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後編

 男は電報員のカムフラージュで着ていたコートを脱いだ。中にはアメリカの陸軍が着ているマルチカム柄の迷彩服を着ていた。右手にはドアチェーンを切ったボトルクリップ、左手に赤い薔薇の花束を持って立っている。目は充血して赤く異様な光を帯びており容姿だけでも恐怖が襲ってくる。

「わたしがあなたに何をしたというの」

「亜紀、きみはぼくに恋をしてしまったから、ぼくはその愛に応えようとしているだけさ。きみはぼくの愛を受け止めてくれるだけでいい。さあ、この花を受取ってくれないか」

 わたしは首を何度も左右に振り部屋の奥へと後ずさりした。男も同じ歩調で部屋の中に入ってくる。

「亜紀、なぜ逃げる。そうか、ぼくをじらして楽しんでいるのだね」

 わたしは振向くと急いでスマホを取り「達也さん!」と叫んだ。男はスマホを取り上げて壁に叩きつけた。

「亜紀!達也って誰だ。ぼく以外に男がいたのか。悪い子だ。お仕置きをしなければならない」

 男はボトルクリップを床に放り投げた。ガツンと鈍い大きな音がするとわたしの身体もビクッと反応して、金縛りに合ったように動けなくなった。

 男はポケットからサバイバルナイフを取り出した。

「やめて!やめて下さい」

 わたしに向かって、男はスーッと素早くナイフを下から上へと振り払った。わたしはよけようとしてバランスを崩し、床に倒れこんだ。ナイフの先がわたしの腕に触れ、一本の赤い筋が腕に付いている。痛みはない。すぐに起き上がろうとしたが、男が右手に持っているサバイバルナイフを振り上げている。

「やめて!」

 わたしは目を瞑り、両手で顔をかばった。

「痛っ、うぁー」

 突然男が目を抑え、サバイバルナイフを落とした。

 雄猫がわたしの前に立ちはだかり、シャアーと男を威嚇している。サバイバルナイフを取ろうとした男の顔を再度引っ掻いた。

「この野郎!」

 男は猫を払いのけ、目の前にあるボトルクリップを手にしようとした。

 わたしは咄嗟に雄猫を抱きかかえ外に出ようとしたが男はわたしの足首を掴んだ。それを見た雄猫はわたしから離れ、男の手を引っ掻いた。

「痛っ」

 わたしは自由になり、よろけるように外へ飛び出した。

「助けて!助けて下さい」

 アパート中に聞こえるように大きな声で叫んだ。

 すると制服を着た二人の警察官がマンションの入り口から現れ、続いてパトカーが到着した。

「森村亜紀さんですね」

 ひとりの警察官が尋ねた。

「はい」

「お怪我は」

「わたしはほんのかすり傷ですから大丈夫です。まだ犯人が中にいます。それよりわたしを助けてくれた猫が部屋にまだいますので早く助けてあげて下さい」

 警察官数人が部屋の中に突入した。

 わたしは部屋で何が起きているのかわからなかったが、ただ雄猫のことだけが心配だった。怒鳴り声と何かが倒れるような音がして、「確保」と言う声が聞こえた。

 暫くするとあの男が警察官に連れられて部屋から出てきた。腕には手錠が掛けられている。顔は真っ赤に血に染まっており、腕のあたりも赤い傷が見える。男はわたしを睨んでいるが、わたしは男と視線を合わさないように目を逸らし、部屋に向かった。そのとき、わたしと話した警察官が猫を抱いて部屋から出てきた。

「あなたの猫ですか」

「はい、怪我は?」

「少し興奮していますが怪我はありません。犯人と格闘したみたいですが、あなたを立派に守ってくれたようですね。はい、お返しします」

 警察官は抱いていた雄猫を大事そうにわたしに渡してくれた。わたしは雄猫をしっかりと受け止めて抱きしめた。

「ありがとう。あなたのお陰よ。わたしが無事にいられたのは」

 わたしの目には涙が溢れ出て雫となって頬を濡らした。

 涙が止まらなかった。

 雄猫はわたしの顔を見上げて、ぺろりとピンク色の舌を出してわたしの顔を舐めてくれた。ようやく落ち着きを取り戻したとき、暫く様子を見ていた警察官がわたしに気遣いながら言った。

「大丈夫ですか。腕に少し傷があるようですので医師の手当てを受けて下さい。被害届を出されますね」

「はい」

「ストーカー行為に住居侵入の現行犯、傷害罪も適用されますのですぐには出て来られないでしょう。今現場検証を行なっていますが、後ほど事情をお伺いしますからご協力をお願い致します」

「はい、それはもちろんですが、あの、どなたか警察に通報してくれたのでしょうか」

「はい、鏑木達也さんと言う方から一報が入り駆けつけました」

「そうですか」

「それではわたしはこれで失礼します。それから外には出ないで下さい。スマホを持った野次馬が待ち構えていますから」

 警察官は軽く会釈をしてその場から離れた。大勢の近隣住民が入り口付近に集まり、何事が起こったのかと群がっているのだろう。

 黄色い規制テープの張られた向こう側にある自分の部屋を見た。まだ警察官が残っているらしく部屋には入れなかった。

「達也さんにお礼を言わなければ」

 わたしはその場にしゃがんで雄猫の頭を撫でながら小さく呟いた。今は連絡しようにもスマホが壊され連絡が取れない。早く会ってお礼を言いたかった。

 するといつのまにかユキが近寄ってきた。

「ユキ!」

 わたしは雄猫を足元に下ろすと、「ユキ、ありがとう。あなたのボーイフレンドはわたしを、身体を張って守ってくれたのよ」

 ユキは雄猫に向かって 「にゃあにゃあ」と優しそうに鳴き、身体を甘えるようにして摺り寄せる。雄猫もそれに応えて「にゃあ」と得意げな顔をして応えた。

 ユキはボーイフレンドをきっと見直したに違いない。

「亜紀さん、亜紀さんですか」と、わたしを呼ぶ声がした。

 わたしは立ち上がり、声を掛けてくれた若い男性を見た。

「達也さんですか。もしかしてペットショップでお会いした方ですか」

「ええ、実はぼくもあなたを見て驚いてしまいました。まさか、あなただったとは」

「ありがとうございました。あなたのお陰でこうして無事にいられました」

 わたしは深々と頭を下げた。

「いえ、ぼくも必死でした。とにかく状況が逼迫していたので、すぐに警察に連絡しましたが、間に合って良かった。怖かったでしょう」

「ええ」

 わたしは安心したせいか、また涙が出てきた。

「どうぞ」

 彼はズボンの後ろポケットから真新しいハンカチを差し出してくれた。

「ありがとうございます」

 わたしはそのハンカチを受け取り、目に軽く当てた。

「マンションの中によく入れてもらえましたね」

「おまわりさんに、”通報したのはわたしです”と言ったら、事情聴取が必要と思ったのか、あっさり入れてくれました」

「この場所、よくおわかりになりましたね」

「住所を事前に聞いておいて良かった。ぼくもこの近くに住んでいたので土地勘があったし、ユキがぼくを先導してくました。猫は意外とスピードがあるのですね。ただ猫だから狭い路地や道じゃない所に案内されちゃいましたけれど、ユキがぼくの所に来てくれなかったら危なかったかもしれません」

「ええ、ユキとユキのボーイフレンドは、そして達也さんもわたしの命の恩人です。本当にありがとうございました」

 わたしは再び頭を深々と下げ、そしてしゃがんでユキと雄猫に向かって「ありがとう」とお礼を言った。ユキと雄猫は、同時に「にゃあ」と言って応えた。

 部屋にいた警察官が出てきて「もう部屋に入ってもいいですよ。今日はもう遅いから詳しいことは明日連絡します。あーそうか、携帯壊されていたんだ。名刺を渡しておきます。明日ここに連絡下さい」

 警察官は名刺を渡すと外に出て行った。

 通路には黄色いテープは張られたままで、わたしはどうしていいか戸惑ってしまった。

「意外と淡白ですね。もう少し言い様があると思うけれど」

「ええ」

 わたしは今何をしていいのかがわからず、異次元空間にいるかのように足が地に着かずボオッとした感じになっていた。

「亜紀さん」と言う声に現実の世界に引き戻った。

「亜紀さん、大丈夫ですか」

「ええ、ちょっと、これから何をしようかと考えてしまいました」

「もし良かったら、初めて会って誤解されてしまうかもしれませんが、ぼくの家に来ませんか。嫌なことのあった部屋にはいられないでしょう」

「いえ、そんなご迷惑は掛けられません。今日はホテルに泊まります」

「この時間ではホテルは無理です」

「でも・・・」

「ボディガードにユキとボーイフレンドも連れて行きますので、ぼくは手を出せません」

「そんな、わたしはそんな心配はしていません。ただご迷惑ではないかと。それに奥様に対して申し訳ないです」

「残念ながら、今は、ぼくは独り身です」

 彼の表情に一瞬陰りが見えたのは気のせいだろうか。それに「今は」と言った言葉が気になったが、彼の言葉に甘えることにした。

「それでは一晩お世話になります。部屋に戻って支度をしてきますので暫く待っていて頂けますか」

「ひとりで部屋に入れますか」

「はい、大丈夫です」

「わかりました。この子達とここで待っています」

 わたしは黄色い規制テープを潜り、部屋のドアを開けた。さぞかし酷い状態になっているだろうと最悪の想像をして部屋に入った。

 台所は酷い有様ではあるが想像していたよりはましだった。椅子は倒れて足の部分が壊れていた。テーブルはかなりずれてはいたが損傷はなく、床の上にはボトルクリップもサバイバルナイフもなかった。だけが残っている。床には家族と一緒に写っているフォトスタンドが落ちていて、床に投げつけられたボトルクリップの跡と僅かな血痕が床に付着していた。あの男が雄猫に襲われて出血したときのものだろう。

 テーブルをもとの位置に戻し、床に落とされたフォトスタンドを拾ってテーブルの上に置き、床の血をウエットティッシュで拭いた。クローゼットから旅行鞄を出して着替えと化粧ポーチを入れ、洗面所に移動しドアを閉めた。鏡に映る自分の顔を見ると髪の毛は乱れ、泣いたせいもあり目元が腫れている。着ている服と下着を脱いで素裸になり、濡らしたタオルにティーツリーのスプレーをかけて身体を拭き、真新しい下着を身に着けて、白いTシャツにベージュのテーバードパンツを穿いてカジュアルな服装に着替えた。

 あまり待たせてもいけないと思い、急いで化粧水と乳液を塗り、スポンジで下地クリームを伸ばし薄くファンデーションを塗った。髪をブラッシングして整髪スプレーをサッとかけて、色付きのリップクリームを唇に塗った。

 洗面所から出ると引き出しから鍵と財布を取り出して旅行鞄に入れた。電気を消すと部屋は闇に包まれた。こんな状態の静寂の闇の中で、この部屋で寝ることはできないと思った。わたしは光を求めるかのように玄関の扉をゆっくりと開けて外に出た。

             

 暫くして出てきた彼女の容姿を見て、ぼくは有希が現れたと思った。それほど彼女は有希に似ていた。

「お待たせしてごめんなさい」

 彼女の手に握られている旅行鞄の持ち手を掴んだ。

「持ちます」

「いえ、大丈夫です」

「亜紀さんはユキをお願いします」

 鞄を受け取ると、雄猫を右手で抱え「それじゃあ、行きましょう」と先に歩き出した。

「すいません」

 ぼくの心はかなり動揺しており、その動揺した表情を彼女には悟られたくはなかった。

 ぼくは今日のヒーローである雄猫を、彼女はユキを抱き、暫くは前後で青梅街道沿いを歩いた。交通量の多い幹線道路もこの時間帯では行き交う車は疎らだった。

 お互い無言で歩いた。あのような事件が起こった後で、何を話せばよいか迷っていた。

「あの、本当にお邪魔してよろしいのでしょうか」

 彼女が不安そうに声を掛けてきた。ぼくは立ち止まり、後ろを振り返った。

 迫りくる車のヘッドライトがスポットライトのように彼女を照らした。そこに浮かび上がった姿を見て、一瞬そこに有希がいるような錯覚を起こしてしまった。

「遠慮しないで下さい。あっ、そうか、ずっと黙ってしまって、ちょっと気まずい雰囲気をつくってしまっていたようですね。ごめんなさい。実はいろいろと話したいことがあったはずなのに、どう話しを切り出そうか迷ってしまって」

 こんなときに雄猫はぼくの頬を舐めた。ぼくは雄猫を優しく睨むと、雄猫はプィと顔を背けた。

 その光景が彼女にとっては面白かったと見える。

「ふふ」と笑みを浮かべ、抱かれているユキも小さく「にゃあ」と鳴いた。

「達也さんは優しい方ですね。あんなことがあったから、その話しは避けなければならないし、わたしの個人的なことも聞けないし、何を話そうかと迷っていらっしゃったのではありませんか」

 亜紀さんの茶目っ気ある表情でぼくを見た。

「えっ」

 その表情を見て、その悪戯っぽく人の心を読んで楽しむ様子は有希そのものだった。

(やっぱり、有希じゃないだろうか)

 ぼくは戸惑いを隠せなかった。そんなぼくの表情を見て「図星ですね」と彼女は言った。どうやら誤解してくれたようだ。

「それでは、わたしからいろいろお話しをするようにします」

 それからは矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。最初は初対面なら誰しもが聞いてくるありきたりな質問で、職業や誕生日、出身地や学生時代のクラブ活動や趣味などだった。防戦一方のぼくとしては、逆に彼女のことを聞きたかったが、今は彼女自身のプライベートを聞くタイミングではないと思い、質問することを思い留まった。

 お互いが話し合うようになってからは時間の経過が早く、いつの間にかぼくの家の前に着いた。急いで出て来たので部屋の中は照明が付いており、玄関の扉は施錠されていなかった。

「どなたかいらっしゃるんですか」

「いえ、慌てて出たので電気は点けっ放しで、施錠も忘れました」

 玄関の扉を開けて、彼女を家の中に入れた。

「少しだけここで待って頂けますか。部屋の中を少し片付けますので」

「はい」

 ぼくは雄猫を抱いたまま部屋に入り、ソファに雄猫を下ろすと部屋にある有希とぼくが写っているフォトスタンドを閉じた。以前はふたりが写っているたくさんの写真が飾ってはあったが、お気に入りの写真だけを残して他の写真はしまい込んでいた。

 テーブルの上に置かれている雑誌や新聞などを専用ラックに入れ、床に置いてある数枚のCDを棚の上に積んだ。今から掃除をするわけにもいかないので、部屋を見渡し自分なりに妥協をして、玄関で待っている彼女に声を掛けた。

「散らかっていますけど、どうぞおあがり下さい」

             

 玄関で待っている間、わたしはユキを抱きながら部屋の装飾や様子を観察していた。玄関から部屋に入った瞬間、玄関に飾られた絵画やインテリアを見ても男のひとり暮らしではないことがわかる。

 わたしが 「奥様は?」と聞いたとき「今は、ぼくは独り身です」と言った言葉はどういう意味なのだろうか。奥さんが留守なら泊まれないし、何かの事情でいないとしても、女性の存在を感じる家に泊まることには戸惑いを覚える。このまま黙って帰ろうかと一歩後ずさりしたときに彼の声が聞こえた。

「おあがり下さい」の彼の言葉に頷き、抱いていたユキを床に置くとわたしはパンプスを脱ぎ、しゃがんで靴を揃えたとき、手が少し震えていた。それは見えない女性の聖域に踏み込んだと意識をしたからかもしれない。立ち上がると小さな声で「お邪魔します」と言い、部屋の中に入った。

 部屋の中の様子を一目見て、やはりここは女住人の聖域なのだと確信した。やはり居心地の良い場所ではなかった。まるで新婚家庭のような雰囲気が漂い、キッチンの調理品やリビングの調度品や電化製品にインテリアを見ても明らかに女性の存在が感じられる。ただ、この部屋の雰囲気はどこかで見たことがあるようで、初めて訪れた部屋なのに妙に懐かしさが感じられた。

(どうしてなのかしら)

 もう一度部屋を見渡した。

「さあ、どうぞおかけ下さい」

 彼に声を掛けられ、リビングのソファを勧められた。わたしは鞄を床に置いてモスグリーンの皮製ソファに浅く腰掛けた。

「素敵なお部屋ですね」とわたしが言うと「思っていることを当てましょうか」と言葉が返ってきた。

「えっ」

「奥さんがいると思っているでしょう」

「はい」

 わたしは素直に答えた。

「そうですよね。どう見ても男ひとりが暮らす部屋ではないですから」

「やはりいらっしゃるのですか」

「先程言いましたけれど、いました。でも今はいません。もう会えない所へ逝ってしまいました」

「ごめんなさい」

「亜紀さんが謝ることはないです」

「いえ、奥様のことを想い出させてしまいました」

「この部屋にいる限り毎日想い出します。でも、何もかも忘れて次に踏み出さなければならないとも思っています」

 僅かな沈黙が続いた。

「すいません。ちょっとしんみりとさせてしまいました。この話しはこれくらいにして、もう疲れたでしょう。隣が寝室ですからベッドを使って下さい。ぼくはこのソファで寝ますから」

「いえ、わたしがこのソファを使わせて頂きます」

「あなたは今日とても疲れていますから、ちゃんと寝た方がいいです。そのためにぼくの家に来てもらったのですから。それから浴室はその部屋から行けますから、シャワーを遠慮せずに使って下さい。使い方はシャワーの栓をひねるだけですからすぐに分かると思います。ゆっくりと休んでください」

 わたしはソファから立ち上がり、「それでは遠慮せず、ベッドを使わせて頂きます。おやすみなさい」と頭を下げた。

「おやすみなさい」と彼も頭を下げた。

 わたしはふとユキと雄猫の存在を忘れていたことに気付き彼らを目で探した。ユキと雄猫も疲れたのだろう、二匹仲良く抱き合うようにして寝ていた。その可愛らしい光景を見て思わず笑みがこぼれた。

 彼も二匹の猫を見て笑っている。お互いに目が合うと「おやすみなさい」と再び挨拶を交わし、わたしは静かに寝室に入り扉を閉めた。

(達也さんの奥さんとはどんな方だったんだろう)

 気にはなったが、それよりユキ達の寝顔を見て身体の緊張が解けたのか、急に睡魔が襲ってきた。

 ようやく長い一日が終わろうとしている。


 スマホの着信のバイブレーションが机の引出しに振動を伝えている。引出しを開けてスマホの画面を見るとママからだった。

「はい、亜紀です」

「亜紀ちゃん、ママよ」

「ママ、ちょっと待って、今、席を離れるから」

 わたしは職場から退席して、廊下に出ると再びスマホを耳にした。

「もしもし」

「亜紀ちゃん、お仕事中に電話してごめんね」

「大丈夫よ。わたしの会社はそんなにうるさくはないから。それよりどうしたの。日本にいるの」

「そう、今、六本木にいるの。あなたはちっとも連絡くれないから心配しているのよ。日本での生活はだいぶ慣れた。困っていることはない。ちゃんと食事は取っている」

「ママ、そんな一気にいろいろ聞かれても答えられないわよ」

「ごめんなさい。久し振りにあなたの声を聞いたので、ついいろいろと聞きたくなって。元気にしているのね」

「ええ、元気よ」

 声からは元気そうなママの様子が伝わり、わたしは安心した。

 ママは自分の仕事をわたしに継いでもらいたいと思っていたらしい。わたしが継ぐ意思のないことを知り、日本で就職することを聞いてかなりショックを受けていた。わたしの日本行きは、目的のひとつに有希との約束を果たすこともある。そのことを知っているママからはかなりの抵抗があったが、パパが賛成してくれた。

「ママ、亜紀の意思をわたし達が妨げてはいけないよ」

 パパの一言で、ママは渋々であったが承知してくれた。

「ところで、電話の用件は何?」

「三日前に日本に来て、ちょうど今仕事が終わって時間が空いたの。これで日本に来ることはないでしょうから、あなたに食事を付き合ってもらおうと思って。お願い、一緒に食べよう」

「いいわよ。でもどうして、もう日本に来ないの」

「詳しいことは後で話すけれど、もう仕事をセーブしてパパとふたりでゆっくりとシアトルで過ごそうかなと思って」

「そう、それがいいわ。パパもその方が喜ぶわよ」

「あなたは今日何時に会社を出られるの」

「場所によるけれど会社は5時半には出られる。何処に行けばいい」

「亜紀ちゃん、食べたいものある」

「ママは最後の日本だから、日本食が食べたいでしょう」

「いいえ、昨日の接待で十分に日本食をご馳走になったから、もう今日はいいわ。ゆっくり静かなところで食事したいから、あなたの帰りも考えて新宿にしましょう。お店は知り合いに聞いて決めるから、予約が取れたらまた後で連絡するわ。6時半にお店で待ち合わせしましょう」

