小山内マキコは怪我をする
ウクレレ、初心者。
ウクレレ、簡単。
ウクレレ、すぐ弾ける曲……
小山内マキコは、自宅のローテーブルに置いたノートパソコンと、かれこれ1時間ほど睨めっこをしていた。何故、こんなに眉間に皺を寄せる羽目になっているか……その答えは、彼女の背後にあるベッドに投げ出された、黒いバッグの中にある。
「そのくらいの楽器だったら、マンションで大人しく演奏する分には苦情にもならないでしょ」
それに、癒される音だしねーー美しい微笑みを浮かべながらそう言ってきた友人の顔が、記憶から蘇ってくる。彼女から贈られたそのプレゼントは、マキコにとって予想だにしない内容だった。何しろ、マキコは生まれてこのかた、楽器というものにほとんど触れたことがない。おぼろげな記憶を手繰り寄せると、出てくるのは、鍵盤ハーモニカとリコーダー……以上。残念ながら、共に弦楽器ではない。
いい時代に生まれたな、とマキコは思った。パソコンを開いてインターネットにアクセスすれば、そこは情報の海である。もちろん、溢れかえる情報の真偽や是非を見定める目が必要ではある。しかし、何かを始めるに当たって、一昔前よりもハードルが下がったのは間違いないだろう。
動画検索をして幾つかのレクチャー動画をザッと眺めた後、一旦、最近ハマっている動画に寄り道をしつつ、最も自分にマッチしそうなレクチャー動画に狙いを定め、今度は初めからじっくり視聴する。
*
え、”チューニング”って、何?
弦を左手の指で押さえて、右手の指で弾けば、対応した音が出るんじゃないの?
ん?このペグとかいうツマミを捻ればいいってことか……?
げ、なんかめちゃくちゃ変な音になった!気持ち悪い!
*
なるほど、この”フレット”っていうのが、左手の指を押さえる時の目印になるのね。
……って、すぐに納得できるか!弦に対して垂直に、そして均等に線が引いてあるように見えるだけなんですが!
手の感覚だけで位置を覚えろ……って、それほんと無理ゲーなんですけど……ミュージシャンって、すごいわ。神なの?
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C、D、E、F、G、A、B、C……
……一体何の暗号ですか、これは。
え、これ楽譜なの!?
”ドレミファソラシド”どこ行った!?
*
なるほど、例えば”C”という文字ひとつに対して、”ド・ミ・ソ”みたいな感じで和音が対応してるのか。
……ああああああああ!覚えることが、多い!
*
左手の指で和音を押さえながら、右手で弦を弾いて音を鳴らす。なるほど。
ん?うわあ、右手の使い方にもこんなにバリエーションがあるのか……
……とりあえず、今の段階では親指の腹で全ての弦をポン、ポン、ポン、ポン……と順番に鳴らすことにしよう。
どう考えてもキャパオーバーです、私。
*
何だか、左手の指が、痛い。
ふとそう感じたマキコは、自分の左手を見てギョッとした。人差し指と中指にはクッキリと弦の跡がついており、薬指に至っては、指の腹がぷっくりとまあるく膨れ上がっていた。
……これって、ひょっとして、マメ?
大人になってからもしマメができるとしたら、足以外はあり得ないと思っていた。実際、マキコはよくパンプスで靴擦れを起こしてマメを作り、ばんそうこうのお世話になることも多かった。しかし、まさか手の指にできるとは……
マキコは大きくため息をつきながら、無事な方の右手で頭をわしゃわしゃと掻く。こんなにわかりやすく上手くいかない経験は、人間関係以外では久しぶりかもしれない。
気がつくと外はすっかり暗くなっていて、窓が室内の様子をしっかり反射している。そこに映る自分の情けない顔を見て、マキコは笑えるような、恥ずかしいような、複雑な気持ちになった。
なるほど、これは暇つぶしにはちょうどいい。
防犯のためにカーテンを閉め、テレビの斜め上にかかっている壁掛けカレンダーを見る。少し前までは一面が真っ白だったその場所に、2つの出来事が追加されていた。
”髪を切った”
”蓮見に会った”
熱中しすぎてガチガチに凝った身体をさすりながら、マキコはカレンダーに近寄る。ペンを持ち、今日の日付のところに文字を書き始めた。マメができたのが利き手の指ではなくてよかったと、つくづく思う。
”ウクレレを始めた”