そのなな
聴講生と云うのをご存知ですか? 金を払って大学の講義を聞かせてもらうんです。似たのに科目履修生と云うのもありますがあれとはまた別モノです。科目履修生は試験も受けられるしそれにパスすれば単位も貰えますが、聴講生は読んで字のごとく講義を聞くだけなんです。それがなんになるかと問われても閉口して了いますが、強いて云うなら詩を書く為の勉強ですかね。いままでもやりたくて、でも勝手に諦めていた事柄のひとつでした。
文学部なんです。KO大学です。学力的にはちと、いえ、だいぶと分不相応ですけれど。火曜と水曜に一コマずつだけ講義を聞いています。文学というのもいろんなアプローチの仕方があるようでなかなか面白みがありますよ。けれど、大層結構な身分だな、などと思わないでください。必死に貯めた金で聴講生になったんです。たかだか二コマの講義料と手続き費用の諸々とで二〇万近くかかりました。けれど、やはり、これは美しのキャンパスライフとはちと云えませんね。
三流私立のM大とは違ってKOと云えば一流も一流の私立ですから、そこに集まってくる学生はなかなかの切れ者ばかりのようで、喫煙所で煙草を吸っていると廻りの会話が耳に這入ってきますが、つい昨日は「この前面接した企業の人と飲みに行ったから」だとか云うのが聞こえ、就活も万事手回しよくシビアにこなすのだなぁ、などさすがの御利口っぷりに感心してそちらをチラと見やると如何にも利発そうな面の男女がちちくり合っていて、でもべつに下卑てはいなくて、学生生活の集大成みたいなそれを目の当たりにした後、独りきりで講義を受け誰もおらぬアパートへの帰路に独りきりで就いた私に、惨じめがまったく無いと云えばこれはまったくの嘘です。
かと思えば、学祭の季節になるとアカペラの練習をしてる子等もあって、それがヘタクソであれば、所詮は勉強だけが取り柄の連中なのだ、とひとり合点もでき、多少の慰めにもなったものでしょうが、心の洗われるような素敵なメロディを奏でているのでそうもいきませんでした。歌唱能力もさることながら身体中の何処もかしこも溌剌としていて、その様子を見ていると却ってこちらの精気を吸い取られる思いすらしてきます。
もう私の大学生活は戻って来ないようです。あれは不可逆のものでした。では、じゃあ、私の居場所は何処へ行けばあるのでしょうか。聴講生はトライアルのつもりで、光明を見出だせたのなら、それから必死に勉強して正攻法で入学してやろうと、そこに私の持てるすべての熱意を注ぎ込んでやろうと、そう算段していましたが、KOだけでなく、私の居場所はもう何処のキャンパスにもないようです。乞食も学生も半チクにやってるんじゃ御話にならない、と云われれば一言もありません。
けれど、二年前のピザの宴から、よくよく向き合ってみたんですよ。じぶんと。はじめて。つくづく馬鹿気た話ではあります。
私は、どうしたッて、なにを云われても、どう見られても、貧乏をしてでも、是が非でも髪を切りたくないようです。これはアイデンティティだとか個性だとかの御話ではぜんぜんなくて、つまり、もう、意地になっているようなかんじで、それを性癖とか変態性だとか精神疾患だとか呼んでもらってもべつだん問題はなさそうなのでどうぞ御自由に命名してくだすってかまいませんが、とかく、どうやら私はこのロングヘアと心中するつもりのようです。
さて、私の左頬には茶色い痣があって、それはベッカー母斑とかなんとかと呼ばれていて、そこには髭と産毛と間の子みたいな弱々しい毛が生えてくるのでみっともなく、左側から見ると物理的にも印象的にもなんとなく陰のある風で、つまり右と左で顔つきが違って見えて、そのアシンメトリーが厭で、心はどうであれ見て呉れくらいは、特に顔面くらいは左右対称の綺麗なものが好ましいので、この忌々しい痣をすッぽり隠すために髪を伸ばしはじめたのがこのロングヘアのきっかけなのです、というようなことは一切ありません。いや、左頬に痣があるのはほんとうですけれど、それを隠すためのロングヘアなのではなくて、そんなわけはなくて、つまり用意しようと思えばそれなりの理由を都合の好い具合に拵えられそうではありますが、そんなことをしたってまったくの無意味で、所詮こじつけに過ぎぬので止して、単にロングヘアが美わしいから伸ばしているだけのことだ、と認めてじぶんに納得してもらうほうが幾らも楽なことに気がつきました。じぶんを偽って暮らすのは精神衛生によろしくないのです。
