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火鉢の前で~ロングバージョン~

作者: 織花かおり

いじめられる世界から優しい世界へ変わる時、そこには大切な人の存在があるのかもしれません。

おばあちゃんが半纏を着て、火鉢の前で背を丸めている。

もうこんな季節になったのか。

外を見ると、山茶花が咲いている。

「年寄りになると、寒うてねぇ」

耳が遠くても私の気配を感じたのだろう。おばあちゃんがおもむろにそんなことを言った。

(おばあちゃんの声、久しぶりに聞いたなぁ)

成人して有名レストランにシェフ見習いとして入社してから、まともに話していなかった。

仕事が終わるのはおおばあちゃんが寝た後、休日は友人たちを遊び歩き、或いは自室にこもって惰眠を貪っていたから。

(小さい頃、よく火鉢で一緒にあたたまったっけ)

私は火鉢を挟んで、おばあちゃんの向かい側に座った。

おばあちゃんは黙って、火箸で炭を足した。

チロチロチロリ、パチパチパチリ。炭が赤さを増す。

「なにがあったか言うてみい。おばあちゃん、口はかたいよ」

(おばあちゃん、なんで分かるの?)


一瞬で記憶がフラッシュバックする。

「最近、オーナーの機嫌が最悪だよな。俺たちに当たるのやめてほしいよ」

「しかし、このレストランも赤字だったとはねぇ」

「しかたねぇだろ。食材は最高級の物を使って一切妥協しねぇ。立地も一等地で賃料だってばかにならん。しかもコロナと来たもんだ」

「確かにな。最近暇だしな。コロナが落ち着けば前のように忙しくなるかな?」

「さぁな。しかし赤字じゃリストラ候補者が上がるのも無理ないか」

「吉井、今日もいじめられていたな」

「あぁ、あれはないよな」

「でも、吉井が辞めてくれれば、俺ら助かるだろう?」

「まあな。でもあいつがまさかあんなことを……」

「ほらほら。手が止まってるよ。無駄口禁止。それに吉井が戻ってくるころよ」

私はずきずきずる胸を押さえる。

パチパチパチン。

炭の泣く音で我に返る。


おばあちゃんは昔から鋭かった。

私が振られるたびに、何も言わないのに働いている母にかわって、大好物のチキン南蛮を作ってくれたものだ。

きっと今も何か感じているのだろう。

おばあちゃんの優しい目に、私は自分の心を絞り出した。

「息が吸えないの。酸欠の金魚みたいにうまく呼吸ができない」


いっぱいいっぱいだった。

私はこのコロナ不況のあおりを受けて、リストラ対象となっていて……。

しかも、レストランの先輩シェフや同僚シェフの目は冷たく、挨拶しても無視、あからさまに悪口を言われ、調理道具を傷つけられたり、隠されたりする日々が続いていた。

出来の悪い私が、努力して努力してやっと入社できたレストラン。

辞めたくなかった。辞めたら、私の存在を全否定される気がして。

友人たちと会っていても、自分だけ違うと感じていた。

だから、相談もしていない。

だって友人たちは、悩みなんてないように底抜けに明るい。

仕事もそれなりの実績を積んでいる上に彼氏もいて、職場でもいじめに遭っていない友人たちの笑顔に何度打ちのめされたか。

自分の心の狭さが嫌になるけれど、これが今の自分なのだと認めざるをえなかったのも、とても苦しい。

一人の女性として、なんとしても一人前のシェフになりたい。

女性だからこそできる料理があると私は今でも信じている。

でも現実は……理不尽だ。


職場に一人先輩女性シェフ岡元さんがいる。

岡元さんは腕も良くて、私より4年先輩だが既にメインディッシュ作りを頼まれるほどの腕だ。

この職場では女性は珍しいと私をかわいがってくれ、一緒に飲みに行って料理の話や恋愛の話などをするようになった人で、私も懐いていた。

岡元さんは、同じ職場に好きな人がいる。

45歳になるオーナーシェフだ。

オーナーシェフは40代なのに(私は全く興味がないけれど)とても若々しく、その上イケメンだ。

しかも、フランスのミシュランガイドで5つ星を取った店で何年も修行して、実力も折り紙付き。

だから、モテる。

