旅立ち
サチは明日、この街を出ていく。
首都の大学に入学するために。この街の大学にも合格していたが、そこは蹴った。
家族以外の誰にも伝えなかった。家族に見送りはいらないと伝えたから、サチは今日一人でこの街を発つ。
少し前まで毎日使っていた駅のホームに降り立つ。いつもと違って通学鞄ではなく、カートを引きずっている。
まもなく春だというのに、雪が降っていた。北国の春はまだ遠い。
サチは白い息を吐いて、空を見上げた。灰色の空から際限なく雪が落ちてくる。
電車が来るまで、まだまだ時間がある。駅の構内に戻ろうかと思っていると、ホームのベンチに座っていた人影に目が止まった。思わず、サチは「うわ」と声を上げてしまった。人影は立ち上がると、こちらにやって来た。
それはサチと同じ年頃の少女の姿をしていた。どこにでもいるようなごく普通の娘。しかし、彼女の額には第三の瞳があった。
「待ってたよ、サチ」
少女はサチに微笑みかけた。
「御咲」
この街、御咲市と同じ名前を持つ少女は人間ではなかった。
この街を守る防衛システムーー通称『守り人』。
目の前にいるのは、無数に存在する末端のインターフェースの一つ。彼女の本体は都市そのものという、らしい。
大多数の人々にとって、『守り人』は良き隣人である。
防衛システムといっても、現在ではほぼ機能していない。『守り人』システムはこの国が内戦中だったときに造られたものだ。内戦は百年以上前に終わっている。
「出発前に会えてよかった。もう二度と会えないかと思った」
白々しい、とサチは思った。
『守り人』はこの街の管理もしているシステムだ。一市民の生死など簡単に手が出せる。市外に出ることを禁止することも瞬時にできる。
でも、こいつらは、そうしない。それどころか、何もしない。
御咲は「そうだ」と言うと、自販機に向かった。何かを持って、こちらに戻ってきた。
「はい、冷えたでしょう」
そう言って、御咲はサチにコーンポタージュスープの缶を差し出した。
サチはそれを反射的にカートを持っていない手で受け取ってしまう。缶はほっとする温かさだった。
「何しに来たの」
サチは缶を持ったまま、御咲を睨んだ。
「見送りに来たの」
「やめて、いらない」
鋭く、サチは言った。
サチは捨てたかったのだ。この街も、同級生も、家族ですらも。そして、目の前のこの存在も。
「あたし、あんたのそういうところ大嫌い」
「そっか……ごめんね」
すまなそうに御咲は言う。
サチはそれ以上何も言わずに、ホームのベンチに向かい、端に座った。
御咲は少ししてから、ベンチの反対側の端に座った。
二人とも何も言わない。他に客はいなく、雪が音を吸収するせいか、とても静かだった。
「ウザいんだけど」
耐えきれずにサチはそう言った。
「ごめん。でも、最後だから」
「意味わかんない」
『守り人』は市民ひとりひとりにインターフェースを通して、まるで理解者のように振る舞う。友人も学校の人間も家族も、皆それを当たり前のこととして受け入れている。サチには無理だ。御咲は薄気味悪い干渉者だ。優しげな態度だが、やっていることは監視だ。
「ねえ、サチ。本当に行っちゃうの?」
「『中央』への渡航許可出したのあんたでしょ」
「それは……サチがそう望んだから。わかっているの? 『中央』には『守り人』はいないのよ? 誰も守らないのよ」
「だからあたしは行く」
『中央』は首都のことだ。
内戦で首都は一度滅んだ。そのときに首都の『守り人』は破壊された。他の都市連合の『守り人』らによって。首都は都市連合に見捨てられた者たちの街だ。それでも長い間この国の首都であったために、この国で一番栄えている都市ではある。
「そう……」
寂し気な顔で御咲は言った。
そのとき、電車の到着を知らせる放送が流れた。
「ねえ、サチ。戻ってきたくなったらいつでも戻ってきてね」
「絶対戻らない」
サチは立ち上がる。電車の先頭車両が見えてきた。
御咲も立ち上がった。
「サチ」
「なに」
「サチのこれからがしあわせであることを祈っている。いつも、ずっと」
サチは何も言わなかった。
電車がホームに入り、サチは黙ったまま、乗り込もうとした。
その背中に御咲は声を掛けた。
「さよなら、サチ」
サチは一瞬足を止めてから、振り返らずに電車に乗った。
そして、ドアは閉まった。
サチは電車の中で立ったまま、声を上げずに泣いていた。
祈っている、だって?
この街の市民全員に対してそうなんだろう。
あたしには御咲しかいなかったのに。
友達もいなかった、家族には疎まれていた。彼女だけが傍にいてくれた。
でも、彼女が傍にいた人間はあたしだけではなかった。
この街の市民全員だ。
御咲にとって、あたしは沢山いるうちの一人でしかない。
それがつらい。
だからあたしはこの街を捨てる。
次の駅への到着を告げる放送を聞いて、サチはふらふらと空いた座席に沈み込むように座った。
手に持っていたままだった缶はとっくに冷たくなっていた。
首都はまだ遠い。