小山内マキコは嘘を吐く
「あら!可愛いわねえ」
運ばれてきたカフェラテに施されたアートを見て、小山内マキコの目の前に座る女性は表情を緩めた。これぞ正解!というリアクションだな、私にはそんな反応はできなかったーーマキコはそんな風に思いながら、自分とは似ても似つかない母親の顔を、ぼんやりと見ていた。
マキコの母、芙貴子は、55歳という年齢の割にとても幼い顔をしている。小鹿のように丸くて大きな目や、コロコロと変わる表情が、そのような印象を与えているのかもしれない。姿勢も良く、佇まいも若々しい。うっすら茶色がかった柔らかい髪はゆるい癖毛のロングヘアで、頭の下の方で1つに束ねている。
片や、マキコは典型的な塩顔である。重たい一重まぶたのせいか、年齢よりも年上に思われることの方が多い。硬い表情筋が、相手に無用な緊張感を与えてしまうことも少なくない。地毛も、染めてしまった今はわかりにくくなっているが、真っ黒で硬い直毛だ。
マキコは、非常に残念なことに、母よりも父によく似ていた。
「マキちゃんがこんなオシャレなお店を知ってるなんてねぇ」
「え?」
芙貴子が上目遣いでこちらを覗き込んでくる。その顔は、イタズラを仕掛けた子供のように楽しそうだった。
「あなたとお茶する場所はいつも、チェーンのカフェか、ファミレスだからね」
「……少し前に友達に連れてきてもらったんだよ、ここ」
母の言い方に若干の引っ掛かりを感じたものの、自分で探して見つけた店ではないのは事実なので、文句は言わなかった。
このカフェは、蓮見に連れてきてもらったお店だ。VLOGを見て訪れたあのカフェは、残念に思いつつも早々に選択肢から外してしまった。
「……それで、お休みはいつまでなの?」
「今月末」
「そっか」
マキコの言葉に目を細めて微笑みながら、芙貴子は手元のカフェラテの器を撫でる。
「微妙な長さだね」
「そうなんだよね」
マキコはため息を吐く。そう、微妙な長さなのである。
「旅行にでも行こうか……って思ったりもしたけど、何か、バタバタしそうだし。そもそも私、あんまり旅行好きじゃないし」
「そうなの?」
「何か、ソワソワしちゃうんだよ。乗る予定の電車に乗り遅れたらどうしようとか、そもそも宿とかチケットとかが間違いなく取れてるのか……とか」
「心配性ね」
お父さんにそっくりーー母の言葉に反応してマキコは思わず眉間に皺を寄せたが、元々硬い表情をしていることが多いせいか、芙貴子がそのことを気に留める様子はなかった。
「大丈夫なの」
突然話が切り替わったので、マキコは面食らってしまう。
「大丈夫……って、何が?」
「その髪」
そう言われて、マキコは思わず自分の髪を摘んだ。まだショートヘアのセットには慣れていないのだが、今日は蓮見の指導の成果もあってか、発芽米スタイルにはならずに済んでいる。
「びっくりしたよ。マキちゃんは、そういうのには興味がないのかと思ってたから」
「……そうだね」
確かに、これまでの自分だったら、慣れた髪型を変えようなんて思いもしなかったはずだ。だったら何故……と問われたら、何かを変えたいという意思が、そのような選択肢を浮上させたとしか言いようがない。
「普通、何かあったのかなって思うでしょ。でも、私のことを聞くばかりで、相変わらず自分のことは話さないから」
最近どうだ、体調はどうだ、近所の斉木さんは元気かーー自分のことを聞かれる前にどんどん芙貴子へ質問をぶつけていたことを指摘されて、マキコは何も言えなくなってしまった。
「ほら。そうやってまた思ったことを飲み込んで、黙り込んじゃう」
その言葉がマキコに与えた動揺とは裏腹に、芙貴子は涼しい顔でカフェラテを飲んでいる。
上手くやっているつもりなのは自分だけで、意外と周りからは、いろいろなことが見えているものだ。
*
父親の浮気現場を目撃したあの日のことを、マキコは一生忘れないと思う。暑い、夏の日だった。
マキコの高校最後の夏休みは、受験勉強一色だった。なりたいものもやりたいことも特にないけれど、きっとそこそこの大学に入っておいた方がその後の人生が楽になるだろうーーそんな微妙な動機ではあったが、マキコは真面目に受験勉強に取り組んでいた。
家だとつい寛いでしまうので、夏休みも高校で勉強をしていた。休暇中にもかかわらず校舎を開放してくれている学校に、マキコは感謝していた。空調がしっかりと効いていて、勉強だけに集中できる環境。そんな場所で、授業がある時と変わらないリズムで勉強ができることは、本当にありがたかった。
勉強をお昼過ぎに切り上げて、マキコは校舎を後にした。電車に乗り、ターミナル駅で家の最寄り駅に停まる路線へと乗り換える。乗り換えの時に一度改札を出なければならないので、何となく駅ビルをふらふらしてから帰ることが多かった。
その日も、本屋やバラエティショップを覗きながらのんびりと散歩をしていた。気持ちもオフモードに切り替わってきたし、そろそろ帰るか……気が済んだマキコは、エスカレーターに向かって歩き出した。
下りエスカレーターに乗り、ぼんやりと周囲に飾られている広告を眺めていた、その時。それは突然訪れた。
自分の乗っている下りエスカレーターと交差する形で上がってきたエスカレーターに、父が乗っていた。表情の乏しい父が、珍しく弾んだ表情をしている。反射的に声を掛けようとした瞬間、父の隣にいた人物が目に入り、マキコは息を止めた。
ーー誰?
