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もらとりある  作者: 酒多 狂吉
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そのよん

 気が付けば高校野球は疾うに終幕しており、何処が優勝校だかも知らぬまま夏が終わろうとしていました。蝉の鳴き声はまばらになり、ほとんど独唱のときもあり、それが懸命な断末魔にすら聞こえはじめ、日が暮れかかるとひぐらしが哀しげに鳴くようになっていました。

 およその身辺の整理整頓がついたまでは好いものの、なにせ金がありませんので街へ出張るわけにもいかず、虚室で悶々とし乍ら腹が減れば冷蔵庫にあるものでなにか拵えて食べ、暇に任せて家中の掃除をしたり、普段使いの食器の入れ替えをしたりして過ごすより他なく、何処からも金は出ぬがこれはこれで労働なのでは、など思い、専業主婦のツマラなさを実地で体験していたわけですが、そろそろ人恋しくもなり、精虫がざわつきはじめ、有り体に云って了えば身体が女を慾していました。すぐにIちゃんに連絡しようと思いました(Iちゃんはふるいにかけなかったんです)。

 けれど、なんだか躊躇して了うのです。私の身勝手を許してくれる人ではありました。私があれがしたいと云えば一緒に着いてきてくれ、これを食べたいと云えば私が食べているのを眺めていてくれる人でした。私に女友達があったならこんな風だったのかしら、と思わせてくれる人でした。でも、だからこそ気を遣って了ったのです。ほんとうは、根が小心者にできているんですよ、とても。

 そうして、なんやかやと考えあぐねているうちに夜はふけ、何をするにも遅すぎる時間帯になって、ようやくそこでメールするのを諦めてホッとし、すると猛烈な睡魔がやってきて眠る、というような夜を何べんか過ごしました。


 まどろんでいる瞬間はもう落ち着き払ってはいますが、それまでは、特に夕暮れどきにはオカシイくらいに悶々として、なにかをしていないと発狂して了いそうな出処不明の不安がやってきます。かと云って本を引っ張りだしてきて読んでみても一行目ですでに厭気がさして二行目には破り捨てたくもなり三行目まで読んでいられることは珍しいですが三行目まで辿り着けたとてその内容は一切あたまに這入っていなくて、脳ミソが文章を文章として認識していないようで、幾つかの単語が印象に残るだけで、もはや読書として成り立っておらぬ惨状で、今度はテレビでも点けて気を紛らわそうとしますが、バラエティがやっていると嘘くさくてくすりともできず、ニュースにするとじぶんとは無関係の仮想世界の物事のような気がし、ドラマが始まるとそのハッピーエンドに落着するであろうストーリー構成に鼻白む、という有り様で却って見ないほうが心安いようでそっと電源を切ると部屋中がおそろしく閑散としていて、もう家に帰りたい、と思い、いまゐる処が実家だというのを理解するのに二、三秒かかり、そうして何処にも行かれない事実に絶望してただただ放心、みたいな意味不明のやり取りをひとりきりで背負い込んでいた或る日、私の念が通じたのかどうか、Iちゃんから電話がきました。


「こんばんはー。なにしてる? てか生きてた? 今日会えないかなぁと思って」

 現世に舞い降りた女神様だと思いました。どうもこうもならぬ私を見かねて、この生ぬるい地獄から救い出してくれるのだと思いました。

「なんとか生きてたよ。連絡しようと思ってたよ、ずっと」

「あら、奇遇ー」

 彼女は食事でもしようと云いましたが、生憎持ち合わせがありませんからそれを断りました。が、おごってあげるよ、と再度誘われ、偶には外食がしてみたい、じぶん以外が作ったものを口にしたい、という卑しい慾求に負けて結局は快諾するに至り、人並みに面目なかったり情けなかったりもしましたが、その割りに心を躍らせて準備に取りかかっていました。


 ひと月ぶりに会ったIちゃんは明るかった髪が幾分トーンダウンしていてなんとなく大人びて見えました。(男子三日会わざれば刮目して見よ、と云うがもうこれは現代では女もおんなじことだな)などと阿呆みたいなことを考えつつ、いつものように会ってすぐ腕を組んでくる彼女の二ツのタワワな乳房の感触を意識し乍ら、社会の最底辺のカップルよろしく二四時間営業のファミレスに這入ってゆきました。

 席について「ほんとに久しぶりだね」と口ずから垂れてみましたが後が続かず、前回会ったときはどんな会話をしたっけ、と振り返ろうとしましたがちょっとした手がかりもすっかり思い出せず、ついに脳髄に異常かしら、と悲観しかけて、そう云えば何時でも酩酊していたのでは、と思い出し、するとここ一週間ほど意図せず酒を断てていたのにも気がつき、しかし、そうなると喉元がゴロゴロと鳴ってアルコオルを求めだしもしたので、

