12月25日《完》
今回で完結です。
メリークリスマス。
pixivにも同時掲載してます
音を聞いたのを覚えている。
自分の歌声とは大元から違って、体の表面を直に震えさせる。
自分以外の何かが、近づいてくる。
その感覚は徐々にこちらへ近づいてきた。
その何かに触れたくて。遠くへ行ってほしくなくて。
だから腕を伸ばした。
だから、指先に何かが当たったとき、迷わず掴み取った。
私の知らない温かさがあった。私の熱とは違う、穏やかな温かさ。
目を開く。まどろみが抜けなくて、欠伸が出た。
冷たい大気の下。
硬質な光に照らされて、そのひとは立っていた。
手首を私に掴まれた『かれ』は、目を丸くして私を見つめていた。
意識がようやくはっきりとしてくる。
もっと近くで、確かめたいと思った。
右手を引く。手首を掴まれた『かれ』は何の抵抗もなくするりと引き寄せられて、その驚きの表情で私の視界を満たした。
もっと、触れてみたいと思った。
『かれ』の頬に両手を当てる。
指が触れた瞬間の、ぴくりという震え。
戸惑いの色を濃くしていく、茶色の瞳。
わずかずつ上昇していく、指先から伝わる熱。
その姿が、私の初めて知った他者。初めての誰か。
不思議なくらいにその姿は私に近くて、安心しきってしまったのを覚えている。『かれ』の頬を触りながら私の表情は緩み切った。
『かれ』の後ろの景色は、見たことのない白さと青さで一面を覆われていた。
地面の白は光を反射して細やかにきらめき、空の青さはどこまでも深く続いていた。
その絶景を前に立つこの地の命の存在に私は心を奪われた。喜びは感激へと移ろいで、瞼から涙の雫が漏れ出した。
私は『かれ』の頬を掴みながら声をあげて泣いた。
この地には、孤独など何処にもありはしなかった。
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12/25
クリスマス。
あいつが消えた日から、今日で丸10年が経つ。
「名前を、ねえ」
紅茶を飲みつつ山野辺がこぼす。
「で、昨日はどうだった?」と尋ねにわざわざ家までやってきたこいつに昨日の顛末をざっくりと話すと、「面白そうだ。もっと聞かせろ」と言われた。
今日は特に予定もなく、このままでは一日思索にふけって聖夜を過ごすことになると感じた俺は支度を整え、山野辺と昼食を共にすることにしたのだった。
ランチタイムでそれなりに賑わう喫茶店、その窓際。咀嚼していたサンドイッチを飲み込んで、山野辺が言う。
「それはお前が忘れてるだけじゃないのか?」
「…いや、本当に心当たりがない。何度思い返しても、俺が彼女の名前を呼んだことなんて」
「ふうん…そうかな、本当に」
「疑ってるのか?」
「少しね。ところで芳、お前はなんで物忘れが起こると思う?」
「なんで、って…そりゃあ、誰だってずっと昔のとおりのことをしてるわけでもないなら、何だって忘れるはずだろ」
「まあ、たぶん的は射てる。今起きていることとの接点を持たない思い出は、形として残っていないのなら確実に薄れるだろうな。でも、もう少しパターンがある気がする。大体二つだ」
「パターニングができるものなのか?忘れること、って」
「一昨日、本屋で俺と会っただろ?そのときのこと、思い出せるか」
「え?うん。そりゃあ、まあ。俺は参考書を見ていて、お前が話しかけてきた。そしたらお前の眼鏡越しに彼女が現れて――」
「うん、概形は合っている。でもまだだ。それはあくまでもあの時起きた『流れ』でしかない」
「流れ?…細部が足りないってことか」
「ああ。例えば、今の話には俺が何を話していたかが入っていないだろ?」
「あ――」
その言葉がキーになり、記憶の中の解像度が上がる。
「確か…夢とか、目標とか…そうだ、絵の話。お前、絵は仕事にしたくないとかって」
「そうだ。こんな風に、最終的に目にしたものが鮮烈であればあるほどにその過程は忘れやすくなる」
「焦点が偏るってことか」
「そういう言い方もあるかな。要は、自分にとって重要な結果にまつわる個所を覗いては記憶は大抵曖昧になりうるってことさ。二、三日前に起きたことでもそうなるんだ。こうして今みたく細部を掘り返すような真似をしつこく繰り返さない限りは、ある程度省略された概形、流れとして記憶に刻まれる。10年も時間を置けばなおさらだろう」
「なるほどな。もう一つは?」
「また本屋の話で説明する。あの時、お前が手に取っていた参考書。何て名前だ?」
記憶をたどる。
父さんと別れて本屋に入る。山野辺の眼鏡に彼女を見つける。その間だ。
