12月24日
前回の続きです。次回完結予定。
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10年前の冬。あいつと出会った冬。
あいつは俺の手首をつかんだまま、うっすらと潤んだ眼で見つめてきた。
寝起きの猫を思わせる顔つきが、次第に驚きの表情に変わる。
初めて見る、金に輝く両目。硬質な冬の日差しが反射して揺れていた。
白く埋もれ始めた東北の田舎町に、昨日までは存在しなかったその色彩があまりに美しくて。
言葉がなかった。
不意に、彼女が手を引く。
俺はたやすく引き寄せられて、視界が彼女の顔で埋まるくらいの距離まで接近する。
両頬に柔らかくて冷たい感触がある。
彼女は両手を俺の頬に添えていた。
ぱちぱちとまばたきをしながら、俺の顔は彼女に観察され続けた。
次第に彼女の表情は柔らかくなって。
俺の視界いっぱいを埋め尽くす笑顔が見えて。
次にその目からじわりと雫が染み出てきた。
そしてその雫に驚いてから。
彼女は声をあげて泣き出した。
俺は彼女に頬を掴まれながら困惑し、彼女は涙が枯れるまで泣きやまなかった。
10年前。俺とあいつが出会った日だ。
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12/24
『そっか。まあ、そういうこともあるよ』
「うん。悪いな」
『気にするな、芳。でも結果くらい聞かせろよ』
「…結果?」
『イブに友達との予定取り消してまで行く用事なんて…お前、ばれないとでも思ってるのか』
「え、いや、え?」
『お互いそういうのに縁がないやつ同士だと思ってたけど、まあいいさ。土産話でも持って来いよ!』
山野辺の電話が切れる。
あいつらとの宴会の先約を断ってでも、今日は行かなければならない場所があったんだ。
そのために電話を入れると、山野辺はあっさりと快諾してくれた。なぜか最後のあたりは涙声のように聞こえたが。
…まあ気のせいだろ。
携帯をポケットにしまい込み、俺は冬の街に向かって歩き出した。
「明日、もう一度会おう」
夕日の中で彼女は言った。
「あなたに伝えておかなきゃいけないことができた。だから、戻ってきた」
彼女は歩き出す。
「場所は。どこに行けばお前に会える」
「大丈夫」
彼女は最後に振り向いて言った。
「もういなくならない。あなたが向かう場所に私はいる」
橋の真ん中。
昨日と同じ、白いコート姿であいつが立っていた。
「……芳樹」
神経系が跳ね上がった。10年前に教えたきりの俺の名前が、彼女の口から飛び出た。
「名前、覚えていてくれたのか」
「忘れられるわけないもの」
にこにこと笑う彼女が、ぱしりと俺の手首をつかんだ。
「行こう」
引かれるままに俺は歩き出す。
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私は鳴り響く。私は輝く。
私は星。
この世界を駆けて、歌う。
いまもまだ、あなたと出会うことを夢見ながら、歌う。
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街まで来た彼女は、どういうわけかどの店にも入ろうとしなかった。
服屋、喫茶店、書店、ショッピングモール…。立ち並んだ色とりどりの建物が、視界に入っては通り過ぎていく。
彼女は一言も口を開かず。しかしその表情は昨日にも増して喜びに染まっている。
ずっと見ていなかった彼女のそんな表情に見とれて、俺もかける言葉を失う。
二人無言のまま、人の波の中を歩いていく。
ふと、これは世間一般でいうところのデートというものなのではないか、という考えに至った。今の今まで全くそんな認識はなかった。しかし、幼い頃に知り合った女の子とこうして二人で歩けるというのは…少し、恵まれたことなんじゃないだろうか?成る程、山野辺がああなってたのも…。いや、泣くほどなのか。