「わかったわ。じゃあ後で。連絡待っている」


 わたしは6時少し前に会社を出ると、銀座線から赤坂見附で丸の内線に乗り換えて西新宿駅で下りた。駅から降りて五分程で待ち合わせのお店に着いた。

 時計を見ると18時25分、丁度良い時間だった。

 ホテルの中にあるフレンチレストランだけあって、外観からも高級感が感じられる。ママが予約をした店をインターネットで調べたら、ミシュランガイド東京の二つ星レストランを十年連続取得していると書いてあった。もう少しフォーマルな服装が良かったかなと一瞬思ったけれど、相手が彼氏ではなくママだし、日本の高級フレンチレストランは男性にはジャケット着用を条件とするくらいで、女性にはあまりうるさくはない。レストランの中へ入るとフロントコンシェルジュから予約の有無を聞かれ、ママの名前を告げると、別のスタッフが席まで案内をしてくれた。

 一番奥の席にママが見える。わたしに気付いたママは、軽く右手を上げて手を振った。

 わたしが席に座ると「亜紀ちゃん、久し振り」と言った。

「うん、久し振り」

「どう日本の生活は慣れた」

「やっと落ち着いたかな」

 ママは一旦話しを中断してギャルソンに合図を送った。

「ここ高そうだね」

「気にしないで。あなたの就職祝いと栄養を取らせたいからよ。ここの料理の素材は、野菜や果実をベースにしたソースで、日本の四季に合わせて一品一品が絵画みたいに綺麗なのよ」

「それは楽しみ。今日はたくさん食べようと思ってお昼を抜いちゃった」

「だめよ、ちゃんと朝昼夕の三食は食べなさい」

「はーい」

 ママは今日のお奨めのコースを注文し、最初はグラスで白ワインを頼んだ。久し振りのママとの会話は楽しかった。料理も色彩豊かな料理が運ばれてきて、そのたびにわたしは「まあ、綺麗」とか「可愛い」とかを連発した。

「ところで亜紀ちゃん、有希の所には行ったの」

「うん、お墓参りはしてきた」

「そう」

 ママの表情が少し曇った。

「シアトルのレイク・ビューを思わせるとても良い所ね。あの場所なら有希も喜んでいると思う。あの場所はママが探したのね」

「あの場所は、有希がもう決めていたの」

「えっ、いつから」

 わたしはママがあの場所を見つけたのだと思っていた。

「あの子が発症して、病院を変えてからすぐに有希が言ったの。

 ”ママ、わたしが死んだらここに埋葬して”と有希はパソコンであの場所の画像をわたしに見せたの。わたしは有希を叱ったら、あの子”やっぱり怒られちゃった“と言って笑っていた」

 ママはそのときのことを想い出したらしい、鞄から水色のハンカチを取り出して、暫くの間目に当てた。わたしは何も声を掛けられずにじっとママを見つめていた。ママはようやく落ち着きを取り戻し、「ごめんね。有希を想い出しちゃった」

「ママ、大丈夫」

「ええ、ごめんなさい。もう大丈夫よ。実は昨日有希に会ってきたの。有希にたくさんお話をしてきた。ただ、ママは達也さんには悪いことをしたと思っている」

「えっ、達也さん?」

 わたしは思わず驚いた表情をしてしまった。

「亜紀、達也さんを知っているの」

「いえ、たぶん違う人。同じ名前だったので、ちょっと驚いてしまって。有希のご主人は達也さんと言うの」

 いきなり達也という名前がママの口から出てきたので、わたしは動揺してしまい、いやまさかと思いながら複雑な想いが入り混じり、落ち着かない気持ちになってしまった。

「亜紀、今あなた、達也さんと言う人とお付き合いしているの」

 ママは不安そうな表情をしてわたしに聞いてきた。

「うーん、お付き合いまではいかないけれど、いろいろと助けてもらって、時々アドバイスしてもらっている程度かな」

 ママには、ストーカーの話しはできない。聞いたら心配し、すぐにアメリカに強制送還されてしまう。でもママは何かを感じ取っていた。

「そう。亜紀がお付き合いする人だから間違いはないでしょう。わたしはあなたをいつも信じているから」

 ママは「いつも」を強調した。

「いつも信頼してくれてありがとうございます」

 わたしも「いつも」を強調してオーバーアクションで丁寧にお辞儀をした。それからすぐに話しを戻した。

「それで、ママは達也さんにどんな酷いことをしたの」

 亜紀にはぐらかされたとは思いながらも話しを続けた。

「有希にどうしてもとお願いされて、わたしは達也さんにとっては酷い母親を演じてしまった。有希を達也さんから遠ざけて、お葬式の日も場所も知らせなかった。そのことが今悔やまれて」

「どうして有希は、その達也さんを遠ざけたの」

「有希は毎日鏡を見て、”ダイエットは必要ないね”と、わたしに言っていた。忘れもしないあの日、わたしが病棟に行くと、有希がベッドに正座していて窓から空を眺めていて、“だめじゃない、身体を冷やすから寝てなさい”と言うと、有希は振向いて“ママお願いがあるの”と言ったの」

 ママはグラスに継がれたお冷を手に取り、喉を潤してから再び話しを続けた。

「そのお願いとは、達也さんには内緒で病院を変えてほしいことと、最後を迎えようとしても達也さんを決して呼ばないこと、そしてお葬式にも絶対呼ばないことだったの。

“こんなに痩せていく自分をもう見せたくはないし、綺麗な可愛かった有希を記憶に留めていてほしいから、そして死んだ自分を見ると、恐らく彼は、わたしの死を自分の死と受け止めてしまうから”と言ってわたしに抱きついてきた。

 わたしは、”本当にそれでいいの”と何度も有希に確かめたけれど、”ママ、お願い。ママ、お願い”と、有希は泣きながら何度も言って・・・あの子は自分がそう長くはないと悟っていたの」

「そうだったの」

 わたしの目からも涙が溢れた。有希がどんな気持ちだったのかが、手に取るようにわかった。

「ごめんね、今日はあなたの就職のお祝いなのに。しんみりとさせちゃったわね」

「久し振りに有希のことを想い出せたし、それに有希のご主人に会う前に聞いておいて良かった」

「やっぱり会うの、達也さんに」

「うん、有希との約束だから。ママは、有希とわたしとの約束については、わたしが話したから知っているでしょう。ママに有希のご主人のことをいつ聞こうかとタイミングを伺っていたの」

「ええ」

 ママは、それ以上は何も言わなかった。

 ママは脇に置いてある鞄から紺色の名刺入れを取り出して、その中から一枚の名刺をわたしの前に置いた。その名刺は英文で書かれたママの名刺だった。

「どうしたの、これはママの名刺でしょう」

「裏を見て頂戴」

 わたしは名刺を手に取ると裏返しにした。そこには手書きで東京都の住所が書かれていた。

「この住所は・・・」

「そう、達也さんが住んでいる住所よ」

「杉並区、わたしの家の近くなのね」

 わたしは「達也」と言う名前と書かれている住所から、何か胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「わたしは今でもあなたが達也さんに会わない方がいいと思っている。有希の強い想いが働いているように感じているからよ。有希はもういないのだし、有希に義理立てをする必要はないのよ。わたしはあなたの人生はあなた自身が決めてほしいと思っている。会う会わないはあなたが判断することで、わたしはもう何も言わない。でも何度も言うようだけれど、亜紀ちゃん、あなたは有希に縛られないで、あなたの意思でこれからは決めて頂戴。あなたが決めたことには、ママは何も言わない」

「うん、わかっている。ママ、大丈夫よ。心配しないで」

 食事を終えたわたしは、ママとレストランの前で別れた。タクシーに乗るようママに言われたけれど、ひとりで歩きたい気分だったので断った。

 ママは寂しそうな顔をして、いきなりわたしを抱いた。

「亜紀、元気でね。何かあったらいつでも帰ってきていいのよ」

「うん、ママありがとう」

 ママはわたしから離れると、新宿駅方面に向かうタクシーに手を上げて合図を送った。黒塗りのタクシーがウインカーを点滅させながらゆっくりと停止した。ママはドアが開くと後部座席に乗り込み、リアドアガラスを下ろした。

「亜紀ちゃん、じゃあ気をつけて帰るのよ」

「ママも気をつけて帰ってね。パパにもよろしく。それから・・・」

「どうしたの」

「うん・・・なんでもない」

 言おうとしたことを飲み込んだ。

「じゃあね」

 ママが手を振ると同時にタクシーは走り出した。ママはいつまでもわたしに向かって手を振り、わたしもタクシーが角を曲がり見えなくなるまで手を振った。

 新宿駅に向かって歩きながら、ママにもらった名刺を取り出し、裏に書かれていた住所を見た。ママは気が動転していたのか、住所だけで肝心の名前を書くのを忘れていた。

(町名も同じだったような気がする)

 有希の夫であった達也とは同一人物ではない、と否定しながらも多くの共通点を見つけている自分に困惑した。

 ママに言いかけた言葉は、「達也さんの苗字を教えて」だった。

 でも聞けなかった。

 新宿駅までの距離は短いはずなのに足取りは重く、遠い道のりのように思えた。

             

 あの日を境にして、ぼくと彼女、いや亜紀は身近な存在にはなっていったが、それ以上に発展することはなかった。お互いの家を行き来することもなかった。ぼくは有希のことを殆ど話さずにいるし、亜紀も何かぼくには言えないことがあるみたいで、ふたりの間に見えない壁の存在を感じていた。

 それはコミュニケーションの取り方でもわかる。

 電話を通してのコミュニケーションはまだ少なかった。亜紀の声が聞きたいときもあるが、不思議なものでラインは抵抗がないのに、電話を掛けようとすると緊張し、何を話そうかと考えてしまい、結局はラインを使ってしまう。だからぼくと亜紀とのコミュニケーションツールは、今のところはラインの交換が多くなり、当然ながらユキを介しての手紙は少なくなった。

 ぼくと亜紀との関係はお互いの親密さが増した程度で、深い関わりを持つには何かのきっかけと時間が必要だった。

 ユキと雄猫は、ぼくと亜紀の家を今でも行き来している。でも二匹は飼い猫にはなる気はないようだ。いくら部屋に閉じ込めても必ず出て行こうとする。そんなにも外の世界がいいのだろうか。二匹の猫を飼い猫にすることはあきらめた。

 訪れてくるユキのポケットに、時々亜紀からの短い手紙が入っている。ラインやメールは確かに確実で早いコミュニケーションの媒体ではあるが、届くかどうかわからないアナログの媒体手段も、何か味があってぼくは好きだ。亜紀もそう思うから、ラインではなく時々ユキを使って手紙を入れてくるのだろう。

 雄猫にも名前を付けてあげることにした。亜紀の妹さんが可愛がっていた猫の名前を付けることにして、名前は「レオン」と命名した。本人も気に入ったようで、名前を呼ぶと尻尾を左右に振る。いくら野良猫でもレオンにも首輪と名札プレートだけは付けた。名札の住所は、ユキがぼくの連絡先なので亜紀の連絡先にした。

 有希への想いが薄らいだわけではないが、最近では雨が降ってもカーペンターズの曲を聴かなくなっていた。それだけ感傷に浸る時間が少なくなったのかもしれない。その理由は亜紀の存在であり、二匹の猫であることには違いない。自分の中で何かが起き始めている。

 何かが起きる予感を抱いた。

 その予感は有希の母親からの電話で現実のものとなった。

 ぼくのスマホには電話番号は登録されてはいるが、自分からは決して掛けない番号がある。着信音が鳴り、スマホの画面から相手の氏名が表示された。

 表示された名前は「榊原裕子」、有希の母親からだった。その名前を見た瞬間に背筋に冷たいものが走った。

「娘はあなたに殺されたも同然ね」

 有希の母親がぼくに言った言葉だった。

 その言葉を想い出すたびに、未だに有希にすまない気持ちと悔いがぼくの心に圧し掛かっている。

 母親はぼくのいない間に有希を転院させ、その病院を教えてもくれなかった。結局、有希の死にも葬式にも、母親はぼくの存在をすべて無視した。そのような有希の母親をぼくは今でも許すことはできないでいる。だから電話には出まいと思った。しかし既に縁を切っている人間からではあっても、有希の母親からのコールはやはり気になる。できれば会って有希の最後を聞きたいとも思った。

ぼくは画面を人差し指でスライドして耳にスマホを当てた。

「はい、鏑木ですが」

「達也さんね。ご無沙汰しています。有希の母の裕子です」

「はい」

「まさかわたしから電話があるとは思わなかったでしょう」

「はい、それでぼくに何の用でしょうか」

 ぼくは極めて冷静に、声の抑揚もなく応えた。有希の母親はぼくの対応に冷たさを感じ取っているだろう。

「あなたにしてみれば、わたしは酷い人間でしょう。でもわたしはあなたにどう思われても一向に構わなかった。それが有希との約束だったから」

(有希との約束?)

 有希の母親は話を続けた。

「でも、やはりあなたにはきちんとお話ししなければと思って電話をしました。わたしは今日の夜の便でアメリカに帰ります。もう日本には来ないでしょう。ですからすべてを達也さんにお話しします。もし達也さんが今でもわたしに会いたくないというお気持ちが強いのでしたら仕方がないですけれど、いかがかしら、お会いしてくださる」

 ぼくはすぐに返事はできなかった。

 暫く会話が途切れて、お互いの電話からは重たい雰囲気と周囲の雑音の音が伝わってくる。その沈黙をようやく破り、ぼくは言った。

「わかりました。お会いします。ぼくも有希のことで聞きたいことがあります。何処に行けばいいですか」

「できれば品川まで来て頂けるかしら」

「わかりました。何時に何処に行けばいいですか」

 場所と時間を確認し、スマホを切った。

 今日の母親の印象は、ぼくと最後に話した電話の感じとは全く違っていた。

(すべてを話すとは、何を、そして有希との約束とは?)

 スマホに表示されている時間を見た。

 有希の母親はサンフランシスコ行きの夕方7時50分の便で発つと言っていたので、羽田空港をつなぐ京急電鉄主要駅である品川の高級ホテルのカフェに、3時に待ち合わせることになった。荻窪の駅から品川までは一時間も掛からずに行けるが、あまり時間はなかった。ネクタイを締めてフォーマルな背広を着て行こうか、それともTシャツにジーパンで思い切りカジュアルで行こうか迷った。何れの服装も、有希の母親に対するぼくの精一杯の抵抗の表れだったが、結局は、素直に母親の話しを聞こうと思い、失礼な服装にならないようにベージュのチノパンにホリゾンタル襟のホワイトシャツを合わせネイビーのジャケットを着ていくことにした。

 ぼくは着替えを終えると、緊張した面持ちで家を出た。


 荻窪から中央線に乗り、新宿で山手線に乗り換え、品川駅を降りるとすぐに腕時計を見た。約束の時間まで30分あった。改札を出て高輪口に向かってエスカレーターで降りると、ハンバーガーチェーンのマクドナルドが見えた。久し振りに降りた品川は相変わらず人混みに溢れている。人が激しく行き交う横断歩道を足早に渡り、指定されたグランドプリンスホテル新高輪に向かった。緩やかな坂道を5分程歩いてホテルのラウンジに向かった。

 天井が高く空間が広いせいか開放感に溢れたラウンジの大きな窓からは緑に包まれた日本庭園が見える。秋の紅葉の季節になると、一斉に紅葉の赤色に染まる様子はさぞかし日本の風情を余すことなく表現してくれるに違いない。店内を見渡し、まだ母親が来ていないことを確認してから、係りの者にもうひとり後から来ることを告げて、入り口が見える位置の席を確保した。「おいしい紅茶のお店」の認定店らしいので、ダージリンを注文した。ただ、値段はぼくにとってはとても高かった。

 有希の母親とは有希が入院した病院で会ったきりで、有希の転院以後は一度だけ電話で話しをしただけだった。もともとはアメリカに住んでいる人だから会う機会は少ないが、仕事で年に何回か日本に来たとしても、ぼくに連絡することはしないし、ぼくからも会いたいとは思ったことはなかった。むしろ会わずに済むなら、それに越したことはなかった。しかし、なぜすべてを話そうと今になってぼくと会おうとするのか、まるで見当もつかず、ぼくは会う前からかなり緊張をしていた。

 約束の時間5分前に母親の姿が見えた。白いニットセーターにネイビー系のパンツとジャケットのファッションセンスが、いかにも働く女性をイメージさせている。

 ぼくはその場からすぐに立ち上がった。立ち上がったぼくを母親が見つけて、ゆっくりと近づいてきた。

「ご無沙汰しています」

 ぼくは丁重に挨拶をした。

「わたしこそご無沙汰してしまって。お元気そうね。座っていいかしら」

「気が付きませんで、どうぞお掛け下さい」

 すぐにウエイトレスが注文を聞きに来たので、母親はぼくが飲んでいるダージリンを注文した。

「会いたくない人に会おうと言われて、困惑したでしょう」

 母親はいの一番に、ぼくにとっては強烈な一言を放ってきた。

「はい、いえ別に」

「別にいいわよ。わたしはあなたにどんなに嫌われたって構わない。わたしは今日アメリカに立つので、その前にあなたにお会いして、本当のことをお伝えしておこうと思いました。あの時はわたしも精神が不安定な状態で、あなたという人間を冷静な目で見られなかった。今ならずいぶんと時間が経ったし、あなたとお話しをして、その上で有希の意思を伝えようと思ったの」

「おっしゃっている意味がわかりませんが」

 母親は穏やかな表情でぼくを見つめた。ぼくの前にいる母親は、以前の母親とは全くの別人だった。

「そうね、ごめんなさい」

 母親はじっとぼくを見つめ、溜息をつきながら下を向いた。

「わたしのせいなの」

「えっ、何が、ですか」

「あの子の病気はあなたのせいではなく、わたしのせいなの」

「それはどういうことですか」

「まだ有希を生む前の頃、わたしはアメリカで覚醒剤を常用していた暴漢に襲われたことがあったの。二十代の若者がナイフを振り回し、近くにいた子どもを刺そうとした。わたしは無我夢中でその子どもを助けようとして暴漢の前に立ちはだかったの。まあ、ずいぶんと無茶をしたものとだと今は思えるけれど、そのときは夢中だった。当然よね、わたしはナイフで刺されて、病院で緊急手術をして輸血を受けた」

 ぼくはただ母親の話しを黙って聞いていた。

「その輸血が原因で、わたしのお腹にいた有希に感染してしまったの。そのときはわからなかったけれど、有希が二歳の頃、有希が急に発熱して病院で検査をしたときに、有希はHTLV1と診断された」

「HTLV1?」

 ぼくは聞き返した。

「達也さん、あなたは心配しないでね。HTLV1はね、ヒトT細胞白血病ウイルスと言って、このウイルスは世界で三千万人以上の感染者がいると言われていて、殆どの人が生涯病気になることはないの。ただ、有希がキャリアであることには変わらない。発症の可能性が全くのゼロではなかった」

「それでは、そんなに少ない確率なのに有希は発症した」

 母親は頷いた。

「そう、輸血のせいで、わたしではなく、有希が感染して発症してしまった」

「そんな」

 有希が時折見せた暗い表情の理由が、今わかったような気がした。有希は知っていたのだ。自分が何れ発症することを。

「あの時はごめんなさい。あなたにとっては相当辛かったはず。わたしはあんなにあなたを責めて、ひどい仕打ちをしてしまった。わたしを恨んだでしょう」

「いえ・・・はい、正直言って恨みました」

「そうね、当たり前のことだわ」

「しかし今はもうすんだことですし、こうしてお会いできて真実を知ることができました」

「そう言って頂けると、少しは気持ちが軽くなります。ありがとう」

 母親は丁寧に頭を下げた。

「それからもうひとつ教えて頂けませんか」

「ええ、あなたが聞きたいことはわかります。なぜ、あの時有希からあなたを遠ざけてしまったのかでしょう」

「はい、今日お会いしてそれだけはお聞きしたいと思っていました。ぼくは有希の最後を看取れなかったことを今でも悔いています。なぜあなたは、ぼくの知らない間に病院を変えたり、死んだことや葬式の日さえも教えたりしてくれなかったのですか」

 ぼくは母親を責めるように少し強い口調になっていた。

「そのことは昨日までは、あなたには言わずに、ずっとわたしの中に閉まっておこうと思っていました。けれどあなたのために、あなただけではなく、いえ、それはいいわ」

 一旦話しを切り、それからまた話しを続けた。

「実は有希の希望だったの」

「そんな、それはなぜですか」

「有希はあなたのことがとても好きでした。有希はとても若くて、わたしから見ても可愛い娘だと思います。達也さんもそう思うでしょう」

 ぼくは頷いた。

「達也さんはわからなかったと思いますけれど、有希は入院してから毎日鏡を見ていました。溜息をつきながら、”この顔はわたしじゃない。なんか毎日変な顔になっていく”と言っていました。わたしは ”有希は変わらず可愛いわよ ”と言ってあげたけれど、やはり体重は減って健康そうな表情が次第に失われていくのがわたしでもわかりました。有希は自分が長くないことを知っていました。

 愛する人が自分を想い出すときには、一番美しいときを想い出してほしいと願うものです。有希もそうでした。だから日々変わっていく自分をもうこれ以上見てほしくないと思ったのです。だから会えない様にしてほしいと有希に言われ、あなたには内緒でわたしの知人に頼んで病院を移しました」

「そうだったのですか。でも、せめて葬式には出て最後に見送りたかったです」

「そのことも有希から言われました。達也さんは、有希の最後を見たら自分に責任を感じてしまい、もう一生有希の想い出を抱いて生きていくかもしれない。有希はそうなることを望んではいませんでした。

 お互いに好きな者同士が一緒に暮らしていた程度で、片方がいなくなればまた新しい人と人生を歩んでいけばいいのだからと言って、死を受け入れるのではなく、恋愛にはよくある失恋と同じ・・・ごめんなさい」

 母親は有希が話している様子を想い出したのか、声を詰まらせた。

「そう、あなたは有希に失恋したの。あなたはまだ若いのだから、新しい人生を歩んでください。それが有希の願いでもあります」

 ぼくも知らぬうちに目が潤んで、声が出せないでいた。

「達也さん、あなたは優しいひとなのね。わたしはあなたとこうして会ってみて、あの娘があなたを好きになったのがわかる気がしました。わたしは今日アメリカに立ちますが、もう日本に来ることはないでしょう。だから、あなたにはきちんとお詫びをしておきたかった。

 本当にごめんなさい。そして今まで有希を大事にしてくれてありがとうございました」

有 希の母親は、深々とぼくにお辞儀をした。

「お母さん、やめて下さい。ぼくの方こそ有希にはたくさんの愛情をもらいました」

 ぼくも深々と頭を下げた。

「ありがとう、達也さん。はじめてお母さんと言ってくれたわね。うちは娘だけだから、何か息子から言われたみたいで新鮮でいいものね」

 母親は鞄から白い便箋を取り出して、テーブルの上に置いた。

「これはあなたに宛てた、有希の最後の手紙です。この手紙は、あなたが有希を忘れていたのなら渡さないつもりでいました。でも、あなたとこうしてお会いして、あなたはまだ有希を思い続けている。だから、渡すことが有希の意思ですからお渡しします。有希があなたに伝えたいことが書いてあると思います。何が書いてあるかはわかりませんが、あの子の母親ですから想像はできます。

 是非あの子の想いを受止めて下さい」

 ぼくは有希の手紙を手に取った。

 自然と涙が毀れた。

「お母さん、有希がようやく、ぼくのところに帰ってきました。ありがとうございます」  

 ぼくは頭を下げ、暫くは上げられなかった。

「最後にあなたに会えて良かったわ。ここでお別れしましょう」

 有希の母親は目頭を押さえながら、伝票を持って席を立ち、ふと立ち止まった。

「有希、あなた、ここにいたのね」

 その声はぼくには届いていなかった。


 有希の母親が去ると、急に脱力感が襲ってきた。ぼくは背もたれにもたれかかって目を閉じた。隣の席に人の気配を感じると目を開け、気を取り直そうと身体を起こしてカップに残った冷めたダージリンを一口飲んだ。

 テーブルの上に一旦置いた白い封筒を見つめ、有希からぼくに宛てた最後の手紙を今すぐに読みたい衝動に駆られてはいるが、読むのは怖かった。

 ようやく決心がついたので、封筒の糊を丁寧に剥がし、封筒から三つ折の便箋を取り出して開いた。懐かしい文字が目の前に現れた。間違いなく有希の筆跡であり、その文字を見ただけでぼくの胸が締めつけられるような痛みを感じた。

「達也へ

 達也、お元気ですか?ちゃんと食事取っているかな?落ち込んでいませんか?

