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木曜日、午前八時。
「じゃあ、行ってくるよ。来週の土曜の夜には帰るから。……浮気しちゃダメだよ?」
直也は冗談めかして言い、私の額に軽いキスを落とした。
「まさか。直也こそ、お仕事頑張ってね」
私は、自分でも驚くほど自然な微笑みを浮かべ、彼を送り出した。
エレベーターの扉が閉まり、表示灯が下へ向かって動き出す。
一階。ロビー。外へ。
彼の気配が完全に消えたことを確認した瞬間、私の全身から力が抜けた。
「……終わった」
いや、始まるのだ。
私はすぐにスマホを取り出し、待機させていた引っ越し業者に連絡を入れた。
「予定通り、お願いします」
一時間後、手際よく荷物が運び出されていく。
もともと、持っていくものは少なかった。彼が買い与えてくれた「お気に入り」の服は、すべてクローゼットに残した。彼が選んだブランドの化粧品も、ペアで買ったマグカップも、思い出のつまった写真立ても。
それらはすべて、私を飼い慣らすための「餌」に過ぎなかったから。
三十分足らずで、リビングはがらんとした。
最後に、私はテーブルの上に一通の手紙を置いた。
恨み言も、感謝も、何もない。ただ、たった一行。
『別れましょう。探さないでください』
それだけで十分だった。
私は玄関の鍵を閉めようとして、ふと、ある「忘れ物」に気づいた。
キッチンの奥、備え付けの戸棚の隅。
そこには、私が直也に内緒で少しずつ買い溜めていた、彼が嫌いな「安物の、濃い味のインスタントラーメン」が数袋残っていた。
彼は健康志向で、私にも常にオーガニックで薄味の料理を求めた。
私は彼の前では「美味しいね」と微笑みながら、彼が寝静まった後に、このジャンクな味を啜って、自分の輪郭を確かめていたのだ。
「……これだけは、持っていこう」
私はそれを何故かバッグに詰め込み、今度こそドアを閉めようとした。
その時。
カチャ。
心臓が口から飛び出すかと思った。
外側から、鍵が回る音がした。
「……香織? まだいたの?」
扉が開く。
そこに立っていたのは、新幹線のホームにいるはずの直也だった。
彼は、何もなくなったリビングと、大きなバッグを肩にかけた私を、無表情で見つめた。
「忘れ物しちゃってさ。……でも、正解だったみたいだね」
直也の瞳から、光が消えていた。
彼はゆっくりと中に入り、背後でドアを閉めた。カチリ、とチェーンが掛けられる音が、牢獄の門が閉まる音のように響く。
「……どういうこと? 香織。サプライズって、これのこと?」
「直也、どいて。私、もう決めたの」
「決めた? 何を? 僕なしで生きていけると思ってるの? 部屋代だって、保証人だって、君一人じゃ……」
彼は私に歩み寄り、両肩を強く掴んだ。
指が食い込み、痛みが走る。
以前の私なら、ここで震えて、泣いて、謝っていただろう。
けれど、今の私は違った。
「直也。あなたは、最高の彼氏だったわ」
私は、彼の目を真っ向から見据えて言った。
「私が『一人じゃ何もできない』って思い込むように、丁寧に、優しく、私の自信を削ってくれた。あなたが私を否定するたびに、私は『見返してやる』って思えた。あなたが私を閉じ込めるたびに、私は『外の空気を吸いたい』って切望できた」
直也の顔が、驚愕に歪む。
「あなたのその、反吐が出るほど傲慢な優しさが、私にこの部屋を出る勇気をくれたのよ。……ありがとう。あなたは、私が自立するための、最高の踏み台だった」
「……何、言って」
「もう、その手には乗らないわ」
私は、彼の腕を力一杯振り払った。
今の私には、彼を跳ね除けるだけの「筋力」が備わっていた。
一年間、彼の言葉を毒として浴び続け、それを抗体に変えてきた私には。
私はテーブルの上の手紙を指差した。
「警察には、ストーカー被害の相談記録を提出してあるわ。今度私の前に現れたら、即座に法的に対処する。……あなたは、もう私の人生の登場人物じゃないの」
直也は崩れ落ちるように、ソファに座り込んだ。
彼がいつも「僕がいないとダメだね」と言っていた時の、あの余裕のある微笑みはどこにもなかった。ただの、支配する対象を失った、空っぽの男がそこにいた。
私はチェーンを外し、重いドアを開けた。
外からは、眩しいほどの春の光と、騒がしい街の音が流れ込んできた。
「……香織、行かないでくれ。僕が、悪かったから……」
背後で聞こえる情けない声を、私は一顧だにせず踏み出した。
――――
三時間後。私は万が一の事も考え、人通りの多い場所を遠回りしてきた。
そして私は、あの真っ白なワンルームにいた。
家具は何もない。ただ、床に座って、さっきのコンビニで買った熱いお湯で、例のインスタントラーメンを作った。
ズズッ、と音を立てて啜る。
濃くて、安っぽくて、強烈な化学調味料の味。
それは、直也が一生許さなかった、自由の味だった。
「……意外と、美味しい♪」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥がすっと軽くなっていくのを感じた。
明日からは、自分で選んだ仕事をし、自分で選んだ服を着て、自分で選んだ道を歩く。
時には転ぶかもしれないし、生活に困ることもあるかもしれない。
でも、もう二度と「誰かのための自分」にはならない。
窓の外を見上げると、夕焼けが街を赤く染めていた。
私の本当の物語は、ここから始まる。
ありがとう、直也。
あなたは本当に、最高の彼氏だったわ。
私があなたを一生、軽蔑し続けられるだけの勇気を、私の中に育ててくれたのだから。
私は空になったカップを置き、まだ何もない部屋の真ん中で、ゆっくりと、深く、深呼吸をした。
空気は少しだけ冷たくて。
けれど、どこまでも、自由のある空気だった。




