伝説の勇者の舞台裏(1)
その青年の前には、禍々しき黒竜が眠っていた。
青年のことには気付いているのだろうが、ただ小虫が其処に在るかのようにまるで気にする様子もない。
その巨体からは肌をひりつかせるほどの瘴気が常に放たれ、他者の接近を拒んでいるかのようだ。
山と見紛う巨体と合わせ、凄まじいまでの存在感を発揮している。
竜は青年のことを知りもしないが、青年はこの凶竜をよく知っている。
己が住まうこの世界を滅ぼさんとする、無数のモンスターたちの支配者だ。
尾の一振りで大岩を粉砕する怪力と、刀剣矢弾をも軽々と弾き返す強固な鱗、
鋼鉄をも溶かす火炎のブレスをもって、強力なモンスターたちの頂点に君臨する絶対的な存在である。
さらにその瘴気は魔術師の魔法すらも遮り、人間の身体を猛毒に冒す。
近付くことすら困難な、まさに世界の災厄であった。
青年はその類まれな剣術で各地の武術大会、そして傭兵として世界中の戦場で名を轟かせ、
さらには魔法にも才ありと見出されたことで、各国の代表らに黒竜の討伐を命じられた。
モンスターによる被害を常に目の当たりにしていた青年は、躊躇いなくその命を請け負った。
世界の危機への義気と、モンスターに命を奪われた傭兵仲間たちの敵をとるために。
各地を巡る旅の中、黒竜の情報と対抗するための神聖なる武具を集め、モンスターとの戦いの中で
戦闘と魔法の技術を研鑽し、心身ともに極限まで鍛え上げた。
どんな相手にも負けはしない、そんな思いは黒竜の姿を始めて目の当たりにした瞬間吹き飛んだ。
相手はあまりに巨大で、強靭で、残忍で、これまで倒してきたモンスターとは比較にならないことが
一目で分かったからだ。
呼吸は乱れ、心拍は早まり、汗が全身から噴出す。
身体は小刻みに震え、身に纏った甲冑が軋んだ音を鳴らす。
これは武者震いなどではない。人間の本能が恐怖を訴える震えだ。
足が竦み、前に踏み出すことが出来ない。
このまま逃げ帰りたい。一日でも長く生き延びたい。
そんな思いが脳を支配した。なぜ自分一人がこんな怪物と戦わなければならないのかと。
そんな思いを追い払うかのように、青年は首を振るった。
ここで逃げ出そうとも、いずれこの竜は世界を焼き尽くしてしまう。
そうしたら、勇敢にモンスターと戦い、散っていった仲間たちの魂は決して救われない。
自分の背中には、幾百、幾千もの仲間たちの魂が、思いが宿っている。
そしてこの世界で生きている、全ての罪無き人々の命も・・・。
その思いが、祈りが、恐怖を勇気に変えてゆく。黒き闇を照らしだす、天上の光のように。
青年はその腰に携えた剣を抜き、構えた。竜の瘴気にも劣らぬ、強大な闘気が全身を包み込む。
その闘気の気配か、それとも邪悪を切り裂く聖剣の光気のせいか、竜がゆっくりその眼を開いた。
己に害を成さんとする存在を認識し、首をもたげる。
その存在感は、眠っていた時の何倍も巨大になった。睨まれただけで心臓を握り潰された思いがした。
再度恐怖の沼に囚われかけたが、一度奮い上がった勇気はそれをはねのけた。
青年は自分に身体強化と耐火の魔法を掛け、竜に対して斬りかかった。
同時に竜は天をも揺るがすほどの咆哮を上げ、その身体を切り裂こうと高く前肢を持ち上げた。
こうして世界の命運を掛けた最後の戦いが切って落とされたのであった――――。
全身から放たれる瘴気の毒を、破邪の兜が無効化する。
岩をも切り裂く爪による斬撃を、聖なる鎧が受け止める。
巨木の如く太き尾の一振りを、風のブーツと魔法で強化された跳躍力で回避する。
口より吐かれる火炎を、纏う魔法のマントと全身を覆う耐火の魔法が防ぐ。
完全にダメージを消すことは適わぬまでも、竜の強烈な攻撃を
全身を覆う至高の武具と、守りにのみ特化させた魔法により
青年はその威力を大きく弱体化させていた。
しかし守るだけでは、この怪物は決して倒せない。
隙とも言えぬ僅かな間隙を縫い、青年は剣で切りつける。
この巨体を倒すに、一撃必殺など狙えない。急所を狙おうと跳躍すれば
竜の攻撃の格好の的だ。ただただ守りながら好機を待ち、地道な攻撃を繰り返す。
足が傷付けば胴体が下がり、胴体が傷付けば首が下がる。
急所たる首を地に引き摺り下ろすまで、そのルーティーンを繰り返す作戦を実行していた。
