小山内マキコは再会する
せっかくだから、地元で飲まない?
”彼”から電話口でそう言われたとき、小山内マキコは一瞬考えた。なぜ、わざわざ地元なのだろうとーーしかし、断るに足る積極的な理由も見つからなかったので、その提案を受け入れることにした。
マキコの地元は、都心から四十分ほど電車に揺られて到着するような場所にある。都会にそこそこ近く、自然もそこそこ在るその街は、今も昔も家族層に人気のエリアだ。
数年ぶりに地元を訪れるために、マキコは電車を二回乗り継いだ。久しぶりに乗る路線に若干戸惑いながも、何とかミスなく地元の駅に到着した。乗り換え検索アプリ、万歳。
電車を降りると、駅の構内も、そして駅の外もどことなく風景が変わっているような気がした。しかし、具体的にどこがどのように、と聞かれても、マキコにはわからない。地元って、そんなものだ……少なくとも、マキコにとっては。
彼が指定した店は、いかにも地元密着型といったような、素朴な佇まいの居酒屋だった。店の暖簾をくぐり、古びたガラスの戸を引く。キョロキョロと見回すまでもなく見渡せる店内は、ほぼ満席だった。待ち合わせの相手は、まだ到着していないようだ。
「予約のお客さん?カウンターの奥へどうぞ」
ふくよかで人の良さそうなおかみさんからそう促され、マキコはカウンター席の一番奥に腰掛けた。程なくしておかみさんが、ほかほかのおしぼりとお茶を持ってきてくれた。
「お連れさんが来るまで、メニューでも見ながらのんびりしててくださいね」
おかみさんの言葉に、マキコはホッとする。先にお酒を頼まなければいけない雰囲気だったらどうしよう、と思っていたのだ。マキコはついこの間、酒で失敗したばかりである。とはいえ、先に酒だけ頼んでしまえば、間がもたなくて知らず知らずのうちに酒量が増えてしまうに違いない。彼が来る前に酔っ払ってしまうのは避けたかった。
マキコは、手元のメニューや、壁に貼られているお品書きをゆっくり眺めながら時間を潰した。程なくして、ガラガラ、と店の引き戸が開く音がする。おかみさんが客の顔を見るなり「いらっしゃい。お連れさん、来てるよ」と声を掛けた。どうやら、おかみさんとマキコの待ち合わせ相手は、顔馴染みらしい。
マキコは入り口の方を見て、無言で手を挙げた。彼は、手を挙げているマキコを確認して一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに表情を和らげて、こちらへ歩いてくる。
「久しぶり」
「うん」
「マキだって一瞬、わかんなかった」
「まあ、そうなんだろうね」
マキコは無意識に髪を摘んだ。彼は小さく、そうだよな、とつぶやく。
「十年以上も会ってなければ、そういうこともあるよな」
いいじゃんーーそう言いながら、マキコの唯一の幼馴染である斉木慎二は、彼女の隣に腰掛けた。
*
慎二から、このお店は日本酒が美味しいと聞いていたので、二人で徳利から酒を分け合うことにした。適当に何品かつまみも頼み、軽く乾杯する。慎二は、マキコを最初に見たときに不思議そうな顔をして以降、ずっと、ニコニコと穏やかに笑っている。最後に会った時から経た時間に対して、慎二はあまり変わっていないようだった。
「最後に会ったときには未成年だったのに、再会したらいきなり酒を飲み交わしてるなんて、変な感じだな」
慎二の言葉に、マキコの心臓が軽く跳ねる。微妙に空気が動いた気配を察知したのか、慎二はチラッとこちらを見て、「時間旅行」と言いながら笑った。
「……土曜日も仕事って、何だか大変だね」
マキコは、何とか自分から違う話題を捻り出した。事前に慎二から、仕事で遅れるかもしれないと言われていたのだ。
「そうでもないよ。休日に出たら、その分平日は休めるから」
「それはそれで、リズムが乱れて大変じゃない?」
「常識的な時間に寝起きしてれば、生活が狂ったりはしないよ」
「わざわざ着替えてから来たんだね。そのまま来ても良かったのに」
「仕事以外で飲むときは、楽な格好でいたいから」
……ああ、意外と、普通に話せるものなんだな。
来る前は色々と心配していたマキコだったが、それは、単なる杞憂だったのかもしれない。時間が空いたとはいえ、マキコと慎二が同じ時間を共にした幼馴染であることは、揺るがしようのない事実なのだ。
カウンターで横並びに座ったことも良かったのかもしれない。横並びであれば、会話の度に相手の顔を見なくても済む。気まずさで慎二の顔をあまり見られなかったマキコにとって、これは好都合だった。お店の都合でたまたまこうなったのか、慎二があえてこういう席を指定したのか。果たして、どちらだろうか。
