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小山内マキコは髪を切る

 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……


 控えめなアラーム音が、小山内(おさない)マキコの耳に届く。本当に目を覚ましたい理由があるならば、もっとけたたましいアラーム音を設定するはずだから、きっとこの音は別の部屋の住人の枕元で鳴っているものだろう。今までそのように感じたことはなかったけれど、意外とこのマンションは壁が薄い作りなのかもしれない。

 脳が先に起きてしまったので、試しに薄目を開けてみる。マキコは左を向いたまま、横向きで眠っていたらしい。放り出した左手の先に転がっていたスマートフォンが、淡い光を放っている。それを視認して初めて、件のアラーム音は自分が設定したものだということに思い至った。左手を少し伸ばし、画面を操作してアラームを止める。


 ーーそうか、今日は、”休日”だ。


 せっかくの休日なのだから……と思い、アラーム音を少し優しいメロディ、そして優しい音量に設定し直した、昨晩の出来事を思い出す。マキコは朝に弱い。いくら休日とはいえ、大幅に寝坊をしてしまえば生活リズムが狂ってしまい、支障が出る。一方で、休日につんざくようなアラーム音で起こされるのはごめんだった。

 それゆえの、優しいアラーム音。結果的に起きられたからよかったものの、何だか中途半端というか、どっちつかずだったな……と思い、ため息が漏れた。惰眠を貪ることも出来なければ、早起きしてアクティブに動くことも出来ない。自分らしさって、突き詰めると割と中途半端だったりする。


 その場で軽く伸びをしながら、マキコはベッドから降りる。テレビの斜め上にかかっているカレンダーを見ると、今日のスペースは空白だ。


 何をしよう。


 そう思いながら髪を手でとかすと、肩のあたりで指が引っかかってしまった。どうやら、髪が絡まっているらしい。こういう時は慌てずに、目の荒いクシで毛先、毛の中間、根元、と順番にとかせば解ける……ことを知らないマキコは、そのまま強引に指で髪を引っ張ってしまう。指は何とか髪を通り抜けたものの、何本か切れてしまった髪の毛が手の上に残ってしまった。

 それらの髪の毛を見て何とも言えない気持ちになったマキコは、ふと、一つのアイデアを思いつく。



 そうだ。





「いらっしゃいませ」


 入り口の開き戸を引くと、ゆるゆるふわふわ……という言葉がピッタリな女の子が声を掛けてきた。見たことがない顔だ、とマキコは思う。本当に見たことがないのか、見たのに忘れたのかはわからない。アシスタントなのだろうか、マキコよりもずいぶん幼く見える。作り込みすぎていない自然な営業スマイルを向けられて、その絶妙なさじ加減に感心してしまう。


「先ほどお電話した、小山内です。突然すみません」

「いえいえ。あちらのお席にどうぞ」


 一つに束ねた髪を揺らしながら、女の子が席を案内してくれる。大きく分ければひとつ結び……ということなのだろうが、随所にこだわりが感じられるそのヘアアレンジは、マキコにはその仕組みが皆目見当がつかないほど凝っているように見えた。髪型を見せることも仕事の一環なのだろうとは思うものの、恐れ入る。


「少々お待ちください」


 席に残されたマキコは、テーブルの上に並んだ雑誌を見て思わず苦笑した。女性向けの経済雑誌、それに、女性週刊誌が2冊。どうやら、女性向けのファッション誌を好む客だとは思われていないようだ。一体、カルテにどんな客だと書かれているのやら……まあ、確かに、置かれたところで困ってしまうのだけれど。マキコは、それらを読み解く文脈を持ち合わせていない。