そんな考えを浮かばせながら、改めて彼女を見やる。金の瞳は、横顔でもその存在感を一切曇らせることなく輝いている。歩く動きに合わせて、長い黒髪がさわさわと波打ってうねる。白いコートの裾から、揺れる黒いスカートが覗く。
頬に熱が灯る。自然と自分の表情が緩むのが分かった。
一時間近く散漫な徒歩移動を続けた末に彼女が立ち止まったのは、商店街を完全に抜けた向こう側。
「…ここなら、ゆっくり話ができる」
「いや…途中いろいろあっただろ。なんでわざわざこんなところまで」
「そうだっけ?」
「本気か?」
「んん?」
雪の残る河川敷だった。
俺は困惑しつつ、彼女に問いかける。
「…伝えたいことって、なんだ」
彼女は目を逸らして、しばし黙り込む。
一瞬だけ、金の瞳がこちらに向けられるが、焦っているかのような顔を浮かべたあとに視線は再び川面を射した。
「…言いづらい、ことなのか」
「…うん」
声の諧調が少しだけ下げられた。
再び彼女が歩き出す。
「でも、あなたの前に戻ってきたのはこれを伝えるためだと思うから。言わないとならない。…でもその前に」
彼女は雪を払って、遊歩道脇のベンチに腰掛ける。
「…あなたの話を、聞かせて」
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体の内側が、重かった。
自分を構成するあらゆるものが自分の制御から離れて、ぐしゃぐしゃに寄り集まって、無秩序な塊になっていくような感覚があった。
それでも私は必死で歌い続けた。
彼らに届いているとわかっていたから、怖いものなど一つもなかった。
もう孤独を感じてはいなかった。
そこに生きる誰もが、私というものを知っていたのだ。
私の歌。私の光。私の熱。私の大きさ。私との距離。
――そして、私の名前。
それを教えてくれた起点。
芳樹。私の寄る辺。
息が、できない。
――あなたに、もう一度会いたい。
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「…まあ、そんなところだ。今は高校生で、山野辺とは遊び仲間で――」
彼女が聞きたがったのは、この10年間の俺がどんな日々を送ってきたか、ということだった。
小中学生時代の体験。嬉しかったこと。辛かったこと。
一つ一つに彼女は反応を返した。
いい思い出を語れば花のように笑い、少し辛かった記憶を語ると悲しげな顔になった。
その表情の変化を眺めながら語るうちに時間の感覚はどこかに消し飛び、昇っていた日は地平の向こうに隠れる支度を始めていた。
「…すっかり夕方だな」
「うん」
彼女が立ち上がる。
「今日は、ここまでにしよう」
「え」
俺は彼女を追って跳ねるように立ち上がった。
「待ってくれ。君は、俺に伝えたいことがあるって」
「――うん」
彼女が向き直る。夕日を背後に携えた彼女が、影のできた顔を俺に向けた。
「…でも、少しだけ。意地悪をしたくなったの」
「なんだって?」
「ちょっとした意地悪でもあるけど、話す前に確かめたいことがあるから…あなたに宿題をあげる」
「……宿題?」
しばしの沈黙を置いて、彼女は口を開いた。
「私の名前、わかる?」
「これはあなたが私を理解するための必要最低限の情報。私が何者か。私を何と呼ぶのか。…きちんとした、私だけを表す固有名詞…思い出せる?芳樹」
――知らなかった。
10年前、俺は確かに彼女と親しかった。だが、彼女の名前を聞いたことは一度たりともなかった。気恥ずかしさからか、俺は彼女の名前を聞くこともなく流れるままに親しくなっていったのだ。
「ごめん、俺…」
「ううん。あなたはもう知ってるはずだから…当ててみて」
「……え?」
俺が、彼女の名前を知っている?
どういうことだ。
俺は彼女の名前を知らない。10年間消えなかった、名前を聞かなかったことへの悔しさがその証左だ。
知っているはずがない。からかわれているのか?