店にもオーナーシェフ目当てのお客様が複数人いらっしゃったことがある。

オーナーシェフも最初私にとても優しかった。

妹が欲しかったと公言していたから、妹のように思ってくれていたのかもしれない。

それに若い経験のない女の子に、男性は優しく接する傾向があるようだ。

ひいきにならない程度にいつも私を気遣ってくれた。

岡元さんも、そうしてもらったと話してくれていたのだが……。

それがいけなかったのだろうか。

岡元さんが、ある日を境に私と一言も話さなくなった。

それどころか、同僚たちに指示はしても、私に一切指示をくれなくなった。

当然、私は自分で考えて動かなければならなくなった。

失敗を重ね、オーナーシェフに心配をかけた。

オーナーシェフには相談などできなかった。

だって……。

岡元さんにこれ以上誤解されたくない。

まだ岡元さんと仲良くしたいという願望をもっている私は、まだ修復可能かもしれないと淡い期待を持っていた。

だって嫌われるようなことをした覚えがない。

経験もない才能も大してない私が、あんなにいきいきと働けていたのは、岡元さんがいてくれたという理由が大きい。

それに、岡元さんは私に意地悪するとき、他の男性たちとは違って、本当に苦しそうだ。


チロチロチロリ。パチパチパチリ。

静けさの中、炭が優しく燻っている。

「なぁ、綾子。立ち向かうか逃げるか、決める時のコツ、分かるか?」

私は前のめりになった。

「全然分からない。そんなのがあるのなら教えて」

おばあちゃんは、秘密を打ち明けるがごとく声を潜めて教えてくれた。

「それはな、自分の分、器に収まっているかどうかだ」

「どういうことなの?」

「自分の分、器の中、つまり自分ができることの中に今やっていることがすっぽり収まっとったら、立ち向かえ。自分が到底できんことで苦しんでおるなら、逃げろ」

私は忙しく頭を働かせた。

「仕事はできないこともないけど、人より優秀とかはないな。この場合、どうなるの?」

「それなら、第2の矢だね」

「なにそれ、政治家みたいなこと言っているね」

「2番目はな、好きかどうかだ」

「好きかどうかか……」

(正直、今の状況では心の底から好きとは言えないな。遊んで暮らせればいいけれど、人生そんな簡単なものじゃない。嫌いでないなら、仕事はしないといけない)

私のごちゃごちゃしていた頭がクリアになってきた。

「嫌いではないな……。そうだね……うん、嫌いじゃない。むしろ、集中できていた時は好きだったかな」

「なら、最後の矢だ。自分がそこで必要とされているかどうかだ。必要とされていなかったら、必要とされるスキルを磨けそうか、それを考えてみな」

「必要とされて……ないな……むしろ、邪魔者扱いだわ」

「綾子。それを覆せそうか」

「覆す……どうだろ……しんどいし、時間が足りないかもしれない」

「それでも、好きなんだね?」

「うん。複雑な思いはあるけれど好きだわ」

「ほんなら最後の審判まで全力を尽くせ。たとえ覆せんでも、それはおまえの力となって次へつながる」

「私より優秀な人いっぱいいるのよ?」

「それでも好きなのだろう?」

「うん」

「なら、綾子らしくやればいい。綾子の持ち味を何でもいいから生かせばいい」

「私の持ち味、そんなのない。なくしてしまった」

「一つ一つ小さい頃から褒められたことを考えたらいいよ。それが綾子らしさだから」

「だから、私なんかより優秀な人、いっぱいいるの!私が誇らしく思ってたことなんて、全然大したことないの!」

私は泣いた。


おばあちゃんは、初めて大きな声を出した。

「綾子はこの世で一人きりしかおらんのやで!綾子らしさがないわけない!いつも笑顔を人に向けるとか努力し続けられるとか掃除が上手いとか、いっぱいいっぱいある!」

私も泣きながら大きな声を出した。

「そんなもの、仕事には何の役にも立たなかった!大事なのは、才能なの!」

パチパチパチッ。火鉢の炭が鳴いた。

「ほんとうにそうか?」

おばあちゃんは、また静かな声になった。

「綾子の笑顔を素敵だと思う人は一人もいなかったか?」

(恋愛ならまだしも仕事でなんているわけないじゃない……)