 とはいえ、週刊誌を積極的に読む趣味もなかったので、一番上に置かれた女性向けの経済雑誌をパラパラとめくり始めた。


「お待たせしました」


 柔らかい声が、頭の上から降ってくる。マキコは驚いて、少し肩を揺らした。美容師って、どうしてこういう時に気配を忍者のように消すのだろう。


「沖田さん、突然予約を入れてしまってすみません」


 マキコが軽く目を伏せながら小さな声で呟くと、沖田は人の良さそうな笑顔を鏡越しに向けてきた。ああ、この人も笑顔の塩梅が完璧だ、とマキコは思う。


「いえいえ、ちょうど空いていてよかったです。小山内さんは定期的に予約を入れてくださるイメージがあったので、驚きましたけど」


 マキコの後ろにある可動式の椅子に腰掛けながら、沖田は優しく微笑む。


「今日はどうしますか」


 マキコのオーダーはいつも同じだ。一つに結べる長さがいいので、鎖骨くらいで整えてください……ただ、それだけである。マキコはかれこれ20年以上、同じ髪型をしている。センター分けのワンレングス、長さは前述の通り、鎖骨に届くくらい。染める意味がよくわからないのでカラーもしなければ、扱いづらいほどのくせ毛ではないのでパーマもしない。そんな、大して面白みのない客なのに、沖田は律儀に毎回、マキコの意向を尋ねてくれる。

 マキコは、軽く息を吸い込んだ。そして、言う。


「ショートにしたいんです」


 沖田の表情が止まった。気のせいでなければ、目も少し見開かれたように思う。心臓の音が徐々にうるさくなっていくのを感じながら、マキコは続ける。


「髪も、染めてください。カラーは…よくわからないので、激しい明るさでなければ大丈夫です。お任せします」


 マキコは沖田の反応が気になって視線を上げたが、鏡の向こうには、いつもと変わらない沖田の笑顔があった。


「かしこまりました」





「前髪、作ってみませんか」


 長さやシルエットに関する質問に淡々と答えていたマキコは、びっくりした。これは質問ではなく、提案だ。視線だけを動かして沖田を見ると、心なしかこれまでより嬉しそうな表情をしているように見える。


「小山内さん、ずっと前髪を作らずにセンターで分けていますよね。それもシュッとしていて素敵なんですけど、せっかくショートボブにしてカラーも入れるので、前髪も作ったらより柔らかい雰囲気になって、いいかなって」


 マキコはその言葉に、言われた通りの髪型になった自分を想像してみた。全く想像がつかなかった。


「……沖田さんみたいな感じになるってことですか」


 性別は違いますけど、と付け加えると、うんうんと頷きながら沖田が応じた。


「そうですね、こんな雰囲気になると思ってもらっていいと思います」


 自分の髪を軽く摘みながら、沖田が柔らかく微笑む。同じように切ってくれるついでに、まるで接客業に就くために生まれてきたかのような、その柔和な微笑みもお裾分けしてくれまいか……と思ってしまう。何しろ、マキコの表情筋は硬い。


「わかりました。じゃあ、前髪……作ってもらえますか」

「はい!」


 沖田がいよいよ声を弾ませて返事をするので、マキコはどういう表情をしたらいいかわからなくなり、抱えていた雑誌に目を落とした。目で文字を必死に追うけれど、その内容は全然入ってこない。


 美容師を選ぶのは難しい。マキコが求めていたのは、毎回同じオーダーに淡々と応えてくれる、寡黙な人だった。そんなに難しいことではないだろうと思っていたのだが、どうやらそれ以外にも言語化できていない様々な要求がマキコにはあったらしく、なかなか腰を落ち着けられる場所は決まらなかった。

 沖田と出会ってから3年、静かに淡々と仕事に取り組む彼に出会い、ああこれでもうこれで変に悩まなくて済むのだなとホッとしていた……はずなのに、今、彼が自分に見せている顔は、マキコが遠ざけた美容師たちの顔と、何だか重なって見えた。


 創意工夫を期待されない美容師は、つまらないのかもしれない。そんな考えがふと、頭を過ぎった。





「いかがですか」


 沖田はいつもより3割増しの笑顔で微笑んでいる。彼は手元に鏡を持ち、マキコの髪型の後方を、正面の鏡越しに見えるように映してくれていた。鏡に映る自分をもうかれこれ何秒も見つめていたが、マキコは自分の髪型をよくできたカツラだとしか思えなかった。沖田の名誉のために言っておくと、彼の腕のせいではない。カラーの色をおまかせにしたにもかかわらず、染めたか染めていないのかわからないくらいのソフトな色を選んでくれたことからも、沖田の配慮はきちんと伺えた。問題はマキコが、自分が生涯で一度も見たことのない姿をしている、ということの方にある。