参考書の棚に足を運ぶ。山野辺が話しかける。もっと細かく。
参考書を手に取る。パラパラと頁をめくる。その間。…これだ。
「『現代数学概論』だ。冠言葉の類もない」
「うん。確かそんな名前だったな。俺も見た覚えがある。それにしたって単純すぎる名前だとは思わないか」
「言われてみれば」
「たぶんそこが鍵だ。あまりに一般化しすぎた固有の名前は一度思い出に埋もれると掘り起こすのが容易じゃなくなる」
「一般化ね。ありふれすぎて何を指してるか分からなくなるってことか?」
「いや、ちょっと違う。一般化というのともまた別か。ああ――例えるのが、難しいんだけども」
しばし考え込んでから、山野辺は口を開く。
「もので例えるのが難しいから、直接説明してみよう。…意味がある何らかの言葉があるとする。こいつがその言葉だ」
山野辺の右手がテーブルの上で軽く握られる。
「でもこの言葉には、より知れ渡った大きな意味が既に存在している」
開かれた左手が拳に添えられる。
「この場合、どうなると思う?」
「…小さいほうの意味が、消える?」
山野辺がうなずく。
「大きな意味は必然的に耳にする機会、思考に織り交ぜる機会も多くなる。だから存在感も大きくなる。その結果、相対的に記憶の中の意味の強度が変化して――」
強く握られて収束した右拳に、ぐわっと広げられた左手が覆いかぶさった。
「きっと彼女の名前も似たようなものだったんじゃないかな。お前にとって探し当てたいその意味は、お前の知ってるもっと大きな意味に呑まれてる」
「そうか、だから彼女は…」
俺が自分の名前を知っている、と。
彼女の名前は俺が考えているより、もっと一般的なもの。
一般的な人名の領域から、思い出しうることばすべてにフォーカスを広げる必要があるのか。
「ああでも、お前はもうヒントを貰ってるはずだろ?なら、きっとわかるはずだ」
「ヒント…いや、わからないな。何のことだ?」
「『昔、名前を呼んでくれた』んだろ?お前。…それが本当なら、きっとお前の記憶の中にあるはずなんだ。名前当ての正解が、ね」
「そんなの――いや、そうか」
ついさっき山野辺が言っていた、焦点の偏り。強い印象を与える結果が、過程の細部を消し飛ばす。
彼女と俺の過ごした時間の中で、一番鮮烈な結果。
周辺の記憶を、曖昧にするほどの衝撃を伴う出来事。
答えは明白だった。
雪に埋もれた東屋。
泣きながら名前を叫んで走った道。
そのさらに前。
彼女を見た最後の景色。彼女の、10年前の最後の姿。
そこに答えが眠っている。
……思い出せ。
俺が彼女と会った最後の夜。彼女が見たもの。俺が見たもの。
彼女の表情。俺の心。彼女の言葉。俺の言葉。
口に出したであろう、大きく普遍的な意味を持つ名前。
記憶を探す。あの日の記憶、その細部を顕微観察する。
時間と人物。X軸とY軸。頭の中のステージを前後左右に動かし続ける。
10年の断層を飛び越して、冬の冷気が体を走る。より深く、記憶の深層に潜る。
観察位置が合う。呼び起されるのは白と黒の二色だ。駄目だ、まだ焦点が合わない。
焦点距離を合わせる。調節ダイヤルをぐりぐりと回していく。
白の中に影が見える。黒の中に輝点が見える。まだ。まだだ。まだ鮮明じゃない。あと少し。
神経に固い反発力を感じた。回転限界を迎えて、ダイヤルが止まる。
…止まるわけにはいかない。
余計な考えを捨てる。視界がクリアになる。テーブルの上のサンドイッチ。正面に座る山野辺。喫茶店のフロア。壁。商店街。街。すべてを感覚から遮断する。五感を捻じ伏せて、すべてのリソースを記憶の読み出しに割く。
ダイヤルにかかる力が強まっていく。ストッパーがねじ曲がり、弾け飛ぶ。ためらわずに、一気に力を籠めた。
対物レンズが観察台に激突し、レンズを砕く。その衝撃は全体に伝わって亀裂を走らせ、記憶を覗く機構を完膚なきまでに粉砕していく。
観察台のステージが砕け、クリップに抑えられていたものが一気に世界へと拡散する。
それは俺の意識を呑みこんで、核心に連れていく。
レンズ越しに見ていた観察像が視界全体を包む。
風圧を感じる。瞼を開けているのが苦しくなるほどの、氷結した圧力。俺は必死に目を凝らす。
次第に目の前の光景は分解能を増していく。
平坦な風景の中に影が生まれる。写真のような光景が、立体感を伴って再臨する。
何段階もの補正の末にそれは現実と何ら変わりない光景となり。
最後に、黒い天に輝く無数の輝点からノイズが外れた。
10年前の夜。彼女の消失点に。