 この手紙を達也が読んでいるとしたら、わたしはもうこの世にいなくなったのに、その事実を達也は、まだ受け入れていないということなのかな。

 この手紙はママに頼み、もし達也がわたしの死を受け入れてないようなら渡してほしいと頼みました。もうすっかりと新しい彼女もできて元気な様子なら、私としてはそうあってほしいと願っているのだけど、そのときには、この手紙は棄ててほしいとママにはお願いしていました。

 今この手紙を読んでいる達也には何から話そうかな。

 そう、まず達也には謝らなければなりません。私は達也との約束を破ってしまいました。私が達也より早く逝ってしまったことです。

 本当にごめんなさい。

 私は達也に「ぼくよりも早く天国に行かないこと」と言われたとき、もう既に覚悟はしていました。でもあの時、あの言葉は本当に嬉しかったです。だからずっと黙っていたこと、約束を破ってしまったこと、本当にごめんなさい。

 私だってもっと長く、おじいさんとおばあさんになるまで一緒にいたかったよ。でも、それができなかった。ママを恨んだこともあったけれど、それじゃママも可愛そう。だって命を救おうとしたのよ。そんなママを私は尊敬し、私もママがしたように危険を顧みずに他人を助ける、そうありたいと思っています。

 だから私は自分の運命として受け入れました。

 ただ、私は病気がわかったとき、達也とは何度も愛を交わしていたので達也に病気がうつることをとても心配しました。この病気は発症の可能性も低く、男性にはうつらないとは聞いてはいましたがとても気掛かりでした。人間ドックは随分と渋っていたけれど、検査結果に何の異常もないことを知り、私は本当に安心しました。」

 ここまで手紙を読み、あの時なぜ有希がぼくにしつこく人間ドックを受診させようとしたのかをようやく理解した。


「ねえ、達也」

「うん、何?」

 ぼくが雑誌「PEN」の新作時計の特集を読んでいるとき、有希は料理を作っていた。有希が突然、背中を向けながら声を掛けてきた。

「達也の会社の健康診断はいつなの」

「春に産業医とレントゲン車が来て全員受診することになっているけど」

「どんな検査をするの」

「レントゲン、これは肺だけで胃は行わない。それから尿と血液検査、あとは目の検査もあるか」

「血液検査はどんな検査をするの」

「肝機能かな」

「それだけ」

「うん、ガンマGTPに中性脂肪それとコレストロールか」

「今年は受けたの」

「いや、忙しくて受けられなかった」

「受けられなかった人はどうするの」

「自分で近くの病院に行って、少し自己負担して人間ドックを受けるかだな」

「ねえ、人間ドックをちゃんと受けてよ」

 有希は右手に持っていた包丁を持ちながら、振向きざまにぼくに言った。

「どうしたの、いきなり」

 ぼくは読みかけていた雑誌から目を離し、有希を見た。

「達也の身体を心配しているの。ちゃんと受けてね」

「うん、暇になったら受けるよ」

「ふーん、その気がないようね」

「うーん、別に悪いところもないし、病院は疲れるし・・・」

 有希がぼくの前に正座して、まるで教師が生徒に諭すように話しを始めた。その手には包丁が握られている。

「達也さん、よーく聞いてよ。わたしはあなたを心配して言っているのよ。わたし達はとても仲良しな夫婦でしょう。返事は?」

「はい、いい夫婦です」

「よろしい。わたし達は長生きして、お互いにおじいさんとおばあさんになっても仲良く幸せに暮らしたいとあなたは思いますか。はい、返事は?」

「はい」

「よろしい。では長生きするために必要な条件はなんですか。はい、どうぞ」

「健康です」

「よくわかっているようですね」

「じゃあ、ちゃんと人間ドックを受けてくれますか」

「はい、でもすぐにじゃなくても」

「ふーん、そんな態度を取るなら、受けるまで夜の生活は一切、わたし受け付けないからね」

 有希は有言実行タイプだから、夜に有希を求めても間違いなく拒絶されるだろう。

「わかった。明日病院に予約して、恐らく来月になると思うけど休みを取って病院に行くよ」

「よろしい。じゃあ、引き続きわたしは料理の任務につきます」

 有希は立ち上がろうとしたとき、ぼくは有希の両肩を軽く抑えた。

「ぼくも受けるに当たって条件がある」

「えっ、条件を付けるの。それってずるくない」

「いや、条件は今もこれからもひとつだけ」

「何?早く言って!料理が冷めちゃう」

「ぼくよりも早く天国に行ったりしないこと」

「・・・・」

 有希はいきなり目に一杯涙を溜めて、ぼくに抱きついてきた。

「うん、ありがとう」

 そのときは、有希の右手に握られている包丁が気になっていた。

 受診した人間ドックの結果は、ガンマGTPが少し高いくらいで何の異常もなかった。

 有希に結果を告げると、「良かったね!」と、ぼくが驚くほど喜んだ。あの喜びは、ぼくに感染していなかったことへの安堵の喜びだったのだろう。

 そのとき有希は、自分に起こることを覚悟していたのかもしれなかった。


 ぼくは再び手紙を読み続けた。

「達也にはたくさん謝らなければならないことばかりです。

 どうして病院を転院し、お葬式も達也に知らせなかったのか、恐らく達也はママを恨んでいると思います。すべて私がママにお願いしたことなので、ママを恨まないで下さい。

 ママと会ってこの手紙を渡されたのなら、ママから話しを聞いているとは思うけれど、私からもう一度話すね。

 達也、私は可愛い、綺麗な女性の部類に入ると思うの。私は自分では、うぬぼれじゃないけれど、結構可愛いと思っている(笑)。女性はいつも綺麗になりたい、綺麗でいたいという願望を持っています。特に好きな人の前では、その想いは強いものです。

 春に咲く桜、ソメイヨシノの美しさは儚さ故に愛され、桜というとあの満開時の美しさが印象に残ります。私も達也のなかに生きるとしたら、いつまでも可愛い有希のままでいたいと思ったからです。

 美しい桜もやがて葉桜になって葉だけになります。日々死を待つようになると、身体も痩せてきて、私自身が段々と葉桜に近づいていると実感するようになりました。

 だから達也の目の前から消えました。

 人間には寿命があり、私は短い寿命を受け入れなければなりませんでした。同じ世界に一緒に幸せに生きていたからこそ、消えゆく者とその死を見送る者とでは、死の受け入れ方は全然違います。

 私の死を見送ると、達也はきっと想い出や後悔でいつまでも閉ざされた世界に引き篭もってしまい、いつまでも出てこない気がします。私は達也にはそうなってほしくないから、ママにお願いをしました。

 死を永遠の別れではなく、失恋と同じ感覚で「バイバイ」と別れを軽く受け止めてもらいたいし、日本特有のお墓参りや日本の三回忌などは絶対にしてほしくないです。

 私が逝ってしまってから望むことは、達也の幸せです。

 達也がいつまでも私を想い、ぐずぐずして前に進まないのなら、私は天国に行くのを少し遅らせます。達也の住む世界に暫く留まり、達也に相応しい女性が現れる様にお膳立てをしちゃいます。

 達也、私のことは、(綺麗な有希と言うネエチャンがいたなあ)という程度で時々想い出してくれるだけでいいから、自分の幸せを考えてね。

 あと、私の大好きな達也のお父さんとお母さんにもごめんなさいと伝えてね。

 私の体力もここまでかな。

 まだ伝えたいことはたくさんあるのに、疲れてしまって、もう限界です。

 今までありがとう。

 さよなら。」

 手紙の後半の文章は、いつもなら優しい字を書く有希の文字が乱れていた。やっとの思いで、この手紙を書き終えたのだろう。

(ばかやろー、勝手に逝きやがって!)

 ぼくは心の中で暴言を吐いた。

(ぼくだって、有希に伝えたかったことがたくさんあったのに。有希はぼくの声を聞きたくなかったのか!)

 心の中で叫んだ。

 手紙を読み終えると目を瞑り、大きく溜息を静かに吐き、暫くじっと動かずにいた。聴覚の反応が鈍くなって、周囲の人の声が過度な音量で話し合っていても、何も気にならなかった。もう一度大きく深呼吸すると、目を開け目の前にあるカップを手にして、すっかり冷たくなっているダージリンを一気に飲み干した。

手紙を元通りに三つ折にして封筒にしまい、手にした鞄の中に手紙を入れると席を立ちラウンジを後にした。

 ホテルを出ると、既に夜の帳が下り、冷気を帯びた風に身体が染みる。来た道を今度はゆっくりと下った。ぼくは後ろから押し寄せる人波を阻む小船のようになりながら、品川駅へと向かった。

             

 昨日ママからもらった名刺をテーブルの上に置いて、わたしは書かれている住所を見つめた。つい先程、書いてある住所をスマホのアプリでマップ検索してみて、見覚えのあるランドマークを発見した。

「やっぱりここだわ」

 わたしの呟きは、疑念が確信に変わった瞬間だった。

「こんなことってあるのかしら。有希、あなたの仕業なの?」

 わたしは立ち上がり、書棚の引出しに閉まってある有希からの手紙の入っている封筒を取り出した。中から手紙を取り出して、もう一度読み返した。

「私の愛する亜紀ちゃんへ

 亜紀ちゃん、お元気ですか。

 亜紀ちゃんとあんなお別れをして、今とても有希は後悔しています。もっと早く会って、お詫びをしなければならないと思っていましたが、それはもう叶わないようです。

 あの時、有希は亜紀ちゃんにとてもひどいことを言ってしまいました。有希だけが家族から見放されてしまって、とても淋しく悲しかった。そして、亜紀ちゃんにも裏切られてしまったと思い込んでいました。

 病気のことを知り、有希のことを気遣ってくれていたのですね。だから言えなかったのでしょう。亜紀ちゃんも辛かったでしょう。

 有希が逆の立場なら同じことをしたと思います。

 本当にごめんなさい。

 有希は今でもあの時に流れていたカーペンターズの曲が忘れられません。だから雨が降ると、亜紀ちゃんを想い出しながら聴いていました。

 でもいつも悲しくなってしまいます。

 聴かなければいいのにと自分でも想うけれど、亜紀ちゃんに会えない淋しさを、聴きながら一緒に楽しく過ごしたシアトルの日々を懐かしんでいました。

 亜紀ちゃん、覚えていますか。シアトルのレイク・ビュー・セメタリーで指切りげんまんした約束のことです。

 ”有希が早く結婚して、もし先にいなくなったりしたら、有希の旦那さんを亜紀ちゃんもきっと好きになると思うから、その時は有希の旦那さんをよろしくね”と。

 亜紀ちゃんはきっと冗談だと思っていたかもしれませんが、有希は本気でした。

 もしかしたら、今日に至ることを既に有希の身体は知っていたのかもしれません。

 亜紀ちゃんにお願いがあります。

 この手紙が亜紀ちゃんに読まれる頃、有希はこの世にいないかも知れません。

 有希がこの世からいなくなったら、日本に来て是非有希の旦那さんに会って下さい。

 あの時の約束を果たして下さいとは言いません。

 亜紀ちゃんが、私の愛した彼を気に入ってくれたら、有希は安心して天国に行けると思います。

 そうなるように応援します。

 亜紀ちゃん、今までありがとう。

                           有希より」

「有希」と、呟きとともに有希との想い出が蘇ってくる。


 有希とわたしは良く似ているので、裕子さんからもパパからもよく後ろから間違われて声を掛けられた。そんなとき裕子さんは、「まあ、いいわ。どっちでも同じ」と言って、声を掛けた方に用事をいいつけた。その度にわたしと有希はいつもお互いに顔を見合わせて微笑んだりした。

 わたしはアメリカの大学に進学していたが、有希は日本に長くいたせいか、日本の大学に行く希望を持っている。だから日本語や日本の歴史もよく勉強していた。有希は教員資格を取って、将来学校の先生になる希望を持っていた。有希は社交的なので、てっきり裕子さんのように世界中を駆け回る商社の仕事に就きたいのかと思っていたので、学校の先生になりたいと聞いて意外に思った。でも、将来なりたい一番の職業は「早く結婚して主婦業に専念することよ」と、冗談交じりで言っていた。

 それは有希の本心だった。

 パパも裕子さんとふたりでよく出かけ、本当の夫婦のように見える。裕子さんに出会うまではパパを独占したくて、パパには甘えたり、近づく女性には警戒心を持ったりしていた。わたしも大人になり次第にパパへの独占欲は薄れ、有希はどう思っているかはわからないけれど、今では裕子さんと一緒になればいいとも思っている。

 パパと裕子さんに対しての好意的な感情とは別に、わたしは裕子さんと有希に会ったときから小骨が喉に刺さったような、何かすっきりしない違和感を持っていた。

(裕子さんと有希は、本当のママと妹では?)

 自分でも突拍子もないことを言っていると思った。

 以前わたしはママの写真がないかを聞いたことがあった。

「パパ、ママの写真はないの」

「ごめんよ、ママが写真を全部持って行ってしまって家には一枚も残っていないんだ」

「どうした、急にママの写真のことを聞くなんて」

「お友達が母親の誕生日のプレゼントについて話しをしていたので、あのひとはどんなひとだったかなと思って聞いてみたの」

「そうか、ママはとても優しくて、いつも亜紀のことを考えていた」

「じゃあ、どうしてわたしを置いていなくなったの」

「それはパパが悪かったと思っている。でも別れたのはちゃんとした理由がある。もう少し亜紀が大人になったらちゃんと話すから、もう少し待ってほしい」

 パパがとても悲しそうな表情をしたので、わたしはそれ以上聞けなかった。

 ママと妹の写真は部屋中探してみたけれど、家にはパパとわたしの写真だけで一枚も見つけることはできなかった。

 やがてわたしは事実を知ることになる。

 大学の授業が休講になり、いつもより早くわたしは帰宅した。家の玄関から入ろうとしたとき、飼っているラブラドールレドリバーのジョンの吠えている声が聞こえたので庭に行ってみた。わたしが帰ってきたことがわかったのだろう。ジョンはわたしの姿を見つけると「クーン」と甘えた声を出して、わたしを出迎えてくれた。

 庭から家の中を見ると、白いレースのカーテン越しに裕子さんの姿が見えた。その横にはパパの姿が見えた。

「ただいま」と、声を掛けようとしたとき、ガラス窓が開いているのでふたりの声が聞こえてきた。

「わたし、亜紀には本当のことを話そうと思うの。あの子はもう何か可笑しいと感じているわ。それに、もう黙っていることが、わたしも辛くて」

 わたしは動けずに、ジョンの身体の影に身を隠した。

「ママ、有希には話すのか」

「いえ、有希には話せないわ」

(ママ?裕子さんはママなの?)

 わたしは声が漏れないように右手で口を塞いだ。

「そうだな。亜紀にはわたしから話そう」

 わたしはこれ以上の話しを聞いていることができなくなり、立ち上がると窓を思い切り開けて家の中に入った。

「亜紀、お前そこで聞いていたのか」

 パパと裕子さんは、いきなり入ってきた亜紀を見て動揺を隠せないでいた。

「どういうことなの。パパと裕子さんは何を隠しているの」

 ふたりは、お互いに顔を見合わせ頷いた。

「亜紀、わたし達の話しを聞いてしまったのか。ちゃんと話すよ。亜紀には大人になったら、なぜわたし達が別れたのか、ちゃんと話すことを約束したから」

「えっ、もしかして裕子さんはわたしの本当のママなの?」

 パパは頷いた。

「ひどい!ずっと騙していたのね。許せない!」

 悔しくて悲しくて、いろいろな感情が湧き出て、わたしはその感情を抑えることができず、大声で泣きじゃくってしまった。

「ごめんなさい」

 裕子さんは、いえママがわたしに近づこうとしてきた。

「いや、来ないで!」

 わたしは首を左右に何度も振り、ママを拒んだ。今は何も聞きたくなかった。

「亜紀にはちゃんと聞いてほしい。ママはお前のことも考えて、わたしと別れたのだから」    

 父は一生懸命にわたしをなだめようとした。

「どんな訳があるかは知らないけれど、わたしはずっとママのいない、寂しい想いを何年もしてきたのよ。誕生日も祝えない、家族で一緒に出かけることもできない。わたしのなかではママは死んで、もういなかった。それなのに今頃になって、ママと言わずに他人の振りをしてわたしの傍にいた。そんなの許されるわけないじゃない。なぜ、もっと早く戻って来てくれなかったの」

 わたしは泣きながら階段を駆け上がり、二階にある自分の部屋に入ると鍵を閉めた。倒れるようにしてベッドでうつ伏せになり大声を出して泣いた。

 時間の経過とともにようやく落ち着いたわたしは仰向けになって、天井に付いているシーリングライトをぼんやりと見つめていた。

 こんなに泣いたのはいつ以来だっただろう。

 あの時かな。

 朝起きたらママがいなくて、「ママは何処?」と聞いたら、「ママはいなくなった」とパパが淋しそうに言った。急に独りぼっちになった不安からわたしは大声で泣いた。パパは泣き止むまでわたしの傍にいた。きっとパパも辛かったに違いない。

「亜紀」

 パパの声が扉の向こうから聞こえてきた。

 わたしは黙ったまま目を瞑った。

「亜紀、ここにいるのはわたしだけだ。わたしもママも亜紀には本当に申し訳ないと思っている。ただわたしもママにとってもつらい選択だった。それが正しかったのかは、今もわからない。この扉は開けなくていいから、パパがこれから話すことを聞いてほしい。話しを聞いた上で、亜紀はもう大人だから、どう思うかは亜紀が判断すればいい。それでも亜紀がわたし達を許してくれないならそれでも構わない。わたしの話しを聞いてくれるかい」

 わたしは「うん」と、小さな声で一言だけ答えた。

「わたしとママが別れた理由は、有希に病気が見つかったからなんだ。まだ亜紀が幼かった頃、ママのお腹の中には有希がいた。或る日ママがスーパーで買い物をしていたとき、覚醒剤を常用していた暴漢に襲われたことがあったんだ。二十歳位の若者でナイフを振り回し、ママは襲われそうになった子どもを助けようとして覆い被さり、そのときにナイフで刺されて、緊急手術をして輸血を受けた」

(そんなこと知らなかった)