何時間戦い続けたことか、青年はようやく竜の両後足を切り裂き、胴を地面に付けさせた。
その間青年も何度も火に焼かれ、打撃を喰らい、幾度と無く吹き飛ばされていた。
息は切れ、身体はギシギシ痛む。治癒魔法も掛けてはいるが、それでもなお消せないダメージが
蓄積されていた。剣を握る右手も、気を抜けば取り落としてしまいそうだ。
そんな弱気を振り払い、さらに強く柄を握り締める。自分と同じように、竜もダメージを受けている。
気力で負けた方が倒される、とさらに己を奮い立たせた。
足を傷付けられ、大きく機動力を落とした竜はより多くの隙を見せるようになった。
治癒魔法で傷を癒し続けている青年は、その身体能力をほとんど落としてはいない。
この差は歴然で、青年が一撃加える回数が目に見えて多くなってゆく。
与える傷も一つ一つが大きくなり、竜の顔が苦痛に歪むのが分かった。
だが数多の戦場を潜り抜け、徹底したリアリズムを身に着けている青年は決して大きく狙いには
行かない。
ただひたすら万全な防御を取り続け、隙を見つけるや剣を繰り出す。この繰り返し。
功を焦って崩れていった隊をいくつも見てきた青年は、慢心と油断の末の結果を誰よりも
知り尽くしているのだ。
やがて胴からも夥しい血を垂れ流し、竜の吹く火炎もその勢いが弱まってきているのを感じた。
首が僅かに下がり、覚悟を決めたかのように黒竜の瞼が閉じられた。
いける!と勝ちを確信した瞬間、青年の視界が閃光に包まれる。
凄まじい衝撃と、耳を劈く轟音に包まれ、脳が知覚するより先に青年の身体は十数メートル
跳ね飛ばされていた。
これまでに無い強烈なダメージに、すぐに立ち上がることが出来ない。喉から逆流してきた血を
吐き出し、痛みに耐えながら大きく息をする。四つん這いになり、ゆっくり立ち上がりながら
ようやく戻り始めた思考で何が起きたか把握する。
魔法だ。この竜は、爆発魔法を放ったのだ。
炎に対する抵抗力は高めていたが、爆風による衝撃に対する抵抗力は高めていない。
そもそも各地を回り集めた情報の中に、竜が魔法を使うなどというものは無かった。
圧倒的な怪力と強烈なブレスだけで他者を圧倒できた竜は、人前で魔法を使わなかっただけだろう。
青年は己の浅慮を恥じ、新たな脅威に戦慄した。対魔法の策を何一つ持っていなかったからだ。
人による魔法は何かしらの詠唱が必要だが、この竜にはそれが必要ではないらしい。
そんなものを避けられるわけが無い。魔法を連続で放たれれば、それでこの戦いはあっけなく終わる。
竜は好機とばかりに尾を振るい、青年を吹き飛ばす。魔法ほどではないにしろ、強烈な一撃に再び青年は
地面に転がされた。成す術無し、と青年は激痛の中で目を閉じた。
過去の記憶が脳裏に蘇り、次々と流れてゆく。さながら青年の人生を描いた映画のように。
やがてこの竜との戦いに差し掛かり、人生の終わりを覚悟した。
その時、竜が瞼を閉じるシーンが現れた。その直後、閃光に包まれる自分。
そうか、眼か!
青年は突如目を見開き、治癒魔法を自身にかけた。僅かながら痛みは和らぎ、力が戻ってくる。
剣を握り直し、地面に突き立て杖代わりに立ち上がる。荒い息を整え、構えた。
竜はとどめを刺そうと近づいてきていた。走馬灯で一生分の時間を経験していたつもりだったが
実際にはほんの僅かな時間に過ぎなかったようだ。傷付いた足で、移動力が落ちていたのも
大きいだろう。
通常魔法を使う時は、その効果を発揮させるために精神を集中し、詠唱を行わなければならない。
だが竜は眼を閉じるだけで魔法を完成できるのだ。だがそれが、魔法発動の合図でもある。
青年はそれに気付き、黒竜打倒の策を即座に組み立てた。
青年は再び強化と耐火の魔法をかけ、底を尽きかけた精神力を回復させるために
魔法薬を飲む。万全ではないが、これで気力体力共に回復した。
竜は青年が回復したと見るや、再び眼を閉じた。炎や打撃は効果が薄いと学習したのだろう。
青年は瞼が完全に閉じられた瞬間、竜に向けて跳躍した。
竜が眼を開いた時、青年はすでに眼前まで迫っていた。
このまま魔法を放っては、自分まで巻き込まれてしまう。
その一瞬の躊躇を青年は見逃さず、胸の中心部に剣を大きく突き入れた。
GYAAAAGHOOOOOON――――――!!!