*
「次、何にする?」
徳利が空になったのを確認して、慎二がメニューを開く。話がそれなりに弾んでいる間に、気がつくと次はもう六本目というところだった。マキコは慌てて慎二に声を掛ける。
「慎二、次ので私、最後にしていい?」
「あれ。マキ、弱いの?日本酒の店を勧めたの、まずかった?」
「いや、そこそこ強いんだけどさ」
この間大失敗したからここではセーブしたいんだよねーーとは、なかなか言いづらかった。もっとも、三合近く飲んでおいて今更セーブなどと言ったところで、まるで説得力はなさそうだが。
「この後、どうせ実家だろ?明日、何か予定があるとか?」
慎二のその言葉に、マキコはきょとんとする。
「明日は何も予定ないけど、実家には帰らないよ」
「え?」
慎二は目を見開いた。戸惑っているようだった。
「じゃあ、どこに帰るの」
マキコは、一人暮らしをしている自宅の最寄り駅の名前を口にする。慎二は、マキコの瞳を静かに覗き込んでいた。
「……マキ、実家とうまくいってないの?」
予想外のところから球が飛んできて、マキコは動揺した。しかも、“うまくいってない”ほどではないのかもしれないが、図星といえば図星だ。
でも、何故ーー
「朝、よく行きあうんだよ。おばさんと。ゴミ出しのタイミングでさ」
「え」
……朝、よく行き合う?
マキコの頭は、ますます混乱する。
「いつも簡単な世間話はするんだけどさ。この間会った時に言われたんだ。”マキちゃんの様子がおかしいから、飲みにでも連れ出してやってくれないか”って」
毎朝のゴミ出し。
簡単な世間話。
ーーああ、そういうこと?
やっと、マキコの中で点が線になりそうだった。
それと同時に、自分の母ながら、発言の図々しさに呆れてしまう。マキコは、慎二とはずっと会っていないこと、何なら、連絡すら取っていないことを、折に触れて母に話していた。それを承知の上で、慎二に娘に関わる頼み事をするなんて、どうかしているとしか思えない。
とはいえ、マキコと慎二の間に横たわるものを何も知らないのだから、仕方がないのだろうか。あまり交友関係が広くなさそうな娘の、唯一の幼馴染ーーいつまでも仲良くいてほしいと願ってしまうのは、親心として自然なことなのかもしれない。相手がよくできた人物ならば、尚更だ。
「じゃあ、わざわざ連絡してきたのって、それが理由なの?慎二、どんだけお人好しなの」
「俺もマキのこと、気になってたから」
その言葉にマキコは、心臓をギュッと素手で掴まれたような気持ちになった。前から来ると思って構えていたら何も来なくて、ホッと一息ついた瞬間に横からストレートで殴られた……そんなショックがあった。
「まあ、電話かけるときはそれなりに緊張したけど……断られたら断られたで、そういうことなんだろうなって思ってたし」
言葉の一つ一つが、胸をちくり、ちくりと丁寧に刺す。もっとも、慎二の表情や声音は極めて穏やかで、刺しているつもりなど微塵もなさそうである。けれど、それがまた余計にマキコの心を刺激するのだった。
「だいたい、もう十年以上も前の話だろ。俺がマキに振られたのは」
ーー合わせる顔がない、というのは、こういう状況を指すのだろう。
あれは、ただひたすらに、私が悪かったのだ。マキコはそう思っていた。
でも、今更弁明したところで、それが何になるというのだろう。
「地元に帰ったの、いつぶり?」
顔色ひとつ変えずに、慎二がさらりと話題を変える。
「……大学の時、家を出て以来かな」
「じゃあ……五年以上ぶり、ってことか」
徹底してるな、と慎二は呟いた。マキコは、慎二が何をどこまで母から聞いているのか気になったが、改めて問い質す勇気はなかった。
「……慎二は、こっちに住んでるんだね」
マキコは、腕をカウンターに乗せて身を軽く乗り出した。身体の一部を何かに預けていないと、心許なかった。
「いつからなの?まさか、地元に住んでるなんて思わなかったよ。確かに都心からそう遠くはない距離だけどさ。同居婚なんて、勇気あるね」
「え」
「え、って……ゴミ出しでうちの母さんと行き合うってことは、おばさんたちと同居してるんでしょ?」
慎二は口を半開きにしたまま、呆然としたようにこちらを見つめている。マキコには、慎二の反応の意味が分からなかった。
