第十話
竜の首の下辺りから流れる血は止まらなかった。それどころか、それは増える一方で、床には既に夥しい量の血で一杯になっていた。滴るその液体はどす黒さを含んだ真っ赤な、見ていてこちらが卒倒しそうなほどの色彩を施していた。
だが竜は動こうともしない。顔には焦りの色も見えないほどだ。これほどの強大な力を持った者が、なぜこんなちっぽけな人間のようなか弱い生物を標的にするのかがウィザードにはまるで分からなかった。
――クッハッハッハハ……。引導ヲ、トハ人間風情ガ大キク出タモノダナ。コノ程度デ我ヲ追イ込ンダツモリカ?笑ワセテクレル。
竜の声であろうか。顎が僅かに上下しているのでそうだろう。耳がほとんど聞こえないはずなのに、頭の中にそれは直接入り込んできて体全体に行渡らせているような感触がウィザードの心を異常な感じにさせた。低い深い声色だ。――無論、それは声といっていいかわからない奇妙な感覚であったが。おぞましいという言葉がよく似合う、背筋もぞっとした。それ以上に竜が我々の言葉を話せることに激しく動揺していた。竜自体、我々人間より遥かに凌駕する知能を持った生物であるとはウィザードも本でよく知識として取り入れていたものだが、まさか人語を理解するまでのものかと、彼は今この状況だけだが敬意を賞した。
「俺の言葉が理解できるなら聞いてくれ。なぜあなた方偉大なる竜が人を襲う?もちろん、これは書物の中での話ではあるが、竜はむやみには人を襲わないというし、我々の住処をも火の山にはしないという」
――……フン。ソレハ所詮仮説デハナイカ。人間ニモアルヨウニ、モチロン我々ニモ個性トイウモノハ存在スル。皆同ジトイウワケニハイカンノダヨ。コノ世ノ中ノ摂理トイウモノダ。静カニ暮ラス龍モイレバ、人間ノ腐ッタ肉ヲ好ムモノモイル。ソレハ仕方ノナイコトナノダヨ、小僧。自然ノ摂理ニハ誰モ逆ラエン。万物ガ今モ存在スルヨウニナ。
「……違う。違う!」
――何ガ違ウカ、小童!
二人のトーンが次第に高くなる。竜も興奮したように両翼を持ち上げる素振りを見せる。尚も出血は止まることなく流れている。
「私には分かる!貴方のやっていることは、その摂理というものに反している。竜が人間を襲うなど前例がない」
――黙レ、小僧ヨッ!
「摂理を外れるものには必ず理由がある。大も小も関係なく、貴方のその心を闇に染めたのは何か!貴方が怒れる理由は何か!」
ウィザードは既に兜を取っている。大剣も手にしていない。全くの無防備で、自分よりも数倍大きい竜に力説する。彼の瞳の鋭さに、竜は少しばかりたじろいだ。
――黙レト言ッテイル!ソノ忌々シイ顔、喰イ千切ッテクレヨウカ!
竜の声がウィザードの頭に届くか届かないかの瞬間だった。すぐ目の前で爆発が引き起こった。爆音は聞こえないが、目が見える分それは確認できた。標的は竜だった。非常に興奮していたためか、竜には死角と大きな隙が出来ていた。それは的確に竜の右翼を捉えていた。その部分から鮮血が勢いよく飛び出した。
その光景を見ると、誰が想像しても我が軍の味方であろう。援軍でも来たのか。入口の門の方を見ると、非難したとばかり思っていた国王が、両隣にある大砲を囲む兵たちに指示を出していた。
「第二波、放て!」
その王の声と共に大砲の弾が勢いよく発射され、再度竜目掛けて飛んできた。
その時ウィザードは鼓膜がだいぶ回復してきていたのを確認した。
そしてウィザードは兜を頭から放り投げ、剣の柄を強く握り締め我を忘れ駆け出していた。竜の目の前まで行き、標的に当たる寸前の大砲の弾を間一髪のところで真っ二つに切り裂いた。二つに別れた弾は竜を避けるように弧を描き、側面の壁に衝突し爆発した。それと共に、僅かな地鳴りが起こる。ここもそろそろ長くは持ちそうにない。
――小僧……!