凄まじい絶叫が響き渡り、竜は無茶苦茶に前肢を振り回した。
青年は急いで距離をとり、再び構え直す。
手負いの状態ほど危険な存在は無い。相手が人であろうと獣であろうとそれは変わりなかった。
命にも関わる傷を負った黒竜は、形振り構わず自分を殺しに来るだろう。
完全に凶暴化し最も危険な状態となってしまった。
激痛からの錯乱を脱し、標的を完全に意識した竜はこれまでになく大きく口を開いた。
喉の奥から炎ではなく、凄まじい光が現れる。その光が凄まじい高熱と光、爆炎を伴い
青年を飲み込んだ。
それは炎ではあったが、あまりの高熱に赤でも青でもなく閃光の如き白い烈光を放つに至っていた。
耐火魔法とマントの効果をもってしても、青年の身体は酷く焼け爛れた。
常人ならば即死するほどの獄炎のダメージを、青年は意識を保ったまま耐えたのだ。
しかし立っていられるはずもなく、片膝を付く。そのまま意識を失いそうになるのを必死に堪え
青年は治癒魔法をかけた。しかし即死級のダメージを完全に消すことはできない。
このまま治癒魔法をかけ続けても、あの獄炎のブレスを受け続けては、いずれ精神力も尽き
追い込まれるのは目に見えている。ならば動けるうちに相手に攻撃を仕掛け、
一気にたたみ込むしかない。
青年は身体強化の魔法のみをかけ竜に向かって駆け出した。
予想外の行動に、竜は怯みつつも前肢を繰り出す。
青年はその裂爪に合わせ、剣を大きく振りかぶった。
青年の身体を串刺しにしようとするその凶爪を、青年は手首ごと斬り飛ばした!
返す刃で腹部から胸部を大きく斬り裂き、大量の鮮血を迸らせた。
竜は絶叫しながらも残った前肢の爪で貫かんと一撃を繰り出す。
青年はさらに剣を振り下ろし、残った前肢をも斬り落とした。
それと同時に、爆風が青年を襲った。全身がバラバラになるような衝撃を受け、再び青年は
吹き飛ばされる。
竜は、自分が巻き込まれるのを覚悟の上でわざと前肢を攻撃させ、完全に無防備になったところに
魔法を発動させたのだ。竜もダメージを受けるが、青年のダメージは獄炎のものと合わせ
もはや致命傷に近かった。
もはや虫の息だった青年は、最後の精神力を使って傷を回復させる。死にたくないという本能からの、
無意識の行動だった。
利き手は無事なものの、もう片方の手と両足は折れて最早歩くことすら出来ない。
アバラも何本か折れ、呼吸するたびに激痛が走る。額も割れ、流血が視界を赤く覆う。
しかし、もはや気力だけで立ち上がる。これもまた意識した行動ではない。
世界を救うという義務感でも、傭兵仲間の敵をとるという復讐心でも、世界を救った英雄として
祭り上げられたいという功名心からでもない。
人間の脳の最も奥底の、さらに奥底にある生存本能が、この戦いの終わりが近いことを察知し
幕を引くべく立ち上がらせたのである。
青年の本能は、実に正しく状況を認識していた。
魔法を放った竜は、大きく斬られた胴を爆風に晒した為さらに大きく失血していた。
斬り落とされた両前肢からも大量に出血しているため、もはや命を保つのも限界なほどであった。
怪物たちの王たる自分が、かつてこれほどまでの危機に追い込まれたことはない。
その屈辱と怒りが、最後の力を奮い起こしていた。
己の残りの全ての力を込め、最大最強のブレスを繰り出そうと大きく口を開く。
その奥から、先ほどを遥かに上回る強烈な白光がせり上がってくるのが見えた。
青年は全身全霊の力を込め、その大きく開いた口に聖剣を投げつけた。
ブレスが放たれるより一瞬早く、聖剣は竜の無防備な上顎に突き刺さり、そのまま脳天を貫いた。
永遠に続くかのような、凄まじい断末魔の絶叫を上げた。
青年に向かい放たれるはずだったブレスは、その主たる竜の巨体を包み燃え上がる。
胴の切り傷からから一条、二条と光が漏れ始め、やがて全てが白に覆われた。
その白は、やがて岩を、草木を、飛ぶ鳥を、動物を、大地を、天さえも覆っていった。
そして、大陸全土を揺るがすかのような、大爆発が起きた。
それは世界支配を目論んだ竜の、最後の執念だったのかもしれない。
歩くことさえ出来ない青年は、魔法の比ではないその強烈な爆風に飲み込まれ
吹き飛ばされていった・・・。
走馬灯すらなく、ゆっくりと意識が薄れてゆく。
あれほど全身を苛んでいた痛みすら感じない。
これが死か・・・。
青年が死を意識したその時、脳内に声が響いた。
『―――このまま生涯を終えてはなりません。貴方には、まだやるべきことがあるはずです―――』
これまで聞いた事のない、厳かで神聖な男性の声だった。
不思議と、意識がその色を戻していく。それと同時に、身体に痛みが戻ってくるのが分かった。
『―――そう、気を強く持つのです。貴方はまだ死すべき運命にありません―――』
『―――貴方を想う人が、共に戦った仲間が、世界中の人々が貴方の還りを待っています―――』
『―――荒らされた大地を、海洋を、国々を甦らせなければなりません―――』
『―――全ての人々が一つとならなければ、この悲願は果たされないのです―――』
『―――貴方が、貴方だけがこの世界を、人々を―――』
そうだ、世界は未だ荒らされたままだ。危険なモンスターも消え去ったわけではない。
自分が生還しなければ、全ての国は一丸にならないかもしれない。
命がけで守った世界を、そのまま終わらせるわけにはいかない。
生きて―――還る!!
