無に接吻
夜の二時。木の間から零れ落ちる月明かりに、青く照らされた透き通った川の水を眺めていた。後ろから草を踏みつける音が鳴る。
「大丈夫?」
月の光みたいに包み込んでくれるような声。彼女と私は同じ場所で育った。私は人と話すことがどうしようもなく苦手だった。
自分が言葉を発するたびに、相手との溝がだんだんと深くなる。。
せっかく作られた場の空気を見ることができず、気づいたら踏みつけていて割っていた。一度ひび割れてしまったそれは消して繋げることができなかった。
私は、人の目につくのが嫌になった。
会話がいきなりピタリと止み、沈黙の音と時が流れる。あの時間がたまらなく辛かった。
いっそ透明になってしまいくて、消えて居なかった人間にになってしまいたい。と思った日もあった。
それが幾度となく積み重なった。私なんて初めから生まれてこなければよかったのに。
自分から言葉を発することも、輪に入ることも無くなった。
全てのものから逃げてしまいたくて、しかたなかった。あの場所にいると否が応でも誰かといなければならなかった。それが嫌だった。一人になれる場所を知らなかった私は、壊れかけの風車小屋にいた。自分の知り得る限り、一番孤独な場所。どうしようもなく堪らなく辛くなったあの日。私はあの風車に向かって走って行った。
私を探す大人の声が聞こえた。でも私はそこから動かなかった。
そんな時、彼女はすぐに私のいる場所を見つけた。
彼女は理由も聞かずに、ただ心の支えとなってくれた。
「一緒に逃げちゃう? 鳥の唄う詩を聴いて、川の流すメロディに心溶かされて、木漏れ日に身体をほぐしてもらう。私たち二人しかいない静かな歌の森。そんな場所に一緒について行ってあげてもいいよ?」
辛い時、彼女はいつも寄り添ってくれた。逃げてもいいんだよ。逃げるとしても、一人が辛いなら、私は一緒にいてあげられるよ。
そう、彼女は言ってくれた。私は目から溢れる涙に息をかき乱されながら、首を横に振る。
ただ一言、「ありがとう」と彼女に答える。彼女に肩を抱かれた。回らずに軋む音を立てる風車の音、私だけじゃなく彼女を呼ぶ大人たちの声を聞きながら、二人で一緒に寝
た。
また、彼女にも悩みがあった。決まりきった将来。規則正しく変化を許さない生活。私たちは臓器提供のために作られたクローンだった。十三歳を超えたあたりから施設のみんなは心の隅で疑問を持っていた。
どこか自分が、身体と命の形が、歪な気がして仕方なかった。
その疑問は埃のようなものだった。だんだんと心の部屋を埋めるスペースが増えていき、いきなりそれが体の中に入ってきた。どうにか外へ排除しようとして、息が苦しくなり、体が痒くなった。
一日一日を過ごすたびに、死が近づいてきているような気がした。いつ来るかわからない死に怯えれば怯えるほど、毎日の行動に自死が割り込んでくるようになった。布団から体を出すだとか、喉が渇いたから水を飲むだとか、そういう特に考えずにする行動。その中に自殺が入り込んできた。施設の窓から下を眺める時。風呂に肩まで浸かる時。このままここから落ちてしまおうか。このまま水の中に浸かり続けてしまおうか。
少しずつそんな考えがふっと出てくるようになり、どんどん心が蝕まれて行った。
布団の中に入る時。体を全て布団で覆ってしまい、猫のように体を丸めて、そのまま涙を流し続けた。空気が段々薄くなり、辛くなって顔を出した。
けれども人の前に立つ時、彼女は人に優しくした。そうせざるを得なかった。そういう人物として一度固定されてしまったら、もう自分という個性を出せる隙間なんてなかったから。
彼女は私にだけは弱音を吐いた。それは、きっと彼女の身体元になったのが私だからだ。