素朴な雰囲気の父には明らかに不釣り合いな、とても綺麗な女性だった。父と同じくらいに背が高く、顔のパーツが1つ1つはっきりとした美人。隙のない化粧が施された顔は、笑顔だったにもかかわらず、威圧感すら漂っていた。
父が、知らない女性とエスカレーターで並んでいただけ……それだけで済めばよかった。それだけならば、同僚と一緒だったとか、たまたま知り合いに会っただけだとか、いくらでも自分に対する言い訳の余地があった。しかしーー
2人は、手を繋いでいたのだ。
呆然とした状態のまま、どうやって電車のホームに辿り着いたのか、まるで覚えていない。電車に乗り、窓のそばに陣取って、頭をドアに預けた。暑い日だったというのに、汗が一滴も出ていなかった。それどころか、寒くて寒くて仕方がなかった。
頭の中をたくさんの”なぜ?”が忙しなく行き交った。何でそんなことをしているの?その人は誰なの?仕事はどうしたの?そしてーー
ーー母さんは、このことを知っているの?
生々しくて、吐き気がした。そういうのって、普通、人目を忍んでやることじゃないのか。白昼堂々、こんなたくさんの人が行き来する場所でーーしかも、娘がいるかもしれない場所で、やることなのか。自分の知っている父は慎重で、そんなことができる人じゃないはずなのに。見てしまったものから伝わる迂闊さに、絶望的な気持ちになる。
自分の知らない、父の顔。その幾つもをいっぺんに知ってしまったようで、マキコは愕然とした。
エスカレーター上でとはいえ、制服姿の娘とすれ違ったというのに、気付いた様子をまるで見せなかったこともショックだった。ひょっとすると、気付いていた上であえて無視することを選んだのかもしれないが、それはそれで、とてつもなく悲しいことだった。
帰宅してから、母とも父とも会話をしたはずなのに、マキコの記憶には何も残っていない。残るはずもなかった。
後から父にいろいろ問い質すことはできたはずだが、マキコは終ぞ、それをしなかった。
何をしても、何をしなくても、同じ。ただただ、恐ろしさと気持ち悪さの渦の中にマキコはいた。
誰にも、何も言えなかった。
浮気するならバレないようにやってほしいーーそんな言葉に自分が共感する日が来るとは、マキコは思ってもみなかった。この時までは。
マキコは、進路希望を変更した。それまで、第一志望は家から近い国立大学にするつもりだったが、とにかく、一刻も早く家を離れたかった。一方で、母を実家に残していくことの罪悪感に押しつぶされそうな気持ちもあった。悩んだ末に、家から通うことは難しいけれど、日帰りで家に帰るには苦にならないくらいの、微妙な立地にある大学を選んだ。
進路希望を出すにあたって親とも話し合いをしたはずだが、特に反対された記憶はなかった。バイトをして生活費は稼ぐから学費だけ援助して欲しいというマキコの申し出に、父はあっさり頷いた。その事実だけを見れば理解のある父親に見えるかもしれないが、”エスカレーター事件”が脳裏にこびりついていたマキコは、ただ父は後ろめたかっただけなのではないかと邪推してしまった。そんな風にしか思えない自分も、たまらなく嫌だった。
父との思い出は、たくさんあったはずだ。しかし、あの時を境に、父と過ごした時間を思い出そうとしても、味のしないガムを噛んでいるようで、よくわからなくなってしまう。代わりに思い出すのは、エスカレーターに乗っていたあの気の強そうな美人の、笑顔。
母に告げ口するという選択肢は、マキコにはなかった。あの可愛らしい笑顔が、自分の言葉によって醜く歪むのを想像すると、今にも心がビリビリと破れてしまいそうだった。自分の行動ひとつで、安定していたはずの家族をめちゃくちゃにする勇気もなかった。
マキコは大学進学を機に、逃げるように家を飛び出した。
*
「ほら。そうやってまた思ったことを飲み込んで、黙り込んじゃう」
母のその言葉によって、マキコの脳裏にあの暑い夏の日の記憶が蘇る。
ーー母さん、母さん、父さんが浮気をしていたんだよ。
知らない女の人を連れて、鼻の下を伸ばして歩いていたんだよーー
ずっと心の中に閉じ込めていた言葉たちが、喉の奥まで迫り上がってくる。マキコはそれらを必死で抑え込む。心臓がばくばくと音を立てている。
それを言って何になるというのか。
単に、長年独りで抱えていた思いをぶちまけて、自分がスッキリしたいだけではないのか。
「……そんなことないよ」
辛うじて絞り出した声は、掠れていた。
明らかに様子のおかしくなった娘を前にしても、芙貴子の表情は変わらなかった。
ーーねえ、母さん。
母さんも、そうやっていろんなことを飲み込んで、黙り込んできたんじゃないのーー
*
「いつもありがとうね」
カフェからの帰り道、芙貴子はマキコを見ることなくそう言った。
「マキちゃんがこうやって定期的に連れ出してくれるから、退屈しないわ」
そう言って笑い、改札にICカードをタッチする。
「母さん」
ここからの道は、別々だった。母は上りホーム、マキコは下りホームの電車に乗る。別れる前に、マキコはどうしても母に言っておきたいことがあった。
「私、大丈夫だから」
嘘だった。しかし、残念ながらマキコは、母に嘘を吐くことに慣れてしまった。
「そう」
微笑みながら、芙貴子が軽く手を上げた。マキコへ背を向け、上りホームへ向かう階段の方へ歩いていく。
マキコは、母に向かって振った右手を止め、ゆっくりと下ろした。心許なくなって、その右手を左手で包む。右手は、ひんやりと冷え切っていた。
ーーねぇ、母さん。
この問いかけが芙貴子に届くことはない。しかし、たまらずマキコは心の中でつぶやいた。
母さんは、私のことを、どこまで知っているのーー