小山内マキコは告白する
小山内マキコが、幼馴染の慎二に胸の内を話し始めてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
カウンターの上には、半端に手がつけられた卵焼きが2つ残っている。最後に頼んだお酒は冷やで頼んだものだったが、恐らく温くなってしまっているだろう。
「……”理解できない人”って、いるじゃん」
マキコは、重たくなった口を強引に開く。難しい顔をして黙り込んでいた慎二が、ゆっくりとマキコの方へ顔を向けた。
「相手がどうでもいい人だったら、多分、まだいいんだよ。でも、どうでもよくない人だったらさ」
脳裏に過ったのは、彼の人の顔だけではなかった。
マキコにとって”どうでもよくない相手”は、もう1人いる。
ーーねぇ、お父さん。
「”理解する努力”をしてしまうんだよね。なんでこうなったんだろう、どうしてこうなったんだろう……って、因果を探す」
でもさ、とマキコは続ける。
「因果なんて、多分ないんだよ。例えあったんだとしても、私からしてみたら、それは因果だとは思えないようなことなんだと思う」
慎二は、マキコの言葉に目を伏せた。何か感じるところがあったのだろうか。
彼の壮絶な体験を聞いた後では、自分に起きたことなど些細なことだったのかもしれない……そう、マキコは思っていた。でも、いざ話そうとして脳味噌の中を探っていくと、やはり未だに生々しい痛みが在ることに気付かされた。
マキコは手持ち無沙汰になってしまって、江戸切子の美しいグラスに口をつける。やはり酒は温くなってしまっていたが、その分感じられる風味が増したようで、豊かな香りが鼻を抜けていった。
少し前に偶然、街の交差点で”彼の人”とすれ違った時のことを、マキコは思い出していた。”元・職場”から徒歩で行ける場所にある、VLOGで観たあのカフェの、帰り道。随分遠くの出来事のように感じられるが、ついこの間、起きたことだ。
人の良さそうな顔は、呆気に取られてしまう程に相変わらずだった。そして彼が、近くですれ違ったマキコに気がつく気配は、微塵もなかった。自分の存在の重さなんて、所詮はその程度だったのだーー思いがけず再会してしまったショックに加えて、新たに気付かされた、痛み。
ーー目の前の相手が血の通った人間だと思ってない人って、腐るほどいるよね。
そう言ったのは、蓮見だったか。
マキコが彼女に、自分の身に起きたことを伝えたときのことを思い出す。蓮見は、苛立ちを剥き出しにしてマキコにぶつかってきた。
「戦いなよ!」
SNSの無料通話って、海外からでも意外と音質がいいんだなーーぼんやりとそう考えていたマキコの頭を、蓮見は正面から殴ってきた。
「泣き寝入りするの!?」
泣き叫ぶように蓮見が言う。そしてマキコは、ああ、とため息を吐いた。
蓮見は、マキコの身に起きたことについて、それが”どうにもならない”ことだということを、痛いほどわかっていたのだ。
考えてみれば、当たり前の話だ。悪趣味な言い方だが、マキコと彼の人との間には、何もなかった。ただ、仕事帰りに時折、手を繋いで一緒に帰っただけの関係。本当に、それだけだった。マキコが周囲にその関係を打ち明けたことはなかったし、彼の人も、恐らくそうだっただろう。何かしてやりたいと思っても、何ひとつ、証明しようがなかった。
全てをわかった上で、蓮見はその理不尽さを嘆いてくれていたのだ。
責めるような口ぶりは、マキコが苦しさを口に出せない分まで、蓮見が怒ってくれていた証拠だった。
マキコが物思いに耽るのを中断して慎二の方を見ると、彼は、目を伏せたまま黙り込んでしまっていた。
重たい空気を打開するつもりで、マキコが口を開く。
「……これが、転職した理由。“適齢期”の娘が、親に笑って話せる話じゃないでしょ?」
切子のグラスをゆらゆらと揺らすと、照明の光がカウンターの四方八方にキラキラと散っていく。ああ、綺麗だな……とマキコは思った。
「またさ、転職活動がものすごい順調だったんだよね、皮肉なことにさ……逆に、辛かったな。神様、っていうの?何だろう……見えない力に、“お前の居場所はここじゃないよ”って、言われてる気がした」
