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思いがけない申し出

 婚約者であるはずのジョスバッカーから、ダンスの誘いは受けていなかった。だけどジョスバッカーはダンスが上手じゃない事も知っていたし、婚約者としての同行は求められたがいつも通りダンスは踊らないと思っていた。

 ミラから溢れた言葉を、幸か不幸かアネスが拾ってしまった。


「ジョスバッカー? ジョスバッカー・ストレイジスか? 学園でもあの二人は有名だからな。なんでも田舎にいる婚約者を差し置いて、恋人関係を楽しんでいるらしい。理解に苦しむ」


 そういった男女関係には潔癖なのだろうアネスは、眉根を寄せてそう吐き捨てた。

 だがミラには、アネスの言葉を最後まで聞き取れずにいた。頭の中がグワングワンと回り、目の前が遠くなっていくようだった。


「ジョスバッカー……が? 嘘、どうして」


 恋人関係にあるという女性と頬を染めながら踊るジョスバッカーの表情は、婚約者であるはずのミラは見たことがないものだった。

 浮気をしていたのか。

 それならばどうして自分をここまで連れてきたのか。

 婚約を破棄するつもりなのか。

 自分はこれからどうなるのか――。


「なんで、どうして……っ」


 ミラの頭の中はぐちゃぐちゃで、真っ青になったその顔に流石のアネスも自分の失言とミラとジョスバッカーの関係に気がついたようだった。


「まさかアンダルフォン子爵令嬢、お前があの男の婚約者なのか? アンダルフォン家と婚約していながら、そんな馬鹿な」


 だがその答えは先程アネスが言った通りだ。婿入りを予定していたジョスバッカーは田舎の貧乏令嬢との結婚を嫌がり、都会の美しい令嬢と恋愛をしている。

 それなのにミラをこの場に連れてきた。

 ジョスバッカーの顔を立てるために、どれほど父が無理して路銀を用意してくれたか。未来の婿のために、多くない貯蓄を切り崩してくれたのに。それなのにこんな。


「馬鹿に……してるわ」


 ミラはジョスバッカーを愛していた訳ではない。だが婚約者として好ましいとは思っていたし、例えそこに恋愛感情がなくとも誠意ある関係であろうと努力してきたつもりだった。

 それは全て、裏切られていたのだ。

 ミラとアネスのすぐ近くを通りかかった、若い令嬢たちの言葉が耳に入る。


 ――ジョスバッカー様に捨てられる田舎令嬢があの方ですって。

 ――まあ、あれでは仕方ないわよね。ラヴィアンヌ様とは雲泥の差だもの。

 ――ご覧になってあのドレス。随分かび臭くてかなわないわ。


 明らかにミラを嘲笑していた声はただチラリとこちらを見て去って行く。


「アンダルフォン子爵令嬢――」


 どう声をかけていいのか分からない様子のアネスの言葉は、ミラの耳には入らなかった。

 ドレスの裾を翻し、入り口側へと走り出す。それから人の少ないテーブルの上へと手を伸ばした。


「あんな男のために我慢して損した!」


 小さくカットされたパンや燻製肉の薄切りをこれでもかと皿の上に乗せる。

 未婚女性は軽食に手を出さない方がいい。そう言っていたジョスバッカーがミラの顔を潰したのに、どうして彼の言いつけを守る必要があるだろうか。ミラのお腹はずっと減っていたのだから。


「んっ、美味しい! 流石王都だわ。あっ、あっちの料理も美味しそうね。一杯食べて帰るんだからっ」


 周囲はダンスやお喋りに夢中になっていて、誰もミラのがっつきようを見ているものはいない。ただ一人ミラを追いかけてきたアネス以外は。

 アネスは目を見開いて、それから目元を緩ませる。


「アンダルフォン子爵令嬢――いや、ミラ。これも美味しいから食べた方がいいぞ」


 差し出してくれた焼き菓子を、ミラはありがたく受け取った。


「こうなったら、全種類食べて帰ってやります。王都までの路銀分、しっかり元をとらなくちゃ」


 惨めなだけの旅にはしたくない。ミラがここに来るためには両親の、元を辿れば領民達から受け取ったお金が使われているのだ。コイン一枚分でも無駄にはできない。せめて珍しい料理の話でも土産にしなければ割に合わないだろう。

