そのいち
前略ごめんください。富士夫先生、ご無沙汰しています。
はじめてのお手紙差し上げます。先生のアドレスへ電子メールしようかとも思いましたが、それでは如何せん雰囲気がありませんから便箋と万年筆とでお便りしているわけですが、こうして書いてみるとまるで駄目ですね。雰囲気もへったくれもありゃしません。先生の自宅の住所を存じませんので(調べようとしたら調べられたでしょうか)学校のほうへ送ることにします。
目の具合はその後いかがですか。緑内障と云うのもずいぶん大変な病気のようですね。あの頃、教室から外へ出るのにサングラスを着けていたのを思い出します。徐々に視界が狭くなって、失明もあり得るという話でしたが、回復とはいかぬまでも進行が遅れていれば、と願っています。
ですが先生、だからと云って、必要以上に悲観しては不可ませんよ。病気になってすぐに然るべき機関で然るべき治療が受けられると云うのは、これなかなかに仕合せなことのようです。金があってこそできることです。金があっての命ダネ、です。金に余裕がなければそんなことできようもありません。なので、くれぐれも悲観しすぎないことです。悲観するなとは云いませんが。とかく、あまり無理なさらずに、講義にも過剰に身を入れず、研究もそこそこにして、気楽に生活するのをおすすめしますよ。
こちらは、M大学を卒業してから、当時宣言していた通り、専門学校へ通いつつ美容室に勤めましたが、これが長くは続かず、大方の予想通り一年足らずでそこを退職し、学校も自主退学し、同時に美容師になるという志も打ち捨てました。
その後一年間は実家の虚室に篭城し、偶に外へ出ることと云えば煙草と酒の買いだめくらいのもので、昼夜問わずに安ウイスキイをやり、わかばをやり、とそれだけで、脳細胞の一粒一粒を潰すようにして暮らしていました。そのまま発狂でもして自害できていたのならさぞ仕合せだったでしょうが、なんのことはない、幾らアルコオルに溺れてみても頭のほうはしっかりしたままで、それどころか却って冴えてくるような気さえして、実にさまざまな物事をあれやこれやと思案して、突如ヒラメキ、かと思うとそれは気のせいで、また別の素晴らしいアイデアを思いつき、これはきちんと体系化して我が物にしなければ、と思い、鉛筆を手に取りノートに書き写そうと二、三行の文字にしてみると、これがなんともツマラヌ戯言で、するとすッかり意気消沈して、また煙草に火を点けもくもくやりだすのでした。
するうち、なんだかなんもかもに厭気が差して来、なんとまあ下らない個体なんだろう、とじぶんを卑下するようになり、陽気に酒など飲むのも馬鹿らしく、かと云ってすッぱり酒も煙草も断てず、あら、これが依存症ってやつかしら、などと他人事のように考え、泥酔して寝て了えばまたそのことも忘れ、規則正しくやってくる新しい朝と共にアルコオルとニコチン摂取に勤しむ、というほとんど意味不明の暮らしをしていました。
そんな中でも、もし、あの時、一般就職していれば、などとは微塵も思いませんでした。これは虚勢じゃないんですよ。先生も仰っていたように、髪が切れないのでは仕様がないのです。畢竟、私は、美容師か、アパレル関係か、そういう処に身を置くのが気兼ねの少ない個体のようなのでした。
それからもしばらくはT市の実家にゐました。これは別段秘策があったでもなく、なにせやることがありませんから、とりあえず身動きをせず凝乎としていたまでのことです。もうしばらくこうしておいて、決心がついたらば、そうしたら、良い頃合いの木を見つけて首でも括ろうかしら、とぼんやり考えていましたが、そうこうしているうちに夏がやってきて、蝉の声やら風鈴の音やらがやたらと耳に這入ってきたり、テレビを点ければじぶんより四、五歳も若い高校球児が炎天下の甲子園で溌剌とプレーしていたり、とそんな夏らしい様子に飲まれたのかどうか、それまでの無気力が嘘のように突然やる気が出てきて了って、意欲的になれ、と脳髄からの信号がビシビシ発せられるのを自覚し、居ても立ってもおられなくなったんです。
然し、燃えたぎるその精力を何処に向けたら好いのか、皆目分からないでいました。なにしろ、職もなければ金もなし(社会思想史かなにかの授業で先生が「経済学部の皆さんは就活でつぶしが効くでしょう」と仰っていたと記憶していますけど、どうやらあれは間違いのようですよ)、手元にあったのはアイフォンくらいのもので、仕方がないので急遽、ツイッターとやらを始めてみて、思い付いたすべてを世の中に発信してやろうと意気込み、それから毎日毎日飽きもせず投稿を繰り返しました。
と云っても、私の意気込みというのはどうにも厚みがないようで、その薄っぺらな脳ミソと生活から生まれでてくるものと云えば〝今日はなにを作って食べた〟だとか〝散歩なう〟だとか〝前髪切ってみた〟だとか云う、ほんのしょうもない日常以下の日常だけでした。一応、他の投稿者を真似て毎回きちんと写真付きで。尤も、これは写真があったほうが閲覧数が伸びるんではなかろうか、という浅慮からの卑しい算段でしたが。
と、そんな作業を二、三週間続けてみたところ、頭のネジが幾つか足らぬ私も確と気がついたことがあって、つまり、ツイッターと云うものは、スタート時に数人の友人、或いは知り合いがゐないと、日進月歩が叶わぬ許かりでなく、ほとんどスタート時そのままにダラリダラリと停滞するだけらしいということで、その時点でフォロワーというやつは四、五人ゐるにはゐましたが(それらはすべて私のプロフィール写真を見て女と勘違いしたマヌケ男だけのようでした)、そのごく少数のスモールワールド上で投稿し続けるのは、これはまったく面白みのない代物で、張り合いもヘッタクレもないので、じぶんに課した『毎日投稿』というルールも早々に打ち捨て、三日に一度の投稿となり、週に一度となり、写真もつけなくなり、仕舞いには〝死にたい〟などとかまってちゃん丸出しの文句を垂れるに至り、そうして、誰に云われるでもなくネットの大海原の端っこから、そっと、フェードアウトしたのでした。
ツイッターなんて高等なSNSを使いこなすにはもう少し若さが必要だったようです。もう何年か前に始めていたらば、せめて大学在学中に始めていれば、まだ間に合ったやもしれません。現にあの世界では女子高生のほうがオモシロイですし、市民権もあるようですね。半チクに歳をとって了った私には、いまさら居場所がないようでした。
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