フォーカスが、合った。
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雪の積もる草むら。
7歳の俺と彼女が、地べたに座って空を眺めていた。
「よしき」
彼女が呼びかける。なに、と答えると、彼女は空に浮かぶ星座を指さした。
「あれは、何」
「…オリオン座だね」
「オリオン…?」
「ずっと昔の、すごく強かった人の名前なんだって。父さんが教えてくれたんだ」
彼女は目を輝かせて星座を見つめながら、俺の話を聞いていた。
「あの形がオリオンの体にたとえられてる。左上の、あの星――あれが、オリオンの右肩」
「オリオンの、右肩」
彼女はその星から視線を外すことなく俺に尋ねた。
「その星の、名前は?」
「名前?」
俺は学校の図書室で呼んだ星座図鑑を思い出す。そう、あの星は――。
「あの星の名前は、――――」
隣に座る彼女の瞼から、涙が落ちた。だけどもその顔には少しも悲しさは浮かんでいなくかった。彼女は笑っていた。きらきらとした喜びの色だけを浮かべて、天上の星座を見つめながら。最高の笑顔で泣いていた。
その姿がすごく不思議に思えた。すごく綺麗だと思った。
涙を浮かべた金の両目が俺に向けられる。
「………ありがとう」
「え」
「ありがとう。わたしの名前は、――――」
俺は顔を背けた。照れくさかった。意味が分からなかった。星の名前を自分のあだ名に使ってくる女の子は初めて見た。星の名前を教えただけで、ここまで感謝されるとは思わなかった。ここまで笑ってくれるなんて。そんな笑顔を向けてくれるなんて、思わなかったんだ。
不意に、鳴き声が止む。
俺が振り向いたとき、彼女は忽然と姿を消していた。
辺りに残っていたのは、雪を踏み固めた跡だけ。
俺は泣きながら彼女を探した。最後に彼女の使った名前を叫んだ。空に輝く星の名前を叫び続けた。
でも、どこにも彼女のいた痕跡はひとつも残っていなくて、どうしようもなくなって。
さっきまで彼女と眺めていた空には、変わらずオリオン座が静かに浮かんでいた。
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「――――まさか」
俺は現実に帰還する。
あれが答えなのか。あの時の彼女の言葉は、まさか本当の。
「思い出したのか、芳」
「大体は。でも、正しいっていう確証は全然ない」
「それでもいいさ、彼女はお前に会うために来たんだろ。少し間違ったくらいでいなくなるってこともないさ」
「…山野辺」
「飯は奢ってやる。いいから彼女に会いに行ってこいよ」
俺は頷くと、店の外に駆け出した。
雪の残る河川敷。彼女はそこで待っていた。
白いコートを着て、昨日のベンチに座っていた。
彼女がこちらを向く。金の瞳が俺を射す。
「思い出した?私の名前」
「ああ。…多分、ね」
彼女は立ち上がると、俺の正面に立った。
「…呼んでみて。あなたの思い出した、私の名前」
彼女の両目を見つめながら、その名前を呼ぶ。
俺が10年越しに呼ぶ、彼女の名前。
金の瞳。その中心の瞳孔が、わずかに動いた。
「お前の名前だ。ずっと思い出せなかった。でも、違う。思い出せなかったんじゃあない。あまりにも耳にしすぎて、意味が埋もれていたんだ。お前以外のものを指す言葉として、この10年間。覚えてはいたんだ。ただ、別の大きな意味に呑まれていた」
「…当たりだよ、芳樹」
彼女が向き直る。
揺れる黒髪は星空の深淵を映す。
両の瞳は恒星の熱をたたえて黄金に瞬く。
「…でも、満点じゃない。80点」
彼女は苦笑すると、俺の背後に軽やかに回り込み。
そのあたたかな両手で、俺の目を覆った。
「これが、答え合わせ」
膨大な熱量。恒星の破裂。
飛来する透明なガンマ線バーストの鏃。
天文学的な熱量。銀河に吹き荒れる嵐。宇宙を揺する光。
そしてその光景の片隅に、愛おしい色彩をたたえた一筋の閃光があった。
崩れゆく星から超高速で打ち出された、ただ一条の光芒。
その黄金の色彩を、俺はこの10年間忘れたことはなかった。
「私は星そのもの。生まれてからずっと、絶えることなく輝き続けた一つの星。その心が、私なの」
彼女が両手を外す。
「星そのもの…じゃあ、あの時のは」
「そう。本当の本当に、私の名前なの。びっくりした?」
彼女が笑う。
「まあ…もう、ないんだけどね。その星は」
「は?」
「さっき見せたのは、私の最期。星の寿命が尽きて、私の体は粉々に砕かれた。もう私の体は、宇宙のどこにもいないの」
――つまり、どういうことなんだ?