「ちょっと、その、お酒を頼ませてもらえませんか。いや、図々しいのは百も承知なんだけど、飲まないとなにを話してよいか分からなくて。キミもいっしょにどうですか?」

 などとトンチンカンに物乞いをしました。

「わたしはいいよ。飲みたかったら、どうぞ」

 彼女の承諾を得、へへッ悪いね、と絵に描いたような屑の返事をしてすぐに呼び鈴を押し、麦酒、と云いたいところをグッと堪え、それと同じ値段で量の多いメガハイボールなるものをとりあえず注文しました。

「なに食べる? キミが決めたらぼくも決めさせてもらおうかな。キミより高いものは頼めないから。もしぼくが世に出たらね、もし就職できたらね、いちばんにキミにご馳走するよ」

 届いたメガハイボールを飲み乍ら私が云いました。血中にアルコオルが巡るとすこし許かり饒舌になって、いらぬことをいらぬ風に口走ります。私の悪い癖なのです。

「え、就職する気あるの? それは意外かも。あ、わたしはこのドリアにしようかな」

「そりゃ、ね。ずっとこんな素寒貧では、どうにも生きていかれないようだからね、仕方ないね」

 やや間があった後、調子良く飲み、調子良く饒舌ってすっかりご機嫌の私に、

「髪、切れるの?」

 と彼女はぽつり言いました。

 私はあからさまにギクリとしたことでしょう。普段はこんなデリケートな話題をぶつけてくる人ではないのです。

「切れなきゃ、また美容室に戻るか、自営業でもするほかないかな」

 私はまたへへッと老犬みたいにだらしなく嗤って、今度は微塵も思ってもないことをへらへらして云いました。はやくこの話題を終わらせたかったのです。

「うそ。美容院になんて戻れっこないでしょ? 二度とやりたくないって言ってたよ? あんな狭い空間で、あんな狭いりょうけんの奴らと何時間もおなじ空気吸いたくないとか、あれは軟禁されてお金貰う仕事とか、散々言ってたじゃん。あなた、きっと戻れないよ。もし戻っても、またすぐ、辞めちゃうよ」

 この日の彼女の言葉はいちいち痛い処を突いて来、けれど、私を傷つける為とはすこし違っているようで、年配者の説教じみた、人を諭す感じがありました。

 けれど、私は他人からの説教、助言、勧め、苦言、ETSETERA、それらぜんぶひっくるめて指し図としか受け取れぬ難儀な質ですから、この辺りでもうそろそろ厭で、このメガハイボールを飲み終わったらそれらしい理由をつけてオイトマしようかな、と内心では算段しはじめていました。

「ごはん要らないの? ご馳走したげるよ? 遠慮しなくていいんだよ、お給料はいったばっかりだし」

 彼女は注文したドリアを美味そうでも不味そうでもなく突ッつき乍ら、残り半分以下となったメガハイボールを名残惜しそうに啜る私に訊きましたが、どれほどでも打たれ弱くできている私は最前の彼女の御叱りにも似た小言が未だ胸元にひっかかってくすぶっていました。

「ちょっと、食欲なくて」

「え、そうなの? さっきまでそんな風に見えなかったけど」

「ウゥン」

「……」

 ほろ酔いくらいにはなっているはずなのに、アルコオルのかの陽気な作用がなかなか発揮されず、いまいちテンションが上がって来ず、場の空気も冷え冷えとして、長年連れ添った老夫婦もかくや、というような会話の盛り上がらなさで、じつに白けた食事となっていました。

「あのね、あなたにね、ちょっと話があるの。ほんとは、今日はね、それを聞いてほしくて呼んだの」

 白けているだけなら未だしも、なんだか雲行きが怪しくなってきました。おおよその検討はつきました。女が男を呼び出すときというのは別れのあいさつと相場が決まっていますから。

 私は「そうなんだ。一体なんだろう。ぜんぜん想像もつきませんよ、ぼくは。どうぞ聞かせてくださいな」などぬかしましたが、一言一句、まるきり、悉く偽りの台詞でした。できれば聞きたくありませんでした。Iちゃんを失うことはそれなりに恐ろしかったですし、恋人ができた、など云われでもしたら、人間がちいさくちいさくできている私はきっと粘着質の嫉妬に襲われるに相違ありませんでした。

「驚かないで聞いてほしいんだけど、大丈夫? 聞いてくれる?」

「もちろんだよ。さぁ、なんなりとおっしゃってくださいよ」

「うん、良かった。あなたが良い人で、ほんと、よかったよ」

「いえいえ、とんでもございませんよ。さぁ、聞かせてくださいな」

「あのね、わたしね、妊娠しちゃった」

 身体中にひやッとした汗が噴き出しました。

 彼女の言葉を脳髄で噛み砕いてゆくうちに店内の騒音も、BGMも、なにも聞こえなくなりました。唯だひとつだけ聞こえてくるのはじぶんの胸から発せられる地鳴りのような鼓動音だけでした。

「だからね、結婚してくれないかなぁと思って。わたしもあなたも、もうそろそろ結婚してもいい歳でしょ? ちょうどいい機会かな、とも思ってるよ。わたし、あなたのこと、その、好きだしね」