私より一年遅く作られた彼女は私をベースに作られていた。半分遺伝子を共有していた。どこかしら母性を感じていたのかもしれない。だけれど、私よりもさらに精巧にデザインされた彼女は、私よりも早く成長して、私よりも早く死ぬ定めだった。
彼女は完成形と言っても過言ではなかったようで、彼女より後にデザインされた彼女たちは皆んな似たような顔をしていた。そして、彼女よりも早く成長していく。
成長するほど似ていく。確実に違うのに、ふとした場面で自分を感じることがあった。親の場合は親近感や愛情を覚えるかもしれない。けれど、私たちにはそれが不気味で仕方なかった。身長が追い越された頃。自分の無個性さや将来性の無さを突きつけられたようで、毎日とても苦しかった。いつのまにか人数が減っていった。私は誰とも会いたくなくなっていった。
けれどもそんな中、彼女と私だけは常に離れず寄り添い合っていた。
翌日、酷いくらい怒られた。けれども横に彼女がいるだけで、そんなことどうでも良くなってしまった。あの日から私は彼女の全部が好きだった。
十七歳の時。施設の中に放送が響いた。彼女を部屋へ呼ぶ声だった。
私たちはそこから逃げて、走って、昔話した静かな歌の流れる森を探した。速く走りすぎて、バランスをとれなくなって転びそうになりながら。
自分の居場所もわからないまま走り続けた。そして、森を見つけた。それは、もうとても美しくて、色なんて忘れてしまいそうなほど自由だった。ドビュッシーの『月の光』のような、音を奏でた美しさをしていた。私たちは泣いた。あの日から、ずっと我慢して逃げてきた。安全な場所を求めて。私たちは、風で飛ばされた砂の山のように泣き続けた。
「ねえ、知ってた? 私たちはさ、お偉いさんの奥さんだとか、娘さんだとか、そういう人たちに提供されるんだって。戦争を続けるだけの国のお偉いさんに。無理矢理徴兵されてさ、体に大きな怪我を負った兵士だとか、夫がいなくて生活に苦しんで、病気を治せない家族のためじゃなくて。笑えてきちゃうよねぇ、ほんと。人を殺させてさ、死なせてさ。命を作り出したと思ったら、また自分達のために殺すんでしょ。笑えてきちゃうよね、ほんとに。ほんとにさ……」
笑いながらもだんだんと声が掠れていった。月明かりが頬を流れる涙を青色に光らせていた。
「私調べてたんだ。もし、私たちが提供されずに生き続けたらどうなるのかって。他の人より全然長く生きられないんだって。寿命が来ても自分がもうすぐ死ぬなんて、感じとることもできないんだって。消えていい感覚なんてないのにね。辛いのも、苦しいのも、堪らなく消えてしまいたい気持ちも、不甲斐なさで潰れてしまいそうな気持ちも、いっそ死んでしまいたいような気分も、全部大切なものなのにね。死んだら全て消えるんだって。泡みたいに。いつのまにか。生きた証一つ残さないの。だって、提供し終えた不要な部分なんて、処理するのも手間かかるじゃない? どうしたらいいのかなあ。私たちさ、何も悪いことしてないのにね」
涙に言葉を遮られて、どんどん細切れになって行く。
「私が消えた後、生きた証はほんの少しの間だけでも、貴方の記憶に生き続けられるかなあ?」
私はそんな彼女に、言葉をかけられず、ただ肩に手を乗せて一緒に泣いてあげることしか出来なかった。
心の支えとなっていた強い彼女は、子供のように小さくみえた。ほっぺに泣いた後がある彼女を横目に私は起き続けていた。月明かりに照らされた美しい寝顔。少しでも長く彼女の顔を見ていたかった。彼女の顔に顔を近づけて、やめる。
翌朝、彼女は早い時間に目を覚ました。月の光は登ってきた太陽にかき消されていた。
「おはよう。早いんだね」
