レイグリントとバルローク(2)
「失ってからでは遅いのだ」
月明かりの中、男の濃褐色の瞳が窓の外を見ている。少女もつられて男の視線の先を見るが、ホーデンの砦の城壁だ。
「忘れてはならぬ」
男が見ているのは城壁の先、馬で半刻ほど走ったところにある小高い丘。そこは戦いで命を落とした団員たちが眠る場所であった。
瞳を閉じた静かに祈りを捧げる男。一昨年のバルロークで倒れた騎士たちもそこに眠っていた。騎士たちを見送った日、男はその日も空を見上げていた。そう、今宵のように空一面に輝きを放つ星々、そして完全に照らされた月球を。男は今、丘から天に旅立った者たちをより近くに感じていた。
騎士たちの眠る場所に名前はない。皆、ただ「丘」とだけ語る。名を付けることをこれまで誰もしなかったのだ。名がある、名称があるということは存在を人々に意識させ、大きな意味を持つ。騎士団で戦いに身を置く者たちが帰る場所は王国でありホーデンの砦であり、何よりも家族の所である。決して名のない丘であってはならない。そうルビエルの騎士たちの間で考えられてきた。それ故に丘は丘とだけ呼ばれていた。
それでも心半ばで力尽き、丘に眠る者も少なくなかった。丘は王国を守った先人の眠る場所と共に敬意の対象として、神聖な場所であった。もちろん男にとってもだ。
その男は長い間、祈り続けている。
祈る男に少女は話しかけることが出来ず、その姿をただじっと見ていた。動かない背中。深い思いを抱えた背中があった。少女は情というものをまだよく分からずにいる。だがこの父親から、その一欠片を垣間見た気がした。
男が祈りを終えた。その開かれた瞳は丘から離れない。意を決して少女が声を掛けるが、声は弱々しくなってしまった。
「父様」
男がゆっくりと振り向く。
「いきなりすまなかった」
「いえ」
「丘はいつでも私たちを見ている、そこに眠る者たちと共にな。時折こちらからも話し掛けてやらねば寂しがるのだ」
「……何を話したのですか」
「なに、ただの現状報告だ」
「騎士団のこと?」
「ああ。ルビエルの街や王宮のこともな。それと大したことではないが、そのうちそちらへ行くとも伝えたのだ」
「えっ」
「すると奴ら、邪魔だから来るな、とばっさり断られてしまったよ」
「誰のことを言ってますか?」
「私のことに決まっておろう。私が来ると気を使うのだそうだ」
男が小首を傾げ肩を竦めた。やれやれの意味を持つ姿だ。
「気を使う中でもないのだがな」
続けて不満気に呟く。男は大したことではない、と言った一言は少女には大事であった。
「冗談ですよね」
少女の問に笑いだけを返すと、男は口調を変える。
「皆お前に感心していたよ」
「話を逸らさないで」
「本当のことさ。師匠など誰よりも関心を持っていたぞ」
男は普段見せない驚きの表情をする。その振る舞いに困惑する少女。しかも男の言う師匠とは前ルビエル騎士団長であり、十数年前の戦いで命を落としていた。
「お前の戦いぶりを誉めていた。私は自分の耳を疑ったぞ」
「父様、大丈夫ですか」
「何がだ」
「だって、まるで……」
「まぁ、聴け。あの偏屈の師が誰かを褒めるなど、見たことはもちろん聴いたこともないのだ。青天の霹靂とは、このことだ」
少女は段々と不安に駆られはじめる。
「本当に、な、何を言っているのですか」
「何を言っていると思う?」
楽しむかのような返答が返ってくる。男の意図がわからない。少女が思わず問う。
「……話せるのですか」
「何と?」
「その……」
「その?」
「騎士たちと」
「いつも話しているだろう」
「そうではなくて……、丘の」
「丘?」
男はどこまでと惚けた返しをする。疑い迷っている少女の反応が面白くてしょうがないらしい。
たまらずに少女の声が強くなる。
「亡くなった人たちと話せるのですか」
男が笑いを堪えられず吹き出す。豪快な笑い声が響いた。
途端、少女がからかわれていたことに気付いた。
「父様、酷い」
抗議の声を上げるが、男はまだ笑っている。
「あまりにも真剣な顔をしていたので、ついな」
「ついな、ではありません!」
少女の様子に男は笑いを抑えられない。
「父様!!」
本日何度目かの少女の大喝一声。どうやら度を越してしまったようだ。
「すまんすまん。だが時折、彼らの気配を感じるのは本当だぞ」
訝しげに男を見る少女。
「丘の者たちは我らを見守り、護ってくれていると、そう思うのだ」
「わかります。私も母様を近くに感じることがあるから、気のせいかも知れないですけど」
「そんなことはない。マルティナはお前の傍にいるよ」
「父様も母様を近くに感じるのですか」
「もちろん」
「今もですか」
「ああ、隣にいるよ」
「本当!?」
「本当さ。今日だけではない。困った事にいつも背中のこの辺りから、私のすることを全て監視しているのだ」
