飛翔
――昔々、この国は妖の気配に満ちていた。これは人にとって妖がとても近しい存在だった頃のお話。
夜の海。浜辺に娘がひとり佇んでいる。小袖の上に品のいい唐織の打掛を羽織っているその身なりからして高貴な家の娘であろう。
ザザッ、ザザッと聞こえる潮の音。夜の海は無表情で、ともすれば魂を引き込まれそうなそんな恐ろしさをもっている。娘は誰かを待っているようであった。時折ちらちらと周りを見回している。
(あの方は来てくださるのだろうか)
今宵は満月。白々とした月明かりが辺りを照らしている。季節は秋。冷気を伴った夜風が娘の頬を撫でた。と、その時キュッキュッと砂を踏みしめる小気味いい音が辺りに響く。娘はハッとした表情を浮かべ音のする方へと視線を向けた。
(来てくださった?)
月明かりの下、足音の主が明らかとなる。やって来たのは腰の曲がった老女だ。灯も持たず月明かりを頼りに彼女に近づいてくる。娘はため息をついた。どうやら待ち人ではなかったらしい。
「おぬし、こんなところで何をしとるのじゃ」
老女は娘に尋ねる。
(あの方ではなかった……)
娘は落胆すると共に、相手が自分に危害を加えるつもりはなさそうだと安堵した。
「わたくしはここで人を待っておりまする」
老女は目をすがめ娘を見る。
「ほほう。人を、な。しかし最近このあたりには妖者が出ると噂じゃぞ。まさかおぬしがその妖かえ?」
「わたくしは妖ではございませぬ。わたくしはあの屋敷の者」
娘は崖の上の屋敷を指さした。
「ほぉ、菊池家の。そら失礼した。じゃが菊池家のお姫さんが夜更けにこんなところで誰かを待っておると? それはまた面妖な」
老女は再び娘をジロジロと見て言う。
「おぬしの待ち人というのはひょっとして妖者なんじゃないかい?」
「それは……」
狼狽える娘の様子からしてどうやら図星のようだ。老女は首を横に振る。
「およし、およし。そうやって妖者に魅入られてついて行っちまったもんを何人も見てきた。運が良けりゃ逃げ出してくることもできるがそうでなきゃ喰われちまうことだってある。うまくいくはずがねぇんだ。妖っちゅうもんはな、人前に現れる時はえらく美しい姿をしているもんじゃ。でもな、その中身は所詮妖。天を突くような大鬼かもしらん。人を食う大蜘蛛かもしらん。やめておけ、やめておけ」
しかし娘は老女の脅しに怯む様子も見せず言い返した。
「いいえ、あの方は確かにヒトではないかもしれませぬが、そんな恐ろしいものではありませぬ」
老女はため息をつき、娘をじっと見つめて言う。
「では、もしその妖の正体が大きな山犬だとしたら?」
「構いません。その背に乗せてもらい野山を駆け巡りましょう」
「では、もしその妖の正体がヒト食い鬼だとしたら?」
「それでもいい。ヒトなど食わずとも済むように私が毎日ご馳走を作りましょう」
娘の方も負けていない。老女は再び大きくため息をついた。
「ふぅむ。ではもし……もしその妖の正体が天翔ける龍だとしたら?」
少女は大きく目を見開き、微笑んだ。
「それは素晴らしいわ。わたくしも龍となり共に天に昇りましょう」
するとその時、気まぐれな雲が月を覆い隠した。老女の姿は闇に溶けてしまい見えなくなる。
――そうか、そなたの覚悟、受け取った。
暗闇から聞こえてきたのは老女の声ではない、この声は……。娘は息を呑んだ。
海を見下ろす崖の上に大きなお屋敷がある。このあたり一帯を治める菊池家のお屋敷。そこに領主の末娘で領民たちから末姫さまと呼ばれる娘がいた。彼女は他の兄弟姉妹とは違いとても体が弱く、少し外に出ただけで熱が出てしまうので一日の大半を海の見える部屋で過ごしている。来る日も来る日も……。彼女はとても孤独だった。
ある日のこと。夜中にふと目が覚めた彼女はそっと起き上がり布団から抜け出し部屋を出た。
(今夜は満月なのね)
煌々と輝く月明かりの下、暗い海を見つめる。普段なら家の者が飛んできて彼女を部屋に連れ戻るのにその日はなぜか誰もやって来ない。まるで屋敷中が深い深い眠りについているかのようであった。
(静かな……夜)
ぼうっと海を見ていると彼方に銀色の光が浮かんでいるのに気付く。
(あれは……?)
銀色の光はみるみる屋敷に近づいてきたかと思うと、姫の眼前でその動きを止めゆっくりと人間の男へと姿を変えた。銀色の髪に緋色の瞳、すらりとした美丈夫。だが無論人間であるはずがない。明らかにヒトならざるものだ。
(妖?)
