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あれから一年。
私の世界は、驚くほど色鮮やかになった。
直也と別れた一週間後、私はあの上司、佐藤に辞表を叩きつけた。「女性らしい視点」なんていう言葉で私の仕事を値踏みし続ける場所に、一秒だって居たくなかったから。
失業保険と、あの時守り抜いた九十七万円を切り崩しながら、私はひたすらポートフォリオを作り直した。
今は、小さなブランディング会社で、プランナーとして働いている。
入社当初は給料が以前より少し下がったけれど、ここでは誰も「偏見」に片寄った意見を言わない。代わりに、「阿部さんのこのロジック、面白いね。もっと尖らせてみようか」と、一人のプロとして、常に背中を押してくれる仲間がいる。
私が入社してから業績も上がり、今や私は社内でちょっとした人気者だ。嬉しい事に給料も上がった。以前の会社にいたら、何も希望を抱けないまま、ただ淡々とタスクをこなしていただけの日々だっただろう。
自分の足で立つ。
それは、想像していたよりもずっと、清々しくて、そして少しだけ筋肉痛が残るような、どこか心地よい疲労感を伴うものだった。
――――
金曜日の午後六時。
プレゼン資料をまとめ終え、私は会社の入っているビルの一階にあるカフェに立ち寄った。
お気に入りの、少し苦めのエスプレッソ。
かつて直也が「女の子にはきつすぎるよ」と眉をひそめた味を、今は誰の目も気にせず、心ゆくまで堪能している。
「……阿部さん?」
聞き覚えのある、けれど仕事中の張り詰めたトーンとは少し違う声がした。
顔を上げると、そこには取引先の若手デザイナー、瀬戸くんが立っていた。
彼は大きな図面ケースを肩にかけ、少しはにかんだような笑みを浮かべている。
「やっぱり。仕事熱心なのはいいですけど、金曜の夜くらい、もっと甘いものでも飲めばいいのに」
「ふふ、これでも私にとっては最高のご褒美なの。瀬戸くんこそ、これから帰宅?」
「ええ。……あの、もし良ければなんですけど」
瀬戸くんが、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「駅の向こうに、すごく美味しいフレンチのお店を見つけたんです。阿部さん、仕事の話をしてる時の目、すごく格好いいから……一度、仕事抜きでゆっくり話してみたいなって」
まっすぐな、眩しい視線。
そこには、かつての直也が持っていたような「支配欲」も「庇護欲」も見当たらない。ただ、一人の人間に対する純粋な興味と、敬意があるだけだ。
私は、手に持っていたエスプレッソのカップを置いた。
かつての私なら、反射的に「私なんて、そんな……」と謙遜しただろう。あるいは、相手に気に入られるための「正解」を探して口を噤んでいただろう。
けれど、今の私は違う。
「いいですね。行きましょう。……でも、私、料理には少しうるさいですよ?」
冗談めかして言うと、瀬戸くんはパッと顔を輝かせた。
「望むところです。阿部さんの『こだわり』、全部聞いてみたいですから」
――――
夕暮れの街を、瀬戸くんと並んで歩く。
まだ少し履き慣れない、新しいハイヒールの音が、アスファルトに軽快に響く。
ふと、一年前の自分を思い出す。
あの閉塞感に満ちた部屋で、別れる勇気を必死に育てていた、あの苦しい日々を。
直也。
あなたは確かに、私にとって最高の彼氏だったわ。
あなたが私を徹底的に追い詰めてくれたおかげで、私は「自分が何を欲し、何を拒むのか」を、誰よりも鮮明に知ることができた。
憎しみも、怒りも、もう残っていない。
今の私にあるのは、自分の人生を自分の手で彩っていくという、静かな、けれど揺るぎない確信だけだ。
新しい風が、私の頬をなでて通り過ぎていく。
「阿部さん、こっちです。ここのラタトゥイユ、本当に最高なんですよ。特にカボチャが」
瀬戸くんが指差す先、温かな光を放つ店の看板が見えた。
私は、自分の足取りを確かめるように、一歩、また一歩と踏み出す。
最高の彼氏のおかげで手に入れた、この「勇気」という名の翼。
これを使って、私はどこまでだって飛んでいける。
今度の恋は、誰かに育ててもらうんじゃない。
私自身が、私であることを楽しみながら、二人で一緒に育てていくものにしたい。
そう。
私はもう、誰の檻にも入らない。