「その輸血が原因で有希に感染したらしい。有希が二歳の頃、発熱して病院で検査をしたときにわかったことだけれど、有希はHTLV1と診断された。HTLV1とはヒトT細胞白血病ウイルスと言って、人間の持つリンパ球に感染するウイルスで接触感染する可能性が高い。当時のわたし達の知識ではエイズと同じように考え、亜紀に感染させてはいけないと思った。ママはパニックになり自分を責めた。あの時スーパーにいなければ、あの時輸血さえしなければと言って、ずっと自分を責め続けていた。わたしは精神的に病んだママを抑えることができなかった。ついママに対して怒鳴ったりしてしまった。わたしもどうしていいのかわからなかった。ママは亜紀に感染しないように、それと有希の病気を治すためにアメリカを離れて日本に行った。

 このウイルスは世界で三千万人以上の感染者がいると言われているが、発症する人はとても稀であり、今ならほとんど心配をする必要がなかった。もう少し病気に対する知識があれば、ママは家族と別れてシアトルを離れることはなかったと思う」

 パパはここまで話すと、わたしが聞いてくれているのか心配になったらしい。

「亜紀、聞いている?」

「・・・うん」

 パパは話しを続けた。

「日本に帰ったママは、有希を育てるために日本の商社で働いて、それから自分で会社を立ち上げて、今では企業コンサルタントやバイヤーの仕事をしている。パパとママは別れてからもずっと会っていた。

 ママは亜紀をいつも気遣い、わたしも有希が気になっていたから、それでふたりで相談して、ママは双子の妹としてこの近くに住むことにした。有希は幼かったからわたしを覚えていないと思った。ママの名前は衣ヘンに谷と書いてヒロコ、裕子と言う字はユウコとも読める。前に外国人からユウコと呼ばれ、ユウコの方が親しみをもってもらえるらしく、そのまま外国ではユウコで通している。だから有希もママをユウコとわたし達に紹介してもなんの疑問を持たなかったそうだ。

 わたしは亜紀に会う前に、ママには事実を話したらどうかと言ったら、娘を捨てた母親と思われているのだから、受け入れてはくれないだろうし、有希のこともあって、話すことはできないと言った。別人でもいいから亜紀の近くにいて、今までできなかったことをいろいろと教えてあげたいと言って亜紀に近づいた。わたしから見たらママと亜紀はもう親子に見えたので、このままでもいいかなと思っていたが、でもママはずっと嘘をついていることに耐えられなくなって、わたし達はさっき亜紀が聞いた話しをしていた。わたしも亜紀にはすべてを話したかったが、有希はキャリアであることには変わらない。発症の可能性が全くのゼロではない。だから本当のことを話せば、有希は亜紀と同じように傷付き、何よりも病気のことを話さなくてはならなくなる。それだけはしたくないとパパとママは思っている。だから、亜紀も有希には話さないでもらいたい。

 これがすべてだ。亜紀、きみにはずっと嘘をついて申し訳なかった」

 パパの話しは終わり、沈黙が続いた。パパの歩く音が遠ざかっていくと、わたしはベッドから起き上がり部屋の鍵を外して扉を開けた。

「パパ」

 パパは振り向いてわたしを見た。

「パパ」

 わたしはパパの胸に飛び込んだ。

「亜紀、ごめん、辛い想いをさせちゃって」

「ううん、すべて話してくれてありがとう。わたしママのこと誤解していた。ママはいつもわたしを見守ってくれていたのね」

「そうだよ」

 パパはわたしを身体から離して、両肩を優しく掴みながら言った。

「ママに、今の亜紀の気持ちを伝えてあげてほしい」

 わたしは「うん」と頷いた。

 階段を降りようとしたとき、ママがわたしを階下から見つめていた。目には一杯涙を溜めていた。わたしは階段を跳ぶように降りてママと抱き合った。

「ママ、さっきはごめんね。わたし、ママを誤解していた」

「亜紀、ママこそごめんなさい」

 ママとわたしは、長い年月を埋めるかのようにいつまでも抱き合った。


 有希のこともあり、わたしはママを裕子さんとして意識して今まで通りに接しようとしたが、今までと違い、裕子さんとの会話に表情が自然と和らぎ、積極的に家事の手伝いをしたり一緒に買い物をしたりするようになった。

 そんなわたしを見て、有希は何かを感じ取ったようだ。

 以前は有希と一緒に近くの公園に行ったり、図書館で勉強したりしたが次第に裕子さんと接する時間が多くなり、有希をなおざりにしたかもしれない。

「最近、亜紀ちゃんとうちのママ、ずいぶんと仲が良いのね。前は何かお互いによそよそしかったけれど、ずいぶんと打ち解けたみたい。ちょっと娘としては妬けちゃうかな」

 有希は洞察力も勘も鋭いから、もしかしてすべてを知った上で言っているのかと思ったりした。

「そう、わたしは変わらないつもりだけれど、何か違うの」

「ううん、何も変わっていない。亜紀ちゃんとママが仲良くなるのはとっても良いことだから、なんの問題もないよ」

 有希はちょっとわたしとの視線を逸らしたかのように見えた。わたしの気のせいだったのだろうか。

けれども有希の目を誤魔化すことはできなかった。


 その頃有希は孤独を感じていた。

 ママは仕事で外国に行くことが多く、有希が相談したいときなどいつも不在で、自分で決めることが多かった。そんなときこの地に転居し、亜紀という姉のような存在とその父親ができ心強く思い、有希の孤独の隙間を埋めてくれていた。

 いつの日からだろう。

 亜紀がママと急に仲良くなり、ママも亜紀と過ごす時間が多くなり、亜紀も有希と接する時間が以前より少なくなった。ママと亜紀が仲良くすることは喜ばしいのに、有希は置き去りにされたような気がして、また孤独を感じてしまった。

「みんなと色が違う」

 有希はため息まじりに呟いた。

 ママと亜紀が同色に染まっているのに、自分はその色と同系色であり同一でない。亜紀との間に色違いの境界線ができたと感じた。

「亜紀ちゃん、日曜日買い物に行かない?」と誘っても、「ごめん有希、その日予定が入っているから来週にしない」と、返事が返ってくる。以前なら「行こう、行こう。何を買いに行こうか」と一緒になって順応して盛り上がってくれたけれど最近はノリが悪いように思える。

「きっと、亜紀ちゃんとママの間に何かが起きて、わたしがそれを知らないだけなのかもしれない」

 有希はこのもやもやした気持ちを引きずったままにしたくないので、なんとか秘密を探ろうと行動を起こした。

 ママが家を留守にしているとき、有希はママの書斎に入った。有希の後ろから飼い猫のレオンがついて来る。レオンは有希が飼っているアメリカンショートヘアーの雄猫で、綺麗な灰色をしている。レオンは有希が大好きで、家の中なら何処へでもついてくる。

「レオン、ここに入ってはだめよ。ママには、この部屋には絶対に入ってはいけないと言われているの」

 レオンは書斎の前で大人しく座っている。目だけは有希の動きを追っていた。

 有希は部屋に入ると、すぐに探し物をした。

 随分前になるが有希はママに「昔の写真はないの」と聞いたとき、ママはすべて処分したと言ってはいたけれど、ママは几帳面でなんでも大事に取っておく性格だから、どこかにアルバムがあるはずだ。有希は置いてある物を動かさず、動かしても元の位置に戻しながら部屋中を探した。

「やっぱりないか。目に留まるところに置いてあるはずないわね」

 有希は腕組みをして、もう一度部屋中を見渡した。座っているのが飽きてしまったレオンが有希の足元にやってきて有希を見上げている。有希はレオンを両手で抱き上げて話しかけた。

「レオン、最近亜紀ちゃんとママが妙に打ち解けていると思わない。前はふたりの間に見えない壁があったのに、いつの間にかその壁が消えたのよ。まるで本当の親子みたい」

 有希はレオンを床の上に下ろし、デスクチェアに胡坐をかいて座った。

 暫くの間、肩肘をついて窓から見える青い空とゆったりと流れる白い雲をぼぉっと見ていた。

 突然、ガタンと床に何かが落ちた音がした。木目調のフォトフレームが落ちて中の写真がはみ出している。ママのデスクにはフォトフレームが何種類か置いてあり、すべての写真に有希が写っている。レオンがデスクに上がりその中のひとつを落したらしい。

「こらレオン、だめじゃない」

 怒られたレオンは、机の上ですまなそうな顔をして有希を見つめていた。

 有希はフォトフレームからはみ出したガラスと写真を取り上げて、フレームにはめようとした。

「あら?」

 写真は一枚ではなく、もう一枚裏返しになってはめられていた。写真は多少色あせており、そこには四人の家族が写っている。

 有希は暫くその写真をじっと見つめていたが、机の上に飾られていたすべてのフォトフレームの写真を取り出そうと中を開けた。

「何よ、これって」

 すべてのフォトフレームに裏返しになった写真がはめられている。その写真すべてを見て、やっぱり自分だけが同系色ではなく、全く異質の色だったと知った。

 レオンは有希の表情を見て、ゆっくりと近づいてきた。

 有希はレオンを右手で自分の身体に引き寄せると、今度は両手で抱きしめた。レオンは自分の温もりで有希の乾いてしまった心臓を温めようと、静かに目を閉じてじっと抱かれていた。


 その日の夜は雨音が強く風も吹いていた。その雨が時折窓ガラスを叩きつけると窓ガラスが揺れバシバシと激しい音を立てている。

 二階にいたわたしは、雨音を消すかのようにCDのボリュームをあげて音楽を聴いていた。こんな雨だからこそ、静かな曲がいいかなと思い、カーペンターズのアルバムを選んだ。女性ヴォーカルの澄んだ曲を聴いていると、激しい雨音も一定のリズムと化して、曲の旋律と一体となって協演をしているようだ。

 玄関でパパの大声が聞こえた。誰かと話しをしているようだ。こんな夜に誰だろうと思い、椅子から立ち上がり部屋から出ようとしたとき、突然扉が開いた。

 そこには髪は濡れ、服もびしょびしょになった有希が立っていた。

 その後ろからパパが有希の肩を抱こうとしているが、有希はその手を跳ね除けて部屋に入り、そして扉を閉めて鍵をかけた。

「有希ちゃん、どうしたの」

 パパが扉を叩き有希の名前を呼ぶ。

「有希!有希!」

 パパの「有希!」と呼び捨てにして叫んでいる声を聞いてすべてを悟った。

 有希も私たちが秘密にしていたことを知ってしまったのだと。

「パパ、わたしが話すわ」

 扉の向こうにいるパパに向かって大きな声で叫んだ。扉を叩く音が消え、部屋の中は窓ガラスを叩く雨音とカーペンターズの曲が静かに流れている。

「亜紀ちゃん、亜紀ちゃんは知っていたの」

「何を」

「とぼけないで。わたし達、本当の姉妹なんでしょう」

 有希はじっと強い視線でわたしを見つめた。わたしも有希の視線を逸らさずに受け止め、「ええ」と言い頷いた。

「亜紀ちゃん、どうして隠していたの。知らなかったのはわたしだけ、みんな知っていた。わたし一人が仲間外れにされて、みんなわたしを除け者にしていた。まるでわたし、ばかみたいじゃない」

 こんなに取り乱した有希を見たことがなかった。

「違うの、ちゃんと訳があるの。落ち着いて」

 まずは有希を落ち着かせようと、有希に近づき有希の両手を握ろうとした。有希はその手を払いのけて後ずさりした。

「亜紀ちゃんは、わたしには何でも話してくれると思っていた。それなのに、みんなと一緒になってわたしを騙していたのね。わたし、亜紀ちゃんだけは信じていたのに・・・」

 有希は雨の雫と涙で濡れている瞼を両手で拭いた。

(有希にはどのように話そうか)

「ごめんね、有希。わたしも有希に話したかったけれど、わたしも最近知ったばかりなの。それでどうあなたに話していいのか、パパやママが話せずにいたことをわたしが勝手に話していいか迷っていた」

「詭弁だよ。亜紀ちゃん、でも秘密を知って、どうしてその時にわたしに話してくれなかったの」

「それは・・・」

(言えない。病気のことは有希には言えない)

「言えないでしょう。わたしに言うより、亜紀ちゃんはわたしに黙ってママと仲良しになった。わたしに隠れてママと会ったりして・・・一緒に楽しく料理をふたりで作ったりして、ママもパパも亜紀ちゃんもみんな知っているのに、わたしだけが除け者」

(違う、違うのよ、有希)

「違うのよ。それにはちゃんと訳があるの」

「じゃあ、その訳を今話してよ」

(言えない。わたしからは言えない。有希が傷ついてしまう)

「それは・・・わたしからは言えない」

 わたしは言葉に詰まってしまった。わたしからは有希の病気について、絶対に言えなかった。

「わたし、亜紀ちゃんが本当のお姉さんだったらどんなにいいだろうなとずっと思っていた。亜紀ちゃんにはなんでも話せるし、わたしのこともちゃんとわかってくれていると思った。でも違った。亜紀ちゃんはママが本当の母親と分かったら、今までの亜紀ちゃんじゃなくなった。ママとの壁がなくなったと思ったら、今度はわたしとの間に壁を作ってしまった」

 有希が言っていることは、すべて思い当たることだった。

「亜紀ちゃん、教えてよ。なぜ教えてくれないの。有希の知らない、まだ隠していることがあるのでしょう」

 わたしは何も言えなかった。

「亜紀ちゃん!」

 有希は懇願するように催促する。

(言えないのよ、有希。今のあなたに言ってしまったらあなたは壊れてしまう)

 黙っているしか術がなかった。有希はわたしが口を開いてくれるのを辛抱強く待っている。

 殺気を帯びた部屋には、カーペンターズの「I Need To Be In Love」の静かな曲が流れている。

 わたしは目に一杯涙を溜めながら、有希を直視して言った。

「ごめんなさい。わたしからは言えない」

 有希は悲しそうな表情をしてわたしを見た。有希の目からは涙が溢れていた。

「もう終わりね」

 有希は扉の鍵を開け、思いっきり扉を開けると階段を駆け下り、外に出て行った。

「有希!有希!」と、パパの叫ぶ声が聞こえる。

 わたしも有希を追い駆けようと思ったが身体が動かなかった。追い駆けても有希に何を言っていいのかわからない。わたしは力が抜けその場に座り込んだ。

「ごめんね、有希。ごめんね。有希、ごめんなさい」

 何度も繰り返し有希を呼び泣いた。

 カーペンターズの曲が、心に悲しく響いてくる。

 有希はこの日から我家に来ることもなく、わたしが会いに行っても会ってはくれなかった。パパもママも有希には病気については話さず、わたしも従った。いつか時間が解決してくれると思い気長に待つことにしたが、有希はシアトルから日本に渡ってしまい、有希との和解の機会は失われた。


 わたしは手紙を読み終えると、封筒に便箋を戻し、腕時計を見た。

「もうこんな時間なのね」

 時計の針は六時を回っていた。

 わたしは立ち上がり、部屋で着ていたスポーツランニングウェアから明るいブルーのスキニージーンズとペールトーンのルーズフィットしたスウェットに着替えた。姿見鏡で服のコーディネートをチェックし終えると、手紙と名刺を黒いショルダーバックに入れて部屋を出た。

 外に出ると窓ガラスに反射した赤色の光がわたしの顔を照らした。

 その場に立ち止まって空を見上げると、茜色に染まりつつある空と白色からうっすらと赤みを帯びている雲が、天空のキャンバスで混ざり合っている。

 この幻想的な景色を綺麗とは思わなかった。むしろ、今のわたしの様に混沌とした気持ちが表れているように思える。わたしは目的の場所に向かって歩き始めた

 名刺に書かれていた住所に辿り着いた。

「やっぱり、ここだわ」

 その住所にある家の表札には「KABURAGI Tatsuya/Yuki」と小さく書かれている。あの夜は表札まで気付かなかったが、この家には見覚えがあった。あのストーカー事件で初めて訪れた家でもあった。

 この家に入ったときに感じたあの懐かしさは、有希の想いの詰まった部屋だったからだった。インテリアや装飾、色のコーディネートなど、今思えば有希の好きな配色だったり家具だったりした。

 夕暮れから既に夜へと移り変わり、辺りは闇に覆われ始めていた。家の中は人の気配がなく、当然のことながら照明が点くこともなく真っ暗だった。

 このまま帰ろうか、それとももう暫くここの主が帰ってくるのを待つか迷った。しかし帰るという選択は、意を決してここに来たのだからすぐに打ち消した。

 有希との約束を果たそう。彼はわたしが有希の姉であることは知らない。わたしは有希の手紙を見せようと思った。彼との出会いは偶然なのか、それとも運命なのか、それとも有希が仕組んだ筋書きなのかはわからない。でもすべてをさらけ出さないと、先には進めない気がしていた。

 どれほど時間が経ったのだろう。

 夜空を見上げると、今日の月は満月で神々しい銀色の光を地上に注いでいる。満月は月の引力が最も強くなり、地球上の生物の血液や体液が引っ張られて身体が活性化すると言われている。わたしの高揚している感情はこの満月のせいではないかと思った。しかし月の光は太陽の光とは違い冷たい感じがする。張り詰めた夜の中、冷気も襲ってきてわたしの身体は完全に冷え切っていた。

「誰?」

 突然、男性の声が聞こえた。懐かしい優しい響きのある声だった。

 わたしは声を掛けてきた方向に目をやり、黒いシルエットに向かって言った。

「亜紀です」

 寒さで声が震えてしまった。

「亜紀さん、どうしたの」

 達也が近寄ってきた。寒そうなわたしを見て「ここでは寒いですから、まずは部屋に入りましょう」と言って、玄関の施錠を解きわたしの肩を軽く押して中へと導いた。

「さあ、どうぞ」

「すいません。お邪魔します」

 わたしは玄関から見える部屋のインテリアを見て、有希の好みだと改めて思った。部屋に入ると、以前感じた懐かしい感情がより一層強くなり、テーブルの上のフォトスタンドには、有希が写っていた。  

 もう間違いはなかった。

 達也の奥さんは有希だった。

 わたしは写真に写っている有希の笑顔を見て、急に涙がぼろぼろと毀れた。

「どうしたの、亜紀さん」

 いきなり泣き出したわたしを見て、何が起きたのかわからない様子で達也は戸惑っていた。

「ごめんなさい。妹なのです」

 わたしは有希の写っている写真を指差して言った。

「あの写真に写っている達也さんの奥さんは、わたしの妹なのです」

             

 亜紀から告げられた言葉にぼくは驚きを隠せなかった。頭の中は混乱し、収拾がつかない状態に陥っている。

 先程有希の母親に会い、有希からの手紙を読んだ。そして今、「有希は妹です」と、亜紀から告げられ、今までベールに包まれていた真実が、今日一日ですべて明るみに出たような感じだった。

「どういうことですか」

 彼女は天井を見上げるようにして気を落ち着かせている。ぼくも大きく深呼吸をして気を静めた。今日は何回深呼吸をしただろう。ようやくそんなことを考える余裕が出てきた。

「亜紀さん、まずは座りませんか」

「えっ、はい」

 亜紀は浅くソファに腰掛けた。

「達也さん、今のわたしは混乱していて何から話していいかわかりません。達也さんの奥さんが有希だったことは、昨日ママ、いえ母に会って気付きました。有希のご主人の住所を母から教えてもらい、今日はその住所を確かめようと尋ねて来たら、やはり達也さんと同じ住所でした。だから、有希がわたしの妹であることを早く告げようと思って待っていました。

 部屋に入ると有希の部屋に来たみたいで、そしたらあの写真でしょう。微笑んでいる有希を見たら、急に悲しくなって、ごめんなさい。泣いたりして・・・」

 亜紀は有希の写真に視線を向けた。

「いえ、ぼくも動揺しています。どうして亜紀さんが有希に似ていたのか、ようやくわかりました」

「ええ、よく似ていると言われました。でも性格は全然違います。有希は活発で大らかですけれど、わたしは色々と気にする性質で、有希には、真面目過ぎるからなんでも考え過ぎてしまうと、よく言われました」

「ひとつ聞いていいですか。どうしてぼくの、有希の夫であるぼくのことですが、訪ねようと思ったのですか」

 亜紀は鞄の中から一通の白い封筒を取り出して、ぼくの前に差し出した。

「有希からわたしに宛てた手紙です」

「読んでもいいのですか」

 亜紀は小さく頷いた。

 ぼくは封筒を手に取り、中から便箋を取り出すと、有希が綴った文字を丁寧に読んだ。ぼくは有希の手紙を今日二通読むことになる。

 ぼくが手紙を読んでいる間、部屋の中のすべてが沈黙し、壁に掛かっている時計の秒針の音だけがメリハリをつけて時を刻んでいる。その間、亜紀は神妙な面持ちでぼくが手紙を読み終えるのを待っていた。

「手紙、読ませて頂きました」

「はい」

 ぼくの次の言葉を待っている。

「亜紀さん」

「はい」

「今度は、有希がぼくに宛てた最後の手紙を読んで頂けませんか」

「有希の最後の手紙をですか。わたしが読んでもいいのですか」

 ぼくは小さく頷き、鞄から封筒を取り出して渡した。

「有希のお母さん、亜紀さんのお母さんでもありますけれど、先程お会いしました」

「母にですか。昨日はわたしには何も言っていなかったですけれど。どうして母は達也さんに会ったのかしら」

「ぼくは有希の最後を看取れなかったし、葬式にも参列できませんでした。ぼくは有希の夫なのに可笑しいでしょう。有希が入院していた病院から、ぼくには内緒で他の病院に転院させて、その病院も知らされなかった。死んだことも知らず、最後のお別れさえもできなかった。有希とぼくとの結婚に反対していた有希のお母さんが、すべてそのように仕組んだのだと、ぼくはずっとそう思っていました。

