。この人達は分かっている。クチナが人間ではない事を見抜いているのだ。鬼灯の一族であることを今知られるのは怖い。旅人だったとしても、何が大蛇様に繋がるか分からないことが怖かった。
「黙っていてあげる、か。それは俺らの台詞なのではないかね」
「さあね。誰かに言いたいのなら言ってもいいよ。君たちの好きにすれば?」
「ねえ、クチナ……」
喧嘩腰のクチナに堪らずネネが手を引っ張る。
その様子を見て、顔を隠した旅人達の目線が妙に怪しげなものになった気がして、ネネは殊更不安になった。
「ほう。二人ともアヤカシかと思っていたが、そちらのお嬢ちゃんは人間なのだね。半妖でもないのに不思議な香りがする人間だ。何者だろうね」
男に言われ、ネネは震えた。
その目に見つめられ、気付いたのだ。
――この人達……。
男だけではなく、彼と共に居る三、四名の男女とも同じ。衣服で隠した下にて光るその目は、人間のものではなかった。虹彩を縦に斬り込むような瞳。異様に狭い白目。ネネとクチナを見つめ、笑うその口には細い牙さえも見え隠れしていた。
――さっきまで、ただの人間の姿だったのに。
段々と彼らの姿が変わっていく。その変貌を目の当たりにして、ネネはすっかり凍りついてしまった。そんなネネを庇いつつ、クチナが彼らを威嚇する。
「余所者には関係ないよ。この子はわたしの連れなんだ。ただそれだけ。もういいでしょう。わたし達は行くよ。おじさん達もさっさと行った方がいいんじゃない? キツに追われているのならさ」
「……ああ、そうだねえ」
にやにやしながら男が笑う。それに釣られて彼の仲間達も笑いだした。
「行くといいよ。日が沈まぬうちに」
彼の言葉が終わらぬうちに、クチナはネネの手を掴んで走り出す。
引っ張られながら続き、門をくぐってからもネネは何度も背後を窺った。彼らがついて来ているのではないか、彼らがまだ見つめているのではないか、そう思うと恐ろしくて仕方なかった。幸い、旅人達は追っては来なかった。
けれど、門が見えなくなるまで、ネネの不安は消えることもなかった。




