少女と辺境伯(2)
父娘を乗せた馬車はホーデンの砦に至る道を進んでいた。
馬車の客車に暖かい陽射しが降り注ぐ。
男は窓から洩れるその陽射しを見て、もう何度ついたかわからないため息を再びつく。
男のそんな姿を正面から見ている少女は身体を小刻みに震わせている。男からため息が出る度に笑いが込み上げてくるようだ。
男は男で少女の懸命に笑いを堪えている姿を何度も見るうちに機嫌が頗る悪くなっていくのを感じる。
そしてそんな自分にまたため息を漏らすのであった。
「ぐふっ」
どうやら今回は堪えそこねたらしい。少女らしからぬ低い息の音が客車に響く。
「ノア、いい加減にしろ」
「ご、ごめんなさい。で、ですが……」
少女は言葉を続けようとするが、それは無理なことだった。
堪えそこね歯止がきかなくった気持ちは、特大の笑い声となって現れるしかなかった。
刹那。男の硬く握られていた拳の形が手刀に変わり少女の頭上に落ちた。
ズドン。少女の頭から鈍い音が出る。
「!!」
あまりの痛さに苦悶の表情になる少女であった。
漸く静かになった少女を見て男はまたため息をつく。外を見ると陽光が草木などの自然を輝かせている。全くこの娘には困ったものだと思う父親であった。
というのも、ホーデンの砦に出発する直前のことだ。
少女とムーンが屋敷に走り出した後、男は歩みを緩めることなく正門に向かった。正門では副官のノーマンを筆頭に騎士達が男を待っていた。
男が副官に幾つかの確認をする。
問題ない。
少女が紛れこもうとした補給隊は小者が急ぎ荷積みをしているものの、男の予想した時間には出発が出来る状態であった。
いつも見送りにくる執事と侍女頭の姿がない、きっと少女の対応に追われているのだろうと男は想像する。
少女が現れないことに一抹の不安がよぎるが、男は声を発した。
「ノーマン」
副官が頷き視線を返す。そして出発を騎士達に告げた。
「皆の者、出発する!」
ノーマンの号令で騎士達が騎乗しはじめる。男は愛馬の正面に立ち、自分の額を愛馬の額に合わせる。いつもの儀式だ。
「サン、調子はどうだ?
(間)
そうか。
(間)
よろしく頼む」
と、騎乗しようとした正にその時。
屋敷から男を呼ぶ声がしたのだった。
「ルーク様! いえ、若様!」
男を若様と呼ぶことが出来るのは、屋敷でも一人しかいない。その人物とは侍女頭のマーサである。侍女頭が少女と狼を引き連れて猛然とこちらに向かってくる。
侍女頭の「若様!」と言う声に、男の脳裏には少年の頃の記憶が蘇ってくる。懐かしい響きだが、決して男の内面は穏やかではなくなった。
侍女頭を見る。昔、男が悪行を行った後に必ず現れていた表情がどんどん男に近づいてくる。
「マーサ、何事だ」
目の前にやってきた侍女頭に、男は平静を装う。
「何事だ、ではありません」
「いや、そのように慌てている姿を久々に見たものでな」
「どうしても若様にお伝えしなければならないことが出来まして」
侍女頭は男の顔を真正面から覗き込む。男は思わず視線を外した。外した先で少女が小首をかしげ片目を瞑っている。
要約すると、「お父様ごめん」の仕草である。
少女は父親の視線に殺気を感じ、そっぽを向いた。
「若様」
「はい!」
男の口から思わず裏返った声が発せられる。
その瞬間、周りに集まっていた騎士達かざわつきはじめる。男は何でもない風を装い咳払いをするしか出来なかった。
「わたくしの話を聴いておられますか」
「もちろん。ノアがまたムーンを屋敷に入れたことが原因か?」
「それくらいのことでは、わたくしは若様の出発の邪魔などいたしません」
「ならば何をしでかしたのだ、ノアは。……その前に若様は止めてくれないか」
「何か不都合でも?」
「皆が見ている」
侍女頭は辺りを見渡す。その目には動揺する騎士達の姿が視界に入ったはずだ。
「ええ、皆様がいらっしゃいますね」
「だろう」
「それが何か?」
それが何か、ではない。レイグリントの盾とまで称された騎士ルーク・ウィルコートである。男の心境はもちろん、騎士達も主が侍女に叱責される姿は見てはならぬものを見させられているようで、何とも居心地が悪い。
「姫様の行いがわたくしにルーク様を若様と呼ばせているのです。そして姫様の行いはもちろん若様の責任です」
最もな言い分である。そして侍女頭は敢えて若様を強調して言葉を発した。
男は再び少女を見る。少女は目も合わせない。
「ルーク様、大事なお話のようですので私どもは先に出発いたします」
見兼ねた副官が助け船を出す。
その瞬間、多くの者が感謝したのがわかる。中でも一番感謝をしている男が副官に言葉を返す。
「そうしてくれ。すぐに追いつく」
戦場でもこれほど焦ることは滅多にないのだがな、と男は思う。
少女と同様、男もまた母親を早くに亡くしていた。母親に変わってずっと支えてくれたのは侍女頭である。男にとって侍女頭は母親のようなに愛情を与えてくれた人であり、抗えない存在であった。
そんな侍女頭の突然の襲来はいくら王国の盾と言えど耐えられることではない。
騎士達は副官に従って発って行った。侍女頭はその間も背筋を伸ばし毅然と待っていた。
男は戦場に向かうような気持ちで、侍女頭に振り返る。