 お母さんはぼくにどう思われても構わないと言っていました。もう日本に来ることがないから、すべてを話そうと思ったのでしょう。有希から預かっていた手紙をぼくに渡してくれました。これが有希の最後の手紙です」

             

 わたしは有希の手紙を受け取り、封筒の中から三つ折になっている便箋を取り出して広げた。見覚えのある文字を見ると、懐かしさを感じてまた涙腺が緩んでしまった。

 有希と別れてからは、わたしは有希のことを何も知らない。

 有希は日本で愛する人に出会い、結婚したが、不幸にも帰らぬ人となった。有希が最愛の人に宛てた最後のメッセージがこの手紙には込められている。その手紙を手渡され、本当に読んでいいのか迷った。

 わたしは達也をもう一度見た。

 達也は躊躇しているわたしを感じてか、「読んで下さい」と言った。

 わたしは頷くと視線を手紙に戻し、有希の想いを受け止めようとゆっくりと丁寧に文字を追った。長い時間を掛けてわたしは手紙を読み終えた。わたしの目からは、とめどもなく涙が出て頬を伝わっていた。

「読ませて頂きました」

「ぼくは有希と最後のお別れをしていません。だから有希からは、何ひとつ有希の想いを聞けなかったし、ぼくからも何も想いを伝えられなかった。亜紀さん、有希の手紙を読んであなたの感じたことを教えて下さい」

 彼は真っ直ぐにわたしを見つめている。

「有希は幸せだったのでしょうか」

 達也はわたしに聞いた。

「有希は達也さんに会えたことが幸せだったと思います」

「有希の幸せって、ぼくに出会ったことだと本当に思いますか」

「思います。出会いがあって、例え短い間でも一緒に暮らせたことです」

「有希は死ぬ間際にぼくが傍にいなくて淋しくなかったのですか」

「淋しかったとは思います。でも、それ以上に有希は達也さんのことを考えて、敢えてひとりで逝くことを選択したのだと思います」

 わたしは有希になりきっていた。

「有希はまだやりたいことがたくさんあったと思います。有希はもし生きていたら何をしたかったのかわかりますか」

「有希は言っていました。日本で学校の先生になりたいと」

「ぼくにはそんなことは何も言っていなかった」

「きっと、病気のことを知って諦めたのでしょう。でも先生になるよりも、一番なりたい職業が有希にはありました」

「それはなんですか」

「早く結婚して主婦になりたいと。それはわたし達の父や母を見ていたからだと思います。有希とわたしは幼い頃は一緒でしたが、有希の病気のこともあり父と母は一時別れました。わたし達もお互いに引き取られて、わたしも幼かったので有希の存在を忘れていました。わたしが高校生の頃、隣近所に母が有希と一緒に引っ越してきたのです。父と母は今では仲良く暮らしていますが、ずっと父のいない母子家庭のような境遇で育った有希にとっては、早く結婚して子どもを産んで家庭を築きたかったのだと思います」

「だけど子どもも産めず、命も短かった。きっと辛かったですよね」

「ええ、有希は精神的にも強い妹ですが、家族に騙され続けたことには想像できないほど辛かったのだと思います。有希は以前、誰かに後押ししてもらったり支えたりしてくれる人がいると安心できると言っていました。きっと達也さんが有希にとって大きな支えだったのでしょう。きっと有希は、達也さんがいたから耐えられたのだと思います」

 突然達也からの激しい口調がわたしを襲った。

「でも・・・ぼくは最後には何もできなかった。支えにもなれなかった。有希を見殺しにしてしまったのも同然じゃないですか」

 突然の怒りを含んだ口調に驚きながらも、わたしも負けずに言葉を返した。

「それは違います。あなたは有希を見殺しにはしていません。手紙をもう一度読んで下さい。有希はあなたを必要としていたし、あなたを責めてはいません。むしろあなたとの出会いや暮らした日々を感謝しています。今のあなたは悔いばかりしています。有希はそれを望んではいません。有希のためにも見殺しにしたなんて言わないで下さい。有希が可愛そう過ぎます」

 わたしは泣きたかった。ずっと思い切り泣けるタイミングを待っていたのかもしれなかった。子どものように両手を目に当てながら「えーん、えーん」と大声で泣きじゃくり、涙はぼろぼろと頬を伝わり、涙の筋ができている。

 子どものように泣いたのは、何度目だろう。

 突然わたしは身体を引き寄せられ、彼の温かな体温に包まれた。

 耳元で「ごめん」と、声が聞えた。

 わたしは顔を上げると彼が涙に濡れた優しそうな目で見つめている。彼は顔を近づけてきた。

 わたしは目を瞑り、彼の柔らかな唇と重ねた。

 部屋の外では、ユキがレオンと一緒にじっと前足を折りたたんだ状態の香箱座りをして月の光を浴びていた。やがて部屋の明かりが消えるとユキは立ち上がり、達也の部屋を暫くじっと見つめた。その表情は悲しみに満ちていた。レオンがユキに近づき顔を擦り付けるとユキはレオンをじっと見つめ、レオンもユキの顔を見つめていた。

 二匹はゆっくりと歩き出して闇夜に消えていった。


 ふたりの関係はあの日を境により親密になった。有希の部屋であんなにも大胆に、わたしは達也に抱かれた。

 有希に対しての後ろめたさより、あの時のわたしは有希になり切っていた、というよりは有希が完全に乗り移っていた。達也が愛おしく、身体の芯からフェロモンが湧き出て愛を受け止めたい衝動に駆られた。彼も応えるかのようにわたしの中に入ってきた。

 わたしは性的に興奮する媚薬、マタタビを嗅いでしまった猫のように恍惚となり、彼も呪縛から解き放されたかのように獣になった。

 お互いに交わりを終えたとき、わたしの裸の身体を両手で抱きながら彼は言った。

「亜紀さん、ぼくは有希を抱いたのではありません。有希の身代わりに抱いたのでもありません。亜紀さん、あなた自身が好きで抱きました」

「わたしは今有希には申し訳ないと思っています。でももうひとりの自分は、有希に感謝もしています。あなたに会えたから」

「亜紀さん」

「亜紀でいいです」

「じゃあ亜紀、あなたも達也さんではなく、達也と呼んで下さい」

「はい」

 彼は両手を解いて身体を少し後ろにずらして、わたしの両肩を抱いて優しい目で見つめた。わたしは開いたふたりの隙間から乳房が見えないように右手で隠して、恥ずかしそうに上目遣いで彼を見た。

「亜紀さん、いや亜紀。まだ慣れないな」

 真面目な人なんだと思い微笑んだ。

「笑わないで下さい」

「ごめんなさい」

「少し真面目な話しをします」

 わたしも緊張した面持ちになり頷いた。

「ぼくの中には有希がいます。これからも恐らく有希はぼくの中にいると思います。有希というひとりの女性に出会い、愛し、結婚をしました。今では想い出となってしまいましたが紛れもない事実です」

 わたしは小さく頷いた。

「ぼくは有希を失ってからは、ずっと前に進むことができませんでした。でもあなたがぼくの前に現れて、ようやく前に進めるような気がしています。

 有希の手紙を見たでしょう。こうなることを彼女は知っていたようです。むしろ、こうなることを望んでいたのかもしれません。きっとあなたとの出会いは、有希が演出したのかなと思っています。たとえそうであっても、あなたがぼくの前に現れてくれたことに、ぼくは有希に感謝しています」

 達也の真剣な眼差しを受止めると自分の気持ちを素直に伝えようと思った。

「嬉しいです。わたしも今の気持ちを伝えます。

 今日わたしはこの部屋に入ったとき、有希がいるみたいでした。有希はじっとわたしを見つめ、ある瞬間に有希がわたしに乗り移ったような気がしました。正直に言いますが、あなたが抱いたのはわたしではなく有希だったのではないかと思っています。

 わたしはあなたと、有希のご主人とは知らずに、ペットショップで初めてお会いしました。実はそのときに感じたのですが、わたしはまたあなたとお会いできるのではないかと思いました。猫のユキを通してあなたとの手紙の交換が始まり、ストーカーのあの事件であなたと再会してからは、これはもう運命とも感じましたが、きっとこれらすべてがみんな有希のお膳立てしたことなのかなとも思っています。でもわたしは有希の演出でも構いません。

 わたしはあなたが好きです。

 あなたには有希を決して忘れてほしくはありません。わたしは有希と一緒に歩んでいきます。わたしの口から言うのはとても恥ずかしいのですが、お願いです。もう一度抱いて下さい。さっきはわたし自身が有希になって抱かれた気がしています。

 だから今度は亜紀として抱かれたい」

 達也はわたしの口を塞ぐように唇を重ね、静かにわたしの身体の上に重なると、わたしの中に再び入ってきた。


 ユキの様子が可笑しい。

 ふたりの愛を確かめ合ったあの日から、わたしと達也との連絡はスマホでの電話やラインに変わり、ユキを介しての通信は全くなくなった。ユキは達也の家には行かなくなり、もっぱらレオンと一緒にわたしの家に遊びに来ている。でも達也がわたしの家に来ても、ユキやレオンのいないことが多い。

 もしかしたらユキは達也を避けているのかもしれない。

「ユキに嫌われる悪いことしたかな」

 達也はユキやレオンがいないことに淋しさを感じている。わたしの家に来ると、すぐに部屋を見渡してユキを探したりしている。泊まっていくと夜の会話はユキやレオンの話しが多く、ユキとレオンはふたりにとっては、欠かせない存在になっていた。

 最近のユキは、わたしに何かよそよそしい態度を取り、ユキとの間に距離感を感じてしまうことが多くなった。時々わたしを見つめる目は、まさかとは思うけれど、何か嫉妬をしている目に思えた。わたしはユキ以外の猫と接することはなく、ユキ以外ではレオンだけなのに。

 達也がユキに会いたいだろうと思い、わたしはラインで済む内容を敢えてスマホを使わず、付箋に簡単なメッセージを書いてユキに託した。果たして今のユキが、達也に手紙を届けてくれるかは正直解らない。

 ユキが達也の家に行かなくなった理由が解らないだけに、手紙は届かなくてもいいような他愛もない内容だった。でもユキはきっとこの手紙を届けてくれると思った。

 わたしは手紙を書き終えると、いつものポケット入れ、ユキの身体を擦りながら話しかけた。

「ユキ、達也、いえ達也さんがユキと会いたがっているよ。ユキが達也さんの所に行かなくなったのはわたしのせいなのかな。わたしが達也さんを独占しているから、ユキはそれが面白くないと、わたしは思っているの。

 ユキ、大丈夫よ。わたしも達也さんもユキが大好き。本当よ。もちろんレオンも。だから達也さんもユキのことを心配しているから、この手紙を達也さんに届けて頂戴」

 ユキはわたしが話している間、わたしと目を合わさずに、窓ガラスから見える外の景色を見ていた。

 窓から一本の木が見える。木枝の先っぽに一枚の茶色い葉が風に揺れている。風に負けまいと一生懸命木にしがみついているように見えた。その一枚の葉が風に負けて空に投げ出され宙に舞った時、それが合図であるかのようにユキは立ち上がり外に出て行こうとした。レオンも立ち上がり、ユキの後を追って行こうとした。ユキは振向くといきなりレオンを威嚇し、一緒に来ることを拒んだ。レオンはしょげながらわたしのところに戻ってきた。ユキはレオンがついて来る様子がないことを見届けると、外に出て行った。

 なぜユキがレオンに対して、あのような激しい態度を取ったのかわからない。レオンはわたしの傍らに尻尾を巻くようにして座っている。レオン自身もユキの行為には驚いたようだった。

 暫くしてレオンは立ち上がると、部屋の中を落ち着かない様子でぐるぐると回った。レオンの小さな頭の中では、その理由をいろいろと考えて、思い悩んでいるのかも知れなかった。

 ユキが出て行って十五分程してレオンは急に耳を立て、殺気立った様子で慌しく開いた窓から外に出て行った。


 ユキはいつもの通いなれた道をゆっくりとした足取りで、達也の家に向かっていた。

 達也と亜紀の手紙を届けるのは、亜紀の様子からきっとこれが最後だとユキは感じていた。自分を救ってくれた恩人の願い事を叶えるために、達也と亜紀の間をある使命感を持って通ったがもうその必要はなくなる。

 いつもなら達也の家まで亜紀から頼まれた手紙をレオンと一緒に届けるのに、今日は嫌な予感がしたので、敢えてレオンの同行を拒んだ。今までもその予感によって救われたことも多かったが、最近は本能が研ぎ澄まされたように予兆を感じ取るようになっていた。

 ユキは警戒を強め、周囲に目を配りながら達也の家を目指した。

 ユキは井草八幡宮の境内を横断しようとしたとき、危険な匂いを感じ取りその場に立ち止まった。

 前方から三人の人間の子どもと白い大型犬が近づいてきた。まだ自分の存在に気付いていないようなので、ユキは木陰に隠れた。そして通り過ぎるのを待った。

 ユキの存在に気付かずに通り過ぎようとしたとき、犬は立ち止まり鼻を地面に付けクンクンと周囲を嗅ぎまわっている。

 犬は紀州犬の雄だった。非常に攻撃的な犬で、以前この種の犬に威嚇されたことがあった。人間のご主人には忠実だが、躾のされていない紀州犬は人間や犬、他の動物も攻撃の対象にすることが多く、ユキにとっては危険な存在だった。ユキは見つからないように素早く別の場所に移動をした。

「あっ、猫だ」

 人間の子どものひとりがユキを見つけて叫んだ。

 紀州犬もユキを見つけると「ウー」と、唸り声をあげて威嚇した。

「なぁ、小鉄を離してあの猫と闘わせてみようぜ」

「勝負にならないよ。そんなことしたら可愛そうだろ」

 リードを手にしている子どもは拒んだ。

「面白そう、やってみようぜ。ちょっとリード貸せよ」

 もうひとりの子どもが無理矢理リードを奪い取ろうとした。

「おい、やめろよ!あっ」

 ふたりの子どもがもみ合っているうちに、手にしていたリードが子どもの手から離れてしまった。

「小鉄!戻って来い」

 紀州犬は勢いよく飛び出し、ユキをまたたくまに追い詰めた。

 逃げ場を失ったユキは覚悟を決め、戦う決意を固めた。上唇をめくり上げて牙をむき出した。一瞬、紀州犬は猫の攻撃姿勢に怯んだが、体制を低くしてじわりじわりと獲物を追い詰めるように近づいた。

今にも跳びかかろうとした瞬間、一匹の猫が飛び出してきた。紀州犬の顔面に体当たりをして鋭い爪が犬の鼻を捕らえ引っ掻いた。突然の攻撃に紀州犬は怯み、「キャン」と後ずさりした。

 ユキはまたレオンに助けられた。ユキはレオンに近づいていこうとしたとき、石がレオンの足や頭に当たる光景を目にした。

 ふたりの人間の子どもが、腹いせにレオンに石を投げている。

 レオンは「シャー」と荒げた声を出して、それから尻尾を大きく振り、毛を逆立てて牙を剥いた。

「やめろよ!」

 ひとりの子どもは止めさせようとしているが、「この野郎!」と掛け声と共に子どもの投げた石がレオンの眉間に命中した。

 レオンはその場で倒れた。

「にゃおー(やめて!)」

 ユキは叫んだ。

 倒れたレオンを見て、紀州犬が物凄い勢いで倒れているレオンを襲った。動けないレオンの首筋を何度も噛み付き、口に咥えて空中に放り投げた。動かないレオンにゆっくりと近づき、唸り声をあげてなおも執拗に攻撃をしようとしていた。

 ユキは毛を逆立て、背後から紀州犬の足に噛み付き、爪を立てた。興奮した紀州犬はユキに襲いかかり、ユキの首筋を噛み地面に叩きつける。ユキは下になりながら必死に爪を立てて抵抗した。

「こら!」

 大きな怒号とともに、紀州犬の「きゃん」という悲鳴が聞こえた。

 ひとりの男が紀州犬の腹を思い切り数回も蹴りあげ、リードを手にすると思い切り引っぱり、ユキから紀州犬を離した。まだ興奮している紀州犬の首筋を掴むと強引に倒し、地面に顔を擦り付けた。

 暫く暴れていた紀州犬も落ち着き、動かなくなった。

 子ども達に向かって言った。

「お前ら中学生か、お前らのやったことは見ていたぞ。可愛そうに。中学生にもなってこんなことをして平気なのか」

 ふたりの子どもは互いに目を合わせると、その場から走り去って逃げた。

「お前は逃げないのか」

 残された子どもは泣きながら「小鉄がいるから・・・」

「この犬の飼い主はお前か」

 子どもは頷いた。

「ほら!」

 男はリードを子どもに渡した。子どもがリードを受け取ると、紀州犬もおとなしくよろよろと立ち上がった。

「犬には罪はない。罪があるとしたら人間だ。ちゃんとこの犬を躾けろ!いいか」

 子どもは頷いた。

「おい、あれを見ろ!可愛そうに、あそこに倒れている猫はもう助からないだろう。あいつは命懸けで、恐らく恋人の猫を守ったのだろう。恋人の猫はあんなに悲しんでいる。不幸にさせたのはお前と特に逃げたお前の仲間だからな。もう犬を連れて行け!そして逃げたあいつらにもちゃんと言っておけ!」

 子どもはゆっくりと何度も振り返りながら、紀州犬を連れ去った。

 ユキはレオンの傍で「にゃあにゃあ」と、声を上げて泣いた。

 ユキはレオンの血が出ている首の辺りを何度も舐めた。

「にゃおにゃお(起きて!起きてよ!)」

 ユキは何度も何度もレオンに声を掛けた。

「にゃあ、にゃあ、にゃあ(起きて、起きて、起きて)」

 レオンは目を閉じたままだった。

「にゃあ、にゃあ、にゃあ(起きて、起きて、起きて )」

 レオンはうっすらと目を開けた。

「にゃあーにゃあ・・・(大丈夫かい・・・)」

「にゃあにゃあ(わたしは大丈夫よ)」

「にゃあ・・・(良かった・・・)」

 レオンは再び目を閉じた。

「にゃあ、にゃあ、にゃあ(起きて、起きて、起きて)」

「にゃあ、にゃあ、にゃああ(起きて、起きて、起きてよ)」

 レオンの目は二度と開くことはなかった。

 その様子を見ていた男は、レオンに近づき身体に触れた。

「もうお前の恋人は死んでいるよ。ごめんな。みんな悪いのは人間だよな。おまえも怪我をしているけれど大丈夫か。おや、これはなんだ」

 人間の男が手にしたのは、紀州犬によって引きちぎられレオンの迷子プレートだった。

「ここに連絡先が書いてあるな」

 男は携帯を取り出し、レオンの名札プレートに印字されている連絡先に電話をした。


 スマホに着信音が鳴った。

 名前が表示されない電話なので、わたしは無視しようと思ったが気になり出ることにした。見知らぬ男性からの電話は、ユキとレオンが襲われ怪我をしていることと、既に雄猫が死んでいるとの内容だった。わたしはすぐに達也のスマホに連絡をした。

 事情を聞いた達也はすぐにこちらに向うと言った。

 わたしは家から飛び出すと必死で駆けた。

(レオンが死んだなんて嘘よ。お願い、無事でいて!)

