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レイグリント戦記  作者: 草摩
7/9

目覚め

 黄昏時、ホーデンの砦に篝火(かがりび)が焚かれはじめた。

 薄っすらと暗い室内の中、少女が寝かされている。

 目を覚ます少女。

 自分の置かれている状態がわからないまま、暫く天井を見つめる。

 なぜ寝ているのだろう。

 身をよじると白い敷布が目に入る。診療所の一室。少女は寝台の上にいた。

 少女はぼんやりとした頭で自分に何が起こったかを思い出す。

 ハッとして身を起こすと身体中が悲鳴を上げた。あれほど地面に打ち付けられたのだから当然である。

 痛みが走る身体をゆっくりと寝具に預け、自分の状態を確認した。

 手足は動く。打撲、擦り傷は数しれず。身に付けていた戦装束が外されている。

 

「あっ」


 少女が再び起き上がる。身体中から痛みを感じたが、それどころではなかった。腰の辺りを探る。


「どこ」


 在るべき剣がない。

 騎士にとって剣は自分の分身であり、どんな状態であっても側から離さないもの。剣を手放すことは己の命を投げ出すのと変わらない。少女は男から、そう教えられており、そしてその教えを守っていた。

 寝台から降りようとするが、体勢を崩す。身体は痛みを告げるだけでは足らず、力さえ入らない。慌てて周囲を見る。

 見ると、剣は寝台に立て掛けてあった。すぐ手の届く所にだ。

 父様だ。

 少女は自分の分身がそこにあることに安堵し、そして自分を剣士として扱ってくれているのが父親だということに感謝した。

 柄に手を伸ばし愛剣を引き寄せる。

 決闘の後そのまま運ばれたのだろう、剣身が土で所々汚れている。まるでこの分身だけは、まだ戦いの中にいるようだった。

 琥珀色の瞳が剣身に写し出される。

 次々に蘇る闘いの記憶。

 不甲斐無い。

 少女は自身の瞳から叱責を受ける。

 

「わかってる」

 

 何も通用しないまま、私はここにいる。

 そうだ、わかっていた。

 自分の力では父に勝つどころか、本気にさせることさえ難しいことを。

 勝算がないから闘わず、太刀打ち出来ないなら立ち向かわない、そんな選択肢はなかった。今、行動しなければ自分の進むべき道が遠ざかるばかりか、無くなってしまう。少女はそんな思いを抱いていたのだ。

 長い、長い息をつく。

 手も足も出ないとは先程の戦いのことだ。

 父親との力の差、自分の脆さ、そして何より自分の弱さを思い知らされた。

 もし、勝機があったとすれば最後に揮った父の剣。

 あの瞬間だけだった。

 私はどうすれば良かった

 身を引いて躱すべきだった?

 それでは父の懐に入ることはかなわない。ルビエル騎士団長の父に二度目はない。

 もし捨て身で向かっていたら、剣は父に届いただろうか?

 いや、剣は届かず私は何度繰り返したか分からない地面との対面をしていただろう。

 あの渾身の一撃以上の結果はきっとなかった。

 なら足りないものは……私の力量でしかない。

 再び少女は長い息を吐く。

 目を閉じる。父の呼吸、剣筋が鮮明に思い出される。

 胸の奥が熱くなった。

 敗北。

 その言葉が少女に伸し掛かる。

 室内が更に闇に包まれていく。

 闇に恐怖を感じる年齢は疾うに過ぎているが、なぜか今は恐ろしく、不安を感じさせた。

 灯が欲しい。燭台を取ろうと身を起こすと、暗闇に浮き出るニつの琥珀色の瞳と視線が重なる。

 少女は目を見張り身体を強張らせた。

 気配を消すことに長けた者が目の前にいる。

 無音の間。

 微動だにしない二つの瞳は少女を覗き込む。語り掛けているようでもあった。


「ムーン」


 そこにいる存在が何者か理解すると身体から力が抜ける。

 この灰色狼は少女と共に部屋に入り、離れることなく傍にいたのだった。


 「ずっとそこにいてくれたの」


 灰色狼はゆったりと少女に近づく。そして寝台に音もなく飛び乗ると、その大きな身体を少女へ預ける。


「心配してくれたのね」


 と、その身体を優しく撫でる。


「優しいね、お前は」


 綺麗な毛並みから温もりを感じる。

 幼い頃からこの大きな存在にどれだけ助けられたことか。

 だからこそ、優しさが辛い。

 撫でる手を止めて言った。


「でも今は放っておいて」


 すると灰色の物体は少女に一瞥を向けると、その全身を使って少女の身体を押しはじめた。


「ちょっと……いきなりどうしたの」


 どうしたのではない。見守り、目が覚めるの待っていたのだ。それを優しくするなとはどういうことか、と言わんばかりに唸る。

 少女は慌てて弁解する。

 

