第九話
一瞬気がどこかへ飛んでいた。視界がはっきりと戻ってくる頃には、ウィザードは数十メートル吹き飛ばされ、壁面に全身をぶつけ、ぐったり地面に平伏せていた。
目の前でゆっくりとこちらの様子を窺っている竜が先程、咆哮をあげたところまでは記憶がある。そのあと何か――おそらく奴の翼か尻尾かその辺りだろう――が、ウィザードの鳩尾にクリーンヒットしたのだろう。当たったと思われる腹部が異常に痛んだ。しかも奴の何気ない鳴き声によってウィザードの鼓膜は使い物にならなくなっていた。さらに最悪なことに、疲労感と体中に及ぶ激痛が彼の視界をも蝕もうとしていた。
その状況は正に修羅場の中の修羅場であった。一瞬の隙でさえ、生死を分けるだろう。ウィザードは死を堅く覚悟した。何度もくぐってきた修羅場では、いつもこうしていた。こうすることによって、多少の無茶は何の躊躇も無く出来るというものだ。
ぼんやりする視界を竜に注ぐ。竜もそれに気付いたのか、こちらをさらに睨み、有り余る殺気を否も応もなくこちら側に飛ばしてきた。
ウィザードは震える足を無理に無視し、剣を杖によろよろと立ち上がった。何とか大剣を構えてみせるも、その姿にはもはや威圧感などというものは無に等しかった。
だがウィザードはこの国唯一の英雄である。このぐらいの傷ならば今までに何度も経験してきたことであった。この状況を打開するためには、彼は今までの経験、体験を頭の奥底から搾り出した。――それは、まずは落ち着き冷静になることが、課せられた最大の脳からの使命だった。
文字通り冷静になり、竜の様子を見ようとする。今にも飛び掛ってきそうなほどには興奮はしていない。むしろ落ち着いている。初めて争い合った時とは、空と地ほどの差だ。そのとき何とか一矢負わせた古傷が、竜の片目の瞼に痛々しく刻み込まれていた。今度はあんなに運良くは行かないであろう。口からは紅い炎が少量顔を出しており、低い唸り声が僅かだがここまで聞こえてきた。この程度の観察なら、数秒で彼は済ませるまでに鍛錬は積んでいた。
さて、お次は、と更なる課題を与えてもらおうと脳に問い質すときであった。痺れを切らしたかのように、竜は自身の全長ほどもあるような巨大で優雅な翼を天高く舞い上げたかと思うと、それをそのまま羽ばたかせ低空に全体重を浮かせた。羽ばたく翼からはあまり鱗が散乱していないところを見れば、あまり興奮もしていない。この状態ならまだそれ程危険というまではなかった。最低この五体不満足な体でなければの話だが。
見たこともない生命体の知識はまるで無かった訳ではない。古代から存在していると仮説されていた生物だけあって、その類の書物はウィザードの勉学の感情を沸き立たせたのだ。もちろん、この宮でよくそれらを見ていたのは言うまでもない。――そのためか、少しばかりそれらが火の柱に包まれ、灰になることが、惜しくて仕方なかった。
巨大な身を翻し、急激な速度でこちらに飛び込んでこようとしている竜に対し、ウィザードは僅か一秒でも惜しいようにそこを動こうとせず、自身の脳と問答していた。
――さぁ、課せろ。次に俺がすべき行動はなんだ。
刹那、轟音と共に幾平方メートルもの壁面が無惨にも崩れ去った。だが、それぐらいではまだこの王宮は崩れ落ちようともしなかった。
竜が粉々に砕いた壁面から現れた風穴から、再度それは飛びながら戻ってきた。ついさっきとは変わり、ゆったりと飛翔しながら。無論その体にはダメージはない。この竜の強固な甲殻は、多少の落石ぐらいには裕に耐えられるようだ。ゆっくりと着地し、辺りを見回すも、先程の剣士は見当たらなかった。しかも、先程は感触も感じなかったかのように、不思議そうにきょろきょろ眼を動かしている。
その時だった。急に冷気交じりの殺気が足元から竜自体の体を襲った。
加えて、首と胸部の中間辺りから激痛。そして多量の出血。痛みに耐え切れず、ふらついたが何とか持ち堪えた。竜は何が起こったのか解せず、片目で視界をその場全体に行渡らせようとした。だが、それは前方一直線を凝視することとなった。
漆黒の鎧重騎士が、大剣を軽々と肩の上で寝かせているではないか。先程意気消沈としていた人物とはまるで別物。体を翻し、こちらを兜越しに睨んでいる。それだけで今の竜には恐怖すら募らせた。
目前の男は静かに呟く。それは、竜の聴覚には痛烈な打撃にすら感じさせていた。
「俺の今に至るまでの死闘の結果、第六感。それが答えさ。この王都を襲ったことを呪え、竜よ。我が漆黒の炎で貴様に引導を渡してやる」