「ウィザード……!何を……!」
その行動には後ろにいた竜も、前方の王もその周りに群がる後輩の兵士たちでさえ驚きに叫喚をあげた。自分でも最初は何をしたのか分からなかったが、我を取り戻した後の彼は後悔などは一切しなかった。
「私は最初に存じ上げました。殺すのではないと、ここを護るのだ、と」
「何を馬鹿なことを言っておる!その化け物を殺すチャンスは今しかない、やるのだその剣で、喉をかき切るのだ、ウィザード。今やらなければ、そ奴はまたここに現れ、都を焼くぞ。ウィザード、大切なものを護るんだろう?」
竜はじっと固唾を呑んでその二人のやり取りを見守っている。眼前のウィザードを噛み殺す好機はいくらでもあるはずだが、竜はそんな様子も見せようとしない。
「確かに護ります。だけどそれは今はもう終わったことです。この竜にはもはや戦意はありません」
「……何だと、本気で言っているのか、それを」
「ええ、本気です。私には分かります」
一国の王は多少イラついてきた様だ。唇が僅かに震え、屈曲してきている。
「いいからそこを退くんだ、ウィザード」
「……できません」
「……わかった。これが最後の忠告だ。どくんだ、ウィザード」
同じ台詞にアクセントをつけた。それにゆっくりとした滑らかな動きも加えさせた。
「……できません!」
「……ならば、仕様がない。後ろの悪魔もろとも灰にしてくれるわ!」
国王は手を肩の高さまで挙げ、一人と一匹に指をさした。
――フン、ココニキテ本性ヲアラワシオッタカ、愚カナル人間メ。
「王!御止めください!なぜ無駄に生き物を殺すのです、枯らすのです。そんなことをしては人間の価値観を下げるだけです。なぜ攻められたら攻め返すのですか、やられたらやり返すのですか。なぜ共に歩み行く道を探さないのですか」
――今ノ奴ニハ何ヲ言ッテモ無駄ナヨウダ。所詮人間トハソノヨウナモノヨ。
一直線に躊躇も無く飛ばされてきた砲弾に向かい、竜は自らの火球で応戦する。放たれた炎は、的確に数個ある砲弾の最前列のものに直撃する。それが衝突し、爆発が置き、他の砲弾にも誘爆する。放たれた砲弾は全て、ウィザードと竜に直撃するのを防いで、木っ端微塵となった。
「少なくとも俺はそうじゃない。そうだろう?」
目の前の光景にも眉一つ動かさず、優しさの含んだ声で尋ねてくるウィザードに戸惑いを感じつつ、竜はその場で飛翔し、自らが開けた風穴へと飛び去ろうとしていた。
「逃がすな!撃て、撃てぇ!」
また数個の砲弾が発射された。今度の標的は竜のみだ。
――マタ会ウ機会ガアレバ、答エヲ聞カセテヤル。約束ダ、ウィザード。
そう言い、同時に砲弾に向けて火球を数個飛び散らせた。傷が痛むのか、ほとんどが命中せず、逆に数個の砲弾が竜の翼、胴、脚などを襲い爆発を起こした。
――グゥゥッ!
「あぁぁ……!」
竜の口篭った悲鳴と共に、ウィザードもまた口から自然に声が零れる。
それでも尚、竜は両翼を必死に羽ばたかせながら、夜の闇に消えて行った。途轍もなく冷たい風がウィザードを襲ったような気がした。
悔しい表情の国王とその部下、それに呆然と竜が姿を消した大きな穴を覗くばかりのウィザードの姿だけが、その場に残った。不気味な静けさを放つその場に、所々から覗く風穴から吹く冷気がその場を通り過ぎた。