彼女が私に言った。私は一睡もしていなかった。
昨日のことなんかなかったように振る舞おうとする。だけれど、無意識のうちに目から涙が溢れてた。
「あれ、もう、昨日泣き尽くしたと思ったんだけどなあ……。もう、ほんと私……嫌だなあ……」
表情は笑いながらも、目は悲しみに、辛さに満ちていた。
私は彼女を引き寄せて抱きしめる。
「いいんだよ泣いても。いくら泣いても。今度は私がずっとそばにいてあげるから」
彼女の涙で服が少し濡れる。思えば、かなりの間きちんとした食事とれてなくて、彼女も私も相当に痩せ細っていた。
「こんな不健康な体じゃ、提供されても悪化しちゃうね」
彼女は泣きながら、笑いながらそう言う。私も釣られて笑ってしまった。
彼女は精神的な健康を取り戻していった。
「ねえ、見てよあれ。青い小鳥。二匹いる。私あんなの見たことないや。水飲みしてる。かわいいなあ。私たちみたいじゃない?」
心の底からの笑顔をするようになった彼女を見て私も自然と笑ってしまう。
「照れたね?」
とにやけながら肘でお腹の横をこづいてくる。
「ほら見て、あそこ。動物たちが集まってる」
彼女は目をキラキラとさせた。緑色の目がエメラルドのように輝いて見えた。
「一緒に行く?」
と私が聞くと、彼女は一段と目を輝かせた。
私たちが行くと、動物たちは怯えて逃げてしまった。そこには大きなピアノがあった。だけども、音が鳴ることはなかった。
「ねえ、これ」
彼女が指でピアノの椅子を指し示している。銀色の小さな二つの輪だった。
「綺麗だね。誰かここに来たカップルでもいたのかな」
その日の夜、私たちは月の光に照らされながら、ピアノの横。とても深く、優しくい久しぶりの睡眠だった。
朝、目が覚めると横に彼女の姿はなかった。私は精一杯声を出して、体力の限界なんかとうに来てるのに、走って森の中を隅々まで探した。森の中にある、川の初めに彼女はいた。
「こんなに今幸せなのに、死んだら何も残らずに消えちゃって、私のこと忘れられちゃうんじゃないかって、不意に思っちゃうんだ。ごめんね、本当に」
彼女は下を向いて、涙を流していた。
私は、心配したことについて、あえて口にしなかった。
「そうだ。ねえ、あの指輪、二人で付けてみない? あなたの生きた証は、私の指に残るのよ」
彼女は頷いて、涙を止めて、一緒にグランドピアノへと向かった。
彼女と音のならないピアノで、ドビュッシーの『夢想』を弾いた。施設の中にいる時、彼女が好きで何度となく弾いていた曲だった。
私は、何度もそれを遠くから聴いていたから、音を聞かずとも彼女の思い描いてる音が伝わってきた。
二人で指輪を指にはめる。彼女は右手の薬指に。私は左手の小指にはめた。少し気持ち悪いことをしてしまったかもしれない。
「ねえ、久しぶりに『月の光』も聞きたいな」
私がそういうと彼女は「音は出ないけどいい?」と言う。私は「だとしても」と答える。
二人で月明かりに照らされて、音の無い『月の光』を聴いている。
寂しさに切なさ悔しさ。夜にしか感じない不思議な痛みが音に乗って流れ込んでくる。私は膝を抱えて、身体を丸めながら、少し涙をこぼす。
いつ終わるかわからない人生も、堪らなく綺麗で美しく、切なく儚い。けれど、時間が経つのはやっぱり怖くて、こんな夜がいつまでも続けばいいのに。と想像する。朝は来ないで、月の青い光を、感じながら、ずっとずっと。でも曲は終わる。心の中で聞こえる曲は、段々とラストへと近づく。まだ小さな朝日が、少しずつ月の光を抱いていく。
鍵盤のhi Fのところに指輪が乗ったピアノ。その上の無に私は口づけをした。
折角の初投稿作品を消してしまいました。もう一度載せます。