「ルーク様、申し訳ありません」
頭を下げた侍女頭がそこにいた。
しかし騎士達が去った後に敢えての「ルーク様」である。侍女頭には依然として歯が立たないと感じる男であった。
「いや、問題ない」
侍女頭は頭を上げるとにこやかに男に問う。
「しかし総大将ともあろう方が、これしきのことで動揺されてはなりませんよ」
むしろ動揺しない人間がいるなら教えを請いたいものだと、男は思う。
「動揺しておったか?」
「ええ、わたくしなどに悟られるほどですからね」
「昔を思い出したよ。私もまだまだ修行が足りんな」
「その謙虚の気持ちが大事です」
「かたじけない。で、ノアは何をやらかしたのだ?」
「それはもう……、姫様」
少し離れて控えていた少女が侍女頭に呼ばれ、頬をポリポリと掻いた。
「えっとそれは……」
目が泳いでいる。
「姫様」
侍女頭がピシャリと言う。
「そんなに大した事じゃないんですよ」
侍女頭の二つの瞳が大きくなり少女に振り向く。すぐさま小さい悲鳴が漏れた。
大した事であるため、この状況なのだ。
「一歩間違えば大怪我になっていたかもしれないのですよ」
「そんな大袈裟よ」
「姫様!」
少女の軽い言動に侍女頭の特大の雷が落ちた。
「ごめんなさい!」
侍女頭の恐さを初めて知った少女、そして改めて感じた男であった。
侍女頭は固まっている少女を促す。
「お父様に報告をするのです」
「はい」
少女が下を向き一瞬の思案をする。
「ごめんなさい。言いつけ通り屋敷の皆に謝っていたのですが……」
少女が状況説明をはじめた。
間。雲一つない碧天の下、少女たちの時間だけが止まっているようであった。
いつの間にやってきたのか、灰色狼が少女の隣で少女と同じように頭を垂れている。
屋敷で何が起きたかというと。
男の言いつけ通り少女は謝罪をして回っていた。ただ誰に迷惑をかけたか聴き出す時間がないため、会う人間片っ端から謝って回ったのだ。
ただしムーンを引き連れて。
屋敷の者は少女が灰色狼と仲が良いことは話に聴いていたが、実際に灰色狼を間近で見たことのあるはほとんどいない。そしてムーンは少女と変わらぬ大きさの狼だ。
それ故に、ある者は悲鳴を上げ、ある者は持っていたものを放り出して逃げ回り屋敷内は混乱に陥った。
そこに新任のマナーの教師が少女と灰色狼と鉢合わせになった。
少女は謝るために教師に走り近づく。灰色狼もまた少女を追う形で続いた。
それが良くなかった。
咄嗟のことに教師は少女が狼に襲われていると勘違いし、勇敢にも少女を助けようと灰色狼に目がけて体当たりをしたのだ。
が、教師の身体は灰色狼に当たることはなかった。ムーンは体当たりを難なく避け、教師はそのまま柱に頭から突っ込んでしまった。ゴンッという音が響き、教師はズリズリと床に落ち意識を失ってしまったのだ。
そこに騒ぎを聞き駆け付けた侍女頭が現れ、少女から事情を聞き「若様」に至る。
少女が話す間、屋敷から引っ切り無しに被害報告が侍女頭のもとへ伝えられた。
教師はすぐに意識を取り戻し大きな怪我もないが、今は念のため屋敷の一室で休んでいること。
花瓶が割れた、新調したばかりの絨毯がもう使えない、何人もの侍女、小者が腰を抜かして動けずにいること。
姫様が襲われたと思ったものは他にもおり、無事を確認する者など様々である。
中でも男が肩を落としたのは、侍女が逃げ出した時に放り出した物に男が長年愛用していた茶器があったことだ。その茶器は全く原型を留めないほど粉々になってしまったらしい。
「以上です」
少女の話と侍女たちの報告を聴き終えた男から盛大なため息が漏れる。そして自分が疾に出発していたはずの道を見る。
当然のことだが、騎士達の姿はすでに見えなくなっていた。
少女の報告が終わると「若様」と再び声がし、父娘揃って侍女頭の有り難い話を聴くことになった。
そして男は少女を守ろうとした教師に謝罪をし、今度こそ出発という時に侍女頭より新たな御達しが出た。
「ルーク様。姫様は暫くの間、お屋敷に入ってはなりません。姫様のおかげで辞めてしまった者たちに変わって新しい入った者たちばかりです。今辞められては屋敷が立ち行きません。ホーデンの砦へ立たれるとのことですから、元気の有り余っておられる姫様をお連れください。姫様がお帰りになる際は鳥を飛ばして知らせていただけれぱ、その後は何とかいたします」
男はがっくりと肩を落とす。
「ノアを連れていくことは出来ない」などと言える雰囲気は微塵もない。男は侍女頭に顔を向けると口角を上げた。
「わかった」
そう一言伝えるのが精一杯である。
そのような経緯があった後の父娘だけの客車。
男からは依然としてため息が漏れ続けている。
少女はというと、女頭のお説教によりだんだん小さくなっていく父親の姿を目の当たりにし、自分のせいだと申し訳なく思う気持ちを持ちながらも、それ以上に侍女頭と父親のやり取りが可笑しくて仕方がないのである。
また男がため息を漏らし、少女を見る。
少女は込み上げてくる感情を抑えようと必死になるが、侍女頭の姿と父親の姿が忘れられない。
再び男の手刀が少女を襲った。
「!!!」
ホーデンの砦まで後数刻。
先が思いやられる男であった。