グラスに残ったお酒をくいっと煽って、それからマキコは言う。
「逃げ出したのは、自分の意志なのにね。神様もいい迷惑だ」
慎二は、やはり何も言わなかった。マキコは、彼が何を考えているのか気にはなったけれど、ありきたりな言葉で慰められるよりも、ずっとありがたいと感じていた。
「ほんと……くだらなくて、嫌になるよ」
「くだらない、って言うなよ」
そこでようやく、慎二が口を開いた。マキコは思わず彼の方を見る。難しい顔をしているが、落ち着いた表情だった。真剣な様子の慎二と正面から目が合ってしまい、マキコの心臓は軽く跳ねてしまう。
「くだらなくなんか、ないだろ。ただでさえ傷ついてるのに……自分で自分を、もっと傷つけてどうするの」
慎二の言葉は、マキコに言っているようにも聞こえたし、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。マキコが感じた”同族意識”を、慎二も持ったのだろうか。あるいは、持って欲しいというマキコの願望が、そのように見せているだけなのだろうか。
「……感傷に浸りたいなら、止めない。それも、必要なことだと思う。でも」
そう言いながら慎二は、視線を僅かに上へ滑らせた。
「その髪」
そう言われて、マキコは思わず自分の髪をくしゃり、と梳かした。
「前に、進みたかったんじゃないの」
マキコはゆっくり目を瞬きながら、視線を彷徨わせた。
ーー触れられたくない、でも、どうか触れて欲しいと思っていた場所に、触れられた感覚があった。
唇が震える。目に何かが溢れてくるのを感じたが、マキコは必死に堪えた。
込み上げてくる感情を押し殺すために、奥歯をぎゅっと噛み締める。
「……10年以上も会わないと、お互い……いろいろ、あるね」
そう告げるのが、マキコの精一杯だった。ありがたいことに、慎二もそれ以上は追求してこなかった。
「そうだな」
「“現実は小説より奇なり”って、本当にあるんだよね」
「うん」
マキコは少し躊躇いつつ、慎二に尋ねてみた。
「……元奥さんのこと、どう思ってるの?」
慎二は目を逸らした。思いもよらない質問だったのかもしれない。そして、視線を戻した彼と、再び目が合う。
「どう……って?」
「……”幸せでいて欲しい”って、言える?」
マキコの言葉に、慎二の視線が中空を彷徨う。自分の気持ちに合う言葉を、探しているように見えた。
「……“元気でいて欲しい……ただ、俺の視界には二度と入ってくれるな”、かな」
穏やかな物言いだったが、言葉は強かった。それでも、とマキコは思う。
「……優しいね」
「そう?」
「うん。私は、そう思った」
「マキは?その…手を繋いでた、相手」
「そうだなあ……」
マキコは、目を閉じた。
息をひとつ吐く。そして、口を横に引きながら目を薄く開く。ゆっくり目を瞬いた後、横目で慎二を見た。
「”私の預かり知らないところで信じられないくらい不幸になれ”って思ってるよ」
マキコがそう告げると、慎二はきょとんとした後、声を立てて笑った。
*
駅まで送るよ。
慎二のその提案を、断る理由は見つからなかった。
すっかり静かになった街を歩きつつ、マキコも慎二も、積極的に口を開こうとはしなかった。温いような冷たいような微妙な街の空気に、ただ、身を委ねる。春が近いのだということが、肌で感じられた。
マキコは、歩みを止めた。自ずと、慎二から2メートルほどの距離ができる。マキコが自分から離れた気配を感じ取ったのか、慎二が足を止めて振り返った。
「……あのさ」
私は何を言おうとしているのだろうーーそう、マキコは思う。酒でふわふわした頭と口が、まるで別々の生き物のように感じられた。頭は上手く働いていないのに、口だけが意思を持って勝手に動いているようだった。
どうやら、私は決めたらしいーーマキコは若干、他人事のようにそう思った。
ーー長年抱えた思いにケリをつけるなら、今だ。
「……あの時、逃げて、ごめん」
慎二は、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。もし、彼がたったこれだけの言葉でマキコが言わんとすることを察していたとしても、彼にとっては今更な話なのかもしれない。