「ごめんって。心配させたのは悪かった」


 しかし一向に止める気配と、そして遠慮はない。


「ねえ、力が強くなってる。今の私は守るべき、か弱い女の子なのよ」

 

 その言葉に押す力が一段と増した。

 少女の身体は寝台の端の方へと動いてく。


「いい加減にして」


 少女は剣を置き、灰色狼を力の限り押し返そうと試みるが、敵うはずもない。抵抗を試みるが、それも虚しく寝台の端が背中に迫って来る。

 ようやく灰色狼が動きを止めた時には、少女の身体は絶妙なバランスを用する格好で寝台の縁に乗っていた。

 こうして一人用の寝台は灰色狼によって大部分を占拠されてしまった。


「気が済んだ?」


 灰色狼は応えない。


「だけどね相棒さん。この割合は少しばかり酷いんじゃない?」


 寝台をほぼ占拠した相棒は、片方の尖った耳をパタリとさせる。


「お前は今まで寝ていたんだから、次は自分の番だって言いたいの?」


 大きな欠伸が返ってきた。ご自由に解釈しなさい、である。


「好きで寝ていたわけじゃない」


 相棒が一蹴するように鼻を鳴らす。まるで人のようだ。


「知ってる。だからどうした、ですってぇ。なら怪我人にもう少し陣地を明け渡しなさい」


 と言いながら、少女は怪我のことも忘れ力の限り灰色狼を押し返そうとする。

 だがこの相棒は、少女の力ではビクともしない。

 少女も少女で顔を真っ赤にして押し続ける。

 室内に少女の力んだ声が次々に発せられる。

 二人(?)がじゃれ合っているうちに、室内はすっかり闇に包まれていた。

 砦に鐘が鳴り響く。見張りの交代を知らせる鐘だ。

 少女の息が上がっている。それだけ力を込めたにも関わらず、寝台の陣地に変化はなかった。小さな陣地争いは灰色狼の圧勝である。

 少女は諦めて手足を寝そべっている相棒の身体の上に放り出す。


「あなたなの?」


 男との決闘の際に聴こえた「前へ」という声。あれは聞き間違いなどではない。

 灰色狼は応えない。


「まさかね」


 少女は大きな相棒を抱きすくめる。


「前へ……か」


 相棒が大きく伸びをしたかと思うと、身体が脱力していくのがわかる。どうやら本格的に休むようだ。


「寝るつもり? これからがお前の時間でしょう」


 人間でいう、小首を傾げる動作を行い少女をチラリと見る。

 お前に付き添っていたから疲れた休ませろ、である。


「それはすみませんでしたねっ」


 言葉尻で少女が全身のバネを使い、両足で相棒を押しやった。

 思わぬ動きに不意をつかれた灰色狼は為す術もなく、寝台から落とされた。

 少女はすかさず寝台の真ん中に陣取ると胸元で拳を握る。


「奪還成功」


 床面から唸り声が発せられ、部屋に響き渡る。

 暗闇の中から聴こえるそれは、常人であれば誰しもが驚き、恐怖を感じるのだが、少女には露ほども意味をなさない。

 