軽口だが、父親から母に対する情愛の気持ちが伝わってくる。
「またそんなこと言って。母様に叱られますよ」
「そうだな。また叱って欲しいものだ」
先程とは違った寂しさを受け取る。
男の妻であるマルティナ・ウィルコートは男がバルロークとの戦いの最中、流行り病で亡くなっていた。今からもう十年も前のことだった。
「お前のことを見守っているよ」
「はい」
「いつも丘へ祈りを捧げていた」
「母様がですか」
男が一つ頷く。
「自分が不自由なく暮らせるのは、丘の英雄たちのお陰だと言ってな」
「母様らしい」
「ああ、そうだな」
少女が瞳を閉じ、祈る。
「私も丘を思うと考えさせられる。守る、とは何かを。レイグリントが今も在るのは、これまでの数多くの戦いを勝ち抜いたからだ。王宮にいる口ばかり達者の者共に言わせればレイグリントの輝かしい栄光と言うだろう。奴らの言う栄光には彼等の存在が含まれていない、戦争が起きたことによって大切な人を失った人間も含まれていない。守るとは、血が流れない世の中の事と今は思っている。丘もそう伝えてくれていると思うのだ」
「意地悪せずに、はじめからそう言ってくれれば良いのに」
「悪かったな」
「あと……」
「何だ」
そのうち私もそちらへ行く。そう言った言葉が頭から離れない。きっと冗談なのだろうと思う、だが父親から絶対に聴きたくない言葉だった。真意を聴こうにも聴くことが出来なかった。
「何でもありません」
男は少女の戸惑いに気付きながらも、深く聴くことはしなかった。
「そうか」
短く応える男。二人の間には互いが見えても入ることの出来ない壁があった。
少女はこんな時にどうしていいかわからない。僅かな時間も永遠に感じていた。
「明日にでも丘へ行き皆に酒を振る舞ってやろうと思うのだが」
ふと男が声を発する。少女が反射的に応える。
「私も行きます」
「ああ。皆喜ぶだろうよ」
父のような大人になりたい、そう思うのだった。
男が窓辺から離れる。向かったのは寝台横の棚。そこに姫様にと持たされた籠を置いていた。
「もしやと思ったが」
そう言うと瓶を取り出した。怪我人のために用意された気付け用の葡萄酒だ。ただ気付けとにしては年代物の上等な代物である。
「さすがノーマン。わかっておる」
男が再び籠を探ると葡萄酒用の丸型の上部の部分のすぼまった脚の長いグラスを取り出した。用意周到とは副官のためにある言葉である。
男は葡萄酒を注ぐとすぐには飲まず、丘の方へグラスを掲げた。僅かな間の後、手首を振る。その動きを見ていた少女には硝子の重なる音が聴こえた気がした。男がグイッと一口飲む。
「悪くない」
男の前には誰もいないはずだ。しかし男の声は誰かに向けられていた。丘の英雄たちがここへ本当に来ているのかも知れない、そう思わさせた。もう一度グラスが傾くと満足そうな男の顔が見えた。
少女には自分と父親の間に壁が見えている。子供でなく大人とも言えない年頃の少女だから見えているのかもしれない。親しみ、過去、哀しみ、安堵、様々な感情が壁の向こうに存在していた。大人になるということは背負うものを増やしていくことなのかも知れない。それがどんな深い哀しみであれ。男の後ろ姿は少女に多くのことを伝えていた。少女は少しでも父親に近づきたいと思った。
「それ私のために用意されたものですよね」
男がニヤリとする。
「お子様のお前にはまだ早い」
「もうお子様じゃありません」
素早く葡萄酒を男の手から取り上げる。が、取り上げるまでは良かったがどうしていいか迷う。葡萄酒を顔に近づけると濃厚な香りが纏わりつき、思わず顔を顰めてしまう。
「ほらな。身体は正直だ」
無駄なことはするなと言うように、男が葡萄酒に向けて手を差し出す。
「ちょっと驚いただけです」
籠からグラスを取り出し注ぐ。赤紫に色付いた液体が勢いよくグラスをみたしていく。あっ、と思った時には既に遅く並々と注がれた葡萄酒が少女を見ている。少女はげんなりとグラスを見るしかなかった。ただ見ているわけにもいかず、意を決して少女は男の真似をして勢いよく煽った。格好は良かったが何しろはじめて葡萄酒を飲むのである。顔中に広がる酒気で派手に咽る。
その一部始終を見ていた男は一応笑いを堪えようと試みたが、見事に失敗に終わった。
「それ見たことか。酒の飲み方も知らぬのだから、お子様と言われても仕方がないではないか」
「これはこれから覚えます」
「それは困った」
そうは言うが全く困ってなどいない。少女の手にある葡萄酒を自分の手に納めると男は楽しげに笑いながら、自分のグラスに注ぎ飲む。少女を一目見やると葡萄酒を向けた。少女は向けられた葡萄酒をじっと見たまま固まってしまう。というのも、何のことはない身体が本能的に危険だと言っている。覚えるとは言ったものの、今煽ったばかりの葡萄酒が胃の中で暴れており、グラスを差し出すことが出来ない。
