小山内マキコは聖地を巡る
分厚い雲で覆われた空とは裏腹に、小山内マキコの心は、明るく、弾んでいた。
見知った駅の改札を通り、外へ出て大きく息を吸い込んだ。どこからかやってきた懐かしい気持ちに丁寧に別れを告げて、マキコは人波の中へ一歩を踏み出した。
マキコが”VLOG”という言葉を知ったのは、つい先日のことである。
友人にその言葉を教わってから、マキコは、そのような名前のついた動画を片っ端から漁って観ていた。
VIDEOとBLOGを足して2で割ったみたいなモノなんだけどさーー
そう説明してくれた友人の言葉を思い出し、なるほど、と思った。
いざ動画を探してみると、VLOGにもいろいろと種類があるらしいことがわかった。友人の説明では、カフェやレストランに行った様子をレポートした動画とのことだったが、旅行の様子を動画にしていたり、朝のルーティーンを動画にしていたりと、広い意味で”記録動画”ということなのだろうな、とマキコは解釈した。
マキコはそれらの中でも、ムービーとテロップとBGMのみで構成された、シンプルな動画を好んで観ていた。カフェに行ったり、雑貨屋で買い物をしたり、花を買って飾ったり……日々の生活を淡々と綴ったそれらの動画は、意図的にいろいろなものが排除されていることが窺えた。生活の”いいところ”だけが丁寧に掬い取られたその動画は、不思議と長時間観ていても疲れることがなかった。この点がマキコにとってはとても重要だったらしく、気がつけばおすすめにも、同じ類の動画ばかりが上がってくるようになった。
今日のマキコの目的地は、とあるターミナル駅から歩いて行ける場所にあるカフェだった。見知った土地にある知らない場所というものは、そそられるものがある。ああ、こんなところにこんないい場所があったなんてーーそんな具合に。
マキコが一番好きな動画チャンネルに登場したそのカフェでは、魯肉飯が美味しい、ということらしかった。魯肉飯は台湾料理のひとつだが、マキコはその料理の存在を、動画を観て初めて知った。最近、どうやら流行っているらしいということも。
とはいえ、彼のカフェは台湾料理のお店ではない。その証拠に、他のメニューはガパオライスや煮込みハンバーグといった内容で、統一感がまるでなかった。専門店ではないからこそ、敷居が低くてトライしやすいということも、マキコを動かしたきっかけだったかもしれない。
これって、”聖地巡礼”って言うのかなーー
言葉そのものの意味をきちんと理解せずに、”雰囲気”だけ使ってしまうことは誰にでもある。マキコにも、決して悪気があったわけではなかった。ただ単に、画面の向こうにある世界に自ら手を伸ばし、自分のそばに引き寄せるような行動を取ったのが初めてだったので、浮かれていた。それだけである。
コンクリートで覆われた賑やかな駅前から、見慣れた道とは反対側へ進んでいくと、程なくして住宅街が現れる。タワーマンションが立ち並ぶ街だが、歩いているとそれなりに緑が目に入ってくるのがおもしろい。そのチグハグさを目にして、ああ、ここは人が作り上げてきた街なのだと改めて実感する。緑の配置に意図されたものを感じるからだ。一定以上の面積に対して、必ず1つは公園を作らなければいけないと条例で定められた自治体はどこだったっけ。それは、この街のことだったっけーー
そんな他愛もないことを考えながら歩いていると、目当ての店が見えてきた。ガラス張りの大きなビルの一階に存在する、おしゃれなカフェ。いよいよ、VLOGを追体験するような気持ちになってきて、マキコの胸が更に高鳴った。
*
重たいガラス扉を開き、店員に目で会釈すると、スムーズに席に通された。ランチタイムを外して、少し遅めの時間に訪れたのが良かったのかもしれない。
内装からテーブルやチェアなどの什器に至るまで、木の温もりが店内に満ちている。その温かい空気は、ガラスを隔てた外の都会的な雰囲気とは一線を画していた。店内のあちこちに観葉植物が置かれており、席に腰掛けたマキコの頭上には、天井から吊るされたグリーンが丸いガラスの中でぷかぷかと浮いていた。
「魯肉飯のセット……ドリンクはアイスティーで」
「かしこまりました」
短髪の爽やかな男性が注文を取ってくれた。ふう、と一息ついたマキコは、テーブルに置かれた水に口をつけた。微かにレモンの香りがする。思わずオープンキッチンの方へ視線を滑らせると、水の入ったピッチャーにはたくさんの氷と共に、数枚のレモンのスライスが沈められていた。