 現場に到着するとレオンが地面に倒れており、ユキが男性に抱かれていた。

「レオン!」

 亜紀はレオンに駆け寄り身体を起こすが、レオンの目は閉じたままで反応はなかった。

「この子も早く病院に連れて行きましょう。ぼくはペットを飼っていないので何処に病院があるかわかりません。知っている病院ありますか」

 男が亜紀を急かした。

「あっ、はい」

「この子はあなたが抱いて下さい。ぼくがその猫を運びます」

 男はユキをわたしに手渡すとレオンを丁寧に抱いた。

「さぁ、行きましょう!」

 わたしはこの場所から一番近くにある動物病院を目指して走った。

「ユキ、しっかりして!誰がこんなにひどいことをしたの。ユキ!がんばってね。死んじゃ嫌よ。もうすぐだからね。もうすぐお医者に見てもらえるからね。がんばるのよ、ユキ!」

 わたしは動物病院に着くまで、ユキにずっと話しかけ続けた。

 動物病院に着くと、わたしは「助けて下さい!」と言い、受付もせずにいきなり病室に入って行った。獣医はわたしのただならぬ様子を見て、すぐにわたしが抱えているユキと男性が抱えているレオンを診断した。

 ひとりの獣医はまずレオンの様子を見て言った。

「この子は残念ながらもう亡くなっています」

 その言葉を聞いてわたしは愕然とし、ユキを診断していた獣医からは「この子も厳しいかもしれません。呼吸が荒いです」

「先生、お願いします。この子をぜひ助けて下さい。お願いします」

 わたしはすがる想いで、獣医に頭を下げた。

「とにかく、最善を尽くしましょう。この子がどれだけ生きたいかによります。暫く部屋を出てお待ち下さい」

「宜しくお願いします」

 わたしはもう一度頭を深く下げて、病室を出た。

             

 ぼくは荻窪に着くと、すぐにタクシーに乗り亜紀から知らされた動物病院に向った。いつもなら歩く距離なのに、タクシーの方が早いと思って乗ったが、信号に捕まったりしてとても遠い距離に思えた。ようやくタクシーが動物病院の前に止まると、「お釣りはいいです」と言って、ドアが開くと同時に飛び出した。

 中に入ると亜紀と連絡をくれた男が待合室に座っていた。男の白いポロシャツには赤茶色の血が付いている。ぼくは男に御礼を言い、すぐに何が起きたのかを聞かせてもらった。話しを聞くうちに怒りが込上げてきた。たとえ子どもであっても許されない行為であり、その場に居合わせなかったことが悔やまれる。その場にいたら、感情を抑えきれずにその子ども達を殴り倒したかもしれない。今は攻撃する矛先をどこにも向けられなかった。男には丁重に御礼を言い、名前と連絡先を聞いて帰って頂いた。

 亜紀からレオンの死とユキが重態で治療中と聞かされてかなり動揺をしたが、じっと結果を待つことにした。

 入り口の扉が開き、父親と中学生くらいの男の子が、顔に擦り傷、鼻に引っ掻き傷がある白い紀州犬と一緒に入ってきた。紀州犬は息を荒げている。その紀州犬は椅子に座っているぼく達の匂いを嗅ぐ仕草をすると、いきなり興奮し亜紀に襲いかかろうとした。咄嗟にぼくは亜紀を左手で制して、紀州犬から彼女を守った。

 紀州犬の興奮は治まらず、「ウーッ」と威嚇してくる。

 飼い主は謝ることなく、紀州犬を押さえ付け、犬の頭を手の拳で何度も叩き、しまいには足で蹴ったりした。紀州犬は痛いのか「キャン」と悲鳴をあげた。

「父さん、止めてよ。乱暴しないでよ。小鉄は怪我をしているのだから」

 付き添っていた中学生位の男の子が、父親に言った。

「ふざけるな。おまえがちゃんと見ないから、見ず知らずの男に小鉄が蹴られたのだろうが」

「だって、祐ちゃんたちがぼくからリードを取ろうとして、そうしたら小鉄が猫に向かって襲っていったんだよ」

「ばかやろ!猫を襲ったくらいで、なんでその男にこいつが蹴られなきゃならねえ。そいつの顔を覚えているか。そいつから治療費を頂かねえとな」

「・・・・」

 男の子は黙った。

 先程男性から窺ったユキの襲われた状況と同じと確信したぼくは、怒りが込みあげると椅子から立ち上がってその親子の前に歩み寄った。紀州犬は再びぼくに向って「ウーッ」と唸り声を上げた。

「うるさい黙れ!」

 ぼくは紀州犬に向かって怒鳴った。

 紀州犬はぼくの形相を見て恐ろしくなったのか、後ずさりして静かに座った。

「きみだね。この犬に猫を襲わせたのは。自分が何をしたのかわかっているのか」

 ぼくは俯いている男の子の両肩を掴んで顔を覗き込んだ。

「おまえ、誰だ?」

 男の子の父親が強い口調でぼくに聞いた。

 ぼくは黙って父親を睨んだ。父親はぼくの形相に怯み、今度は静かに「どういうことですか」と聞いた。

「わたしは、今この壁の向こうで、あなたの子のせいで生死をさまよっている猫の飼い主です。もう一匹の猫は死にました。あなたは先程、猫を襲ったくらいで、なぜあの犬が蹴られなければならない、と言いましたね。その蹴った方がいなかったら、今治療室にいる猫も死んでいたでしょう。あなたが親なら、この子が何をしたのか、なぜ犬を病院に連れて来なければならなくなったのか、きちんと聞くべきです」

「するとこいつが、小鉄を仕向けて猫を襲わせたということですか」

「わたしはそう聞いています」

「お前、本当にそんなことしたのか」

 男の子は首を何度も振って、「違うよ。ぼくじゃない、ぼくは止めたんだ」と言って待合室の扉を開けて外に出て行った。

「おい、ちょっと待て!」

 追いかけようとして、紀州犬のリードを引っ張る。

「すいません。よく言い聞かせます。すいません」

 父親は何度もぼくに頭を下げて、逃げるようにして外に出て行った。

「犬の治療は早くしないと・・・」

 その言葉は父親には届かなかった。

 そのとき、「ユキちゃんのお母さん」と呼ばれ、ぼくと亜紀はすぐに病室に入った。

「あなたの声、ここにいてもよく聞こえましたよ」と獣医に言われ、ぼくは「すいません。大声を出してしまいました」

「謝ることはありません。当然のことです。紀州犬に限らず大型犬はきちんと躾をしないと大きな事故につながります。そのあたりあの父親は自覚がないのでしょう。確かに猫に対しての行為は犬がやったことですが、すべて人間が悪いのです。あっ、すいません。あなたには肝心の話しを早くしなければなりませんでした」

 獣医は頭を掻きながら状況の説明を始めた。

「結論から言えば、命には別状ありません」

 そのひと声で、亜紀が「よかった」と、手で顔を覆った。

「数箇所噛み傷がありますが幸いに急所はすべて外れていました。特に喉は首輪に守られて、犬の牙を防いだようです。レントゲンを取りましたが骨折はしていません。傷の具合からしても安静が必要ですので、こちらで入院した方がよろしいかと思います」

「入院はどのくらい必要ですか」

「傷の具合から、三日は必要です」

「後遺症は・・・」

「はい、このまま安静にしていれば大丈夫です」

「それからレオンのことですが、丁重に埋葬しようと思うのですが」

「レオン君は残念でした。ここに運ばれて来た時には既に亡くなっていました。身体を綺麗に拭いて、人間と同じように埋葬できるよう手配をしましょう。もしペットを埋葬できる業者さんが必要なら連絡はしてあげられます」

「お願いします」

「それでは整い次第、後で御連絡致します」

 先生にお礼を言い、ぼくと亜紀は動物病院を後にした。

 ぼく達はここから一番近いショッピングセンターの中に入っている花屋に行き、黄色い薔薇と白い薔薇でブーケを作ってもらい、レオンが亡くなった場所に向った。

「あれを見て」

 亜紀がぼくの袖を引っ張った。

 レオンが襲われた場所に動物病院で会った男の子が座りながら泣いている。男の子の前には三本の白い花が置いてあった。きっと野原に咲いている花を採ってきたのだろう。

「きみ」

 ぼくはその男の子に声を掛けた。男の子はぼくの顔を見るなり、立ち上がると「ごめんなさい」と頭を下げた。

「この花はあなたが置いてくれたの」

 亜紀が尋ねると男の子は頷いた。

「さっきは大きな声を出したりしてごめん。きみはあの時、ぼくじゃない、ぼくは止めたんだ、と言っていたけれど、もう少しちゃんと聞かせてくれないかな。もう怒ったりしないから」

 男の子はうな垂れて下の地面を見つめながら、そのときの状況を話し始めた。

 レオンがユキを守るため果敢に身体の大きな紀州犬に挑んで打ち負かしたことやそのレオンに対して腹いせに他の友達が石を投げ、その石で倒れたレオンを紀州犬が襲ったこと、そして今度はユキがレオンを守るために闘い、ユキが連絡をくれた男の人に助けられたことなど、男の子の話しにより手に取るようにそのときの様子が目に浮かんだ。

 その話しを聞きながら亜紀は泣いていた。

 男の子は話し終えると、「ごめんなさい。ぼくの犬があんなに恐ろしいことをするなんて・・・ぼくは怖くて止められなかった・・・ぼくは臆病で卑怯です・・・本当にごめんなさい」男の子も大声で泣いた。ぼくは男の子の肩に、今度は優しく両手を掛けて言った。

「ありがとう。よく話してくれたね。きみは臆病でも卑怯でもない。もし臆病で卑怯だったらこの場所にはもう来ないと思う。でもきみはこうして花を持って謝りにきてくれた。ただ、このことは知ってほしい。人間より弱い生き物がたくさんいて、その動物たちにも家族がいて、みんな家族を守ろうしている。もしきみの家族で誰かが不幸なことが起きたら悲しいだろう。ここで死んだ猫はレオンという名前の小さい猫だけれど、ユキという猫を必死になって守ろうと大きな犬に立ち向かって死んでしまった。

 ユキもぼく達も物凄く悲しんでいる。だから今度はきみが責任を持って二度とこのようなことが起きないように犬を躾けて、もし同じようなことが起きそうになったらきみがちゃんと止めてほしい。できるかな」

 男の子は大きく頷いた。

「それから亡くなったレオンに対して、ぼく達と一緒に手を合わせてほしい」

 男の子は大きく頷いた。

 亜紀は持っていた薔薇の花束を男の子の前に置いた。人通りも途絶え、風もなく鳥の囀りもない穏やかな静寂が訪れていた。

 そのなか三人はその場にしゃがんで手を合わせた。


 動物病院で紹介してくれたペット霊園に、ぼく達はレオンを埋葬した。

 レオンは大事な家族の一員だった。

 隣で亜紀が泣いている。レオンの死は、ぼく以上に彼女の方がずっと悲しみは深い。ぼくは亜紀の肩をそっと抱いた。彼女はぼくに身体を預けながら言った。

「レオンは幸せだったのかな」

「レオンはまだ生きていたかったと思う。でも、男のぼくと同じだと思うけど、ユキを守れたことに満足はしているはず。ユキの無事な姿を見て良かったと思っているんじゃないかな」

「そうね、レオンはユキを、そしてわたしを守ってくれたのね」

「そう、レオンは英雄だよ」

 亜紀は身体を預けていたぼくから離れると姿勢を正し、手を合わせた。

「レオン、ありがとう。ゆっくり休んでね。ユキはちゃんと守るからね」

 その後も亜紀はまだショックを引きずっていた。

 レオンをペット霊園で埋葬した後も、亜紀はいわゆるペットロス状態となり、気持ちが沈んでいた。無理もないと思う。亜紀がストーカーに襲われたとき、レオンが身を挺して守ってくれたのに、彼女はレオンを守ってあげられなかったことに自分を責めていた。

「わたしが手紙を書かなければ、あんなことは起きなかったのに。あの時ユキがレオンと一緒に行くことを拒んだのに、わたしがこの部屋から出さなければレオンは死ななくてすんだのね」と後悔ばかりしていた。

「でもレオンがいたからこそ、ユキはあの程度の傷で済んだ」

「レオンはユキを守ってくれたのね」

「うん」

 何度となく、同じような会話が繰り返された。

 レオンの死に対して責任を感じていても、レオンが身を挺してくれたからユキが救われたことを思うと複雑な気持ちだった。

 この部屋でレオンはいつもゴロゴロして寝ていた。けれどレオンはユキをいつもボディガードのように守り続けていた。寡黙で決して器用な奴ではなかったが、頼もしい存在だった。

 外を見ると雨が降ってきたようだ。

 雨音に紛れて、空いたベランダの窓ガラスの隙間から今にも二匹の猫が、鳴き声をあげて入ってくるような気がした。

             

 ユキの退院の日が来た。

「ユキ!元気?」

 わたしはユキを先生から渡され、思わず抱きしめた。

「まだ油断は禁物です。暫くは外に出さないようにして下さい。薬は一日二回、朝と夕方に一錠ずつ食事と一緒にあげて下さい」

「昼間は働いているので、昼間はこの子ひとりですけど・・・」

「この子は身重ですからあまり激しい運動を家の中ではしないと思いますし、恐らく薬も効いているので、一日中寝ていると思いますから心配いらないでしょう」

「身重?」

「ええ、ユキちゃんは妊娠しています」

「えっ、あなたお母さんになるの。ユキ、きっとレオンの子どもだね」

 わたしはユキを見て微笑んだ。

「もし何かあったら、いつでも連絡を下さい。ここは二十四時間対応しています」

「わかりました。いろいろとありがとうございました」

 わたしは先生に御礼を言い、ユキをキャリーバックに入れて動物病院を後にした。

 キャリーバックを揺らさないように気を使いながら家路を急ぎ、家に辿り着くとユキをキャリーバックから出して、部屋に用意していたソファの上にユキを下ろした。

 最初は慣れないせいか、ソファから抜け出そうとする。

 わたしはユキの目を見ながら諭すように話した。

「ユキ、よく聞いて頂戴。あなたは家の中にいることがあまり好きではないことはわかっている。でもね、ユキ、よく聞いて。今、あなたのお腹のなかには、あなたとレオンの子どもがいるのよ。

その子どものために、あなたは早く良くならなければならないの。だから、今は我慢して頂戴。そして、あなたには強く生きてほしいの」

 おとなしく聞いていたユキは、最後に言った「あなたには強く生きてほしいの」という言葉に大きく反応をして、急に「にゃあ、にゃあ」と大きく鳴き声をあげた。

「どうしたの?」

 わたしはユキを抱き上げた。

 暫くして、ユキは静かになり寝息を立てて寝てしまった。

 薬が効いているせいもあるが、慣れない病院でストレスが溜まっているはずである。だから体力的にはかなり消耗をして疲労していると思う。わたしはユキをベッドに下ろすとその場を静かに離れた。

 達也は仕事の関係で病院には一緒に行けなかったが、できる限り早くこちらに来るとラインに連絡があった。最初はお互いが面倒を見ると言い張ったが、レオンがいなくなり落ち込んでいたわたしを気遣ってか、ユキの面倒はわたしが見ることになった。

 達也は「意外と亜紀は頑固なんだ」と言った。喧嘩とは言えないけれど、初めてお互いの気持ち表に出してぶつかったことに、何か新鮮な気がしたし、お互いの距離がさらに縮まったような気がした。

「訪問予定六時、ユキは元気ですか」とラインが入ったので 「ユキは元気です。お待ちしています」と返信した。

 食卓に一通りの料理を並べ終えると、6時5分前に達也がやってきた。達也から渡されたのはシャンパーニュ地方の高価なシャンパンだった。

「これでユキの快気祝いに乾杯しよう」

「ありがとう。このシャンパン美味しいのよね」

 あまりシャンパンに詳しくないわたしでも、この五本の矢と赤いロスチャイルドの紋章のシャンパンは見覚えがあった。パパが何かお祝いの日になるとよく飲んだシャンパンで、わたしもフレッシュな花の香りが漂うこのお酒は好きだった。

 達也は寝ているユキの様子を窺ってから席に着いた。テーブルの上の色彩豊かな料理を見て感激していた。ミモザサラダ、チーズの盛り合わせ、フランスパンのサンドイッチ、白身魚のカルパッチョそしてお鍋には魚介たっぷりのブイヤベースが入っている。シアトルは魚介を使った料理が多く、当時素性を隠していたママから料理を習い、今日ひとりで料理が提供できるこの日を迎えられて、わたしはママに感謝した。

「豪勢だな」

「はい、今日は特別な日なので物凄く奮発しちゃいました。お気に召すかわかりませんけど、召し上がれ」

「頂きます。それじゃ、まずシャンパンで乾杯しよう」

 ポーンという音とともに、青色がかった黄金色のシャンパンがグラスに注がれる。

「ユキちゃん、退院おめでとう!乾杯!」

 グラスが接触するかしないかぐらいに近づけて、微かなチーンとガラスの音を奏でてから、シャンパンを喉に流し込んだ。すきっ腹なので、口から胃までのルートをゆっくりと透明な液体が流れていく様子が伝わってくる。

「お腹がもうペコペコ」

「ええ、わたしも」

 食事と会話が弾み、わたしの料理も達也に過分な評価を頂いた。レオンのことでの落ち込みは随分と和らいだ気がする。

 突然、誰かに見られているような気がした。それはユキの視線だった。ユキが一瞬微笑んだような、そんな気がした。

 ユキは一瞬目を覚ましたが、また寝てしまった。わたしはユキに近寄り、頭や身体の毛を優しく擦った。薬のせいか、ユキはソファで丸くなって寝息をたてている。

「ユキは、薬を飲んでいるので眠いのかな。獣医さんのお話しでは、やはりまだ完治までは時間がかかるって。それから、ユキは妊娠しているの」

「妊娠?レオンの子を」

「ええ」

 わたしは頷いた。

 わたしはテーブルに戻り、少し赤みを帯びた顔で言った。

「ユキをどう思いますか」

「不思議な猫だと思う」

「こんな言い方は可笑しいかもしれないけれど、あの子は、何か不思議な力を持っているような気がしてならないの。なぜと言われると困るんだけれど」

「実はぼくは、ユキに有希を感じている」

 それはわたしも同じように感じていた。

「有希の手紙を読んだよね。手紙には、ぼくがいつまでも有希を想い続けて、ぐずぐずして前に進まないのなら、彼女は天国に行くのを少し遅らせてこの世界に留まり、ぼくに相応しい女性が現れる様にお膳立てをすると書いてあった。もしかして有希がユキになって、ぼく達の出会いを仕組んだような気がしてならない。考え過ぎかな」

 達也はわたしに確認するような目で見たので、思わず頷いた。

「あなたもわたしに宛てた有希の手紙を見たでしょう。それにユキ、レオン。レオンもユキが飼っていた猫の名前でしょう」

「そういえば」

「そう、ユキ、レオンそして達也。こんな偶然はないと思うの。他にもカーペンターズのことも。ミュージシャンなんてたくさんいるのに、有希とわたしの共通の音楽よ。わたしはこの偶然はすべて有希からの贈り物という気がしている」

「亜紀」

「はい」

「ぼく達一緒に暮らそう」

「暮らすとは・・・」

「結婚しよう。妹である有希のことをきみは気にするかもしれない。でも有希のきみへの手紙やぼくへの手紙を見て、そうすることが、一番有希が喜んでくれると思う。ただ誤解しないでほしいのは、有希の意思ではなく、ぼく自身の意思であり考えたことなんだ」

「わたしは有希に感謝しています。あなたと出会えたことです。有希はあなたのことを心配し、わたしに託したようです。わたしも有希の意思ではなく、わたし自身あなたとこれからも一緒に歩いていきたいと思っています。わたしは有希と顔は似ているけど、有希ではないし性格も有希ほど明るくはありません。それでもいいですか」

「似ているからじゃない、ぼくが幸せになれるから」

「えっ、普通はわたしを幸せにしたいと言うものでしょう」

「いや、ぼくが幸せになるから。ぼくが幸せなら亜紀も幸せになれる・・はず」

 わたしは少し口を尖らせて、すぐに微笑んだ。達也も笑っている。

「わかりました。わたしがあなたを幸せにします」

「ありがとう。それからお願いがひとつだけある」

 達也は真面目な顔をしている。

「わたしにできることですか」

「うん、ぼくより早く死なないでほしい」

 わたしはすぐに言葉に出せなかった。彼の気持ちが痛いように分かったから。

「大丈夫よ。おじいちゃんになったあなたをちゃんと看取ってあげるから」

「ありがとう」

 その夜はお互いの関係を深めた。そして達也は何度もわたしを求め、わたしも彼を受け入れ、奥深く底知れない感覚の中で陶酔していった。

 ユキは目を覚ましていた。ベッドの中でふたりの行為を見ていた。

 ふたりに手紙を運び続け、ふたりが結ばれ幸せになることを望んでいたので、これで自分の役割を果たしたことに、本当は満足しなければならないのに、今は特別な感情が湧いていた。ふたりの愛する様子は、ユキに嫉妬という感情を与えた。

 ユキの表情は沈み、胸の中は複雑な想いで揺れていた。仕方がないことだと諦めなければならないのに、ユキは辛く悲しくなった。自分が望んだことなのに、それを素直に祝福できない自分がいる。

 今のユキは有希になっていた。


 暫くの間、溜まっている有休を取ってユキの看病に専念した。

 ユキの容態は安定しており、心配はなさそうだった。ただ以前のユキとは何か違うような気がした。恐らく出産を前にして気が高ぶっているのだと思うが、わたしに対するユキの行為が攻撃的になっていた。

 わたしは、ユキが今まで運んできた達也からの手紙を整理しようと思い、フリー台紙のアルバムに手紙やユキとレオンを撮った写真を貼っていた。隣でユキがアルバムを覗き込んでいる。昔の想い出話を語るようにユキに聞かせた。

「ユキ、最初にここに来たときのこと覚えている。あなたは物凄く汚れていて、あなたと格闘しながらも洗ってあげたわね。それがあなたとの出会いだった」

 ユキはじっとアルバムを覗いている。

「あっ、このときはわたしのイヤリングがあなたの毛に付いてしまって、それから達也にあなたの・・・」

 ユキはある言葉に反応してピクッと身体を震わせた。わたしはそのまま気にもせずに話しを続けた。

「この手紙は、そう、そう、ストーカーのとき達也が心配して・・・えっ、ユキ?」

 ユキは怖い顔でわたしをじっと見つめている。いつものユキの目ではない。こんなユキの顔を見たことがなかった。この目は嫉妬しているときの目だと瞬間的に思った。

「ユキ、どうしたの?そんな怖い顔をして」

 わたしはユキを抱こうとすると、ユキはわたしの手をすり抜け、避けるようにしてリビングから出ていった。不可思議なユキの行動が気になり、わたしはすぐに立ち上がってユキの後を追った。

