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朝、目が覚めると同時に、重たい胃もたれのような感覚が這い上がってくる。
隣では直也が、幸せそのものといった寝顔で私のシーツの端を掴んでいる。昨夜、彼が「温めてあげる」と言って抱きしめてきた腕の重みが、今はただの拘束具のように感じられた。
私は彼を起こさないよう、音を殺して這い出した。
鏡に映る自分の顔は、ひどく血色が悪い。目の下の隈をコンシーラーで塗りつぶしながら、私は心の中で、今日の「タスク」を確認する。
仕事、買い物、夕食の準備。そして、不動産屋へのメール。
「……香織、もう行くの?」
背後から、掠れた声がした。直也がベッドの中で身悶えしながら、薄目を開けてこちらを見ている。
「うん、今日は会議があるから早めに出るね」
「えー、寂しいな。あと五分だけ、こっちおいでよ」
その甘ったるい誘いを、以前の私なら「もう、しょうがないな」と笑って受け入れていただろう。けれど今の私にとって、その五分間は、自分の人生を五分間ドブに捨てるのと同じことだった。
「ごめんね、本当に行かなきゃ」
「ふーん……。最近、香織って冷たいよね。仕事、そんなに大事?」
直也の声から、一瞬だけ温度が消える。
これは、彼の常套手段だ。少しだけ不機嫌を見せて、私に罪悪感を抱かせる。私が「そんなことないよ、ごめんね」と言うのを待っている。
「仕事だから、仕方ないでしょ」
私は努めて冷静に言い放ち、逃げるように部屋を出た。
玄関のドアを閉めた瞬間、肺の奥に溜まっていた泥のような空気を吐き出す。外の冷たい空気が、今の私には何よりの救いだった。
――――
会社での私は、砂を噛むような時間を過ごしている。
中堅の広告代理店。激務ではないが、常に細かな調整と数字に追われる日々だ。
「……というわけで、今回のプロモーション案ですが」
会議室で私が説明を続けていると、上司の佐藤が露骨に欠伸をした。
「あー、阿部さんさ。それ、もっと『女性らしい』柔らかい視点にならない? なんか理屈っぽくて、響かないんだよね」
周りの同僚たちが、同情とも冷笑とも取れない視線を私に向ける。
私の案は、徹底した市場調査に基づいたものだ。それを「女性らしい」という曖昧な言葉で一蹴される屈辱。喉元まで出かかった反論を、私は飲み込む。
以前、これを直也に相談したことがある。
彼は私の頭を優しく撫でながら、こう言った。
『香織がそんなに苦労してまで、あの会社に居続ける意味ある? 佐藤さんって人も、きっと香織の才能が怖いんだよ。無理して戦わなくていいよ。僕が全部受け止めてあげるから。香織は家で、僕の帰りを待っててくれるだけでいいんだ』
その時は、なんて理解のある彼氏だろうと涙が出た。
でも今はわかる。彼は私を慰めているのではない。私が「外の世界」で傷つき、自信を失い、最終的に彼という逃げ場しか持たなくなることを、手ぐすね引いて待っているのだ。
昼休み、私は会社の非常階段で一人、スマートフォンの画面をスクロールしていた。
先日問い合わせた不動産屋からの返信が届いている。
『阿部様、お問い合わせいただいた物件ですが、来週の土曜日に内見が可能です。いかがでしょうか?』
心臓が跳ねた。
来週の土曜日。直也は友人とサッカーの試合を見に行くと言っていたはずだ。チャンスだ。
私は震える指で、『お伺いします』と返信を打った。
送信ボタンを押した瞬間、私は自分の人生のハンドルを、ほんの数センチだけ自分の方へ引き寄せた実感がした。
――――
夜八時。スーパーで半額になった惣菜と、直也が好きそうな物を買って帰宅する。
ドアを開けると、部屋の中は暗かった。
「ただいま」
返事はない。けれど、リビングのソファに人影があるのがわかった。
「……直也? 帰ってるの?」
直也が、スマートフォンの明かりだけでぼんやりと座っていた。
「……直也? 電気もつけないで、一体どうしたの?」
「香織。これ、何?」
彼の声が、低く、湿り気を帯びて響く。
彼の手元にあるのは、私の、仕事用ではないプライベート用のスマホだった。
血の気が引くのがわかった。
生体パスワードはかけてある。けれど、彼は以前「二人の間に秘密なんてないよね」と言って、私の指を無理やりセンサーに当てて解除したことがあった。
「勝手に見ないでって言ったじゃない!」
「隠し事をするからでしょ。……ねえ、これ。不動産屋からのメール。何これ。引っ越すの? 二人で?」
彼はスマホをテーブルに放り出した。画面には、私が昼間に送ったメールが表示されている。アカウント同期しっぱなしだった。
彼は私を問い詰める時、決して怒鳴らない。代わりに、今にも泣き出しそうな、捨てられた子犬のような瞳で私を見る。
「……ただの、興味よ。友達が探しているから、代わりに見てあげてただけ」
咄嗟に出た嘘は、自分でも驚くほど滑らかだった。
直也はじっと私を見つめる。その視線は、私の嘘の裏側まで透かして見ようとしているかのようで、どこか……不気味だった。
「……ふーん。そうなんだ。びっくりしたよ、香織が僕に黙ってどこかに行っちゃうのかと思って。心臓が止まるかと思った」
彼はソファから立ち上がり、私に近づいてくると、私の腰を強く引き寄せた。
逃げられないほどの力。
「香織。君は、僕がいないと何もできないよね。家賃だって、光熱費だって、僕が多めに出してる。一人で部屋を借りるなんて、今の香織の給料じゃ無理だよ。そんなこと、自分が一番わかってるでしょ?」
耳元で囁かれる、残酷なまでの正論。
彼の言葉は、私のプライドを丁寧に、一番痛い角度から削ぎ落としていく。
悔しくて、唇を噛み締める。けれど、その悔しさこそが、今の私には必要なものだった。
「わかってるよ。直也がいないと、私、生きていけないもん」
私は彼の胸に顔を埋めながら、嘘をついた。
視線の先、テーブルのスマホ画面が、静かに消える。
そうよ、直也。
もっと言って。もっと私をバカにして。
もっと「お前は無能だ」と、その優しい声で突きつけて。
あなたのその傲慢さが、私をこの部屋から追い出すための、一番の推進力になるんだから。
来週の土曜日。内見。
私は絶対に、あの部屋を契約してみせる。
あなたの知らない場所で、あなたの知らない鍵を手に入れる。
「ごめんね、変な心配させて。お詫びに、直也の好きなプリンとロールケーキを買ってきたよ」
「本当? やっぱり香織は優しいね。大好きだよ」
彼は満足げに笑って、私の頭を撫でた。
その手のひらの下で、私は冷ややかに笑う。
最高の彼氏。
あなたは今日も、私の「別れる勇気」という名の苗木に、たっぷりと毒入りの水を注いでくれた。
おかげでこの苗木は、もうすぐ私の背丈を追い越しそうよ。
今夜もいつものように、直也の作ってくれた料理と、私が少しの自由を味わう為に買ってきた惣菜。そしてデザートを、二人で他愛もない会話しながら済ませた。




