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彼は私にとって最高の彼氏。私が別れを切り出す勇気を育てる為に、存在してくれているから。  作者: 逆立ちハムスター


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 午前二時。心臓の鼓動よりも静かな音を立てて、加湿器が白い蒸気を吐き出している。

 私は、隣で深く眠りについている直也なおやの寝顔を、暗闇の中でじっと見つめていた。

 整った鼻筋、少し長めの睫毛、そして無防備に開いた薄い唇。その唇から漏れる規則正しい呼吸の音が、この六畳間の静寂を支配している。


 直也は、最高に優しい。

 私が仕事でミスをして、這いずるような思いで帰宅した夜、彼は何も聞かずに私を抱きしめてくれた。「香織が頑張ってるのは、僕が一番よく知ってるよ」と耳元で囁き、冷え切った私の指先を、彼の大きな手のひらで包み込んで温めてくれた。

 その瞬間、私は「この人がいれば、世界中の誰に否定されても生きていける」と本気で信じた。


 でも、その温もりは、じわじわと私の手足を麻痺させる毒でもあった。


 私は、彼に触れないよう慎重にベッドを抜け出し、リビングへと向かった。

 足の裏に触れるフローリングの冷たさが、現実へと引き戻してくれる唯一の錨だ。キッチンへ行き、昨夜の残りのコーヒーをカップに注ぐ。レンジで温めることすら億劫で、私はそのまま、冷え切って酸味の増した黒い液体を口に含んだ。


「……苦い」


 呟いた声は、換気扇の回る音に消された。

 シンクの隅には、直也が食べた後のパスタの皿が、水に浸されたまま放置されている。彼は料理を作ってくれる。それはとても「優しい」行為だ。けれど、その後の油汚れを落とし、排水溝のゴミを片付けるのは、いつも私の役割だった。

 彼は言う。「ごめんね、片付けまで手が回らなくて。香織の綺麗好きなところに、いつも甘えちゃうんだ」と。

 そう言われると、私は「いいよ、やっておくね」と微笑むしかない。彼の「甘え」を拒絶することは、彼という「優しさの偶像」を壊すことと同義だから。


 直也は私にとって、最高の彼氏だ。

 浮気はしない。連絡も欠かさない。私の誕生日は忘れないし、街を歩く時は必ず車道側を歩いてくれる。

 そして何より、彼は私が「自分は価値のない人間だ」と思いそうになる絶妙なタイミングで、決定的な一言をくれるのだ。


『香織は、今の会社にいるから辛いんだよ。あんなに君の良さを理解してくれない場所、辞めちゃえばいいのに。僕が守ってあげるからさ』


 その言葉は、一見すると救いの手に思える。

 けれど、その実態は、私を社会から切り離し、彼という狭い檻の中に閉じ込めるための透明な鎖だ。彼が私を「守る」たびに、私は一人で戦うための筋肉を少しずつ削ぎ落とされていった。


 私はダイニングテーブルに座り、スマートフォンの画面を点灯させた。

 ブルーライトが網膜を刺す。開いたのは、SNSでもメールでもなく、銀行のアプリだ。

 画面に表示された数字を見つめる。

 九十七万四千二百円。

 これが、この半年間で私が必死に、彼に内緒で貯めてきた「脱出資金」だ。


 直也は私の給与額を知っている。だから、生活費を折半した残りは、二人で美味しいものを食べたり、旅行に行ったりすることに使うのが「当たり前」になっている。

 私は、昼食を五百円以下のコンビニ弁当で済ませ、美容院に行く頻度を落とし、新しい服を買うのをやめた。彼には「最近、ミニマリストに興味があるんだ」と嘘をついた。彼は「へえ、香織らしいね。飾らなくても君は綺麗だよ」と、また一つ、甘い呪いをかけてくれたけれど。


 この九十七万円という数字が、私の勇気の結晶だ。

 私は、彼と別れるために、彼と一緒に暮らしている。

 矛盾しているようだが、これが今の私の真実だった。


 一人で生きていくのが怖い。

 別れを切り出した時の、あの絶望したような彼の顔を見るのが怖い。

「君をこんなに愛しているのに、どうして?」と泣きつかれ、また絆されてしまう自分を見るのが、何よりも怖い。


 だから、私は待っている。

 彼に対する「大好き」という気持ちが、完全に腐り落ちて、不快な悪臭を放つまで。

 彼の些細な無神経さに、耐え難いほどの嫌悪感を感じる瞬間を積み重ねて。

 彼がくれる「優しさ」が、喉元を通らないほどの吐き気に変わるその日まで。


 私は彼という最高の彼氏を、徹底的に使い倒すことにした。

 彼が私を甘やかせば甘やかすほど、私は「ああ、この人は私をダメにする人だ」という確信を深めることができる。

 彼が私を束縛しようとすればするほど、私は「自由になりたい」という渇望を強く抱くことができる。


「香織……?」


 背後から、眠気に濁った声が聞こえた。

 振り返ると、寝室のドアの隙間に直也が立っていた。目をこすりながら、心底心配そうな顔をしてこちらを見ている。


「どうしたの? こんな時間に。眠れない?」

「……ううん、ちょっと喉が渇いただけ」


 私は瞬時に、アプリの画面を消した。

 彼はゆっくりとした足取りで近づいてくると、私の背中にそっと手を置いた。その手のひらは、相変わらず温かい。嫌になるほど、心地よい。


「コーヒー飲んでたの? 冷たいじゃないか。お腹壊すよ」

「大丈夫だよ」

「ダメだよ。ほら、もう一回一緒に寝よう。僕が温めてあげるから」


 直也は私の手からカップを取り上げ、シンクに置いた。そして、私の肩を抱いて寝室へと促す。

 彼の腕の中に収まりながら、私は心の中で、今日積み上がった「嫌悪の貯金」を数える。

 勝手にカップを取り上げたこと。私の「大丈夫」を無視したこと。そして、私の領域に土足で踏み込んでくる、その無自覚な傲慢さ。


 ありがとう、直也。

 君が今日もそうやって、私の「嫌い」を育ててくれるおかげで、私の残高はまた少し増えた気がする。


 歯磨きを済ませてベッドに戻り、彼の腕を枕にしながら、私は天井の闇を睨みつけた。

 今の私には、まだ彼を捨てる勇気はない。

 けれど、この暗闇の向こう側には、きっと、駅徒歩五分のオートロック付きの部屋が待っている。

 誰の視線も気にせず、好きな時に熱いコーヒーを淹れ、誰の許可も得ずに自分の人生を歩む日々が。


 その日のために、私は明日も、あなたの「最高の彼女」を演じるわ。


 いつか、完璧にあなたを嫌い抜いて、清々しい笑顔で「さよなら」を言うために。

 あなたは私にとって、最高の、最低の、勇気育成ギプスなのだから。

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