「ユキ、どうしたの。どこか悪いの」

 わたしが近づくと、ユキは突然身構え「ふーっ」と威嚇した。

 まるでユキではなく、別の猫だった。

「ユキ、わたしよ」

 わたしは恐れることなく、ユキの前に手を差し出した。

「痛い!」

 ユキはいきなりわたしの手の甲を鋭い爪で引っ掻き、その爪の引っ掻き傷から次第に赤い血が滲み出てきた。わたしは臆することなく、もう一度ユキに手を差に伸べると、ユキは次第に落ち着きを散り戻し、わたしの手の甲の傷をペロペロと舐め始めた。

 わたしはユキの脇の下に手をやり、そのままわたしの目の高さまで抱き上げた

 ユキは首を左右に交互に振り、わたしと目線を合わせようとしない。

「ユキ、どうしたの。あなた、元気がないわよ。それにどうしてわたしと目を合わせてくれないの」

ユキの首の動きが止まり、ある一点をじっと見つめている。その方向の先には棚の上に置かれたアクリルのフォトフレームがあり、その中の写真はわたしと達也と初めて撮ったツーショットの写真が入っていた。

 きっとユキは、達也の愛情を独占しているわたしに対してやきもちを妬いているのではないだろうか。だからアルバムを整理しているとき「達也」と言う言葉に過敏に反応したのだと思った。

 ユキは妊娠しているから、いろいろなことに神経が敏感になってもおかしくない時期なのだろう。ユキの前では、できるだけ言動に気を使わなければならないのかもしれない。そう思うと、少し憂鬱な気分になった。

 夜を一緒に過ごすときに、達也がわたしを求めてきたら拒絶することはできない。わたしはすべての自制心を失ってしまうだろう。でもユキがわたし達の関係を嫉妬しているのなら、それはユキにとっては残酷なことだと思う。

「ユキ、ちゃんと聞いて。わたし、あなたにちゃんと話したいことがあるの」

 ユキはわたしを見つめた。その目は悲しみに満ちていて、わたしはユキの目を見て「まさか」と、一瞬躊躇しあの時を想い出した。

 あれは雨の日だった。有希と会った最後のとき、有希の目は今のように悲しい目をしていた。やはりユキは有希なのでは。

 ユキの様子を見て、わたしはユキではなく有希に語ろうと思った。

「有希、ありがとう。ちゃんと聞いてくれるのね。まずあなたに伝えたいことは、わたしもあなたと同様に達也さんが大好きです。この気持ちはあなたもわかってくれるよね。わたしが達也さんと出会えたのは、みんな有希のおかげだと思っています。だからわたしはあなたにとっても感謝しています。

 でもね、わたしは有希の死の代償に幸せをもらったような気がして、ずっとあなたに対して罪悪感を持っています。そういう気持ちを持ちながらも、達也さんを好きになっていく自分を止めることはできないの。

 でもごめんなさい。あなたのこと何も考えていなかった。あなたは亡くなってもう会えないと思っていたけど、こんな身近なところにいたんだね。

 わたしはあなたに対して申し訳なくて・・・ごめんなさい」

 わたしは話しを続けた。

「でもね、わたしは自分の気持ちに素直になりたいの。あなたの達也さんの想いを感じていても偽りのない自分でいたいの。有希、わたしは達也さんが好きです。あなたの分まで幸せになろうと思うけど、だめかな」

 わたしはユキを抱きしめ、涙を流して泣いた。ユキは、「にゃあ」と優しい声で応え、わたしの目を小さな舌で舐めてくれた。

「有希、ありがとう」

 わたしはユキを見た。ユキの顔は優しく、いつものユキに戻っていた。

 それから暫くしてユキは怪我も癒えた頃に、わたし達の前から姿を消してしまった。

             

 会社から亜紀の家に向う途中だった。手にしているスマホから着信の振動が伝わり、画面の表示を見ると亜紀からだった。

「もしもし、どうしたの」

「今何処ですか。ユキが家から出て行ってしまって。宅配便が来て荷物を受け取っている間に、ユキが玄関のドアの隙間から勢いよく外に出て行ったの。すぐに後を追い駆けたけれど見失ってしまい、あの子は妊娠をしているから心配で。

 もしかして達也のところに行っているのではないかなと思って」

「わかった。ぼくの家に行ってみる。亜紀はそのまま家にいてくれる。帰ってくるかもしれないから」

「ええ、そうする」

 ぼくは急ぎ足で家に向かった。家に着くと裏庭に回ってみた。

「ユキ!ユキ!」

 ユキの名前を呼んだが来ている気配はなかった。すぐさま家の中に入り、ユキの出入り口であるベランダのガラス窓を全開にした。外を見回したけれどユキの姿はなかった。

 手にしていたスマホで亜紀に電話をするとすぐに出た。

「ユキは?」

「いや、いない」

「どうしたのかな。もう帰って来ないのかな」

 正直言ってわからない。ぼくはその問いには応えず、外の様子を窺いながらその場に座り両足をくの字に曲げて壁に寄りかかった。

「ちょっと待って」

「ユキが来たの」

「いや、違う」

 ガラス越しに家の灯りで反射する金属らしきものが見えた。すぐに立ち上がり、ベランダの床に落ちている銀色の小さなプレートを拾った。

「ユキは名札プレートを付けているよね」

「ええ、名札プレートは付けているわ。電話番号が印字されているから、何かあったら連絡が来るとは思うけれど」

「そうか」

 プレートが落ちていた場所の近くの地面を見た。家からこぼれる照明でやっと見えるくらいだが、そこには雑草の合間にある僅かな茶色い地面に、小さな猫の足跡が刻まれていた。

 ユキはぼくに直接会わずに、最後の挨拶をしに来たのだと思った。

 もうユキには会えないと思った。

「もう少しここで待ってみる。きみもそこでユキを待っていてくれる。また電話する」

「えぇ、わかったわ。ユキが帰ってきたらすぐに電話下さい」

「うん、わかった」

 ぼくは電話を切るともう一度辺りを見回した。

「ユキ、おまえ、ここに来たのか。やっぱり・・・」

 その瞬間、ぼくはもうユキに会えないのではないかと思った。

「有希!」

 ぼくはユキではなく、有希のつもりで呼んだ。すぐに家を飛び出したが、辺りはすでに暗く、闇を打ち払うかのように月の光が眩くなっている。ぼくは当てもなく野良猫のいそうな場所を探して走り回った。

 ユキと同じ色の猫を見つけた。

「有希!」

 声を掛けたが、ユキとは全く異なる野良猫だった。

 ぼくは以前有希が言った言葉を想い出した。

「もしわたしが死んだら猫になっているのよ。そして達也の前に現れるかも。でも達也はわたしだと気付かないだろうな。意外と鈍感だから」

(そうだよ。ぼくは鈍感だよ)

 こんなに近くにいたのに、何度も会っているのにきみのサインに気付くことができなかった。ユキを有希と思ったこともあったけれど、やっぱり信じられなかった。

「ごめんよ」

 ぼくは走るのを止めて、その場に立ち止まった。



 ユキは自分のテリトリーとしていた達也と亜紀の住んでいる街を後にして、見知らぬ地域に足を踏み入れた。猫は自分の住む生活圏内を出ることはない。これから行く先には何が待ち受けて、何が起こるのかは自分でもわからない。目に見えない声の主を頼りに、ただ本能に従って導かれるままに目的地を目指した。

 このまま亜紀と一緒に住めば、何ひとつ不自由ない生活が送れるだろう。生まれてくる子ども達のことを考えると、飼い猫として生きていくことが正しいに違いない。けれどもユキにはできなかった。

 自分の中には、自分ではないもうひとりの存在がいた。ユキは時折現れるもうひとりの存在が、遠い昔自分を救ってくれた有希という人間の女性であることは知っていた。ユキは有希のために、自分のできることをしてあげたいと思っていた。

(ユキ、ごめんね。あなたを巻き込んでしまって。わたしは、わたしのやるべきことが終わったので帰ろうと思うの。でも長い間この世界に留まり過ぎてしまった。徐々に力が失われてしまって、もう自力では帰れないの。わたしの命日までに帰らないとこの世にずっと彷徨ってしまう。だからお願い。わたしをその場所に連れて行って頂戴)

 ユキは人通りの多い場所や車が行き交う道路沿いは避け、人間や犬そして猫、特に雄猫に会わないように注意をしながら足早に歩いた。

(ユキ、亜紀ちゃんも達也もわたしだと気付いたみたい。わたし、ふたりのキューピット役になろうと決めたのに、亜紀ちゃんと達也がいざ愛し合うようになったら、物凄く嫉妬をしてしまって、とても悲しくて張り裂けるくらいに辛い気持ちになった。

 これじゃいけないと思いながらも、どうしても自分を抑えることができなくなってしまったの。ユキ、あなたや生まれてくる子どものことを考えると、このまま亜紀ちゃんと達也と一緒に暮らすことが一番良いことだと思うけれど、でもね、わたし、とても辛いの。

 わたしはここにいてはいけない。ふたりの幸せを考えたら、わたしは静かに去るべきだと思った。達也に最後のお別れをしに行ったけど、達也はいなかった。

 わたしにとっては、その方が良かったけれど。

 ユキには達也の家と亜紀ちゃんの家を何度も往復してもらって、手紙を運んでもらったね。ユキ、今までありがとう。

 でもいいアイデアだったでしょう。カーペンターズの「Please Mr. Postman」の曲から思いついたのよ。歌詞はちょっと悲しくて切ないけれど、手書きの手紙はもらうと嬉しいし、次の手紙が待ち遠しくなるものなのよ。

 カーペンターズはわたしにとっては懐かしい想い出の曲だし、達也もわたしが亡くなってから雨になると聴いていたみたいね。だからずっと感傷的になって、ずっと寂しかったのね。亜紀ちゃんはわたしと違って、ちゃんと達也を幸せにしてくれる。

 わたしはもう少し達也と一緒に暮らしたかった。病気になって、毎日神様にお願いをしていたの。

“神様、お願いです!何でもします。わたしの病気を治して下さい。もし治らないなら一日でも長く達也と一緒にいさせて下さい”と。

 でも、わたしの行ないが悪かったのか駄目だった。それとわたしが死ぬときには、本当のことを言うと、達也にいてほしかった。とっても寂しかったから。

 人間は、最後はひとりで死ぬけれど、やっぱり愛する人に看取られたいものなのね。

 ユキ、レオンのことは守れなくてごめんね。わたしが小さいときに飼っていた猫がレオンといって、わたしの大切な弟だったの。レオンは生まれ変わりね。いつもユキを守ってくれていた。彼のためにもユキは丈夫な子どもを産まなければならないね。

 ユキ、ごめんね。身重なあなたにこんな辛いことをお願いしてしまって。わたしがあなたを守るからお願いね)

 ユキは自分のテリトリー以外の世界は知らなかったので、街路樹の木々も家並みや庭の花壇に咲いている花も初めて見るものばかりだった。これから長い旅になることは本能的に悟っていたけれど、身重な自分の身体を考えると無理はできない。それと寝る場所や雨が降ったときに雨宿りをする場所を日々見つけなければならなかった。一番の問題は食べ物で、毎日達也と亜紀にキャットフードをもらっていたので、小動物や虫を捕まえて食べることができるだろうか。家庭から出る残飯などは何処に行けばいいのだろうか。問題は、縄張りを持つ猫と遭遇しないで食べ物を得ることだった。

 有希がサポートしてくれたお陰で、今のところ無事に旅が続けられている。

 道筋には小さなお寺や神社があり、境内の床下で一夜を明かすことにしていた。神社仏閣の床下は亀腹と言う漆喰で固められた高さ数十センチ程の土盛が構築されており、水はけが良く乾燥している。滅多にないが境内に小さなダンボールや発泡スチロールがあると床下に運んでその中に入って寝た。それがないときは柱の影で寒さを凌いだ。神社やお寺がないときは、民家の縁の下に入り込んで睡眠を取った。歩いているときに、ユキが空模様を見るといつ雨が降るかを有希が予知してくれるので、一時的な雨なら車の下、長雨なら早く床下や縁の下に入って雨をしのいだ。

 夕闇が迫って来る頃、ユキは家々の間を通り過ぎ、神社の境内に来た。本殿の高床式の床下は風通しも良く、ねぐらには最高の場所だった。ユキは床下の遮蔽物を乗り越えて奥へと進み、身体をゆっくりと横たえるとそのまま目を閉じた。

 最近はレオンの夢ばかりを見る。レオンが傍にいるようで安心して眠ることができた。

 翌朝になり、食べ物を求めて境内の敷地を出た。

 食事については、やはり有希が食べ物を与えてくれそうな家を見つけてくれた。あとはユキが玄関の前や庭の中に入り、哀れげな鳴き声を数回出すだけだった。人が出てくるとやはり潤んだ目で悲しそうに見つめ、弱々しい声で 「にゃあ、にゃあ 」と鳴いた。

「まあ、可愛い猫ちゃんねぇ。あなた、お腹すいているのでしょう。少しここで待っていてね」と言って、家の中に再び入ると食事を持ってくる。それはミルクであったり、ツナ缶、煮干、ハム、シラスであったりした。こうしてお宅訪問を繰り返し、1日3回違う家に訪問して食事を繋いでいった。


 ユキは順調に二週間を過ごしてきたが、やはり旅を続けると極度の緊張と体力が衰えていった。一日歩く距離も次第に短くなり、目的地にいつ辿り着けるかわからない。

 有希はユキの体力が限界に来ており、出産日も近いと感じていた。場所によっては、これから生まれてくる子ども達の命が危ぶまれる。

 まだ目的地には距離があり、山を越えなければならない。ユキは使命感を持って、歩き続けようとする強い意志を持っている。でもこのままではユキは途中で死んでしまうだろう。

 有希は暫く考えてから、ユキにある行動をさせた。

 ユキはずっと避けていた交通量の多い幹線道路沿いに出た。空を見上げると太陽が真上にありお昼時である。歩道に出ると、人間はそれ程歩いてはいないし猫を見ても気にはしていない。時折子どもがユキを見つけ「ニャンコ」と、声を掛けられても無視をするが、「汚いから触っちゃだめよ 」と、母親が子どもに注意を促しているのを聞くと、きっと身体が汚れているのだろうと思う。時折自転車が歩道を行き交うのでゆっくりと注意をしながら歩いた。今歩いている方向は目的地とは逆で、下り方面側に行かなければならない。 先を見ると道路の反対側に目指すコンビニエンスストアが見えた。反対側にあるのでこの広い道路を渡らなければならなかった。片側二車線だから12~13メートルあり、車は50キロ前後のスピードで走っている。本来猫の持つ習性なら目の前に獲物や異性を見つけると、激しく行き交う車を無視して道路を全速力で渡るだろう。猫の習性を有希は押し留めた。

 ユキは有希の指示に従い、100メートル先の信号機のある横断歩道に行き、青になるまで座って待ち、青になると人間と一緒にゆっくり堂々と渡った。それを見た人間はユキに興味を持ち、なかにはスマホで動画を撮ったりする者もいた。横断歩道を渡り切ると素早くコンビニエンスストアの裏手に移動し、太陽の陽が当たらない木陰から駐車場の様子を窺った。ユキは目的の車が来るのをじっと待ち続けた。

 待ち続けてから一時間が経過し、ようやく目的の車が駐車した。待ち続けた車は「軽トラ」と呼ばれる軽自動車区分に該当する小型トラックだった。荷台は三方開きで床面の高さは地上から66センチ前後、アオリの高さを入れても100センチはない。

(この高さなら飛べる!)

 ユキは自分の身体の長さの5倍を飛べる自信があった。

 運転手が降りて買い物をするために店内に入るのを見届けると、いつでも飛び出せるように準備をした。車に戻る前に見つかると、車から降ろされてしまう。エンジンを駆けて動き出す間際に、音を立てずに運転手に気付かれないよう荷台に飛び上がって駆け上がらなければならない。

 ユキはその瞬間を待った。

 運転手が、ペットボトルとおにぎりの入った白いビニール袋を持って出てきた。軽トラのドアを開け運転席に座りエンジンを駆けた。ユキはエンジン音を聞くと、荷台の後ろに回り込み、動く瞬間のタイミングを待った。しかし軽トラは動く様子がない。ユキは緊張を解いてそのまま荷台に飛び乗った。物音を立てずに乗れたので運転手は気付いていないようだ。荷台には木箱が十個程置いてある。そのうちのひとつに飛び乗り、運転手の後ろにある窓から運転席の中の様子を窺った。

 運転手はコンビニエンスストアで買ったおにぎりを食べていた。その様子を見て暫くは動かないだろうと、木箱の上に横になった。

 暫くするといきなり車のドアが開き、運転手が外に出てきた。ユキは素早く木箱から降りると、荷台の隅にある木箱の影に隠れた。

 運転手はペットボトルとごみをダストボックスに棄てに行き、それから車の荷台に近づいてきた。キュッキュッと運転手の履いている靴底のゴムの摩擦音が次第に大きくなる。ユキは息を潜め、低い姿勢でじっと動かずにいた。もし見つかればたちまち荷台から放り出されてしまう。運転手は木箱の数を数え、アオリの下部の蝶番をチェックした。もし運転手が車をひと周りしたら見つかってしまうだろう。ユキはさらに低い姿勢になり身体を縮めた。運転手はアオリが固定されていることを確認すると、そのまま運転席に戻りドアを閉めた。

 車はゆっくりと動き出し、チカチカとウインカーが点滅し、幹線道路に出るとユキの目的地の方向へと進んだ。

 これは賭けだった。この車が目的地にどれだけ近づくのかはわからない。けれどもユキは自分の中にいる有希を信じた。

 道路沿いの新緑の葉を付けた街路樹が遠のいてゆく。木箱の傍には、所々擦り切れた茶色い毛布が置いてあった。ユキはその上に乗り、外気が直接当たるため身体を冷やさないように身体を丸めた。次第に身体が温まり、車の振動が次第に心地良い揺れになって、ユキの意識は遠のいていった。

 軽トラが止まり、振動が伝わらなくなったと同時にユキは目を覚ました。太陽は西に傾き日が落ち始めていた。ここは何処だろうか。ユキは木箱に登り辺りを見回した。

「見覚えのある山が見える。あの森を越えれば、この旅は終わりよ 」と、有希が言っている。

「おや、おい、ニャンコ!」

 運転手がユキを見つけ声を掛けた。ユキは突然の声に驚き、瞳孔が大きく開き、うずくまって身体を小さく見せた。

「ユキ、だめよ。そういうときは、愛想を良くするの」

 ユキは「にゃあにゃあ」と親しみを込めて鳴き、二本足で立って愛嬌を振りまいた。

「可愛いなお前。さあ、おいで」

 ユキは前足を下ろして、ゆっくりと運転手に向って歩いた。運転手はユキを両手で持ち上げて「お前可愛いから家で飼おうかな」と言いながら地面に下ろした。その瞬間にユキは運転手から逃れるように、脱兎のごとく森に向って駆け出した。


 森の入り口に来ると陽は落ちて薄暗くなっていた。

 森の中は灯りがなく闇の世界になる。ユキは車の上で充分に寝たので多少は体力が回復しており、夜行性でもある猫にとって暗闇は気にならないが、森の中は夜になると活発に動く危険な動物もいるので、警戒しながら進まなければならない。この森はユキの本能に従って行動するしかない。

 ユキは森の中には入らず、車道を敢えて通ることにした。時折車が通っていくが、ヘッドライトの光で事前に察知できるので、車が近づくと道路の端に行き、車の通り過ぎるのを待った。車が通るうちは、道路を歩いていれば危険な動物と遭遇することはない。

 ユキは森がなぜこんなにも明るいのか不思議だった。今日の月は満月で、その月を取り囲むように無数の星が輝いている。ユキが今まで住んでいた杉並の街の界隈から見る月と同じはずなのに、ここ月は白銀の色をしていて数段に明るかった。

 満月の日は月の引力のせいだろうか、すべての動物が興奮し行動が活発になる。これから進もうとする森の奥は危険が増して、何が起きるかわからない。そのことをユキ自身は本能的に悟っていた。

 夜の森は死を連想させるような静寂の世界ではなく、むしろ生命の喜びを奏でるオーケストラの世界に近い。急な斜面の下からは川の上流の水音がゴウゴウと激しい音を立て、時折吹く風がザワザワと葉を震わせながら細い枝同士が揺すり合う。そんな自然界の音を背景にして、黒い影となった木々の間からホゥホゥと梟の鳴き声が樹木の精霊にように木霊し、草むらからは虫の音色が絶え間なく響き「ウォーウォー」と野犬の遠吠えが、時折虫の鳴き音に割って入ってくる。

 西の空から厚い黒い雲が現れ、輝いていた月が見え隠れするようになった。ユキは空を見て、早く森を抜け出そうと先を急いだ。

 月の丸い輪郭がわからなくなるほどの厚い不透明雲に覆われ、辺りは深い闇に閉ざされてしまった。両端にそびえる幹の太い茶色した木々が、光を遮断されて黒い影になると、虫の音色も止み、心地良かった自然の水音も風の音も不気味な効果音に変じた。

 ユキは突然止まると、背中の毛を立て尻尾を膨らませて自分の身体を大きく見せながら攻撃の姿勢をとった。前方左の木々の間からきらりと光る目が見えた。不気味に光る赤い色や緑色した小さな豆電球のような光が10個、敵意のある目でじっとユキを捕らえて見つめていた。

