小山内マキコはミスを犯す
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……
……うるさい起きなきゃいけないのはわかってるでも無理なもんは無理だから仕方ないだろお願いだから黙れ。
二日酔いの朝ほど、ろくでもない気持ちになるものはない。ぐちゃぐちゃな掛け布団と一体化した小山内マキコは、芋虫のようにモゾモゾと動きながら呻いていた。そう遠くない距離にあるスマートフォンに手を伸ばすのが、億劫で仕方がない。しかし、手を伸ばさなければ、延々とアラーム音が頭蓋骨の中をわんわんとこだまする。どちらにしても、軽い地獄のようだ。
それにしたって、自分でセットしたスマートフォンに文句を言うのは筋違いというやつだ。むしろ、規則正しく毎日アラームを鳴らしてくれることに、感謝せねばなるまい。相手が人間では、きっとこうはいかないだろう。
ーー人間。
その単語に思い至った瞬間、マキコはスマートフォンに伸ばし損ねた腕でバシバシとベッドシーツを殴り始めた。急に激しく動いたので、頭を刺すような痛みが激しさを増す。
一人で飲む場合、家で飲むが好きか、外で飲むのが好きかーー人によって意見が分かれるところだろうが、マキコは圧倒的に前者だった。一人で外食をすることには抵抗がない。そこに”ご飯を食べる”という目的があるからだ。一方、外で飲むときに”酒を飲む”ことを目的としてしまうと、いくら酒に強くてもあっという間に潰れてしまう。酒器から口を外している時間をどう過ごしたらいいのか、マキコにはよく分からなかった。
母とお茶をした後、何とも言えない悶々とした気持ちを引きずっていたマキコは、気晴らしにちょっといいウイスキーを買って帰宅した。マキコは酒に強く、蒸留酒を好んで飲んでいた。ある程度酒が回った時点でベッドにダイブできるように身支度を整え、ショットグラスにウイスキーを注ぐ。飴色の液体をちびり、ちびりと楽しんでいたところまでは、良かった。
問題は、飲めども飲めどもちっとも酒に酔えなかった、ということである。
厳密に言えば、今こうして二日酔いにのたうちまわっているのだから、酔っていたのは間違いない。ただ、マキコは”酔っぱらう感覚”の方を欲していたのである。そして皮肉なことに、”酔いたい”と願うほどにその感覚からは遠ざかっていった。酒量は増えていくのに、不思議と頭が冴えていく。頭が冴えると、要らないことを考えてしまう。酩酊感を得られないが故に、もっと、もっと……と要求を繰り返した結果が、今のこの状態である。
マキコは、酒で潰れたことは一度もなかった。というのも、外ではそもそも誰かと飲むのが前提で節度のある飲み方しかしないし、家でもいい感じに酒が回ってきたら寝てしまうのが常だったからだ。深酒をしても、翌朝にはスッキリと酒が抜けているのが当たり前のことだった。つまり、今日はある意味、ちょっとした記念日だ。
と、とりあえず、水……
のろのろと身体を起こし、飲めるだけの水を喉に流し込んだマキコは、再びベッドに沈み込んだ。外はしとしとと冷たい雨が降っていたが、もちろん、マキコに外の天気を気にする余裕などなかった。
*
「戦いなよ!」
脳裏で、電話越しに怒鳴る蓮見の声が聴こえた気がする。
でも、わかってしまう。これは夢なのだと。
どうしてだろう。夢を見るとき”これは夢だ”って、感覚でわかるのは。しかし、夢だとわかった上で”そうか、では目を覚まそう”と思っても、その通りにスッと起きられることはそうそうない。その度に、観たくもない映画の時間が進むのを今か今かと待つような、焦ったい気持ちに駆られる。
「泣き寝入りするの!?」
……ああ、そうだよ。
私は戦うことを選ばなかった。
でもそれは、そんなに責められるようなことなんだろうか。
蓮見が自分に対して怒っていたわけではないのはわかっていたのに、つい、拗ねてしまいそうになる。
てか、ハワイ旅行中に電話かけてくるなんて、ほんと、おせっかいだな。
おせっかい……
そんな風に世話を焼いてくれる人間がこの世にいるのだ。
ただ、自分が今まで、他人に助けを求める気にならなかっただけで。
……そうだ。私の世界は、結構、閉じている。
*
気がつくと、夢は別の場面に変わっていた。
突然違う世界線に飛ばされるのも、いかにも夢の中という感じだった。
冬のとある日。
繋いだ手の温もり。
無機質なビル街を歩く中で、その手の感触だけが、明かりが灯ったかのように温かく感じられた。
相手が笑っているのは感じられるが、その顔は終ぞ見えなかった。
握った手の感触が、忘れられなかった。
その感触が恋しくて、たまらなくて、試しに自分の手と手を合わせ、指を絡めてみた時のことを思い出す。
しかし、身体が”これじゃない”と叫ぶ。苦しかった。
あの、嘘みたいに温かくて、スラリとした長い指の感触が、マキコは忘れられなかった。
*
どこまでが現実に起きたことで、どこからが本当の夢なのだろう。
夢にしては残酷だし、現実にしては都合が良すぎる気がした。
*
いくつかの夢を経てマキコが目を覚ますと、陽がちょうど傾いて、空が茜色に染まり始める頃合いだった。いつの間にか雨は止んでいたらしい。窓から見える夕空が、さっぱりと洗われたように美しかった。目の端がカサついていたのが気になって、マキコは指で乱暴に拭う。それが涙の跡だということを、マキコ自身は気がついていなかった。
水をたくさん摂ってから眠ったおかげか、少し頭痛が落ち着いたような気がする。水分補給を怠らなければ、何とかこの二日酔いにも終わりが見えてきそうな感覚があった。
同じようにあっという間に時間が過ぎる体験であっても、ウクレレを弾いていた時とは大違いだ。今日は、時間を無駄にしたという感覚がとても強かった。
ふと、壁にあるカレンダーを見上げる。ウクレレを始めたことを書き込んだのが最後になってしまっていた。人生は、順調な日ばかりではない。そうそう毎日、記録したくなるような楽しいイベントが起こるはずもない。
マキコの休日は、残りが片手で数えられるほどになっていた。
ーージリリリリリリリ!
「うっわ!」
マキコは突然の大きな音に身体を震わせた。そして、反射的に音の主であるスマートフォンを手に取り、電話に出てしまう。
「もしもし!?」
「え!?」
声と声が、機械越しにぶつかった。その声を聴いた瞬間、マキコは、記憶の一部分がじわじわとジャッキで起こされるように呼び覚まされるのを感じた。そして、ぼやけた記憶が鮮明な像を結んだ時、自分が間違いを犯したことに気がついた。
私はこの電話に、出るべきじゃなかった。
「……久しぶり、マキ」
何拍か遅れて聴こえてきたその声の主は、名前を聞かずともすぐにわかった。自分に掛けられたその声が、呼び方が、懐かしくて懐かしくて堪らなかった。空いている右手で、口元をそっと押さえる。そうしていないと、声が漏れてしまいそうだった。
「……あの、さ」
緊張と戸惑いを滲ませながら、電話の相手が言葉を紡ぐ。
「今度、会えない……かな?」
その問いかけに、マキコは言葉を失う。
YesでもNoでもない、第3の選択肢が欲しかった。しかし、時間は待ってくれない。そして、時間を待たせるほどの胆力も、マキコは持ち合わせていなかった。
「……わかった。いつがいい?」