でも、はっとした。

「唯一声をかけてくれる経理のおばちゃんが、あなたの笑顔が好きだって言ってた」

「ほうら、ごらん」

経理のおばちゃんは、レストランにはそぐわない、なんというか普通のどこにでもいるようなおばちゃんだった。

ある時、オーナーシェフに「早く結婚しなさい!」なんて檄を飛ばして、あれこれ経営にも口を出して、経理のおばちゃんが、オーナーシェフの実のおば様だと知った時は驚いたが、「なるほど」と納得したものだ。


「そういえば、意地悪されてもオーナーシェフのパーソナルテーブルの側までぴかぴかに掃除したら喜ばれて、それから少し風当たりが弱くなった」

「そうか、そうか」

「吉井はよく気が付くな。シェフ向きなのに……」

オーナーシェフは、そう言って顔を曇らせたのを思い出す。

だが、その頃にはすべてがクリアになって、自分のやるべきことが見えていた。

そして、やるべきことが分かると驚くほど心は軽くなった。

「今の今まで努力してきたのだから、私最後の審判まで努力してみるわ」

「よく言った!それでこそ私の孫だ」

「そうと決まれば、私自分の部屋で勉強してくる!まだまだできること、たくさんあるから!」

おばあちゃんは、にこにこ目がなくなるくらい笑っている。

「おばあちゃん」

「ん?」

「ありがとう」

火鉢の炭がチロチロチロリ、パチパチパチリ。

火鉢に手をかざし、背を丸めている小さなおばあちゃんが、とてつもなく大きく見えた午後。

外は山茶花の密を求めて、蜂が来ていた。


次の日、職場に行った私を驚きのニュースが待っていた。

「オーナーシェフが結婚するんだって!」

ええ!?相手は誰?岡元さんなのだろうか?

私と話してくれる人なんていないから、私は耳をそば立てた。

「大会社の社長令嬢だってよ。さっすがオーナーだよな~」

岡元さんじゃないんだ……。

あんなに好きだったのに。

どうしてだろう?意地悪され続けたはずなのに、涙が出そうになった。

岡元さんが、厨房に入ってきた。

気丈にも笑顔を浮かべている。

でも、私の泣きそうな顔を見て、一瞬顔をゆがめた。

午後になって、私はまかないでチキン南蛮を作った。

そう、おばあちゃん直伝の私の大好物。

岡元さんが少しでも元気になりますように……心を込めて、丁寧に作った。

みんな口にしたとたん、無言になった。

そして、しばらくして「うまいな」としみじみ言った。

私は岡元さんを見た。

泣いていた。

「岡元。どうしたんだ?」

「あまりにもおいしいから」

私は、岡元さんに勇気を出して声をかけた。

「岡元さん。嬉しいです。お茶も飲みますか?」

岡元さんは、我慢できずに嗚咽をもらした。

私は背中をさすった。

みんなしーんと静まりかえって、成り行きを見守っている。

でも、私は次の岡元さんの発言に驚いた。

「どうしてこんな料理を作れる人が……こんなに料理に心を込められる人が……、私の調理道具を隠したり壊したり……嫌がらせができるの?」

嫌がらせ?私が?