酔狂な話だと御思いでしょう。経済学は合理的な学問ですからね、無理からぬことです。けれど、これは、私にすれば、至極合理的なんですよ。目的に最短距離で、且つ、気兼ねが少ない。問題があるとすれば、一般だの常識だのというものからちと遠ざかり、その結果として貧乏をしなくてはならないくらいですが、それくらいのことは飲み込んで辛抱して了えばよいんです。
それでも合理性が足りぬと仰るなら、ロングヘアを金で買っていると考えてもよいです。労働価値説とか云うのがありましたね。労働が価値を産み出して商品の価格を決め、貨幣はその間を媒介しているだけであって価値そのものではない、というような話でしたかね。であるなら、労働=価値、貨幣≠価値、というような式になりますかね。現役時代に学んだはずの智恵はほとんど忘れましたが、初歩的なこれだけは何故かあたまに残っていて、身を削るようにしてバイトしているいま、頻繁に思い返すようにもなりましたが、大事なのはこの後に続く、労働で産まれた価値を資本家に搾取されている、という部分ですかね。このこともバイト中によく考えますがすぐに止めます。搾取については憤りを感じないわけではありませんが、私が抗うような項目ではないようです。二で割れば興味のない部類で、どうでもいいと云えばどうでもいいのです。私の関心はいつでも髪ありきなんです。仮に私の説を式にするなら、ロングヘア=価値、とか、ロングヘア=自由、とか、自由≒清貧、とかになるでしょうか。自由清貧説とでも名付けましょうか。自由を金で買っているから貧乏なんだという理屈です。阿呆みたいでしょう。けれどロングヘアは私の自由の象徴なんです。これだけは真心からの言葉のようです。
或いは、もっと簡潔に、髪の手入れだと思ってもよいかもしれません。先生は短髪ですから御存知ないでしょうが長い髪の質を維持するのは、これは並大抵の根気では無理で、金も手間ひまもそれなりにかかるんです。何種類もトリートメントを使って、神経質にドライヤーをし、出掛けるときはヘアアイロンが必須です。肩にカバンをかけるときは巻き込まれないか気を遣うし、雨の日は湿気にやられてうねるし、という具合にシチメンドクサイのです。これらの延長線上だと思えば、ロングヘアの所有代でも支払っているのだと思えば、貧乏暮らしもやってやれないこともありません。
まあ、つまり、なんとでも云ってやれるわけです。どうとでも捉えて了えばよいんです。結果はおなじことです。どの筋書きをどんな風に通ったって私はロングヘアを手放さないでしょう。
ひょっとすると、大学へ進学したのも髪を伸ばしたいからだったのかもしれません。一般就職せずに美容師を志したのはありありとそうでしょう。けれど、やはり、他人の髪には興味を持てませんでしたね。じぶんの髪を伸ばすために、唯だそのためだけに美容師をやらなくちゃ不可ないというのは、これは美容師を冒涜する行為でしょうから、止めて正解だったとも信じています。そうして、いま、聴講生など云う無駄なものに成ってキャンパスライフもどきをやりつつ、文学だ、詩だ、と私の脳ミソのキャパをはるかに超えた小難しいことに取りかかったのも、もしかしたらそうなのかもしれません。
