小山内マキコの日々は続く
ピピピピ!ピピピピ!ピピピピ……
けたたましいアラーム音が、小さな部屋に鳴り響く。横向きで寝ていた小山内マキコは、顔を顰めながら左手をバタバタとさせ、布団の上を探った。乱暴に振り回した手が、硬く、小さな板にぶつかったので、手元に引き寄せる。手に取ったスマートフォンのスイッチを押すと、画面に表示された時刻は6時28分を指していた。彼女には、アラーム設定を半端な時間にするという、独特の癖がある。
マキコが新しい職場に移ってから、一週間が経とうとしている。
仕事の再開とともに、けたたましいアラーム音とも再会することとなった。マキコは人並みに朝に弱い。顔を顰めたままのろのろと起き出し、洗面所へと向かう。
洗顔、歯磨き、簡単なメイク、朝食……そして、新たにヘアセットが仕事に行く前のルーティンに組み込まれた。マキコはほとんど目が開かない状態で、それでも手探りで髪を梳かし始める。
漆黒よりほんの少しだけ柔らかい、うっすら茶色がかった髪。
前髪ありの、ショートボブ。
この髪型にも、ずいぶん慣れてきた。
ーーそろそろ、美容院に行った方がいいのかな。
美容師の沖田から、ショートヘアの手入れをレクチャーされたときに、確かメンテナンスの話もされたはずだ。ぼんやりとした頭で記憶を辿ると、ショートヘアを維持したいなら今までよりマメに美容院に通った方がいい……とか何とか、言われたような気がしてくる。沖田の性格、そして自分との関わり方から察するに、営業トークというわけではなさそうだった。
バッサリいったつもりでも、意外に伸びるのが早いんだなーー
ショートヘアの方が、髪の長さの変化に気が付きやすいということを知らないマキコは、のほほんとそんなことを思う。
*
前の職場を辞める手続きの最中、マキコはあることに気が付いた。
有給休暇が、ほぼ上限まで溜まっていたのだ。
さしたる趣味もなく、週末に休めればそれで十分だと考えていたマキコは、ほとんど有給を消費していなかった。そのせいで上司からお小言を言われたことがあったような気もするが、よく覚えていない。
何しろ、上限まで休暇が溜まっていたことにその時、初めて気付いたくらいなのだ。単純に、興味がなかった。
ーーせっかくなら、フルで休んでみるか。
給料、もらえるんだし。
そうしてマキコは、最終出社日からおよそ一ヶ月間、“人生の休日”を手に入れることになったのだった。
*
初めて訪れた、“人生の休日”。
時間はたっぷりあった。何をしてもよかった。
しかし、傷ついていたマキコにとって、“休みを満喫する”ことは簡単ではなかった。
朝、起きなくていい。
起きたい時に起きて、寝たい時に寝て、食べたい時に食べたいものを食べていいーー
それは即ち、自らを律しない限り、生活リズムがみるみる崩れていくことを意味した。
学校ならば授業があり、職場ならば仕事があり、それらは生活の時計となってくれる存在である。“学生”でもなく、“会社人”でもないーー全ての肩書きを手放し、ただの“小山内マキコ”となった彼女が、生活のほとんどをベッドの上で過ごすようになるまでに、そう長い時間はかからなかった。
来る日も来る日も、ベッドに潜り込んで眠った。
たまに目を覚ましても、ただ、テレビ画面が放つギラギラとした光を、網膜へ受け続けるだけの日々。
“命を繋ぐ”ことに、精一杯だった。
大袈裟ではなく、マキコはそう振り返る。
傷ついた分、人は眠る。
それは、身体だけの話ではない。
心を痛めたぶん、マキコはたくさん眠った。来る日も来る日も、眠り続けた。
たくさんの夢を見た。うっかり前の職場の夢を見てしまうことも、片手ではきかない回数はあったと思う。存在しなかったはずの送別会の夢を見て、自分が情けなくなったりもした。
前職場での送別会は、一応周囲から提案されたものの、固辞した。元々、マキコが飲み会に積極的ではなかったのが効いたのか、その希望はあっさり受け入れられた。
自分で招いた状況とはいえ、“そんなものか”で受け入れられてしまうのは、マキコにはいささか寂しく感じられた。それが勝手な心の動きだということも、マキコはよくわかっていた。