しかし、マキコにとっては、現在進行形の話だった。
十年前、マキコと慎二の間に起きたこと。
自分が、何をしたのかということーーマキコは、それをずっと忘れることができなかった。
慎二が伸ばした手を、拒んだこと。
そして、その場から逃げ出したこと。
「あの頃、いろいろあって。すごい、辛いことがあって。でも……それを誰にも言えなくて」
同じ時期に起きた父にまつわる出来事は、やはり、口にすることは出来ない。
そのせいで、先程の決意とは裏腹に、歯抜けな話をせざるを得なくなってしまう。
これで、通じるのだろうかーーマキコは、不安を抱えながら、何とか言葉を繋いだ。
「慎二の気持ちとも、ちゃんと向き合えなかった」
情けなかった。この歳になってもなお、こうして子どものように狼狽えてしまう瞬間があることが、たまらなく恥ずかしかった。慎二はマキコの動揺をよそに、静かに彼女の目を見つめている。
「……ねえ、どうしたら言いたいことって言えるのかな。そもそも、言った方がいいのかな?私」
マキコはそこで言葉を止めた。無茶苦茶だ。
慎二のこと、父のこと、“彼の人”のこと。すべてが一緒になってしまっている。話の着地点が、自分でも全く見えない。
「どうしたら良かったんだろう」
“免罪されたい”という一心で、今自分は思いを吐き出しているーーそう、マキコは思った。
マキコは、許されたかった。
慎二にしたことを、許して欲しかった。
そして、父を、“彼の人”を、許してないという事実を、許して欲しかった。
解放されたかった。
この苦しさから、抜け出したかった。
マキコは、右手で左腕にギュッとしがみつき、俯いた。そうしていないと、立っていられなくなりそうだった。
「答えが見つからない。出口なんて、ずっと見えない。このまま……ずっと苦しいまま生きなきゃダメなのかな」
喉の奥が苦い。何かを堪えるように、ギュッと身体に力が入る。
その時。
不意に、キンキンに冷えていたマキコの右手に、温かさが灯った。
いつの間にかマキコの目の前にいた慎二の手が、遠慮がちに彼女の右手に触れたのだ。
マキコは肩をビクッと震わせたが、慎二は動じない。優しく、繊細なガラス細工を扱うように、マキコの右手に触れている。慎二はマキコの右手を、そっと左腕から剥がした。マキコは、縋るような気持ちで握っていた左腕に、血が通っていくのを感じた。無意識に強く握りすぎていたようだ。
「言ったらいいよ」
「……え」
口から出たマキコの声は、掠れていた。慎二はマキコの顔を静かに、そして真っ直ぐ見つめたまま、話を続ける。その手は優しく労るように、マキコの右手に触れていた。
「言ったらいい。言いたいことだけ、言ったらいい。言いたくないことは、言わなくていい」
上手く言葉を紡げないマキコの代わりに、沈黙を丁寧に埋めるようにして、慎二が話してくれているのがわかった。
「自分の気持ちをさらけ出すことが、必ずしもいいことだとは思わない。でも、いざ誰かに何かを言いたいって思った時に、きちんと口に出せるようになったら……生きやすいんじゃないかなっていう気はする」
マキコは、俯いていた顔を上げて慎二の顔を見た。自然と、目が合う。
今度こそ、マキコは込み上げてくるものを抑えることができなかった。視界が、目の表面を埋めるように拡がった水によって、大きく揺れ動く。
「……うん」
慎二が十年前に伸ばしてきた、手。
父が知らない女性と繋いでいた、手。
”彼の人”がマキコに差し出した、手。
ーーそして今、マキコに触れている慎二の、手。
どうしてだろう。
”手に触れる”という行為にはろくな記憶がないのに、どうしてこうしてまた、人の手を”温かい”と感じてしまうのだろう。
どうして、こうして人の手に触れられることが、嬉しくてたまらないのだろう。
誰も、許してはくれない。
自分で自分を許すことも、できない。
それでも私は生きていくし、生きていくしかないのだ。
こうやって、時に都合よく、他人に癒されたりしながら。
ーーそう、私は、とんでもなく都合がいい。
でも、今はこの温かさに甘えたかった。
甘えていたかった。
マキコは静かに、涙で頬を濡らし続けた。
その右手には、慎二の手によってもたらされた温かさが、いつまでも灯り続けていた。