 ユキは攻撃姿勢を取りながらも、川のある右手の森に逃げようとゆっくり後ずさりをした。

 そのときだった。

 背後から「ウォー」と呻き声を上げながら、1匹の黒い色の野犬がユキを襲った。前方の気配と目に気を取られ背後は無防備だった。

 それを合図に前方の野犬5匹がユキ目掛けて一目散に駆けて来る。ユキは背後からの野犬の牙を辛うじて交わしたが地面を転がった。体制を整える間もなく、ユキの首を目掛けて鋭い牙が襲ってきた。ユキはとっさに斜め横に飛び上がって野犬の攻撃を交わしながら左手の鋭い爪で鼻を切り裂いた。レオンが得意としていた攻撃だった。目の前から突然消え、気付いたときには鼻から鮮血が飛び散り、野犬はパニックに陥った。逆にユキを襲おうとしている集団に向かい、その中の1匹に襲い掛かった。突然の仲間からの攻撃に、前方の犬達の動きが止まった。ユキはその瞬間を逃さず木々の中に入った。

 すぐさま4匹の犬が、唸り声を上げながらユキを追った。ユキの素早い動きに野犬はついて来られないと思ったが、猟犬のような1匹の犬が、執拗に素早い動きで追ってくる。ユキは右に左に方向を変えるが、その動きに惑わされることなく着実に間は詰められていった。ユキの体力はもう限界に近づき、意識は次第に朦朧としてきた。ただ生きなければならないという本能だけで逃げている。

 すると先の景色が途絶え、目の前には崖が迫っていた。このまま進めば崖に落ちてしまい、止まれば野犬の餌食となってしまう。ユキの背後に犬の息遣いを感じた瞬間、「ユキ!横!」と声を聞いたと同時に、左後足に力を入れて横っ飛びした。射程に入り、襲い掛かる寸前の90度の方向転換に野犬は対応ができず、バランスを崩して 「キャウン」と悲鳴をあげながら崖から落ちていった。ユキはすぐ近くにある木に登り、他の野犬の様子を窺った。

 やがて残り5匹の野犬がやってきた。木の上のユキを見つけ、唸り声を上げて威嚇し、木の周りをうろうろと歩き回っている。ユキも登った木の上から下にいる犬達の様子をじっと見つめた。犬達が去らないとこの場から動くこともできない。体力もかなり消耗しており後左足に痛みを感じていた。

 暫くの間、野犬の集団は木の下でユキを威嚇していたが、空を覆っていた厚い雲が晴れると雲隠れしていた月が顔を出した。野犬達を舞台照明の前明かりのように照らし、野犬達の表情や行動を捉えた。闇の中に生きる野犬にとっては、月の光はあまりにも眩く、過去は光の中に生きていた彼らにとって、光は罪悪感を抱かせるのかもしれない。

1匹が森の中に消えると、追うようにして他の4匹もその場から立ち去った。

 野犬と化したのは人間が彼らを棄て、彼らは生きるために野犬になったのであり、彼らには罪はないことをユキは知っている。ユキも生きなければならない。ユキはすぐには降りずに、木の上から周囲の気配をずっと探った。

 ようやく危険な気配がないことを確かめると、注意深く辺りを見回しながら下に降り、降りてからも左右に首を振って警戒は解かなかった。月明かりが照らす周囲をみてもサワサワと風が草木を撫でながら通り過ぎる音だけだった。

 ユキは痺れる後足を庇いながら目的地へと急いだ。

 あともうすぐなのにと思いながらも身体は重かった。もし野犬に遭遇したら、もう逃げる気力もなく、死の覚悟を決めるだけだった。だから恐怖心はなく、ひたすらに車の通る道のど真ん中を歩いて行った。お腹もすいていたが食べる気力も湧いてこない。

 何時間歩いただろう。太陽が山間から昇り始めていた。ユキは眼下に広がる田園風景と陽の光を受けキラキラと輝いている海を見下ろした。すぐ先の高台に墓苑が見える。やっとの思いで目的地に着いたユキは迷うことなく、ひとつのお墓の前に辿りついた。そのお墓は有希の墓石だった。

 目的地には着いたが、ユキにはまだ命を賭けた最後の使命が残っている。

 陣痛が始まり、やがて呼吸が苦しくなり自分の股間を舐め始めた。ユキには出産に耐えられる体力は残っておらず、次第に意識が遠のいていく。

 失われていく意識のなかでユキは夢を見た。

 レオンがじっとユキを見つめている。

 その目は、ユキが紀州犬に襲われた時、自分よりも大きな体型の犬なのに、ユキを守るために果敢に挑んでいったあの時と同じ目だった。

 ユキはレオンに守られていると感じた。レオンの子どもを無事に産まなければならないと思った。

 ユキは意識をしっかりと持ち直すと、目を開き痛みに耐えた。まず1匹目が生まれ、それから30分後2匹目が生まれた。そして30分後3匹目が生まれた。

 子どもを3匹産み終えるとすべての力を使い果たしたユキは、意識が朦朧としているなか、生まれた子どもたちの鼻先を舐め、へその緒を噛み切った。

 遠くの方で何かが近づいてくる気配を感じたが、ユキはもう動くことはできずに静かに目を閉じた。

 


 ユキが行方不明になって1ヶ月が経った。

 一度You Tubeで話題の猫を紹介した動画が流れ、動画の中の猫は間違いなくユキだった。タイトルには「横断歩道を正しく渡る猫」と書かれていた。ぼくはその動画を見て、亜紀と一緒にYou Tubeで紹介された場所に行き、コンビニエンスストアの店員にユキの行方を尋ねた。

 コンビニエンスストアの従業員が、ユキらしき猫が軽トラに飛び乗ったのを覚えていてその軽トラが横浜ナンバーだったことは覚えていてくれたが、それ以上の情報を得ることはできなかった。

 都市伝説に「猫は死を感じると、人前から姿を消す」とあるが、ぼく達は信じてはいなかった。でもユキはなぜ縄張りでもないこんな場所に来て軽トラに乗ったのだろう。

(この街道は何処に繋がっているのだろうか)

 ぼくはスマホを取り出して、街道の道筋を辿った。

 亜紀がぼくのスマホを覗き見た。

「何処に向かったのだろう。ユキは猫だから横浜方面といっても広すぎて皆目検討もつかない」

「横浜方面、もしかしたら、あそこかしら」

「心当たりでもあるの」

「有希なら、あそこしかないわ」

「猫のユキが目的を持っているとは思わないけれど」

「わたしの言っている有希は、人間の有希よ」

「えっ」

 ぼくは有希の眠っているお墓の場所は知らなかった。いつか亜紀に尋ねようと思っていたが、今日まで聞くことはなかった。

「有希の命日はもうすぐ、だから・・・」

「それだ!」

 ぼくは一瞬に閃いた。ユキは有希のお墓を目指している。何の根拠もないけれど、ユキが有希だとしたら間違いないと思った。

「亜紀、ユキは有希の所だと思う。有希が眠っている場所はどの辺り」

 ぼくは亜紀にスマホで横浜周辺の地図を見せた。

「確かこの辺りよ」

 亜紀が指差した場所を見て、ぼくは確信した。

「もうすぐ有希の命日だ」

「有希に会いに行きましょう」

 亜紀の言葉に、ぼくは頷いた。

             

 ここに来たのは、今日で二度目。

 今回は、わたしひとりではなく達也と一緒だ。

 達也は有希のお墓の前に来るのは初めてだった。有希が達也のことを思いやって、彼に「死」と「別れ」を見せず、深い悲しみを心に刻まれることがないように嫌な役回りをママに頼んだ。けれども有希の本意ではなかったと思う。

 有希にとって辛い選択であったはずだし、有希だからできたとも思う。もしわたしが有希と同じ立場ならと考えたこともあったけれど、それはそのときになってみなければわからない。ただ言えることは、有希は達也をずっと愛していた。死んでもなお、達也のことを想っている。

 達也がお水を汲んでくる間に、わたしは先に来てお墓に花を添えた。墓前に座り有希に語った。

「有希、達也さんと一緒に来ました。有希、わたしが達也さんとこれから一緒に歩んで行こうとしているけれど本当にいいのかな。彼のことは好きよ。でもわたしはあなたに後ろめたい気持ちが残っているの」

 心地良い風が亜紀の髪の毛に触れ、耳元に有希が囁いた。

「亜紀ちゃん、達也を幸せにしてあげて」

「有希?有希なの」

 わたしは立ち上がって周囲を見回した。静かな田園風景の緑と空の色が映っている穏やかな青い海が見えるだけだった。来た道を振り返ると達也が水桶を持って、長く続く石畳の上を歩いてくる姿が見えた。

 わたしは達也に向って小さく手を振ると、彼も両手に持つ手桶を上げて応えた。

 達也はお墓の前に来ると、暫くお墓をじっと見つめていた。

「ここが有希のお墓なんだね」

「ええ」

「古いお寺にあるお墓と思っていたけど、こんなに景色が良い場所にあるから、どこかの観光地に来たみたいだ。これなら有希も喜んでいるだろうな」

「この場所は有希が見つけたの」

 達也は一瞬複雑な表情をしたが、手桶を置くと石碑の上部からひしゃくで水を上からかけ始めた。すぐにひとつの手桶の水がなくなり、ふたつ目の手桶の水をかける。

「随分と水をかけるのね」

「うん、お墓に水をかけるのはお墓を洗い清める意味もあるけれど、実はお水をかけるのはそこに眠っている魂が起こされて、お墓参りに来た人の前に現れるからとも言われている。だからたっぷり水をかけて有希を起こそうと思ってね」

「そんな意味があるのね。じゃあたっぷりとかけてあげなければ」

 わたしは花立てに水を入れ、もう一度お花を挿し直した。水をかけ終えた達也はお墓の前で呆然と立っていた。

「有希と話したいことがたくさんあるでしょう。わたしはさっき有希と話したから」

「えっ、有希と」

「有希はここにいるわ。わたしは向こうにいるね。ここは有希と遊んだシアトルの墓地に似ているの。わたしはわたしで有希との想い出に浸りたいから」

「わかった」

 わたしは空の手桶を持って、その場を後にした。

             

 ぼくは立ったままで有希に語りかけた。

「有希、まずぼくが言いたいことわかる」

 暫く間を置いたが、返事はなかった。水をたくさんかけたからといって蘇るわけではない。けれども確かに有希がここにいるような気がした。

 ぼくは静かに目を閉じた。

 一瞬にして、ぼくは有希と一緒に住んでいた部屋の中にいた。

 外は雨が降っている。

 ぼくは挽き豆のコーヒーを飲みながら、雨の様子をガラス越しに眺めていた。部屋にはカーペンターズの曲が静かに流れている。

「雨の日に、カーペンターズを聴くと悲しくなるの」

 有希はいつもそう言っていた。

 そんな彼女の寂しそうな後姿を見ながら、ぼくはそっと近づき、片手で彼女の肩を優しく抱きしめた。いつもなら有希はそこで消えてしまう。けれども今は確かな彼女の実体があった。彼女の温もりがぼくに伝わってくる。

「達也、どうわたしの演出最高でしょう」

「うん、きみの演出は最高だった。その前に言いたいことがある」

「当てようか」

「えっ」

「なぜぼくより早く死んだ、なぜ黙ったまま死んだ、でしょう」

「そうだよ」

「でもね、人間だから死はどうしようもないのよ。早いか遅いかの違いなの。わたしの場合はちょっと早すぎたかな。まだやりたいことがたくさんあったし、もっと達也と一緒にいたかった」

「じゃあ、なぜ黙っていなくなった。手紙を読んでも納得はできないよ。有希がいなくなってこんなに辛いことはなかった」

「辛かったのは達也だけじゃあないのよ。わたしはもっと辛かったんだから」

「うん、そうだね」

 ぼくは有希を強く抱きしめた。

「有希」

「何」

「たくさん聞きたいことがある」

「いいわよ。もうこれが最後だからなんでも聞いて」

 ぼくは一旦有希から身体を離して向かい合った。有希は瞬きもせずに、真っ直ぐにぼくの目を直視している。

「今日が最後なのかい」

「そう、最後。達也には亜紀ちゃんがいるから」

「うん、そうだな」

 達也は小さく頷いた。

「わたしの自慢の姉よ。達也にはもったいないかな」

「うん」

 達也はもう一度小さく頷いた。

「冗談よ。達也にはお似合いだし、わたしも亜紀ちゃんとなら、安心して達也を任せられる。うん、ばかり言ってないで、他に聞きたいことがあるのでしょう」

「うん、ぼくは有希を最後に看取れず、最後のお別れができなかった。なぜそうしなければならなかったのか、手紙じゃなくて有希の口からちゃんと聞きたい」

 今度は頷くのではなく、有希の目を直視した。

「わたしはママには悪いことしたなと思っている。わたしが転院することも、本当に達也と二度と会わなくていいのかと、ママに何度も念押しされたわ」

「でもどうして、そんなに頑なに拒んだの」

「わたしはまだアラサーにほど遠い20代よ。お肌もすべすべでシワもない。スッピンでも平気な歳。でも病気になると食欲はなくなるし、運動もできないから筋肉も衰えてしまう。或る日鏡を見たの。自分でもわかるけれど、一番なりたくない顔だった。わたしは思ったの。どうせ死ぬなら達也には、綺麗なわたしをいつまでも記憶に留めていてほしいなと。そのことをママに話したら、ママも女性だから、ちゃんと理解してくれた。ママにはもうひとつお願いをしたの。達也に告げずにこの場所に旧姓の榊原で埋葬してと」

「どうして」

 達也は理解できずに聞くと、情景が部屋の中から墓石の前へと移り変わった。

「この場所は海が一望できて空気も綺麗だし自然がとても美しいでしょう。春になるとピンク色の桜が咲き、その下に黄色い菜の花が一面に咲きほこってピンクと黄色のコントラストが素敵なの。夏は空の青色と白い雲、陸は緑色の葉に覆われた木々の緑、穏やかな海面に白い筋の船跡が画かれる。秋は真っ赤な紅葉や黄色く色づいた銀杏の葉が山一面にキャンパスみたい。そして冬は・・・ちょっと淋しいかな。

 達也はわたしの死を受け入れてしまったら、心がいつまでも冬の季節で春は来ないと思ったの。わたしがいなくなって雨が降るとカーペンターズを聴いて感傷に浸っていたし、部屋の模様替えもしないで、いつまでもわたしがいたときのままになっていた。そんな達也だから、埋葬した場所を知れば、ここで死んでしまうか、この近くに引っ越して住んでしまうかもしれないと思った。だから達也には新しい人生に早く踏み出してもらいたくて、お葬式も埋葬する場所は教えないようママに頼んだの。もし場所を見つけたとしても旧姓だから、その意味をわかってくれるだろうなと思ったからよ」

「ぼくはそんなに弱いかな」

 否定してもらうために少し考えるふりをしたが、有希に言いきられた。

「うん、わたしが死んでからの達也は見ていられなかった。だから猫のユキに協力してもらったのよ」

「やっぱり猫のユキはきみだったのか」

「うん、ただ正確にはユキはわたしではなく、時々わたしがユキの中に現れたと言った方が正しいかな」

「ユキを使っての手紙のやり取りした猫通信、よくあんなことを思いついたね。普通は犬だろう」

「わたしは猫の方が好きだから」

「ぼくは犬が好きだ」

「そう、わたし達いつも犬と猫で喧嘩して、だからペットを飼うことができなかった。本当はペット欲しかったんだから」

「だから猫通信」

「そうよ。猫のユキは可愛かったでしょう」

「うん、猫があんなに可愛いとは思わなかった」

「あの子は可愛そうな猫なの。人間には何回も裏切られ、もう少しで死ぬところだった。わたし、達也と一緒に住む前にあの子と出会っているの。なんとかあの子の心を開いてあげて、人間への不信感を取り除いてあげたかった。でも、ずっと一緒にいられないから強く生きてほしいと思った。あの子は期待通りに強く生きてくれて、こうしてわたしのところまで辿り着いたのよ。凄いよ、ユキは。

 そんなユキだから、わたしは思ったの。この子ならわたしの願いをきっと叶えてくれると。だから、お願いをしたの。そうしたら快く引き受けてくれた。でもね、最後は申し訳なくて」

「ユキはここに来たの」

「うん、あの子はわたしをここに運んでくれるために、達也の住んでいる場所からここまでの長い距離を歩いてきてくれたのよ。だから、こうして達也と話ができるのもユキのおかげよ」

 急に有希の目から涙が溢れた。ぼくは有希の涙を両手の親指で拭いてあげた。

 ぼくはユキがどうなったのか聞きたかった。今の有希の様子だとユキはこの世にいないのだろうか。

「ありがとう。やっぱり達也は優しいね。これからは亜紀ちゃんにも優しくしてあげてね。時間が来たみたい、もうお別れね」

「いや、もっと有希と話していたい」

「だめよ、もう時間がないの。それに達也には亜紀ちゃんがいるのよ。こんなに長く話していたら亜紀ちゃんが心配するでしょう」

 でも達也はまだ有希と話したいと思った。

「延長はあり?」

「何を馬鹿なことを言っているの。あなたがわたしに聞きたいことは、あとひとつだけのはずよ」

「なぜ、電車に乗っていて次に降りる人がわかるのか」

「それが最後の質問なのね。これで終わりにしていい」

「いや、真面目に聞くよ」

「ユキのことでしょう」

「うん」

「その答えは、今は答えたくないの。いずれわかるから」

 その一言に不安が残った。

「それはどういうこと」

「さあ、これで質問は終わりよ。今日は来てくれてありがとう。こうして達也と最後のお別れができて良かったわ。わたし、あなたに出会えて、それから短い間だったけど結婚できて嬉しかった。今までありがとう」

「感謝しなければならないのはぼくの方だよ。ありがとう。こうして会えるのはこれが最後だね」

「うん」

「今日は笑って別れられそうな気がする」

「そうね。今まで達也は、たくさん泣いたからね。だからいつも雨なんだよ。カーペンターズはもう聴かないでね」

「うん、そうする」

「じゃあ、さようなら。達也、ありがとう」

 有希は消えて、ぼくは閉じていた目を開いた。

「有希、さようなら」

 ぼくは有希のお墓を後にして亜紀を迎えに行った。

             

 有希のお墓から歩いてくる達也を見た。

 わたしも近づいてくる達也に向って歩き出した。手の届く距離に来ると、お互い止まった。達也の表情は何か吹っ切れたようで明るかった。

「有希と話すことができた」

「うん」

 わたしは何も聞かなかった。彼の表情がすべてを物語っていた。

「行こうか」

 達也はわたしの左手を握りゆっくりと歩き出した。わたしも達也も暫くは余韻を噛み締めるかのように無言で歩いた。

 心地良い風がふたりを包み込んだ。そのとき何か鳴き声が聞こえたような気がした。

 わたしは立ち止まって周囲を見渡したが、木立の葉が微かに揺れる音だけで何も聞こえない。

「どうしたの」

「うん、何か鳴き声が聞こえたような気がして」

 達也も辺りを見回したが何も聞こえなかった。

「気のせいだったみたい」

 わたし達は再び歩き出した。

「にゃあにゃあ」

 後ろから猫の声がはっきりと聞こえた。

 わたしと達也は後ろを振り返った。

 すると有希のお墓の方から四匹の猫がゆっくりとこっちに向ってくる。わたしと達也はお互いに顔を見合わせた。

「あれはユキじゃないか」

「うん、ユキよ」

 わたしと達也はユキに向って全速力で走った。ユキ達の前でわたし達は一旦止まって猫を見下ろした。

「ユキ!」

「ユキ!」

 ユキは「にゃあにゃあ」と鳴きながら近づき、わたしの足元に擦り寄ってきた。ユキの子ども達も頼りない足取りで近づいてくる。達也は3匹の子猫を優しく抱き上げた。

「お前は甘えん坊だろう。うーんお前はレオンそっくり。お前は気が強そうだな」

 わたしはユキを抱き上げた。ユキはわたしの顔を小さな舌で舐めた。

「ユキ、心配したのよ。あなたお母さんになったのね。・・・がんばったね」

 わたしはユキとの再会が嬉しくて声にならなかった。

 達也も隣で泣いていた。

 わたしは有希のお墓に目を向けた。

(有希、ありがとう。あなたが守ってくれたのね)


 ユキは有希のお墓の前で子どもを産み、そのときは仮死状態だったらしい。子ども達も誰も来なければ低体温で生きてはいなかった。丁度施設の管理人が見つけ、すぐに獣医に連れて行ってくれたので、ユキや子ども達は一命を取り留めることができた。ユキは満身創痍で栄養失調の状態で出産をしたため、獣医も一度はあきらめたらしいが、ユキの持つ生命力には驚いたようだ。

 ここに辿りつく間にユキの身にはどんなことが起きたのかはわからないけれど、有希のお墓のある場所でユキに再会できたのは奇跡だと思った。

 ぼくは有希にユキのことを聞いたが、有希は答えてはくれなかった。

「いずれわかるから」

 その時は、もうユキはこの世にはいないと思った。

 有希のサプライズにはいつも驚かされる。

 有希は最後の最後まで、ぼくの良き妻だった。

                                (了)


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