1日目‐1
※旧版から設定・内容を大幅に修正しました。
「これは尊い事なのよ」
月光が格子窓から差し込んでいる。その輝きを浴びながら、数え十五の少女ネネは自分にそっと言い聞かせていた。静けさの広がる牢の中にいても、月の光の照らす夜は不気味ながらも何処か優しい雰囲気を漂わせ、美しさで人の心を魅了する。
そんな中にあっても、ネネの心はあまり晴れやかではなかった。
彼女が暮らす蛇穴という国では、生贄が捧げられる。
温かな南の国で、同じ火山大島に存在する他国よりも恵まれた環境によって作物がよく育つ。だが、その恵みは自然のものではなく、この国を守護する蛇神大蛇によってもたらされたものであった。
大蛇様は実在する女神。己の血族である「鬼灯」という名の一族と共に枯れ果てた火の大地に鬼灯の里を作って暮らし、大地を疲弊させる瘴気を抑え、清めているらしい。そして、遠き地より蛇穴に住まう人間たちの生活を眺め、助力を願われるままに、鬼灯の一族や不可思議な力を持つ人間を通して、人々の生活を守ってきた。
しかし、大蛇様の力は無条件に発生するものではない。女神の力を借りるためには、百年に一度だけ、特別な魂を持つ人間の少女を生贄として捧げなくてはならなかった。その少女は赤の少女と呼ばれ、山々に囲まれひっそりとしたこの集落――人形の里で大事に育てられてきた。
赤の少女は大切な宝。
時が来れば少女は人形の里の何処かで勝手に生まれてくる。大蛇様のお告げが入れば、歌う雌鶏様と呼ばれる特別な目と声を持った一族の女が見つけ出し、数え十六で捧げられるまで怪我ひとつ負わないように牢の中で暮らす事となる。
蛇穴の人間たちは赤の少女に敬意を示す。生贄として鬼灯の里へと捧げるその日まで、どんな少女よりも崇高な存在として大事に養育されてきた。
――だから、辛い事ではないんだ。
口を閉じたままネネは自分に語りかけた。
彼女もまたその百年に一度の赤の少女。赤みがかった色の髪が目立つが、それよりもずっと赤い羽織に身を包んでいる。
赤は約束の色。やがては大蛇様のもとへと向かうその運命を受け入れているという印。着るかどうかはネネの自由で、幼い頃よりネネを守ってきた雌鶏様ですら強制できないものであった。
しかし、ネネはその衣を受け入れた。雌鶏様の唄を通して聞かされる大蛇様の言いつけをきちんと胸に留め、牢の中で慎ましく過ごしながらその時を待っていた。
捧げられるのは十六の夏。今宵のように月の美しいとされる日に向けて、ゆっくりと、大蛇様とその子孫の待つ鬼灯の里を目指す事になるそうだ。
その時には慣れ親しんだこの牢とも、今までよくしてくれた雌鶏様とも別れなくてはならない。それだけは、ネネにとって寂しいことでもあった。
「いいえ、寂しいなんて思っては駄目」
夜。皆が寝静まっても眠れない時。言葉に出来ない不安を覚えるたびに、ネネは一人呟いて自分を励ましていた。
「わたしの犠牲は尊いもの。大蛇様にこの身を御捧げするだけで、皆が救われる」
産まれてからずっと、ネネはそう聞かされて育ってきた。
父母は集落の何処かで兄弟姉妹と共に暮らしているらしい。彼らが自分の事をどう思っているのか、ネネは直接聞いたことがない。そもそも、ネネは今まで一度も実の両親や兄弟姉妹の顔を見たことがないのだ。
百年の時を告げるのは大蛇様。大蛇様のお告げを聞いた時の雌鶏様は、さっそく集落で産まれた女児と面会していき、そして特別なその目でネネを見つけだす。赤の少女が産まれた家は、里でも優遇されるらしい。それならきっと父母も兄弟姉妹も苦労はしていないだろうとネネは感じていた。
――ちゃんと自覚を持たないと、雌鶏様に申し訳ないわ。
ネネを見抜いたのは日頃よくしてくれる雌鶏様ではない。数え五つの頃、雌鶏様も代替わりした為、ネネを見抜いた雌鶏様は里の何処かで隠居して長い。
まだ年若く優しく温かな雰囲気を持つ新たな雌鶏様に、幼いネネが懐くのも自然なことだった。家族と会えずとも、寂しさとは無縁だったのだ。雌鶏様が不思議な唄で守ってくれる限り、ネネは安心して卵の殻のようなこの牢の中で過ごすことができたのだった。
ただ一つ、ネネの心に引っかかるものがあるとすれば、外で楽しそうに遊ぶ子供たちの声くらいのものだろう。遠くで楽しそうにはしゃぐその声は、格子窓より日光と共に注ぎ込まれ、牢の中で自由を奪われたネネの耳にもよく届いた。何をして遊んでいるのか。何が理由で笑っているのか。時折聞こえてくる喧嘩の声ですら、叱られている声ですら、ネネにとっては羨ましく物珍しいものであった。
「わたしは赤の少女」
赤の少女は尊いもの。
