円周率の小人
数字列。3だけを筆頭にし、小数点以下の数字は延々と続いていく。円周率の数字を守っているのは僕を含めて数百人がいるらしい。その人数も僕が6歳になるまでの期間に、歩いて探しに行って出会ったりすれ違ったりした人たちだけだから、円周率の果てしなさを考えるともっといる。僕の父さんは「円周率は僕らの筏だ」と表現したのを覚えている。僕たちはずっと果てしなく儚い、オーロラのような筏に乗っているのだ。
僕たちの役目はそのように長い数字を揃えることだ。ひとつの家にひとつの数字が任され、家によって様々なかたちをしている。僕の家は、僕らと同じくらいの立方体の木工細工で、6面のうちにひとつだけ数字が記されている。雨の日や風の日に、何かのふとした拍子に面が変わってしまうから、それを僕らは力を合わせて数字のままであるように揃えるのだ。僕が4歳だった頃に父さんから声をかけられて手伝うようになった。
数字を整えるのは、それぞれの家によって完結していた。僕が6歳になって小舟を出して遠出をした時に見た家では、色のついたレンガを積み上げるようにして数字を保っていた。僕が小舟から手をあげると「2」を積み上げたうえで休んでいたその家の人がタオルの端を持って振り返してくれた。
月に一度くらい僕は小舟に乗って旅をするが、なかでも印象的だったのはちょうど二日前の旅で見た景色である。円周率の数字を下っていくと、新しい家の人が数字を揃える役に就いたところだった。その人は大きなスクリーンを持っていて、薄暗くて小さな部屋でモニターを見つめながらキーボードで打ち込んでいる。スクリーンの十数メートル前方は、僕のちょうど頭上あたりで、そこには羽のついたドローンがホバリングしながら待機している。僕は櫨を止める。PCの前に座っているその人と真っ白なスクリーンを僕は交互に見つめた。
僕はいつものように家の数字を揃えていた。春の穏やかな日差しに包まれて風はあたたかだった。冬のように横から風が吹いてその冷たさに目を閉じてしまうということもなかった。桜は咲き、日の出ている時間も長くなったので、冬の記憶というのはどこか遠くのほうにおいて仕舞い込んだように思えた。
家の数字が書かれた木工細工が、地面に散らばった花びらを巻き上げる風とともにその足下を浮かせそうになったので、僕は立方体の一辺を持ち地面へと下ろした。がたんという音をさせて木工細工は地面に底面をつける。僕は木工細工の辺に手を当てながら春の風が通りすぎていくのを待つ。
僕はふと隣の家を見る。隣の家の数字は旗に書かれている。四辺を紐で留めていて家の玄関や窓を覆うかたちで旗はあった。夏に見かける植物によって日の光を遮るグリーンカーテンのようなものに近い。旗と家のすき間に風の子どもたちが遊びながら走っていくのを僕は見た記憶がある。僕の家の数字は、家の誰かが木工細工を手でとめて、数字を揃えておかなくてはならないけど、隣の家のように留めておくこともできる。しかしそれには旗や紐の補修やメンテナンスが必須になるので、どのようにしても数字を揃えるための労力をかける必要があるのだ。
そう思うとふと僕の頭によぎる考えがあった。家のなかに入って裁縫箱の素材を入れてある箱のなかから布を取り出し、それと一緒に巾着用に使った紐を持ってきた。僕はそれらを持ちながら数字の木工細工の右下の頂点に屈み込むようにしてしゃがんだ。布は薄く透かして見ると、向こう側が見えた。僕の見る景色にその布はフィルターのように色をかけてくれるようだ。
その布をせいいっぱい広げて四点をおさえて隣の家の旗のように張った。それほどぴんと張れなかったけれど、風が吹いた時に僕が張った布も小さくはためいていた。僕はもう一度しゃがんでその布に数字を書いた。僕の家が持っている数字を。
突然、ごうごうと川の音が鳴るのが聞こえた。僕は自分の家と隣の家との間を通って川を見に行った。空にある太陽は春の陽気を持ったまま光を放っていたけれど、川の上を吹く風は穏やかだった水面を荒らげるように川のあちこちを揺らしていた。その風は川の上から川岸を上って僕らの家のある場所まで吹きこんできた。
僕は一目散に駆けて行って自分の家の前までやってくる。急いで木工細工の上の端を掴んで抑える。僕の着ている服は風によって背中側が膨らむ。シャツもズボンも膨らんで、衣服は僕の身体によって飛ばされずにいる状態だった。僕は両足にもう一度力を込めて踏ん張る。木工細工は風で右や左に微動している。僕が抑えなくてはならない。
その時、僕の足下に何かが引っかかった。それはさっき僕が作った小さな旗だった。数字の書いた布は留めていた紐を四本携えて外れてしまい、僕の右のすねに引っかかって絡んでいた。
僕は隣の家を見た。隣の家の大きな旗は風に膨らんでいたが、この強さの風でも破れない丈夫さがあった。風に乗って砂埃が舞う。僕は片目をつむった。ぼやける視界のなかで隣の家の窓が開いていた。隣の家に住んでいる男性が窓枠に足をかけて、上半身を使って旗を留める紐を抑えていた。
僕はその様子を見て、右足を後ろに反らした。その反動で足に引っかかっていた僕の作った旗は後方へと飛んでいった。それから僕は両足にしっかりと力を入れて踏ん張り、木工細工を抑える手をもう一度持ち直し力を込めた。隣の家の男性も別の窓から紐を引っ張って調整している。僕らは自分たちの出来る方法で、守るものを守っていくのだ。
数分して強風は止んで穏やかになり、峠を越えたようだ。もう数字から手を離しても大丈夫だった。隣の家の旗がゆるやかに揺れている。僕は木工細工の周囲を点検し、小さな石の粒などを取り除いた。
僕はさっき飛んでいってしまった僕の作った旗のほうを見やる。白い雲で覆われている空のなかを小さくたゆたっているのが見えた。あの布には僕の家の数字が書かれているけれど、どこか違う場所に辿り着くのかもしれない。その時に拾い上げた誰かのなかで、その数字が何か、意味の繋がるきっかけになるのだろうか。どこかに届けばいいな、と思いながら僕は、飛んでいる小さな布を見つめていた。