*
その日も、マキコはぼーっとした頭で、目の前の画面を見つめていた。
動画サイトのサジェストに従うままに、色々なジャンルの動画が目の前を横切っていく。
『おしゃれに1ミリも興味がなかった彼女が、驚愕の変身を遂げる!人生を変えるドキュメンタリー!』
それは、ありがちな動画だった。“垢抜けない”という人をどこかから連れてきて、あの手この手を使ってキレイにするという企画。
ーーこういうのって、結局、“持っている”人のためのコンテンツなんだよな。
マキコはぼんやりと、そんなことを思う。
自意識を捨てて“変わりたい”という気持ちを表に出せる人は、マキコにとって“持っている”人に他ならなかった。大抵の人は、願望を口には出せない。願望があることすら自覚していない人も多い。
自分の行きたい方角をきちんと把握し、そこへ向かうために誰かの助けを借りることができる人。
他人が伸ばした手を、しっかりと掴むことができる人。
“明るい願望”を持てる人が、マキコには羨ましかった。
でも、その気持ちには蓋をした。
もう、傷つきたくなかった。
*
そして、その翌日。
その日が運命の日だとは、マキコは露ほども想像していなかった。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……
左手を少し伸ばし、マキコはスマートフォンの画面を操作してアラームを止める。
ーーそうか、今日も、“休日”だ。
そう思うと、憂鬱だった。
こんな日々が、一体いつまで続くのだろう。
その場で軽く伸びをしながら、マキコはベッドから降りる。テレビの斜め上にかかっているカレンダーを見ると、今日のスペースは相変わらず、空白だ。
何をしよう。
そう思いながら髪を手でとかすと、肩のあたりで指が引っかかってしまった。どうやら、髪が絡まっているらしい。苛立ったマキコは、そのまま強引に指で髪を引っ張ってしまう。指は何とか髪を通り抜けたものの、何本か切れてしまった髪の毛が手の上に残ってしまった。
その時にふと、今までに経験したことがない感情がマキコを襲った。
ーーこれでいいのか、私は。
このまま、誰かに不当に傷つけられては泣き寝入りするような生き方を繰り返していて、本当にいいのか。
千切れた髪の毛を見つめながら、マキコはぎゅっと掌を握りしめた。握り過ぎて、爪が手の腹に食い込む。痛くても、止められなかった。喉の奥が、とても苦い。
変われるのかどうかなんて、わからない。
でも、“このまま”は、どうしても嫌だった。
もう、たくさんだった。
その時、脳裏に過ったのは、前日観た動画の謳い文句だった。
『おしゃれに1ミリも興味がなかった彼女が、驚愕の変身を遂げる!人生を変えるドキュメンタリー!』
ーー“人生を、変える”。
マキコは震える心を抑えながら、スマートフォンを光らせた。探し物に辿り着くために、たどたどしい動きで端末を操作する。たっぷり時間をかけて、何とか目的の電話番号を見つけることができた。
「……もしもし。あの……いつも、お世話になっている、小山内です。……はい、そうです。こんにちは」
そこまで言い切って、マキコは危うくスマートフォンを落としそうになった。震えているのは、心だけだと思っていたのにーー身体なんて、思う通りに動いてくれることの方が少ないよな。緊張に満ちた頭の片隅で、そんな風にマキコは思う。
息を一つ小さく吸い込み、マキコは後に続く言葉を吐き出した。
「……今日、予約してもいいですか。沖田さん、空いてらっしゃいますか……髪を、切りたいんです」
*
全ての始まりをぼんやりと振り返りながら、マキコは身支度を終えた。
会社に出発するため、玄関へ向かおうとした彼女は不意に、壁にかけたカレンダーの文字に目を留めた。
“髪を切った”
“蓮見に会った”
“ウクレレを始めた”
マキコは、心の中で苦笑する。一ヶ月も休みがあったというのに、カレンダーに予定を書き込んだのは、たったの三回だ。
ただ。
あえて書き出していないからといって、何も起きなかったというわけではない。
楽しかったり、悲しかったり、苦しかったり……言葉では表せないような気持ちになったり。