 こんどは承諾も得ず、怒鳴るみたいにして口ずから店員を呼び、メガハイボール濃いめで、など居酒屋特有の注文をして店員の苦笑いをうけ、それも構わず、はやく持ってきてください、と喚き、貧乏揺すりが止まらず、目は泳ぎ、相変わらず心拍数は上昇し、このまま昇天して了えばよいのだと思いました。

「どうかな? あなたが結婚したくない人なのは解ってるんだけど、でも赤ちゃんができちゃったら、その、責任っていうかなんていうか…責めるつもりはないんだけど」

 私のあたまの中では、無責任がどうとか云う、もう亡くなっているコメディアンの古い歌が呑気に再生されていました。

「子どもができて、いろいろ落ち着いたら、私も働きにでるよ。そういう女の人が好きでしょ? それまでにお金に困ったら、そのときはわたしの親か、あなたの親にも頼んでさ……みんなで協力して赤ちゃんを育てていこうよ。きっと幸せな家族になれるんだから。あなたも、わたしも。もちろんあなたにもバリバリ働いてもらってさ。一家の大黒柱だよ。そういうのって、なんか恰好いいでしょ?」

 何処から沸いてくるものか、Iちゃんには自信があるようでした。私がしぜんと誰かの父親になってゆくのだと決めつけている風でした。

「でも、働く気があるみたいで、良かったよ。こういうのも、キッカケだと思うよ。あなたは働く動機がなかっただけだよ、いままでは。だからやる気も起こらなかったんだよ、きっと。家庭とか家族ができたら、お金を稼ごうって思うもんなんだよ、男は」

 そんなものが男ならば、いますぐ私から男の成分を根こそぎ吸い取ってくれ、と口惜しくなりました。

 彼女は続けて「男は大黒柱になって、女はそれを支えるために強くなるんだよ。そうやって家庭ができてくの。そうやって家族になってくの。それが人間なんだもん。そうやってみんなやってきたんだもんね。わたしたちが産まれて、こうやって生きてるのはその証拠なんだよ。よく考えたらすごいよね。奇跡みたいだね」と一息で言いきりました。宗教でもやっているのかしら、と目の前の女が薄ら寒く思えました。

 彼女はじぶんの台詞に酔いしれ、得意顔でその余韻に浸っているようでした。それを見ると、依然として激しいままの動悸がその質をみるみる変移させてゆき、怒りの昂揚みたいな具合に作用し、このうぬぼれ女になにか言葉を浴びせてやりたい、という衝動に至りました。

「その子は、ほんとうにぼくの子ですか? ちょっと、信じられないんだけど」

 酒を御馳走になっている恩も、これまでの義理も、なにもかも忘れて私はハキハキと言いました。彼女は「え」とだけ呟いてきょとんとし、じぶんがなにを言われているのか理解していないような間ができ、目をぱちくりさせながらまさに青天の霹靂とでも云うような痛快な表情を浮かべていました。その様を見て言い知れぬ手応えを感じた私は、もう一言二言いってやりたい意気が厭らしくも沸いて来、続けざまに、

「だって、キミ、そうでしょ。知り合ってまだ二、三ヶ月ですよ。キミの素性もよく知らない。他の男の子どもかもしれないじゃないですか。なんでぼくの赤ちゃんだなんて、そんなこと——」とそこまで言うと、

「あなた以外と寝てないよッ!」

 と鼓膜をツンザくような女特有の金切り声が店内に響きました。店中のすべての動きが一瞬止まったように感じました。Iちゃんはそれまで見たことのないような表情を、いや、あれはもう形相と云っていいおぞましい顔つきをして凝乎とこちらを睨みつけていました。途端、最前の威勢は気化でもするように消え失せ、私はまたへへッと嗤いました。

 私の予測能力もたいがい当てにならぬようですね。てんで素ッ頓狂。まったくのたわけです。彼女の告白を聞いて、新たなメガハイボールが届けられて、それをまた飲んだのだと思います。恐らく二杯目は猛スピードで飲み干したのだと思います。而して、これからのことを話し合ったのでしょう。結婚に就いて、出産に就いて、私の職に就いて。それら耳の痛くなるような立ち入った話が交わされたに違いありません。

 と、思いますだの恐らくだの云わなければならないのは、これはふざけているのではありませんし、ましてや他人事のように客観視できているわけでももちろんありません。寧ろその真逆で、あまりに当事者過ぎて了ったのです。短時間になんやかやと考えることが多すぎたのです。あたまがパンクするというのはきっとあれのことです。情報量とその処理に脳ミソが追いつかないのです。有り体に云いますと、覚えていないのです。そのときの記憶がごッそり抜け落ちているのです。二杯目を平らげた後、三杯目を注文したやもしれませんが、この記憶喪失は酔いの所為ではないように思うのです。

 それで、畢竟、私は逃げたのです。


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