加速度公式
ひとたび安定してしまえば思いのほか揺れることはなく、安心して荷物を紐解いた。彼と僕とで一つずつ同じバッグを持ち込んでいた。中から早速、アルミホイルにくるまれたフォークを取り出すと、彼に向って投げた。
「君は洋食がすきなの?」
「どうして」
「お箸じゃないから。ああ、そうか。フォークの方が楽だね」
「うん」
「失敗したな僕もそうすればよかった」
彼はバッグの中身を僕に見えるように掲げた。
「どうしてそんなに緑の葉っぱがいっぱいつまってるんだい?」
「なんでだと思う」
「食うため?」
「違うよ」
しかし僕も実のところ同じようなものなのだ。僕のバッグはこのフォーク以外にはどっさり飴玉を詰め込んであるだけだった。ふいに彼が立ち上がったので、目線だけで彼の挙動を追う。ここはとても狭い場所だ。
「ちょっと外を観てきたい」
彼が窓の装置を操作すると途端に光が差し込んだ。僕らは今、宙に浮いている。
「君もみたほうがいい」
「あれが紙やすりでできた防波堤かな」
「多分そうだろうな。そしてその隣にあるのが我らが屑箱の青色だ」
「僕らはずっとそこで耐えていたんだね」
「ああ」
「やっとこれた。僕らだけなのが残念ではあるけど、運命を信じないと」
「おっと!」
ガクリ、と大きな揺れがあった。急に暗転し、そして明滅があり、しばらくしてまた元に戻った。
「大丈夫か?」
彼の問いかけに、答えようとして気が付いた。声が出ない。
「おい、どうした?」
振り向いた彼が目を見開いて硬直している。僕はひたすら口をパクパクさせるしかない。いや、僕に口があるのか?
「なんだこれは。君という存在は感じられるのに、全く姿が見えない」
僕自身、どこにいるのかわからない。しかし今こうして思考できているのだから、僕の存在はどこかにはとどまっているはずなのだ。彼はとにかくバッグを手繰り寄せ、その小型ポケットから手帳を取り出した。手帳には印刷物のスクラップや、走り書きがあり、何よりそれは普段からの彼の精神安定剤であった。必死にページをめくる彼を感じながら、僕は息をひそめていた。
「だめだ、わからない」
しかし、彼はペンを取り出し、空白のページで考え始めた。
「僕一人になった。ということは、現在の重量はXXで、すると加速度は」
彼が加速度の公式を走り書きした瞬間、僕の神経に電撃が走った。
「痛い!」
「へ?」
「痛いじゃないか」
「もしかして君は今、加速度の公式に転換されてしまっているのか?」
「だとしたら?どうすればもとにもどれる?」
「わからない。だが、こういう時は積分するのが常套手段というものだ」
などと彼がつまらないことを言う。僕はすでに自らの存在を感じている。今、僕らは動いている。この容器ごと定められた初速で移動しており、これを積分さえできれば僕は還元されるはずなのだ。つまり僕は今、物質ですらなく、真に概念となってしまっている。
「一つ聞いていいか?さっき君は痛いといったな。ということは今の君にも痛覚はあるのだ。では感情はあるのか?」
「わからない。ないような気もする」
「あやふやだね。それじゃあ、今こそ白状するけどね、僕は君のことが嫌いだ」
「そうかい」
「最初からね。だって君といるといつだってしらけるんだ」
「だが今の僕にだって、空腹はあるんだ」
そう言って僕は彼の意識に直接訴えかけて、ピタゴラスの定理を想起させた。
「君はこんなものがごちそうなのか」
「ああ、うまいよ」
彼はメモ帳を投げつけ、うつぶせの体制になる。そうして足をばたつかせると、大きく全体が振動した。またもや明滅が始まり、今度はキュルキュルと奇怪なサイレンまでなり始めた。次第に彼の背中が隆起し、そこから裂けて、僕のスマートフォンが飛び出した。彼は痛みで気を失ったようだ。その機器のメモリに僕が存在している。ささやかな磁気力でどうにか顕現しようと試みるも所詮は一個の初等的な公式であり、力が及ばない。明滅は止まらず、僕らは引力に引き付けられて落下していた。落下する彼の体を感じ、僕は自らの変身を予感した。これがまさに求める軌道であったからだ。殊にこういう時、解軌道というのは美しい放物線を描くものだ。僕は無重力を体感し、初速を発展させて突き進むこの箱でもなく、その中で突っ伏している彼でもなく、その動きの展開そのものだった。僕を感知できる存在は今や存在する構成物でない。僕が生み出した波紋をむずかゆく思ったのは、空間それ自体であった。
「君の波及を感じているよ」
空間のささやき声が聞こえる。
「なにせ光の速度というものがあるのだから、全く自由というわけにはいかないけれど、それでも君は今自由落下というこの世の最高の自由を体感しているね。それは僕自身には味わえないものだから、うらやましいよ。なんせ僕はチョウザメみたいなものさ。もちろんこれは僕がこっそり盗み聞いた話であるわけだが、彼女は娘に言い聞かせていたよ、彼にはもれなく子分がついているもんだって。とてもじゃないが彼は大きすぎて何もかもは感じることができないだ。だからそれを補完する役目が君たちなのさ」
空間の饒舌が振動を生み、果たして今自由落下軌道を描けているのかと不安になる。軌道となった僕には感情があるのだ。
「君はきっと恋をするよ。それも僕には途方もないことなんだ」
「どういうわけでそう思うの?」
理由はわからない予言だが、うれしくはなって聞いてしまう。
「僕というのは知っての通り、今や時間をも取り込んでいる存在だ。僕には明確な始まりも終わりもどうやらないらしいんだ。というか、僕は砂時計を持たない。でもね、恋をするのにこれは致命的なんだよ」
「砂時計が?」
「そう、僕はあの時やめておけばよかった。我らがニュートンの時代でね。あの頃ならまだ僕には全体で単一な時間があって、ゆえに砂時計の存在を信じることはできていたんだ。だから恋愛もできたはずだよ。相思相愛になれるかは別だが、とにもかくにもそういう感情を持つことができたはずなんだ」
「じゃあ僕はその砂時計をもっているの?」
「そうさ。どの公式だってそれは持てないが、君は今や端点に向かう時間の矢じゃないか」
やっと理由が飲み込めた僕は深く安堵した。彼に感謝した。舞い上がる飴玉と緑の葉たちが僕一人の大恋愛を祝福していた。