今見えているのはいわば人間の〝殻〟のようなもの。ひとたび殻が割れれば中から本来の姿が溢れてくるのであろう。姫がそんなことをぼんやり考えていると妖は彼女の隣にそっと舞い降りた。逃げようともしない様子に妖は首を傾げる。
「そなた、我が恐ろしくはないのか」
とても美しい声であった。姫はすっかり魅せられてしまい顔を上気させて妖を見つめる。
「あなた様は……?」
彼女の問いに妖はこう答えた。
「見ての通り、我は妖。あまりにも月が美しかった故空を散歩をしておった」
姫はそれを聞き、月よりもあなたの方がずっとずっと美しい、そう思った。
「空を散歩、ですか。何とも羨ましいことでございます。わたくしは空を散歩するどころかこの屋敷の外に出ることすら叶わぬ身」
俯く姫をじっと見ていた妖は驚くことを口走る。
「共に参るか? 空へ」
妖は「さぁ」と両手を差し出す。姫はおそるおそるその両手に自分の小さな手を重ねた。妖の手はとても滑らかで少しひんやりしている。次の瞬間、ふわり、と体が宙に浮いた。
(怖い……!)
ぎゅっと目を瞑る。妖はそっと姫を胸に抱きよせた。白檀に似たとてもいい香りが鼻腔をくすぐる。
「さ、顔を上げてごらん」
促されて目を開ける。いつの間にか二人はかなり高い場所に浮いていた。月が近い。心なしか空気もいつもより冷たく感じる。妖は姫を胸に抱いたままゆっくりと空中を漂った。眼下にはお屋敷が見えている。
「あ、ありがとうございます、妖さま……」
姫が顔を赤らめて言うと、妖は静かに答えた。
「私はいつも一人。誰かと飛ぶのも悪くはない」
「一人……私と同じですね。私もいつも一人」
妖は悲し気に微笑む姫をしばらく見つめていたかと思うと、ふっと唇に笑みを浮かべる。
「では我がつれあいとなり天を翔け地を巡りて悠久の時を共にするか?」
「え?」
「もしそう望むのであれば次の満月の晩、浜辺に来るがいい」
驚いて何か言いかけた次の瞬間、姫は再びお屋敷にひとり立っていた。
(夢……? いいえ、でも)
仄かに香る白檀に似た香りが夢ではなかったと教えてくれる。それから次の満月の晩を迎えるまで姫は妖のことを考え続けた。寝ても覚めてもあの方のことが頭から離れない。これが恋というものなのだろうか。姫は決断する。あの方に逢いに行こう、と。
次の満月の晩、姫は屋敷からそっと抜け出した。冷たい秋風がそっと頬を撫でる。屋敷の者たちは皆寝静まっていた。不思議なことに誰も起きてくる気配はない。虫の音を耳に浜辺へと急ぐ。これまた不思議なことにいつもならすぐに苦しくなる胸も今夜は痛まない。あるのはいつもとは違う胸の痛み。それは苦しく切ない胸の高まりだった。
(妖さま、今参ります)
ようやく浜辺へと辿り着き、暗い海を見ながら想い人を待つ。ザザッ、ザザッ、と波の音だけが聞こえていた。
「なぁなぁ、昨日おいら変なものを見たんだ」
正吉は起きてくるなりそんなことを言う。
「何を見たって?」
生まれたばかりの赤子をあやすのに忙しい母は正吉の顔を見ようともせず問い返した。
「うん、夜中に目が覚めちまってさ、外に出てみたんだよ。月がきれいだなって思って」
「おやおや、ずいぶん風流なことを言うようになったねぇ」
母はむずかる赤子に乳をやりながら微笑む。
「そしたらさ、銀色の光が天に昇っていったんだ! すうって」
正吉は昨日の夜のことを思い返す。それはとても不思議な光景だった。銀色の光がするすると天に昇っていき、やがて月明かりに溶けて消えたのである。母にそのことを話していると、村長の家から帰ってきたばかりの祖父がハッとした表情を浮かべて正吉を見た。
「どうしたんだよ、爺ちゃん」
「その光、菊池の末姫さまだったかもしれんのぉ」
「末姫さま?」
訝し気に尋ねる正吉に祖父は言った。
「菊池の末姫様が昨日亡くなられたそうなんじゃ」
「まぁ……ずっと床にふせっておいでとは聞いていたけれど。おかわいそうに」
母が痛ましげに目を伏せる。
「でもさ、でもさ、その光は二筋あったんだぜ?」
正吉がそう言うと祖父は静かに答えた。
「じゃあ誰かが末姫さまを迎えに来てくれたんじゃろうて」
それを聞いた正吉はしばらく考え込んだあと、呟いた。
「じゃあさ、末姫さまはもう一人ぼっちじゃないんだな。ならよかった」
菊池家の末娘である彼女は生まれたときから体が弱くいつも屋敷に一人でいた。それは領民たちも知っている。大人びた様子でしきりと頷く正吉を見て母は「おやまぁ、ずいぶん大人みたいなこと言うじゃないか」と笑った。もう大人だ、そう言いたかったがそんなことを言えば余計に笑われるのがわかっていたので正吉はそっと家を出て空を仰ぐ。
(よかったな、姫様)
どこまでも遠く、高く続く秋の空。たなびく雲の隙間に銀色の光が二筋、きらりと瞬いて消えた。
了