「さあ。さっきまでの威勢はどうした」
男は少女の躊躇いなど全く気にすることなく、さらに葡萄酒を突きだす。少女はグラスを意志の力で何とか持ち上げた。
「少しで……」
声を上げるが、既にグラスは先程以上に葡萄酒で満たされていた。
「何か言ったか」
「いえ」
香りだけで咽そうになる。げんなりするが、観念して口をつけた。少量を口に含みを一気に流し込む。男も続いてグラスを口元に持っていく。
「はじめはそんなものだ」
「……」
男は気遣いのつもりだったのだが、少女はそれどころではなく籠から急ぎ水を取り出し飲んでは息を付いている。
「これが美味しいなんて信じられない」
「そんな悲しいことを言うでない。なかなかお目にかかれない代物だ。何処に隠しておったのか後でノーマンに問いただせねばならぬと思うほどだ」
「ノーマンには悪いですけど、もう結構です」
「この美味さをわからぬとは」
「わからないから何ですか。だから子供とでも言うんですか。酒を飲めないからと言って、剣を持つのになんの支障もありませんし、酔っ払いが相手なら子供でも足元を掬えるかもしれませんよ」
男の笑い声。少女の物言いが可笑しくてたまらないようだ。
「そうだな。飲みすぎて寝首を掻かれてはならぬな」
「私はこれでも騎士の端くれです。そのような卑劣な真似はしません」
真面目な顔で言う。
「騎士見習いにもなっていない者が、騎士道精神を語っておる」
「茶化さないでください」
「言葉に力を持たせるには、早く騎士にならねばならぬな」
「望むところです」
「では」
と、再び葡萄酒の瓶を突きだす。
「まだこんなに」
「それがどうした。まず子供からの卒業が必要だろう」
「いや、それは……」
男の瓶を突きだした手が引っ込む気配はない。むしろ徐々に少女に迫ってくる。
少女は観念してもう一口飲む。すると、口からグラスが離れた瞬間に注がれてしまった。見れば手の中には並々と葡萄酒の入ったグラス。そこに無表情の自分が映っていた。グラスから葡萄酒が溢れないようにゆっくり口をつける。少女は男の次の動きを警戒するが、男は笑うだけでまた注ごうとはしなかった。そのまま葡萄酒を一口飲み窓辺を見る。
「お前とこのように酒を交わすことになるとは思わなんだ」
「父様のせいです」
「何故?」
「……何でもありません」
後ろ姿を見て父様のようになりたいと思った、とは口が裂けても言えない、というか言いたくない。
「誰のせいだって?」
「何でもないといったら何でもないんです」
「気になるではないか」
「忘れて下さい」
「教えてくれても良いだろうに」
「しつこい!」
そう言うと寝台に横たわり、男に背中を向いて黙ってしまった。
「今日はノアを怒らせてばかりだな」
男もまた少女に背中を向ける形で寝台に腰を掛けた。
少女は何も言わない。
闇夜の静けさが部屋中を包むと月明かりが二人の姿を浮き立たせる。男はゆったりとグラスを傾ける。この部屋には男と少女以外の気配は感じられない、だが男の周りにはやはり誰かいるように思う。
沈黙を破ったのは男であった。
「お前の意見を聴きたい」
思いがけない言葉に少女が「えっ」と驚きの表情で男を見た。男と視線が重なる。少女が瞬く間に身構えた。
「何だその構えは」
「父様が私に意見を求めるだなんて、嫌な予感しかしません」
「そうか?」
「何を企んでいますか」
「企んでなどおらん。なにを小心者振っておるのだ」
「今日の父様は何を言い出すかわからないので、準備が必要なんです」
「それは常日頃、私やマーサ、騎士たち、所謂身近な者全員がお前に対して思っていることだ」
「えぇっ?」
これまた素頓狂な声が出た。まさか皆からそう思われているとは思いもしなかったのだ。
「まさか。全員とは言い過ぎです」
「賭けても良い。全員だ」
「そんなっ」
否が応でも自らの行いを振り返ることになった。授業を受けずに野山を駆け回るのは日常茶飯事であり、屋敷に来た騎士見習いに(本当はいけないのだが)剣の相手をさせるなど、その他にも屋敷の者たちを巻き込んでの行いは数知れない。
少女は項垂れてしまう。
「我々の気持ちを多少は理解出来たか」
剣以外ても父親に勝てないと悟る。
「以後気をつけます」
「わかれば良い。それに意見を聴くと言っても、返答に困れば応えずともよい」
「本当ですか」
「二言はない」
「それなら……」
と少女は渋々頷き了承する。が、構えは解かずにいた。
男は少女に顔を見、淡々と何事でもないように問うた。
「ホーデンの砦とルビエルの民。双方を天秤にかけた場合、どちらが重いかだ」
構えと共に気を引き締めた少女だったが、それは意味を成さず驚きのあまり声を失っていた。