村の子供たちとも立場は違い、同じように遊んではいけないのだと大人たちに聞かされてきた。赤の少女は人間にとって神様のようなもの。新しい雌鶏様もそのことだけはしっかりとネネに教えていた。
「だから、もっとしっかりしなくては」
御迎えが来るのは来年。
鬼灯の里でどのようにして命を捧げなくてはならないのか、ネネは知らない。
しかし、どんな方法であったとしても、雌鶏様を始めとしたこの国蛇穴の人間たちが救われるのなら、とネネは直向きに考えていた。
赤の少女の流す血が、多くの人間たちの未来へと繋がっていく。
その使命感が、ネネにとっては世界そのものだったのだ。
赤は約束の色。大蛇様が人々に与える全ての平穏の印。
「そっか。君が赤の少女なんだね」
不意に聞こえた声。思ってもみなかったその声に、ネネは恐怖を覚えた。
聞こえてきたのは牢の外。明りも灯らぬ廊下。人の気配は感じられない。それでも振り返って見たならば、何者かが目を真っ赤に光らせてこちらを見つめているではないか。怯え、たじろぐネネを見て、その何者かはふっと笑って見せた。
「名前は確かネネ。同い年と聞いていたけれど、ずいぶんと小さいね。でも、思っていた通り、可愛いらしい。まるで無垢な兎か鼠のようだ」
――女の子?
その様子に、ネネの恐怖が少しだけ薄らいだ。
月明かりは遠く、廊下にて幽霊のように立つその人影を暴きだしたりしてくれない。それでも、夜目が効いてくれば、ネネにもだいたいその人物の風貌が分かってきた。分かって来るなり、驚いてしまった。同じ年だと言うその少女。真っ赤な目を光らせる只者とは思えない彼女の顔は、ネネがこれまで見た女性の中でも一際輝いて見えるほど美しいものだったからだ。
「あなたは……誰?」
ただの人間ではなさそうだ。雌鶏様のように特殊な目を持っているのならば、彼女と同じ一族の見習いなのかもしれない。だが、それにしては不自然なようにネネは思った。何故なら、その少女の目は、雌鶏様やその一族の者たちのような力無き儚げな色ではなく、もっと荒々しいケダモノのような色をしていたからだ。
「わたしはクチナ」
やがて、少女は言った。赤い目を細めて。
「鬼灯の里から来た。君を迎えに来たんだ」
「鬼灯の御方……?」
ならば、その正体は蛇神の血を引く尊きアヤカシ。ただの人間でないどころか人間ですらなかった。しかし、ネネは解せなかった。あまりにも不自然だったからだ。クチナと名乗るその少女が鬼灯の者だとして、何故、この時期にこんな場所に一人きりで現れたのか。
「わたしはまだ十五。御参りは来年のはずです」
迎えの者だとしても、不気味だった。里の者の案内もなしにどうして此処にいるのか。
牢の中で不安に怯えるネネを見つめたまま、クチナは口元に笑みを浮かべた。目は相変わらず赤く光ったまま。蛇の血を引く少女。初めて人間ではない者をまじまじと見る事となったネネは、急に牢の中で一人きりにされていることが恐くなった。
――雌鶏様は御気付きかしら。
「そうだね。儀式までまだかなり時間がある」
呟くようでいて、しかし、力強くはっきりとした奇妙な声でクチナはそう言うと、すっと腰の辺りから何かを抜きだした。その全貌を見て、ネネは眉を顰めた。クチナが持っているもの。それが、刀身の長い真剣であったからだ。
自ら薄っすらと輝いているそれは、どう見ても里の安全を任されている守人たちの持つものとは違う。彼女が神の血を引く鬼灯の者であるのなら、その刀も人間が作ったようなただの刀ではないのだろう。つまり、妖刀。
――なんで妖刀なんかを持っているのだろう……。
しかし、気になるのはそれだけではない。
どうしてクチナはそんな刀を抜いたのか。
「ねえ、ネネ」
甘い言葉でも囁くように、クチナはネネに語りかける。
「わたしと一緒に外を見てみたいと思わない?」
「外?」
訊ね返すネネにクチナはゆっくりと頷いた。
「八花ってところ。ずっと北にある異国だよ。同じ島内にありながら、蛇神の信仰も薄らぐような遠い場所。わたしも君も知らないような新しい世界を見てみたいと思わない?」
それはネネにとって怪しげな問いかけだった。
即答する事も出来ず、ネネは黙ってクチナの顔を見つめ続けた。真っ赤に光る双眸。誘い込むような雰囲気。その口から飛び出したのは、赤の少女を迎えに来た鬼灯とは思えない無責任なものに思えたのだ。
「新しい世界を見て、どうするの?」
念のため、ネネは訊ねた。すると、クチナは笑みを少しだけ深めて答えた。
「勿論、そこに住むんだ。君は赤の少女であることを忘れて、そしてわたしは黒の少女であることを忘れて」
――黒の少女?