「いや…知っているはずはない。教えてくれ」
「…教えてあげない」
「なんで…」
「…本当に、ごめん。強いて言えばこれは私が満たされたいから。あなたにもう一度名前を呼んでもらいたいから」
「…おい、待てよ。今、なんて――」
「あなたは昔、私の名前を呼んでくれた。…私、嬉しかったの」
――何だって。
前提条件が破壊される。
立っている地面が粉砕されて原子に還る。
霧雨の粒よりも小さな欠片に散り散りとなった大地を俺はあっさりとすり抜けて、どこまでも落下していく。
10年前の光景が、視界の中でいくつも瞬き始める。
ない。ない。ない。ない。
彼女の語る光景を俺は知らない。覚えていない。
混乱していく。わからなくなっていく。俺の覚えていない10年前の俺の姿を、お前は知っているのか―。
頬に、柔らかい感触。
気づけば、彼女の手が俺の頬に触れていた。
イエローブラウンの瞳が、優しく微笑みかけている。
「あなたなら、絶対に知ってるはずだから。思い出して。これが、今夜の宿題」
彼女はそういうと、また明日、と耳元でささやいて駆けて行った。
夕日の熱が、背中に当たる。
硬直した俺の思考回路は、体を動かすことすら許さなかった。
頬を伝った汗が一滴落ちて、雪をほんの少し融かした。
今の感触を、覚えている。初めて出会った時の感覚。頬を撫でた彼女の手。俺の目の前で泣き出した顔。
明瞭に覚えている、はずなのに。
すべて覚えていたはずなのに。
――何が、欠け落ちたのか?
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夜。俺はひとり、ベッドの上で思索する。
――あなたに伝えておかなきゃいけないことができた。だから、戻ってきた。
唐突に帰還した彼女。
――私の名前、わかる?
俺に会いに来た彼女。
――でも、あなたはもう知ってるはずだから。
10年前、ついに名前を聞くことなく去っていった彼女。
――当ててみて。
なのに、俺は彼女の名前を知っているという。
――教えてあげない。
…わからない。一体何を言っているんだ。
――あなたなら、絶対に知ってるはずだから。
彼女の言葉を反芻して、もう一度記憶を掘り返す。
――思い出して。これが、今夜の宿題。
だが、何度繰り返しても彼女の名前は浮かばなかった。
記憶の中の瞳の輝きが変質して、細いワイヤーのようになる。
俺に巻き付く金色のそれは、きりきりと絶え間なく締め付ける。
掴まれた手首の感触が鋭さを増して、すぱりと切り付けてくるような錯覚に陥る。
喉元まで感情が逆流する。暴れそうな声帯を抑え込む。
名前を尋ねようともしなかった幼い日の自分を責める。
思考は袋小路に入り、終わることのない螺旋階段を一段飛ばしで転げ降りていく。
…疲労感がある。
起き上がり、頭を整理するために窓を開けた。暖房のきいた部屋に、氷点下の気流が打ち付ける。カーテンに雪の結晶がいくつも付いて、瞬く間に水滴の染みに姿を変える。
外を見やる。また雪が降りだしていた。
雪雲に封鎖された夜空には、ひとつも星は見えなかった。
そんな空を睨む。彼女の名前はまだ浮かばない。
…でも、絶対に諦めるわけにはいかなかった。
彼女は戻ってきてくれた。俺に会いに来てくれた。俺に何かを伝えるために。
10年前に彼女に何があったのかはわからない。知る術も今の俺にはない。
でも、彼女の言葉と表情で、今日までの10年のうちに何かがあったのだろうということはなんとなく察することができた。
…今の彼女をなお苦しめる、何かが。
それを、自分の口から俺に伝えたいがために。ただそれだけのために、会いに来てくれたんだ。
その心を、裏切りたくなかった。
その決心を不意にはさせたくなかった。
窓を閉める。
俺はもう一度、あの冬の出来事を思い出そうと躍起になりながら、ベッドに寝転ぶ。
記憶の中へ意識を飛ばすうちに、泥のような眠気に襲われる。
手足の先から眠りの国にいざなわれて、感覚が薄くなり、重みが増す。
全身が呑みこまれる前に、薄目で時計を見る。
針はもうすぐ、12時を指そうとしていた。
俺は泥に呑みこまれ、どこまでも沈み込んで――。
――芳樹。
彼女の声が導くままに、懐かしい景色を、幻視した。
12月24日。
クリスマスが迫る。
俺が彼女を知るときも、すぐそこまで来ていた。