「威嚇したって駄目よ」


 寝台の横、相棒が落ちた辺りを慎重に覗き込む。


「あなたは、そこ。ここは怪我人が使う場所なんだもの」


 その言葉が言い終わる前に、闇に身を潜めていた相棒が飛び掛かった。

 少女は相手の動きを予想しており、寝台から剥いだ敷布を相棒に目掛けて投げつける。

 敷布で視界を塞がれ、ほんの一瞬動きが鈍ったが、布きれ一枚で止まる灰色狼ではない。

 その嗅覚に物を言わせ、少女の顔面に向かって寝台を蹴った。

 これには少女の方が驚いた、白い塊が物凄い勢いで顔面目掛けて飛んできたのだ。

 急ぎ、顔の防衛のため両腕を動かすが間に合わない。

 頭と頭がぶつかる大きな音がし、少女の声にならない悲鳴が上がる。

 灰色のそれは、それだけですまさず寝台で蹲った少女を押しやる。


「ちょちょちょっ、ちょっとムーン。やめて!」


 少女の願いは叶わず、床へと落とされてしまった。

 今度は床から少女が唸り声を上げた。


「酷いじゃない」


 灰色狼が寝台から床面を覗くと、少女は大の字のまま睨んでいる。

 起き上がろうにも力が入らないようだ。


「ムーン……」


 暗闇の中で琥珀色のニつの瞳が少女を見ている。

 その瞳は同じ琥珀色でも自分とは朗らかに違う、灰色狼の持つ瞳は強者のそれだ。

 父親の瞳も色は違えど同じ強者の瞳だ。

 決闘が脳裏に蘇る。

 透き通るような靑空と舞い上がる土埃を何度見たことか。

 地面に転がされ、何度父親の顔を見上げたことか。

 こんなにも弱く、無力だ。今も動けずにいる。

 瞳が閉じられる。


「私は弱い。護られるだけで、父様の無事をただ願うことしか出来ない存在。それが嫌だ」


 少女の声が静寂に消えていく。抱えているものが溢れ出さないよう息を殺して必死に堪えていた。

 今、涙を流してはいけない。

 溢れさせてしまえば、きっと折れてしまう。

 一度折れた心は、どんなに時が経っても必ず棘が残る。

 その棘は不意に自分を刺し、前へ進むことの妨げになる。折れたものは元通りになることは、ないのだ。

 自身を強く抱きしめる少女。

 寝台の上の相棒はじっとしていた。少女が自分で乗り越えるのを待っているようにも見える。

 闇が一層濃く感じる。

 ふと、寝台に横たえていた灰色の身体が動き出した。その先には少女の剣。剣身を咥え少女へ剣を差し出す。

 琥珀色の瞳が少女を見下ろす。

 お前には自分と剣がついている、と伝えているようであり、泣く暇があるならこの剣でするべきことをしなさい、ともとれる。

 剣を受け取る。ずっしりと重く感じる。

 

「すべきこと」


 剣を持つ手が熱を帯びはじめる。その熱は手から肩へ、肩から身体へと少女の全身を巡る。

 少女の身体は心より先に灰色狼に応じていた。全身を巡った熱が少女を気づかせる。

 自分を鼓舞し前へ進ませるのは、自分でしかない、と。

 

「そう……ね」


 決闘の結果を嘆くのはいつでも出来る。思い返したところで現状は何も変わらないのだ。


「ムーン」


 少女が声を掛けると、琥珀色の瞳が消えた。灰色狼は呼びかけに応えもせず少女とは反対側へ寝台から飛び降り、扉へと向かう。


「ありがとう」


 部屋の入口から人の気配がしたかと思うと、扉が開いた。

 中に入ろうとした男が灰色狼と鉢合わせになり、おおっ、と声を上げる。

 驚かれた方は横目で入って来た男を一度見て、次はお前の番だとでも言うように横を通り抜け部屋の外へ出ていった。


「ノア」


 暗がりへ言葉を飛ばす。

 返事はない。

 少女というと床から動けずにいた。

 父親の登場にどうしていいか分からないのだ。

 男が燭台に火を付ける。部屋の闇が炎に照らされた。

 男が少女を寝かせた寝台を見る。


「どこにいる」


 父親の足音が聴こえる。

 入口から寝台へ近づいてくる。


「ノア」

「大丈夫だから、来ないで」


 必死に平静を装った声が寝台の奥から聴こえる。

 男が歩みを止めた。そして姿が見えなくとも少女がいることに安堵の息を漏らす。

 少しの間。

 男は何でもないように言葉を発する。

   