その言葉がネネの頭にこだました。初めて聞く言葉だった。しかし、それにしては妙に懐かしくて、恋焦がれるような魅惑を感じる響きに思えたのだ。
「黒の少女って一体――」
何なの、と訊ね切らない内に、辺りは急に騒がしくなった。
「誰だ、そこにいるのは!」
野太い男の声。守人の声だ。
蛇穴の都に住む御上によって選ばれ、集落へと寄越された彼らは、やや人間離れした勘と力を持っている事で有名なのだ。しかし、警戒心の強いあまりか子供相手でも時折手加減を忘れてしまう危なっかしさもある。下手をしたら目の前にいるこの美しい鬼灯の少女にも危害が加わるかもしれない。
きっとこのクチナとやらも大蛇様の使い。女神を怒らせるようなこととなったら大変な事になる。ネネは慌てて牢の中より守人へと声をあげようとした。だが、その前にクチナは笑いだした。
「見つかっちゃったか。人間だからって舐めていたよ」
そう言って、すっと刀を振った。ネネの目にはただクチナが刀を下ろしたようにしか見えなかった。それなのに、次の瞬間、ネネを閉じ込めていた牢の柵がぼろぼろに斬り落とされてしまった。あまりに突然の事に惚けているネネの元へとクチナはゆっくりと近づいてきた。
ネネと同じく驚愕していた守人がはっと我に返った。
「……アヤカシか。待て、ネネ様をどうするつもりだ!」
「さあ、どうしようかな」
からかうようにクチナは言って、座り込んだままのネネの腕を引っ張り起こした。見た目にそぐわぬそのあまりの力に、ネネはただ従うしかなかった。そんなネネを見て、守人はついに得物を構えて走り出した。
「こいつめ!」
「待って、この人は鬼灯の――」
警戒心のあまり突っ込んで来る守人をどうにか止めようと、ネネは叫んだ。しかし、その叫びも虚しく、クチナはネネの手を掴んだまま、向かってくる守人の男をじっと見据え、時を待ってやはり軽々と妖刀を横に流したのだった。
「ぐ……あっ」
呆気なく崩れ落ちる守人の姿に、ネネは息が詰まりそうになった。床はすっかり血で穢れ、男は今もなお苦しそうにもがいている。だが、目だけは獣のように怒りに満ちたまま、クチナのことを睨みつけていた。
「もう邪魔は出来ないね」
クチナはそんな彼に向かって言い捨てる。
「安心して。命まで奪ったりはしないからさ」
優しげだが傲慢なその声に、ネネは震えてしまった。名残も惜しまずクチナは刀を下げ、ネネの手を引っ張った。目の前で繰り広げられた刃傷沙汰にすっかり怯えてしまったネネは、恐怖のあまりそれに従って一歩二歩と共に歩んだ。しかし、牢から出たところでクチナの歩みは止まった。止めたのは、美しい歌声のような言葉である。
「お待ちください」
雌鶏様だった。クチナの向かおうとしていた進行方向で、彼女は明りを持つ従者と共に待ちかまえていた。壊れた牢の中で苦しむ守人の姿に動揺しつつも、ネネを連れ出そうとしていたクチナの姿に警戒心とある種の畏れを示していた。
「生贄の儀は来年のはず。それなのに何故、我が人形の里の人間を傷つけてまでネネを連れ出そうとするのですか。あなたの目的は一体、何なのです」
「ああ、君が雌鶏か。人間でありながら妖力を含む唄を知る『歌鳥』という一族……だったかな。うろ覚えだけど」
恐れることもなくクチナは雌鶏様を見つめ、空虚な笑みを浮かべる。
「君も大変だね。世の中には好き勝手に生きる事を許されている歌鳥もいるんだって聞いているよ。それなのに、大蛇様に見初められて祖先がその目を授けられたばっかりに、全ての自由を呪いの唄で縛り上げて此処に居なきゃならないんでしょう?」
可哀そう、と呟くその目はやはり、ネネからしてみれば何処までも傲慢なものであった。何処か恍惚としたその声に、雌鶏様の警戒が更に強まっていく。
「あなたは、大蛇様の御意向すら貶すというのですか」
