5.土屋浩平の小説(前編)
彼は宇宙にいた。
宇宙を漂っていた。
いつからここにいるんだろう。
いつからここにいたんだろう。
彼はそう考えながらもそんなことはどうでもいいかとも思っていた。
心はひどく安らかで満ち足りていた。
自分は宇宙服を着ているようだ。
近くに宇宙船はいない。
自分は難破したのだろうか。
遠くから俯瞰するように自分を見ている。
彼は不思議な気持ちだった。
自分の事なのにまるで他人事のように感じられることがだ。
宇宙は暗いと思っていたのに光がある。
ここは光に満ちている。
何もかもが見える。
何もかもがわかる。
わかったからと言って何ができるわけでもないが。
彼は人生の中で一番頭がはっきりしていると思った。
そしてそれから彼は宇宙船に拾われた。
北村翔は信号待ちをしていた。
正面に公園があって散歩をしている家族連れが見えている。
車どおりはそんなに多くない。
ぼんやりとその景色を眺めているさなかにそれは起こった。
どくんっと心臓がはねた。
景色がスローモーションになった。
意識が拡張していく感じがあった。
自分と言う器を抜け出そうとするように意識が広がっていく感じがする。
どくんっと再び心臓がはねた。
なんだ、これ。
景色がだぶって見える。
いくつものだぶって見える世界が同時に動いて見える。
スローモーションで世界がずれながら少しずつ動いている。
どくんっ。
北村は息苦しさから逃れるように手を前に出した。
どくんっ。
何が起きているんだ。僕はやばいことになってるのか。
次の瞬間北村は飛び込んでくる車の残像を見た。
見たと同時に飛んでいた。
意識するより先に体が動いていた。
ふっと体が楽になった。
どんっと大きな音が後ろで聞こえた。
振り返るとワゴン車が信号機に突っ込んで大破していた。
北村は横断歩道を渡ろうとしていたはずだった。
それがいつの間にか渡り切っており、かつ自分がさっきまでいた場所にワゴン車が突っ込んでいた。
何がどうなっているんだ。
鳥肌がたった。
世界がずれて見える感覚が戻ってきてあわてて頭をおさえた。
人が集まりだしていた。
北村は逃げるようにそこを立ち去った。
同時刻、あらゆる場所でおかしな出来事が起きていた。
誰もいなかった場所に突然車が現れたり、歩いていた人間が突然消え失せたり、ビルが突然なくなったり。
しかしニュースにはならなかった。
新聞の小さな記事にひっそりと書かれただけだった。
「兄さん」
北村は数年前に家をでて一人暮らしをしている兄を訪ねていた。
マンションの入り口に「北村探偵事務所」と書かれた看板がかけられている。
「やあ翔、元気にしていたかい?」
兄の三郎は長身でやせていた。全然強そうに見えないのにどうして探偵事務所なんかやろうと思ったのかと聞いたことがある。強そうに見えないのと本当に強いのかどうかは別物じゃないかと三郎は笑って答えた。
お客さんが来ていることがほとんどなかったのでいつものように突然ドアを開けてしまったが、先客がいた。
「あ、お客さん。ごめんなさい、またでなおすよ」
北村はあわててドアを閉めて出ていこうとした。
「ああ、大丈夫だよ。黄河さん、こちら僕の弟で助手の翔と言います」
いつ助手になったんだと言いそうになったが、あわてて頭を下げてお客さんの前に進み出た。
「北村翔です」
他になにか言おうと思ったが浮かばなかったので顔を上げた。
モデルのようにすらっとした髪の長い女性が座っていた。
「黄河美咲です。今日はお兄さんにお仕事の依頼でお邪魔しました」
「ちょうどお引き受けしたところだよ」
黄河は驚いたように三郎を見た。
「よろしいんですか?」
「どうせ暇ですから」
「でも・・」
黄河は翔が入ってくる前に言ったセリフを思い出している。
「こちらに伺う前にすでに3つの探偵社にお願いしました。その3社とも行方不明か連絡がとれなくなっています」
「なあに、僕はこういう不可思議な事件の方が得意なんですよ。じゃあ経費の一部として前金をいただいてもよろしいでしょうか?」
黄河は分厚い封筒を三郎に手渡した。
「どうかよろしくお願いします。それから・・」
言いずらそうに顔をうつむき加減に「お気をつけて」と続けた。
黄河が返った後に三郎は依頼内容を翔に聞かせた。
「行方不明のお父さんを探すの?」
「そうだよ。探し物は得意だからね」
「でもなんかすごくやばそうな感じがするよ。関わったらダメなやつじゃないの、これ?」
「問題ないよ。僕はそういうの得意だって知ってるだろ?それに・・」
知ってるから来たんじゃないのかい?