私はこれまで闘ったり逃げたりを繰り返してきたようです。そのたびに苦しまねばなりませんでした。私に宿された切り替えスイッチのようなものはもう馬鹿になっているものか、或いは元から不良品だったのか、とかく闘うと逃げるとを良いバランスではやれないのです。RPGの戦略ではないんです。これは私の確としたrealなのです。なので、私は逃げることにしました。ロングヘアの存続が危うくなりそうな事物からは徹底して逃げるんです。堕落論の人が、人は闘っている限り負けないのだ、と云うようなことを書いていましたが、それは強い人が勝手にしたらよいのです。なにかと闘い続けるサマはさぞ恰好良いだろうと素直に思います。そうあれば良いとも思います。けれど私には必要ないようです。
さまざまからさまざまの手段を駆使して逃げまわり、その行く末になにがあるものか、私は知りません。知る意味もべつだん無いように思います。いま、不図、脳裡に浮かぶのは、じぶんがルンペンとなった姿です。この先にもし禿げて了ったらそれでもぜんぜん構いません。が、そうだとしても、禿げるまでは私は逃げ続けるのです。
先生、私も偶に思わないではないんですよ。じぶんは女の出来損ないではないのかしら、と。もし私が女であったら、普通を普通に享受し乍ら暮らして、普通に結婚して普通に出産して、そうして普通よりも少し可愛くて綺麗なお母さんになって。そんな風にごく普通の日常から景福を見出だしていたことでしょう。けれど駄々を捏ねても仕様がないですし、ニンゲンは配られた選択肢でヤリクリしてゆくより他ないのですし、どれだけ長くたって一〇〇年くらいのもので何を始めたってどうせはもれなく半チクで終わるんですから、私が死んでも地球は廻るんですから、ほんの生きてる間が出来損ないだろうとなんだろうと一向に構いません。
先日、バイト先の女子高生の子が最後のシフトでした。もう高校は卒業なのです。短大に進学するらしく、その関係でバイトも代えるようです。その子は学校帰りに出勤してくるので毎回制服姿だったのですけど、もうこの姿を見るのも最後なのか、と不思議に感慨深く感ぜられて、
「きみの制服姿を見るのも今日で最後なんだね。なんだか惜しい気もするけど」
など一歩間違えばセクハラにもなりそうな言葉をそれでも実直にかけますと、
「そうだよ。でも仕方ないでしょ。いつまでも女子高生じゃ居られないもん」
となんでもない風に云いました。頼もしいと思いました。そう云われてみると、私よりも幾らも聞き分けがよく、飲み込みの早い子でした。それを聞いた私はヘヘッと嗤っていました。
先生の御話を聞かせてください。M大学の教授になる前の先生の御話です。名古屋大学に入学するためにネジ工場で働き乍ら勉学に勤しんでいたという頃のあの御話です。私はあれがどうしてだか好きなのです。そしていまそれを聞いてみたいのです。返事を御待ちしています。あなかしこ。
×
卒業生からの手紙を読み終えた私は酷く疲れていた。
卒業生から手紙が届いているというので訝しく思いながらもこういうケースは稀も稀なことだから一応すべて読み通してみたがどうやら間違いだったらしい。今日は目の調子が良くなかったようだ。よく見えない状態でよく見ようと長時間読み物をするというのは神経をすり減らすばかりか体力の消耗も甚だしい。私のような老体がする作業ではない。
大学というところはひっきりなしに学生が出入りするからそれを一人一人記憶に留めておくことなど現実的に不可能だ。この長髪の男子学生は五、六年前に卒業したようだが、そんな学生も居たような気もするが正直よく覚えていない。なぜ私宛てに手紙を寄越したのかも判然としない。学生を可愛がるようなタイプではない。心当たりがない。
私はもう数年したら定年を迎える。いまは余生への準備期間のようなものだ。明日も一限から社会思想史の講義がある。不真面目な学生たちを相手にするのも飽き飽きしているが、それが私の仕事なのだから仕方ない。あと数年耐えれば、ひとまずまとまった自由な暮らしが手に入る。棺桶に入るまでの猶予期間だ。
この子には悪いとは思うが返事を出す気はない。返事をするのに情熱を消耗させるくらいなら違うところで使いたい。一生のうちに利用できる情熱には限りがあるのだから。
大学教授は教育者ではなく学者なのだ、と逃げさせてもらおう。
私は便箋を封筒へ戻して屑篭へ入れた。