 婚約者の浮気を目の前にして、泣くでもなく食事に精を出し始めたミラのたくましさに、アネスは口角を上げた。冷静沈着の騎士、鉄仮面の騎士と呼ばれるアネスのその表情がとても珍しい事を、出会ったばかりのミラは知らない。

 王都でも人気のあるアネスの珍しい表情に、遠くから彼を盗み見ていた女性陣が静かにどよめいていた。


「クク……そうだな。それなら尚更よく食べた方がいい。ほら、こっちのケーキは王家お抱えのシェフの渾身作だ」


 そんな周囲を気にも留めず、アネスはミラに付きっきりで皿を差し出していたし、ミラはミラでそれをありがたく受け取り腹の虫が満足するまで納めていった。

 コルセットをしていなくてよかったとミラが思うくらいには、舞踏会の食事は美味しい。これだけでこんな場所に来た甲斐があったかもしれない。

 一流料理人の作った食事は、次々にミラの口の中に消えていく。王都の令嬢にはないその食べっぷりに、アネスは目を細めて見ていた。

 気がつけば一曲目が終わっていたようだった。それに気がついたのは楽団の奏でる曲が変わったからではない。


「あら、あの方がジョスバッカー様の婚約者ですの? 王都では滅多にお目にかかれないような方のようですわね」


 そんな声がすぐそばで聞こえたからだ。ミラは思わず顔を上げると、そこには金色に波打つ巻き毛が美しい令嬢が立っていた。寄り添う彼女の隣には、にたついた笑いを浮かべるジョスバッカーの姿があった。

 婚約者であるミラを差し置いてジョスバッカーと踊った令嬢だ。ミラはフォークを置いた。


「ラヴィアンヌ、仕方ないさ。彼女は滅多に僻地から出られないんだ。説明しただろう、ミラはあの魔物の森のお姫様なんだ」


 アンダルフォン子爵領を、ジョスバッカーはそんなふうに思っていたのか。少なくとも隣り合う領地の隣人として、アンダルフォン家はジョスバッカーにも敬意を持って接してきたつもりだった。

 確かに魔物ばかり多くてやせ細った土地だが、そんなふうに揶揄されるなんて。ミラにはジョスバッカーがラヴィアンヌと踊った時以上の衝撃を受けた。

 あまりの事に返事もできないミラをどう思ったのか、ラヴィアンヌは勝ち誇ったようにジョスバッカーの腕に豊満な胸を押し当てた。


「おかわいそうに。でも貴女が悪いのよ? わたくしは王都で一人寂しいジョスバッカー様を慰めて差し上げていただけですからね。わたくしを恨まないでくださいね?」


 ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる二人に、もはやミラは言葉が出なかった。僅かに残っていたジョスバッカーへの愛情も霧散した瞬間だった。