「私は、そんなこと一度もしたことがありません!」

「え?ほんとに?」

「はい!」

慌てたのは、他のシェフたちだ。

「誰だよ。吉井がやったっていったの」

「そいつが一番怪しくないか?そのことで岡元は、どれだけ悩んていたか」

みんながざわざわしてきたところに、経理のおばちゃんが来た。

経理のおばちゃんは、みんなをぐるっと見渡してからコホンと咳ばらいをした。

「みんな、お疲れ様。いい話があるよ。オーナーの笹本が結婚することになった話は聞いているよね。その相手は山中商事の社長のお嬢さんなのだけれど、金銭的援助をレストランにしてくれることになってね。赤字経営の心配はなくなった」

「うおおおおおおお」

みんな、喜んだ。

私はぽか~んとして、口をあんぐり開けていた。

「オーナーの尻を叩いてやったのよ。自分の力不足は、自分の持っているもので補えってね」

経理のおばちゃんは、私の側へ来て小声でささやいた。

「よく笑顔で耐えたね。もう大丈夫。リストラはなくなったよ」

私はやっと事態が飲み込めて、涙をぐっと堪えた。

でも、岡元さんが……。

岡元さんが苦しんでしまう。

けれど、岡元さんは、私を抱きしめて握手を求めてきた。

「吉井。今まで本当にごめん。私が吉井を信じなかったからこんなことになった。オーナーのこともそんな私への天罰だと思う。本当にごめん」

なんて気丈な人なのだろう。

大声で泣き叫びたいだろうに。

「岡元さん。話ならいつでも聞きます。また飲みに行きましょう」

「ありがとう、吉井。本当にごめん」


「ところで」

経理のおばちゃんがこほんとまた咳ばらいをした。

「さきほど、聞捨てならない話をしていたねぇ。調理道具を隠したり壊したりした者がいるって」

「俺じゃありません」

「おれでもないです」

「俺だって違う」

みんな口々に言い訳を重ねようとしたとき、経理のおばちゃんが有無を言わさないという感じで宣言した。

「これを機に迷っていたのだけれど、カメラを厨房にもつけようと思う。犯人が二度と同じ過ちを繰り返さないようにね。それと、みんなの動きの無駄を探ることができる」

私は真っ先に賛成した。

「それなら安心です!お願いいたします!」


夜、岡元さんは親が訪ねてくるそうで、私も今夜はそのまま帰宅した。

おばあちゃんの部屋の前を通ると、おばあちゃんが半纏を着て、火鉢の前で背を丸めていた。

「おばあちゃん、珍しい。起きていたの?」

「ふふふ。声が明るいねぇ。何があったか言うてみい」

私は、火鉢の前に座った。

「あのね。自分の力ではないけれど全て覆えったわ」

「そうか。そうか」

おばあちゃんは、嬉しそうに目を細めた。

「覆えったのは、おばあちゃんのおかげでもある。チキン南蛮を教えてくれてありがとう」

「なんもなんも。すべて綾子の力だ。お前にそういったものを引き寄せる力があったからだ。お天道様は必ず見ていてくれる」

「引き寄せられたのは、おばあちゃんのおかげだから。本当にありがとう」

「綾子。これからも胸を張ってきばりや」

「ありがとう。また、進捗状況、報告するわ」

「うん」

おばあちゃんは、幸せそうに目を閉じて笑った。

火鉢の炭がチロチロチロリ、パチパチパチリ。

「もう寝ようかね」

「おばあちゃん、明日何か食べたいものある?」

「作ってくれるのか?」

「うん」

「かぼちゃの煮物とポタージュが食べたいねぇ」

「分かった。楽しみにしていて。おやすみなさい」

「おやすみ」

しわくちゃな手が炭を火消し壺に入れる。

カラカラコロン。

火鉢が静かになって、私の心も穏やかだ。

おばあちゃんの部屋にいけてある山茶花の一輪挿しを見ながら、

「冬はもうそこまで来てるのね。おばあちゃん、あったかくして寝てね。ありがとう」

と私はそっとおばあちゃんの部屋の襖を閉めた。

まだおばあちゃんと火鉢のあたたかさが残っている。

「なんも、なんも」

おばあちゃんの優しい声が私を追いかけてきて、私の満たされた心はさらに満たされ、私はやっと優しい世界に戻ってこられたのだと実感して、その夜久しぶりにぐっすり眠った。

幸せな夜だった。


おわり


お読みくださり、ありがととうございました!

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