青年は目を見開き、僅かに戻った精神力を駆使して回復魔法を使った。
全身の傷を癒すには遠く及ばないが、それでも立ち上がれる程度の力が戻った。
しかしモンスターを相手に出来るほどではない。
青年は竜との戦いでボロボロに刃こぼれした聖剣を拾い、大爆発で出来た窪みに身を潜めた。
周囲にモンスターの気配はない。それを確認してから土壁にもたれかかり目を閉じる。
精神力が回復するごとに治癒魔法をかける。これをひたすら繰り返した。
一時間もすると、青年はとりあえず歩いて帰還できる程度には回復できた。
しかし武器も防具もボロボロだ。身体も精神も全快には程遠いこの状態で、戦うには厳しい。
青年は茂みや岩など、身を隠せる障害物が多い地を選んで移動し、モンスターの気配がすれば
身を潜めてひたすら通り過ぎるのを待ち、再び移動する。
これを繰り返し二日間かけて、竜が居を構えていた地から最も近い村に辿り着いた。
村の入り口をくぐると同時に倒れこみ、気を失った。
気が付くと村の宿のベッドの上で、丸一週間意識がなかったと聞かされた。
青年は看病してくれた宿の主人に自国の王城への伝達を頼み、身体の療養を続けることにした。
それからさらに数日、王城からの騎馬隊が調査団と共にやってきた。
調査団は竜の住まう地の確認へと向かい、そして青年は護衛の騎馬隊と共に自国への帰路に就いたので
あった。
青年が王城の門をくぐると、そこには世界各国の首脳高官が揃っていた。
どんな旅をしたのか、どんな魔物と戦ったのか、黒竜の強さは如何ほどだったのか・・・。
絶え間なく続く質問攻めに、黒竜の炎の方がまだマシだとうんざりする青年。
その後調査団も帰還し、黒竜の完全消滅及びモンスター残党の全討伐完了の報告を受け
王城が、いや世界中が盛大なお祝いムードに突入した。
青年を偉大な戦士、神に選ばれた勇者と人々は褒め称え、世界各国からあらゆる褒章と最高位の爵位を
与える旨が発表された。自国の王からは姫との婚姻を勧められ、次期王位を譲りたいとまで言われた、
青年は頭が追いつかず、考えさせてくれととある建物に逃げ込んだ。
其処は幼子の青年を拾い、育ててくれた孤児院を兼ねる世界で最も古い神殿であり、母とも呼べる
神官のいる最も心の安らぐ場所。
青年はすっかり年老い、腰の曲がってしまった神官と話していた。
自分がこれからどうするべきか、世界を立て直すにはどうしたらいいか、分からないことだらけだ、と。
神官は優しく頭を撫で、この世界の行く末は全て天におわす神に委ねるべきもの。
進むべき道に迷ったのなら、神に祈り啓示を請いなさい、と。
青年は神殿の奥にある神像の前で跪き、祈った。
我が迷いを晴らし、進むべき道をその光をもって照らしくださいと・・・。
天に祈りが通じたのか、大いなる声が頭に響いた。
否。青年の頭の中ではなく大地の隅々まで届く、厳かにして神聖なる声。
青年が黒竜との相打ちを覚悟した時、奮い立たせてくれたあの声だった。
『―――この世界の脅威は、かの青年により追い払われました―――』
『―――しかし、世界の負った傷はとてつもなく深いものです―――』
『―――かつての姿を取り戻すには、全ての人々が力を合わせねばなりません―――』
『―――国を超え、人種を超え一丸となって真の平和を取り戻しましょう―――』
『―――世界の危機を救った青年の勇気を旗印に、皆の心を一つにして―――』
声が響き終わり、世界中の人々が次なる目標を胸に前に進もうと心に誓う。
こうしてあらゆる国境と人種の垣根を越え、この世界は新たな一歩を踏み出すのであった・・・。