「そう邪見にするな」

「してません」


 意識するあまり、普段とはかけ離れた声色が出る。

 男が微笑みを浮かべる。

 笑ってはいけないのだが、今の少女の心持ちが若かった頃の自分と重なる。

 己の不甲斐無さ、悔しさを見られることを勝気な部分が邪魔をする。もちろんそれだけではないが、自分自身を制御出来ないのだ。


「思ったより元気があるではないか。もっと落ち込んでいるかと思っていたぞ」

「落ち込んでます」

「ムーンがいたな。慰めてくれたか」

「……」

「座るぞ」


 と、男は少女に背を向けて寝台に腰を下ろした。


「先に言っておくが先程の決闘は、ノア、お前の勝利だ」


 父親が何を言ったのか理解出来なかった。

 決闘の後、気を失っており男と副官、灰色狼のやり取りを知らないのだから当然である。


「最後に揮った剣。あの一撃は誰もが認めるのものであった。そして私もその一人だ」

「……」


 男は少女の言葉を待つ。

 少女は答えられない。剣は届いていないのだ。誰が認めようと自分が認められないのだから、男の言葉を受け止めることに抵抗がある。 

 外から蹄の音が聴こえる。


「見廻組か、もうそんな時間か」


 男は騎士団の小隊に近隣の村を見廻をさせていた。

 ホーデンの砦を襲撃しようなどという肝の座った野盗はいない。しかし村にはそういった輩が現れることがある。

 砦の近くだからこそ、灯台下暗し、警備が薄いと考えるような輩だ。小物には変わりないのだが、そこに住む人々にとっては大いに脅威であった。

 出発前なのだろう、若い騎士の話し声か聴こえてくる。


「お前聴いたか?」

「団長と姫様のことだろ」

「見たやつは皆、姫様の勇気を称えてる。俺も見たかった」

「剣術もすごかったらしい。団長相手に一歩も引かなかったんだと」

「らしいな、それに団長の剣を……」

「整列!」


 隊長の号令が聴こえると雑談は途切れ、騎士たちは去っていった。


「この通り砦中、お前のことで持ちきりだ」


 なぜか誇らしげに言う男。

 それはそれで気になるが、騎士らの自分に対する評価を直に耳にするのは、相当に恥ずかしいものがある。


「一つ聴くが、試合で私から剣を手放させられる剣士が何人いると思う」

「いるのですか」


 いきなりの問に思わず声が出た。

 父親より優れた剣士を少女は実際に見たことがない。

 男が声を上げて笑う。


「いるとも。グレイス王弟殿下と近衛騎士団長のアルゴート。この二人は確実に私より上だな。それに今は名を聴かなくとも、これからの若い騎士たち。私と肩を並べるであろう騎士たちが数多くいる」

「そんなに」

「世の中は広い。日々の鍛錬を怠っては置いていかれてしまう。だが、若い者には遅れをとらぬし、またとらさせぬ。それにな次の御前試合で勝ち進めばレイヴェル殿、アルゴート殿との戦う機会がある。もちろん負けるつもりはない。

 ノア、もう一度伝えるがこの私から剣を手放させる剣士は限られている。お前はそれを成したんだ」


 少女が呆気にとられる。

 これ以上ない称賛と心に残る敗北感が内側で攻めぎ合っていた。

 男がゆったりとした口調で続ける。

 

「胸を張りなさい。決闘でこのルビエル騎士団長から一本を勝ち取ったのだと」


 裏のない言葉に舞い上がりそうになる気持ちを必死に押さえ込んだ。

 ゆっくりと床から立ち上がる。

 大きな背中が自分を待っていた。いつも見ている背中である。いつもと違うのは、存在をより大きく感じた。

 背中を向けたままの姿は自分を受け入れていた。少女はこの背中に応えたいと思う。


「決闘は私の負けです。それに最後のは私の実力じゃありません」

「実力ではないとしよう。だが剣を手放していたのは私であり、またそれをさせたのはお前だ。それが事実だ」

「ですが父様」

「認めることも大切なことだ。観ていた騎士たちは皆、お前を褒め称えているぞ。今のように団員の話は昼間の戦いで持ち切りだ。誰もがお前の話を聞きたがっている。それにな……」

「はい」

「お前が自分の勝利を認めないように、私も己が勝利したとは全く思っておらんのだ。だから父に再戦をする機会をくれぬか?」

「えっ?」

「すぐにではない。そうだな……冬を越し緑が芽吹き出すたびがよい。お前と剣を交わしたいのだ。手心は一切なしだ。そのためにはノアが勝利を認めねば、私としても申し込めぬのだ。どうだ」