動画で何度も見たとはいえ、やはりいざ現地に来てみると気持ちが違うものなんだな、とマキコは思う。動画というのは、あくまで視点の1つに過ぎない。実際は、訪れた人の数だけ違う画が存在する。
「アイスティー、お待たせいたしました」
料理よりも先に運ばれてきたドリンクを見て、おや……と思う。氷に色がついている。
「あの、この氷って……」
「あ、これは、アイスティーを凍らせたものなんですよ」
先ほど注文を取ってくれた男性が柔らかく微笑みながら応じてくれた。
「うちは冷たい飲み物はアイスコーヒーとアイスティーしかないんですけど、その分、何かこだわりを出したいね……ってスタッフの間で話し合ったんです。アイスコーヒーには凍らせたコーヒーキューブを、アイスティーには凍らせたティーキューブを入れています」
ちょっとしたことなんですけど、と言い置いて、店員はさっとその場を去る。
VLOGで注文されていたのはカフェラテだったこともあり、今聞いたようなことは初耳だった。
ああ、とてもいい。
水に沈められたレモンのスライス、アイスティーに浮かぶ色のついた氷ーーカフェを構成する要素の一つ一つに、人の温度を感じる。人工的な街の、人工的なビルの中だけれど、ほっとする。
1人だけど、ここに居ると独りじゃない気がしてくる。
遅れて運ばれてきた魯肉飯も、とてもおいしかった。柔らかめに炊かれた玄米はホカホカで、その上に、少し味のついた青梗菜と、独特のスパイスが香る豚肉が乗っている。添えられた卵は、完璧な半熟だった。
お店のカラーから考えても、食べやすいように味がアレンジされているのかもしれない。それでも、初めて口にする異国の料理を何の抵抗もなく受け入れられたことが、マキコは嬉しかった。
母さんとお茶する店、ここにしようかなーー
目前に迫った予定のことを考えながら、マキコはアイスティーに口をつける。氷が溶けても味が変わらない。わかっていたことなのに、いざそのことを確認すると、否応なしに心が弾んでしまうのを感じた。
*
上機嫌でマキコが店を出ると、駅を出たときに見た雲は更に低くなっていて、今にも泣き出しそうに色が歪んでいた。
夕方ににわか雨があるかもしれませんーー爽やかな顔でそう告げる気象予報士の顔が、頭を過ぎった。
マキコは傘を持たずに出てきてしまった。弾む心そのままに、軽い足取りで急いで駅に戻る。
駅前の大きな交差点で、信号が変わるのを待つ。赤から青へと歩行者用の信号が変わり、人波の動きに合わせてマキコは交差点を渡ろうとした、その時。反対側から歩いてきたある人物を、マキコの目は捉えてしまった。
まるで、時が止まったかのようだった。
マキコの耳から、あらゆる音が消え去った。
その人物が、人波に紛れたマキコに気がつくことはなかった。視線は前を向いている。人の良さそうな顔立ちは嘘のようにマキコの記憶のそのままで、胸がチクリと痛むのを感じた。すれ違ったのは一瞬だったはずなのに、スローモーションのように時間が進むのが遅い。マキコは、目が離せなかった。
交差点を渡り終えた時、はっ、とマキコは息を吐き出した。どうやら呼吸も止まっていたらしい。それでも足は問題なく動いていたのだから、人間という生き物は不思議なつくりをしている。
そうか、そうだった。ここに来るということは、こういうことがあることを、覚悟しておかなければいけなかった。
大きな街だし、問題あるまいーーそんな風に思っていた自分の見通しの甘さに、舌打ちしたくなる。
見てはいけないものを、見てしまった。少なくとも、今のマキコにとってはそうだった。
喜びで満ちていたはずの心が、みるみる音を立ててしぼんでいくのがわかった。人間の機嫌は、いつだって最新の記憶に左右される。
先ほど、憧れのカフェに訪れたこと自体がよくなかったのではないか。分不相応なことをしたせいで、このような目に遭ったのではないかーーそんな気持ちまで湧いてくる。ネガティブな思考というのは芋づるのように見えないところで繋がっていて、きっかけ1つで次々に土から顔を出してくる。
髪を切ったこと。蓮見に久しぶりに会ったこと。成り行きとはいえ、ウクレレに真剣に取り組んだことーー
少しでも前を向きたくてやってきた色々なことを、丸ごと否定してしまいたくなる。
こんな些細なことで挫かれてしまうなんて、私の心は何て弱いのだろう。
水の粒が、マキコの額に当たる。予報の通りに、雨が降ってきた。
雨に濡れて帰りたいという青い衝動を、今なら理解できる気がした。しかし、そんなことができるほど、マキコはもう幼くはない。
喉の奥に苦いものを感じたまま、マキコはフラフラと駅の改札に吸い込まれていった。