「あの時、私の体はもう限界を迎えてた。煌々と燃える時期を過ぎて、終焉に向かい始めていた。心を遠くへと飛ばすのには、ある程度力が必要なの。息絶える寸前の私の体には、もうこの星に心を留めさせることもできなかった。私が伝えに来たのは、このこと。力が切れた私の体は、心を無理矢理回収したの。そして星としての私は、二日前に宇宙に消えた」
――もう、死んでいた?
――つまり、目の前の彼女は……
青ざめていくのが自分でもわかった。
俺の顔を見た彼女はくすりと笑い、いつかのように俺の右手首をとり――。
ふくらみかけの左胸に押し付けた。
「――――な、っ……!?」
意図を図り損ねて頭がパンクする。数秒前に青ざめていた顔が、一瞬で紅潮する。
手首を掴んだまま彼女は何も話さない。
俺は手を振り払うことも、言葉をかけることもできない。
そうしてふたりが無言のまま過ぎた時間の果てに、俺はある感覚に気付く。
瞬時に彼女の意図を理解する。
本当に彼女の言葉と幻視した光景がすべてであるなら、決して感じるはずのない感覚。
「でも、私は確かにここにいるよ。わかる?これが今の私。もう星の心じゃあない。今の私は…」
「――人間、なのか?」
「たぶん」
「たぶん、って。覚えてないのかよ?」
「二日前にこの町で目が覚めた時には、この体だった。なんでこうなったのかは私にはわからない。どんな力がはたらいて、こうなったのか――さっぱり、見当もつかない」
彼女の表情が曇る。
「いや、かな」
手のひらに彼女の鼓動を感じる。
「そんなわけあるか。嬉しいに決まってる。もう二度と会えないと思ってたんだ。でも、来てくれた。俺に話をするためだけに来てくれた。嬉しくないはず、ないだろ?」
金色の笑顔が咲く。
俺は目の前の花を抱え込む。
「もう勝手にいなくなったりするな」
「うん――ただいま、芳樹」
笑顔のまま、瞼の端から一滴の涙が落ちる。10年前の記憶の通りに、彼女は笑いながら泣いていた。
俺は、彼女の言葉に応える。
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時間にして体を喪ったまさに数刻後。形なき金の流星となった私は、スピードを少しも落とさぬままに地表へと激突した。
目が覚める。
私は草むらに倒れていた。
空は宇宙の色を映して暗く、私の光が見えた。私の意識は光速を超えて突き進んだ。恐らくあの光は炸裂する前の私の光だろう。
――ふと、体に違和感を覚える。以前この星を訪れた時に比べて、明らかに私の視点は高くなっていた。
手足に視線を落とす。私の体が崩壊したときよりもすらりと伸びている。
内側から私を叩く何かに気が付き、以前よりほんのわずかに丸みを帯びた胸に手をやる。
規則正しい拍動。手のひらから、微かではあるが力強い振動を感じた。
今までに、一度も感じたことのない。否。一度だけ、この脈動を感じていた。
あの時に掴んだ手首。手のひらで脈打った熱。忘れるはずはない。彼と同じリズムが宿っていた。
どうしてという疑問は解決を迎える前に、久しぶりに出会う感情に押し流されていった。
理由はわからない。何が起きたのかも正確にはわからない。
でも、嬉しく思った。星の意識体としての命の最後の瞬間、私は彼と同じ地平に立てたのだ。
視界がにじむ。瞼からぽろぽろと雫がこぼれていく。
草むらで一人、喜びに涙した。彼に会いに行けることを、嬉しく思った。
もう私は星ではない。一人のこの星の命として、彼に会いに行けるのだ。
空が明るさを増していく。この星を照らす恒星の光が、私を温める。
彼が教えてくれた名前。
――天に輝く英雄、その右肩。
私の名前は――。
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「おかえり、ベテルギウス」
12月25日。クリスマス。
俺が彼女を失った日。
俺が彼女を知った日。
銀河の彼方で星がひとつ消えてから、二日ほど後。
彼女がこの星に生まれ落ちてから、二日ほど後のこと。
500年前の彼女が輝く空の下、俺の前で彼女が笑う。
ふたりの穏やかな熱が大気に溶けていく。
冬の風が、穏やかに循環する。
-終-2016.12.25