いろんな感情を経験した末に、マキコの今はある。
*
マキコの家から最寄り駅までの道のりには、たくさんの桜が植わっている。そのほとんどが花を散らし、枝は、青々とした葉を覗かせていた。今日の天気はまずまずだ。春特有の柔らかな空気が、雲の合間から漏れた光に照らされている。
マキコはふと思い立ち、道の端へ身体を寄せた。周囲の邪魔にならないように注意しながら、スマートフォンを起動する。
まだ時間に余裕があることを確認し、マキコはメッセージを打ち始めた。母からのメールに返信するのを忘れていたことに、気がついたのだ。
両親のことは、今は、深く考えなくてもいいのかもしれないと思うようになった。
『言ったらいい。言いたいことだけ、言ったらいい。言いたくないことは、言わなくていい』
慎二にそう言葉をかけられたとき、反射的に思ったのだ。“叶うなら、今は、何も言いたくない”と。
両親に言いたいことは、いっぱいある。これまで、それらをまともに口にできたことはなかった。そのことを、マキコはずっともどかしく感じていた。
そうして溜まっていった“心の澱”を、外に吐き出すのではなく、そこから目を離すことによって、もっと自由に生きてみたいーーそんな願望に、マキコはようやく気がついたのだ。
マキコは一人娘だ。いずれ、両親とは真正面から向き合わねばならない日が来る。それまで、目を背けたいことをそのままにしておいてもいいんじゃないか、と思えたのだ。
未来の自分へ負債を残すことになるのかもしれない。でも、今からがっぷり四つで向き合っても、将来的に良好な関係を築ける保証もまた、どこにもないのだ。だって、相手があることなのだから。
だったら。今は、自分に素直でいたい。
当面の間は、“都合のいい娘”でいることに決めた。“都合のいい”というのは、もちろんマキコにとって、である。
母にメールを送り終えたマキコは、未読になっているメッセージに目を留めた。それは、慎二とのやりとりのスレッドだった。
『また飲みに行こう』
慎二からの返信で締めくくられたメッセージスレッドを、マキコは開くことすらできずにいた。なぜかと問われても、理由は、よくわからなかった。
ーーその時。
マキコの周りの景色が、一気に淡く染まった。
地面に落ちていた桜の花びらが、強い風によって高く舞い上がったのだ。マキコは驚いて目を瞬く。瞬きがまるでシャッターのように作用して、視界がコマ送りみたいに変化する。はらはら、はらはらと落ちていく花びらが、薄い太陽の光を反射して、目の前が一気に明るくなる。
「すごーい!」
通学途中と思しき小学生たちが、舞い上がる花びらたちと戯れながら、きゃあきゃあとはしゃいでいる。
桜は散った。
でも、物語はそこで終わりではない。
散った桜はそこにある。新しい芽だって出る。
そして、また来年も、桜は咲く。
ーーパシャッ。
マキコは、無意識のうちに舞い上がる桜の写真を撮っていた。呆然とした気持ちでスマートフォンを確認すると、何の変哲もない住宅街の写真が収められていた。あんなにたくさんの花びらが舞っていたのに、ほとんど写っていない。
それを見て、マキコは思わず噴き出した。写真は、難しい。目の前で見たものの感動をそのまま写真に収めるような技量は、マキコにはなかった。
そのまま、慎二とのスレッドを開く。
今しがた撮影した写真を送った。
メッセージは、つけなかった。
返事が来るのかは、わからない。
それでもいい。
やりたいから、やった。それだけだ。それをどう受け止めるのかは、相手の領分だ。
マキコはスマートフォンから顔を上げる。舞い上がった花びらたちは既に地面へと着地していた。そしてまた、以前と変わらない街並みが、そこにある。
スマートフォンを鞄にしまい、マキコは、再び歩き出した。
何かが解決したわけではない、けれどーー
私は、知っている。
行動を起こせば、世界が少しだけ変わる、その可能性があるのだということを。
ーー次の休みには、また、髪を切りに行こう。
前を向いて歩きたい、少しずつでいいから。
小山内マキコ、28歳。
彼女の日々は、これからも続く。