三郎は笑顔で翔にそう言った。
「僕も来て良かったのかなあ」
三郎の正面席に座っている翔が駅弁を食べながらぼそっと呟いた。
「いいに決まってるだろう。お前は僕の大事な弟だからね」
「いや、そうじゃなくてさ。これから依頼された行方不明の人の調査に行くんでしょう?」
「そうだよ。それもいい具合に長野県でね。墓参りがてら行ってこようじゃないか」
「墓参りって私用じゃないか。それダメなやつでしょ?」
「いいんだよ、僕の場合は。だって使用と公用の区別が僕の場合曖昧だしね」
それに・・と三郎は続ける。
「翔は僕と一緒にいた方がいいと思うんだ」
翔はそう言われてうつむいた。
「信じてくれるの?」
「信じるさ。だって兄弟だからね」
電車はトンネルに入った。
突然に翔が胸を押さえる。
「ま、また・・・」
「翔。僕を見ろ。何が見える」
翔は世界がダブって見えていた。肩を揺さぶられ、条件反射のように三郎を見る。
「海が見える。町が水に沈んでいく。クジラの大群も見える。世界が・・終わる」
そう言うや翔はガクッと力が抜けた。
「気絶しちゃったか。なかなかやっかいだね」
三郎は翔を窓にもたせかけた。
トンネルは続いている。気圧のせいで耳が圧迫されて音が聞こえずらくなった。
「あっちにいるのもやっかいなやつみたいだ。そうだろう、爺」
三郎が問う。
「そうじゃな、いつにもましてやっかいなことになりそうじゃな。お前さんの弟は影響されたようじゃ。脳が覚醒しはじめておるわ。この急な変化に脳が耐えられるかの」
「耐えてもらわないと困るよ。人間の脳だって捨てたもんじゃないってところを見せてもらないとね」
「言っとくが他人の脳じゃわしにもどうでにもできんよ」
「わかってるよ、爺。だから原因らしきところに翔も連れていくんじゃないか」
会話は三郎の頭の中で交わされていた。
電車がトンネルを抜けた。翔がうめき声をあげて目を覚ます。
「兄さん、僕は・・」
「どうやら頭のリミッターがとれちゃいそうになってるみたいだね」
三郎は笑顔でそう言うと冷凍ミカンを差し出した。
「まあ食べろよ。考えてもどうにかなるもんじゃない時はおいしいものを食べるにかぎるよ」
「おいしいものって・・」
「嫌いか?僕は好きだけどな。お前だって昔はおいしいって欲しがってたけどなあ」
翔は何か言いたそうな顔をしたが、黙ってミカンを口にいれた。
「兄さん、僕宇宙にいるような錯覚をしたよ。そんなことあるわけないのに」
翔はぽつりとそう言って泣きそうな顔になった。
「そんなこともあるさ。まあ僕が一緒にいるんだ。大丈夫だよ」
三郎は笑ってそう言った。
「夜はお肉にしよう。黄河さんはなかなかお金持ちな人だからね。前金もたんまり貰ったよ。食べれるうちに食べておくとしようじゃないか」
「兄さん、黄河さんの探している人ってどんな人なの?」
「物理学者らしいよ。よくはわからないけれど高速に加速させた粒子を衝突させて宇宙の謎を解こうとしている人だそうだ」
「いなくなったのはその人だけじゃないね」
「依頼されたのはその人だけさ」
「なんでだろう。わかるんだ。たぶんさらわれたんだ。人とは思えない何かに・・」
「怖いことを言うなよ。お前らしくないぞ」
「僕だって怖いよ。何がどうなっているのか。なんでわかるのか」
三郎は窓外に目を向けた。
「もうすぐ着くな。忙しくなりそうだ。お前も協力しろよ。助手だからな」