 どうだではない、こちらへ配慮しているように話してはいるが要約すると、今後も男と腕試しをしたいのなら勝ちを認めろ、ということだ。

 男が更に続ける。


「結果に納得がいかず、己の未熟を痛感しているならやるべきことは分かっているのだろう」

「ええ。ムーンにもそう言われたんだと思うんです」

「そうか。あのルビエルの象徴は不思議な力を持っているのかも知れんな」


 遠吠えが聴こえる。


「ほらな、何もかも把握しているのは誰でもないムーンだと思わされる」

「声が……」

「何だ?」

「いえ、何でもないです」


 声に出してしまったが、決闘中に聴こえた声のことをムーンと関連付けるのはさすがにやめた。


「次の戦にも同行させる」

「本当ですか!」

「ただしお前が勝ちを認めなければ、連れては行かぬ」

「それはっ」

 

 狡い、と言う言葉を咄嗟に飲み込む。少女は勝利を認めるしかない。

 少女は剣術だけでなく、駆け引きでも父親にはまだまだ及ばないことを知るのであった。

 

「わかりました、わかりましたよ。私の勝ちです。私は父様に勝ちました。ただし約束は守ってもらいますからね。戦も次の父様との試合も」

「それでよい」


 男が優しく微笑む。

 すべて男の掌の上である。


「お前に剣を教えてほしいと頼まれた時を思い出した。もう7年か、早いものだ。10歳になったばかりのお前が当然の様に小剣を手に私の前に来て、私は父様のような王国一の剣士になる、だから剣を教えて下さい、そう私に言った。

 お前の意気込む姿に驚いたものだ。反面、子供の一時の夢、憧れとも思った。その時はすでに剣の道しか知らぬ私しか近くにいないのだから仕方がないとも。

 シェリル……母親と過ごす時間は余りにも短すぎたからな……。

 お前に剣を教えたことを後悔したことはない。……ないが、別の道を示してやれなんだ」


 父親の言葉に思わず反応する。


 「社交界に興味を持ったことなど一度もありません。物心がついた時から決心しています。私の道は……」

「そう焦るでない」


 男が少女の言葉を遮った。そして、一間置くと。


「何れ選択を迫られる時が来る」

「社交界に足を踏み入れるか、否かなら、答えは決まっています」

「そうだな。そうなのだが、そのような些事ではない」

「何を言っているんですか」

「お前は宿命を持ってこの世に生まれた」


 少女は予想外の言葉に驚く。


「まさか父様から予言めいた言葉を聴くとは思いませんでした」


 予言、占いといったものは軍隊を采配する男にとって、戦で勝つために勢いづかせる一つの手段である。だが男個人としては自分や仲間の生死をそんなものに委ねることはない。何より王国の存続に関わる問題を確証のないものに委ねることはないからだ。


「どういうつもりですか」


 はははっ、と静かな笑いが漏れる。


「予言か。生きていれば誰しも分かれ道が現れ、選ぶ時がくると言うことだ」

「それはそうだけど……」


 誤魔化されたとしか感じない。


「何だ?」

「父様が口にする言葉とは到底思えなくて」

「そんなにおかしいか?」

「マーサが聴いたら、卒倒してます」

「それは余程のことだな」

「それで、何を隠しているんです」

「何のことだ?」


 少女は軽口の中で再度聴いてみたが、男は応えるつもりはないらしい。


「教えてはくれないのですね」

「選ぶ時が来る、誰にでもな。もちろん私にも、お前にもだ。それだけのことだ」


 これ以上は聴いてはならないようだ。

 男が口調を変える。


「女性は女性らしく社交界に在るべきと疑問を持たずにいた。それは間違いだった。ノーマン、それにムーンにも言われたよ。お前は自由なのだと、自分の意思があり進むべき道を、私から見たらまだまだ小さなその手で掴もうとしているのだと。それを親が邪魔するものでないとな」


 男の瞳が真っ直ぐに少女を見る。


「ノア。私はお前の選ぶ道を見届けたい。自分の思うままに生きなさい」


 自分を一人の人間として認める言葉。

 男は少女の返答を待たずに背中を向ける。

 少女の瞳からは涙が溢れ出ていた。あっという間にぐしゃぐしゃである。

 優しい背中だ。 

 この父親の娘であることに、今までにない誇りと喜びを感じた。 


「はい」


 その一言で十分であった。

 灰色狼たちの遠吠え。

 

「ムーンだな。どこで見ているのやら、あやつには真に敵わない」 


 男の背中に少女が背中を預ける。


「おい。甘える年頃でもあるまいて」

「少しだけ」

 

 遠吠えは続く。祝福と言うには少々荒々しい、だがこの父娘にとってはこの上ないものであった。

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