「今日お召しのニットともよく合っていますよ」


 マキコの戸惑いを察したのか、いいタイミングで沖田がコメントを挟んでくれる。そこで初めて、マキコは髪型だけに注目せず、自分の全身を見ることができた。確かに、太めボーダーのカジュアルなニットには、センターパートの黒髪ミディアムボブよりも、わずかに色の入った前髪ありショートボブの方が合う気がする……と思った。思うことにした、のかもしれないが。

 沖田は実際に髪に触れながら、ショートヘアが初めてのマキコに、髪の乾かし方やセットの方法をいろいろとレクチャーしてくれた。彼はやはり美容師で、毎日何人もの髪型と向き合うプロなのだとしみじみ思う。ただ、マキコの興味が、今までその点には向かなかっただけで。





「ありがとうございました」


 会計を済ませ、預けていた紺色のダッフルコートを受け取ったマキコは、足早に美容院を後にしようとした。何だか、いろいろな思いが心に渦巻いてしまって、とにかく落ち着かなかった。


「小山内さん」


 先を行ってドアを開けてくれた沖田が、優しく声を掛けてくる。


「……何かご希望があったら、またいつでも言ってくださいね」


 カチコチに固まったマキコの顔を見てもなお、微笑みを崩さぬまま沖田はそう言った。


 やっぱり、創意工夫を期待されない美容師は、つまらないのかもしれない。





 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……


 今度は間違えない。優しい音のアラームをのろのろと止め、マキコはベッドから起き上がった。髪をとかそうと頭に手をやると、スッとした感触と共にあっという間に指が抜けてしまった。目に入ったカレンダーには、前日のマスに“髪を切った”の5文字が並んでいる。


 ああ、私、髪を切ったんだ。


 心の中で小さくガッツポーズをする。ベタだけど、思い切ってやってよかったとしみじみ思う。いっそのこと鼻歌でも歌ってしまおうか……というくらいの上機嫌で洗面所へ向かうと、目の前に広がる光景にマキコは思わず表情を止めてしまった。


 ナンデスカ、コレハ。

 

 洗面所の鏡に映った自分の髪型が、明らかにおかしい。一言で言うと、”芸術が大爆発”。


 恐る恐る、前日の記憶をたどる。初めはカツラのようだと恥ずかしく思った自分の髪型も、ショーウインドウや自宅の鏡で見ていくうちに見慣れてきて、むしろここまで変わる勇気を出せた自分に拍手したいような気持ちになっていた。

 そこまではいい。寝る前にお風呂に入ってーー厳密に言うとマキコはこの時点でミスを犯している。沖田から、カラーをした日はシャンプーを控えてくださいねと言われたことをすっかり忘れていたーー髪を洗って、その後、その後だ。

 その時、あることを思い出してマキコは愕然とする。人生で経験したことのない髪の短さに、わざわざドライヤーを当てるまでもないとタカを括ってしまい、濡れた髪を放置したまま寝てしまったのだ。


「ショートヘアって、意外と取り扱いが難しいんですよ。小山内さんの髪は長さがあれば問題ないんですが、短くなると少し扱い方にコツが必要なるんです。例えば、ここに髪の生えぐせがあるので、乾かす時はこちらからドライヤーを当ててあげるといいと思います、それから……」


 遠くから沖田の声がする、気がした。記憶の中のそれを手繰り寄せようと必死で頭を回転させたけれど、待てど暮らせど具体的な対処法は出てこない。何しろ、マキコは当時、結構浮かれていたのだ。


 失望で大きくため息を吐いたマキコは、そのまま、元いた布団にダイブした。まるで、そうすれば今見た悪夢のような光景が、本当に夢になってくれると信じるかのように。

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― 新着の感想 ―
[一言] こんな感じにイメージしてみました。 小山内マキコ <i591769|34709> 小山内マキコバストアップ <i591770|34709> 小山内マキコイメチェン後 <i591771|34…
[一言] まだ導入部分ですが、とても面白いです。
[良い点] 私も髪の毛を切って同じ事がおきました。 美容院での髪型にはどう頑張っても同じにならない。 あー、悪夢だ! とても現実味をおびていて、他人とは思えませんでした。
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