諌めるようにそう言ってから雌鶏様が歌うように何かを唱えると、彼女に付き添っていた者たちが一斉に得物を構えてクチナを牽制しはじめた。それでも、クチナはネネの手を離さぬまま、興味深げに見つめているだけであった。
「此処は御通ししません」
雌鶏様がクチナに言った。
「あなたのことは既に聞いております。此処は御通ししません。どんな事情があったとしても、ネネを渡すわけにはなりません。あなたには大蛇様の下に御帰り願わなくては」
「そっか。もう知られているんだ。じゃあ、やりやすいね」
穏やかにクチナは言い、そして声を低める。
「ねえ、此処を通さないって、そんなこと君たちに出来るの?」
ぞくりとする殺気が隣に居るネネにも伝わった。恐怖のあまり逃げようとするも、クチナは冷静にそれを封じる。この少女はおかしい。鬼灯であったとしても、大蛇様の身心に沿わぬ者だ。ネネが改めてその異様さを実感した時には、雌鶏様の従者がすでに飛び掛かった後だった。
「駄目、この人……」
その危険をろくな言葉で訴えられぬまま、またしてもネネの目の前で人が倒される。クチナは殆ど動いていない。ネネの手を解放することもなく、雌鶏様の連れてきた従者の半数をあっという間に斬り倒してしまったのだ。
もがき苦しむ従者の姿に、雌鶏様が動揺を深める。
そんな彼女に微笑みかけ、クチナは言った。
「どう? まだするの? 出来ればもう勘弁してほしいな。手加減は難しいんだ。間違って殺しちゃったら気分が悪い」
余裕そうに笑うクチナに、残った従者たちが逆上し走り出す。それを見て、クチナもすっと笑みを引っ込めると、ネネを抱きかかえて走り出した。全力で走る人間とは比べ物にならないその速さに、雌鶏様も従者も、そして抱きかかえられているネネも翻弄されてしまう。その隙に、クチナは従者たちの脇をすり抜け、一気に雌鶏様の懐へと潜り込んだ。
勝負は一瞬だった。
妖刀が捕えたのは雌鶏様の白い喉元。刺すか刺すまいかの瀬戸際で止まっているその光景は、動ける従者にとっても、抱えられるネネにとっても、そして捕えられる雌鶏様にとっても、心臓が止まってしまうくらい恐ろしいものだった。
「まだするの?」
クチナの問いが向けられているのはこの場に居る全員であった。戦っていた者も、新たに現れた者たちも、クチナの刃に捕えられた雌鶏様の姿に恐れを成していた。
「してもいいけれど、それなら喉を潰すよ。雌鶏の後継者はまだ育っていないのでしょう? じゃあ、この人が歌えなくなったら大変だよね」
殺気だったクチナの声に、誰もが茫然と立ち尽くした。
雌鶏様は歌う巫女。大蛇様への忠誠を誓った後は、その唄に乗せて豊穣の力をこの里より蛇穴全体へともたらす。それだけではなく、彼女のあらゆる力は唄に乗せられ、蛇穴を守る非常に強い柱として頼りにされてきた。やがて年老いて死ぬ前に、同じ目を授けられた血族から見習いを選んで養育し、少しずつ時間をかけて新しい雌鶏様を作りあげる。
しかし、現在、次なる雌鶏様はいない。もしも後継者なくして雌鶏様が歌えなくなれば、大蛇様の恵みが蛇穴に上手く伝わらなくなってしまう。代わりはそう簡単には作れない。同じ歌う力を持つ歌鳥の血族であっても、雌鶏様になるには時間がかかるのだ。だから、今、雌鶏様が歌えなくなれば、それだけ大きな損害となってしまう。
そんな事情をすべて分かった上で、クチナは人々を脅していた。
「道を開けて」
鋭いその一言に、恐れ慄く人間たちが脇へと退く。そんな呆気ない彼らに雌鶏様は何か言おうとしたのだが、クチナはそれを許さない。ネネを抱え込んだまま、彼女はぎりぎりまで雌鶏様の喉元を矛先で抑え、そして人間たちには追いつけない程の速さで逃げだしてしまったのだった。
「追って! 早く! ネネを連れ去られては駄目!」
解放された雌鶏様がいち早く叫んだけれど、誰ひとりとしてクチナの行く手を阻める者はいなかった。