「ほら、何年か前に、結婚したんでしょ?母さんから聞いたの、いつだったかな……奥さん、寛大なんだね。いくら幼馴染とはいえ、女と二人で飲みに行っても気にしない人なの?」
「……マキ、おばさんから聞いてないの?」
質問に対して質問が返ってくる。マキコは、噛み合わない会話に戸惑った。
「聞いてないって、何を……」
困惑するマキコをよそに、慎二が苦笑する。そっか、とその口が微かに動いた。
「離婚したんだよ、俺」
「は!?」
あまり大きなリアクションを見せないマキコが大声を出したからなのか、慎二は声を立てて笑った。言っている内容は全く穏やかではないのに、その顔は何だか楽しそうに見える。一体、慎二は何を考えているのだろうか。
「……大学の同期だったんだけどさ」
あ、元奥さんの話ね、と慎二が続ける。
元奥さん。何という、微妙で、繊細な言葉の響きなのだろう。
「2人とも地元は関東だったし、そのまま東京で就職して、同棲し始めたんだ。それで、そろそろかなって思ってプロポーズして。結婚式を挙げて。さあ、これから……って時に、浮気されているのがわかったんだよね。しかも、ガチのやつ」
その言葉を聞いて、マキコは凍りついた。
そして察した。母がこの話を、自分にあえてしなかった訳を。
マキコの母は、悪い話をわざわざ進んで人の耳に入れるような性格ではない。
馬鹿だな、母さんはーーそう、マキコは思った。
隠したって、いずれ明るみに出てしまうのに。母はそれでもやっぱり、隠すのだ。
「……何で」
「……本当、”何で”だよな」
慎二が目を細める。その表情は、相変わらず穏やかだった。
「”何で”って聞いてくること自体が、もう、ダメなんだってさ」
マキコは呆気に取られた。とてもじゃないけれど、理解が追いつかない。
「それを聞いた時に、ああ、もう無理なんだな……って、直感的に思ったんだ。それで、わかった、離婚しよう……って伝えたら、”そういうところも!”ってすごい顔で泣かれてさ」
「それは……」
マキコはあまりの衝撃に、思わず口を滑らせた。
「何というか……災難、だったね」
マキコがハッと気がついた時には、言葉はもう口から零れた後だった。絵に描いたような失言だ。マキコは、思わず口元を右手でぱっと押さえる。
その様子を見て、慎二は楽しそうに笑った。ここ、笑うとこか?とマキコは不思議に思いつつも、次に来る言葉を待つ。
「……そうなんだよ。みんなに”そんなひどい女と別れて正解だ”って言われたんだけどさ、俺的にはむしろ”あれは災厄の類だった”って解釈する方が楽だったんだよな」
慎二は、平たいお猪口をその手で軽く揺らした。透明な酒の表面が、手の動きに合わせてゆらゆらと動く。
「たとえ、自分は悪くないんだって思っていたとしても、誰かのせいにするのは、気分が悪い」
慎二はそのまま、お猪口の中のお酒をくい、とあおった。
「……っていうのは建前で、本当は、同じ人間だと思うと、しんどいだけなんだよな」
神妙な面持ちのマキコをチラッと見て、慎二はため息をついた。この場に流れる空気を変えようとでも言うように、彼は大きく息を吸い込む。
「そんな、訳の分からない状況での離婚だったから、うちの親……特に、母さんが参っちゃってさ。もういい歳だし悩んだんだけど、とりあえず実家に戻ることにしたんだ。それで、今に至ると」
金が貯まってありがたい限りだよ、と慎二は笑った。既にいろいろな感情を経て、気持ちをある程度収めた後なのだろう。激動の話の内容とは裏腹に、彼の態度は終始穏やかだった。
「俺の話はおしまい。マキの話も聞いていい?」
マキコは伏せていた目を上げる。
この日初めて、慎二ときちんと目が合った。
「何で、転職したの」
慎二が静かに尋ねた。これが恐らく、今日の本題なのだろう。マキコは直感的に、そう思った。
「おばさんが言ってたよ。せっかくいいところに就職して上手く行ってるみたいだったのに、急に転職するって言い出すから、驚いたって。あと、転職した理由は教えてもらえなかった、って」
丁重に断れば、何も聞かずに引き下がってくれるーー慎二は、そういう人だ。でも、マキコは何となく、話してみようか、という気持ちになっていた。
酒が進んだせいかもしれない。でも、それだけではなさそうだった。
要は、“同族意識”というやつなのだろう。そう感じる自分に吐き気がしたが、どうしようもなかった。
「大した理由じゃないよ」
マキコは、再び目を伏せた。
全てを詳らかにしたとき、慎二は、一体どんな反応をするのだろう。
「……逃げたんだ。私」