 愛情がなくなると恨みを通り越して興味すらなくなるのだと、ミラはこの時初めて知った。

 そんなミラの代わりに一歩前に出たのが、成り行きを見守っていたアネスだった。


「ジョスバッカー、それはあんまりな言い草だな。自分の婚約者をなんだとおもってるんだ?」


 美男子ではあるもののアネスと比べるとその先の細さが際立った。日常的に鍛えている騎士からの凄みに一瞬ジョスバッカーは怯むものの、フンとそれを鼻で笑う。


「王都暮らしを知らなかったなら、ミラと結婚もできましたがね。垢抜けた恋人が出来ると知ってたら、婚約もしませんでしたよ」

「アネス様は田舎の子猿が珍しいのかしら。そちらの猿は一人身のようですし、よかったら一匹差し上げますわ」


 辛辣な侮蔑の言葉にカッとなったのは、なぜかアネスの方だった。


「お前たち……!」


 掴みかかりそうなアネスの拳を、ミラが握りしめることで制止した。


「いいんです。大丈夫、大丈夫ですから」


 こんなところで騒ぎを起こすべきじゃない。田舎育ちのミラにだって、それくらい分かっている。

 ミラの気持ちを汲み取ってくれたのか、アネスは身体の力を抜いた。代わりに彼らを射殺さんばかりに見つめる。

 その強烈な視線にビクリと震えた二人は、そのままそそくさと場を離れた。


「……すみませんアネス様。私のせいで」

「お前が謝る話じゃないだろ」


 握り合う形になったミラの手のひらがスルリと離れた。だがアネスはその手をもう一度掴む。


「え?」

「令嬢の手じゃないな」


 その言葉にミラは苦笑した。貴族の箱入り娘とは違う、ゴツゴツとした荒れた手だという自覚はあるからだ。

 だがミラの表情でアネスは自分の失言を悟ったようで、慌てて言葉を重ねた。


「悪い意味じゃない。俺は何もしない柔らかいだけの手のひらより、お前の手のほうが好きだ」


 そう言ってミラの手のひらを両手で挟んだ。まるで告白をされているような言葉に、男女の免疫がないミラの顔が真っ赤になった。

 アネスは咳払いをする。


「す、好きとは友達として、だ。友達としてお前の手が好きだという話で」

「まあ。それは光栄です」


 冷静な騎士だと有名な噂とは全く違うアネスの必死さに、ミラは思わず吹き出した。

 それから二人は顔を見合わせて少しだけ笑った。それはジョスバッカーたちからの暴言に傷ついたミラを、随分慰めてくれる言葉だった。

 だが食べ過ぎたせいなのか、胃の上にある心臓の辺りが少し、苦しい。

 思わず胸元を握り締めたミラの背中を、アネスは黙って見ていた。


◆ ◆ ◆


 舞踏会の翌朝。荷物を持って男装したミラは外へと出た。

 領地へと戻る乗合馬車へと向かうためだ。直行便などない田舎だから、到着まで何度か街に泊まり、馬車を乗り換える必要がある。

 元々の予定ではあと数日滞在するつもりだったが、ジョスバッカーとの婚約破棄の件もあり、もはや王都へ滞在する理由はなくなった。

 貴族御用達の宿は他の宿より安全性が保証されているだけに高い。一日でも早く引き上げた方が出費が減るからだ。

 トランクを両手に抱えて平民のような格好で歩き出すミラは、周囲からは貴族の従僕だと思われているが、本人はそれを気にしない。ないものはない。使用人を連れてくる余裕など、ミラの家にはないのだから自分でやるしかない。

 女性一人旅は危険だから、長い髪の毛はキャスケット帽の中に詰め込んで、男の子のような格好をした方が安全なのだ。

 幸いにしてミラは身体が丈夫だし、この程度の荷物は軽いものだった。顔立ちも華やかではないせいで、道中少女だと見破られた事はない。

 だが宿から足を踏み出したミラを待っていたのは、昨晩出会ったばかりのアネスだった。


「アネス様?」


 思わず溢れた疑問は、本人の耳に入ったようだ。こちらを見て、それから周囲を見渡し、声を発したのが目の前の少年――のように見えるミラだと気がついたらしい。


「ミラか? 驚いた。全く気がつかなかった」

「女の一人旅ですからね。安全のために男装しているんです」


 エヘンと張る胸は、何もしていないのに少年のようだ。

 昨日のきらびやかな盛装とは打って変わり、落ち着いた軽装だったがそれでも品質の良さは伝わってくる。


「そうか。しかし随分ゆっくりだったな。もう出てしまったのかと心配していた」

「朝食が食べ放題ですので、心ゆくまで詰め込んでたんです。おかげであと数日は食べなくても動けそうです」


 豪華な馬車によりかかるようにして腕を組んでいた彼にそう伝えると、フッと目元を和らげた。鉄仮面の騎士による滅多にない微笑みは、たまたま見ていたどこかの令嬢が小さく黄色い悲鳴を上げさせた。


「そうか。よく食べるのはいいことだ。腹が減っては戦はできないからな」

「そうです。婚約破棄なんて腹の足しにもなりませんからね。やはり世の中食べ物です。食べ物があれば生きていけますから」


 辺境の地ではなにより食糧確保が大切だ。ミラはそれを、身にしみて理解している。


「婚約破棄、か」

「ところでアネス様はどうしてこちらに? どなたかお待ちでしたか」


 アネスの小さな呟きは、ミラの疑問の声にかき消された。

 彼女自身もそろそろ馬車の乗り合い所へ行かなければいけない。限界まで食べていた自分のせいではあるが、次の街までの便が昼過ぎには出発してしまうからだ。

 その問いかけに、アネスはニヤリと笑みを作った。


「なに。君を領地まで送り届けようと思ってな」

「はぇ?」


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