12月23日
クリスマスに合わせて何かしら書いてみたいと思い立ち、執筆しました。
25日までの投稿分3回で完結予定です。
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10年前のクリスマス。あいつが消えた日。
俺は町中を走り回って、あいつを探した。
あいつの名前を、声が枯れるまで大声で叫んだ。
冬の夜の冷たい大気が両目になだれ込んで、視界は冷気と濡れた感覚で満たされていった。
瞼の間から雫が落ちたあたりで、ようやく自分の声に涙が混じっていたことに気付いた。
堰を切ったように涙は零れはじめて、あいつの名前を呼んでいたはずの叫び声は意味のない嗚咽に代わっていった。
しばらく泣き喚いた後、気が付くといつの間にかあいつのいた公園にたどり着いていた。
あいつのいた跡は何一つ残っていなかった。あいつの眠っていたテーブルは風で吹き込んだ雪で埋もれていて、そこにあった思い出をどう拾えばいいかなんて見当もつかなかった。
本当にあいつはいなくなったのだと、自分のたどりつけないところに消えたのだと、なぜか諦めがついて、どうしようもなくなって。
空っぽになったままで、ふと空に目を向けた。
雪雲の裂けた先。ほんの隙間から除いた、晴れた空。
凍えた空に、オリオン座が静かに浮かんでいた。
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12/23
「芳樹。…芳樹!」
父さんの声で目が覚めた。壁掛け時計は11時半を回っていた。
「…おはよ、父さん」
「おはよう。もう昼だぞ?冬休みに入ったからってだらけすぎてないか、お前」
「ごめん、ちょっと夜更かししすぎた」
ベッドから身を起こす。冬の硬質な日差しが部屋に射していた。
「…積もってる?」
「ちょっとだけな。雪かきならもうやっておいた。俺はこれから買い物に行ってくる。来るか?」
「ああ、行く。支度するよ」
「早めにな」
ドアが閉まる。俺は起き上がり、カラーボックスの中から上着を取り出す。窓の外に目をやると、見慣れた景色が白く覆われていた。どうやら自分は父さんに朝からなかなかの重労働をさせたらしい。明日から早起きして雪かきを手伝うことを心に決めつつ、寝間着を脱ぐ。
支度を終えて、外に出る。風除室の引き戸を開けると、冷たく混じりけのない大気が洗いたての顔を流れて、意識を覚醒させた。
手袋越しに冷気が肌を打つ。耳が切れるような錯覚がある。青空を満たして流動する気流は太陽の熱さえも柔らかくしている。
澄み切った東北の冬が、目に見える世界を覆っていた。
「ちょっといろいろ見たいものあるから」
「なにか手伝おうか?」
「いや、いいよ。本屋とか見てくればいい」
「わかった」
ホームセンターの資材置き場に進む父さんの背中を見送って、俺は本屋に向かった。
地方都市特有の複合商業施設の端っこに、うちの行きつけの店はある。
ホームセンターと道路一本を挟んだところにある書店は、雪で町中が閉ざされる冬では結構な娯楽になった。
本屋の一角の参考書コーナーに足を運ぶ。来年度の冬には大学受験が控えていた。夏頃から受験勉強を始めていた部活の先輩が「もっと早くから勉強しとけばよかった」とこぼしていたのを覚えている。だが、自分は目の前にデッドラインが迫っているわけでもないものに対して全力を出せるほど熱心な性格でもなく、ただぼんやりとした危機感を抱きながら結局冬休みを迎えていた。手に取った参考書は、棚の中に再びおとなしく収まった。
「気が早いねえ、芳」
「山野辺」
声に振り返ると、見慣れた眼鏡と短髪が映る。同級生の山野辺だ。
「いや、まだやる気はないんだけど。不安じゃないか?」
「まあね。まだ夢らしい夢もないのは怖いよ」
「夢、ねえ」
夢。目標。己の進む先。
あまり、思い浮かばない。
学生のうちに夢を抱いて突き進んだ先人の話をいくつも聞く。
でも、その中で聞く先人の言葉には根底から自分とは違って熱量が宿っていて、自然と自分とは違った次元の話なのだと捉えてしまう。
「山野辺は、好きなものとかないのか?」
「うん?ああ、趣味とかの話か。ないわけではないんだけどね。あんまり社会性のあるものじゃあないから、ね」
「絵とか、好きじゃないのか?結構な枚数、描いてたと思うんだけど」
山野辺は絵が上手い。知り合ってこいつの家に行ったとき、部屋の中は見知らぬ風景で埋め尽くされていて、そのどれもが額縁を乗り越えて飲み込んでくるように鮮やかな色彩で彩られていた。誇張抜きで、俺はこいつをこの町で一番の画家だと思う。
「まさにそれさ。絵を描くのは好きだよ。でも好きであることとそれを突き詰めるのは別のことなんじゃないか」
「突き詰める…」
「…俺は、俺の絵が好きなんだ。描いてるときは心を休ませられるような気分になれるから。でも、それを突き詰めて仕事にするとなると違ってくるだろ?きっと別の次元の話だ。世界には絵が描ける人材なら山ほどいる。誰かを追いかけるような強迫観念で筆を走らせるのは怖いし、誰かに追われながら描くのも嫌なんだ」
「なるほどな。…別のものにも当てはまる。名言だぜ」
「そうかな」
熱を込めて自説を展開した山野辺は、少しはにかんだ。
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ずっと、一人だった。
どんなに声を張り上げても返事はなくて、どれだけ高く灯を掲げようとも気づいてくれる誰かは現れなかった。
怖かった。自分が、誰もいない世界にこの熱を放っただけで消えてしまう存在なのだと考えると、恐怖のあまり自分の輪郭が何度もひずんだ。
――そう、怖かったから。
だから、旅に出たのだ。
この世界のどこかでは、自分を知っている誰かがいるのだと。
会いに来ることはできないけれど、私を見てくれている誰かがいるのだと。
私はひとりではないのだと、そう信じたかった。
だから旅に出た。
来てくれないのなら、私が探しに行くと。
あの日、決めたのだ。
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はにかむ山野辺の眼鏡の隅に、違和感を視た。
見慣れた本屋の一角の光景が、一か所だけ浮き彫りになっているような感覚。
山野辺の眼鏡に目を凝らす。
「…芳?なんだ一体、何か顔についてるか?」
違う。何かが映っている。いつもの書店、いや、この町では感じない感覚があった。
焦点が合わない。それの正体を知るべく、俺はレンズに顔を近づける。
「ちょ、芳…。なんだよ一体」
なんで顔赤くしてるんだこいつ。
山野辺にかまわず目を凝らす。違和感の正体の輪郭から、靄が外れた。
焦点が合う。
…女の子だ。
白いコートを着て、屋内だというのにフードを目深に下している。
だが、違和感は服装に起因したものだとは感じなかった。
昔どこかで、同じものを見たことがある。そんな印象がした。
不意に、レンズの中の女の子がこちらを向いた。俺は振り返り、彼女を見る。
視界に彼女を収めた瞬間、強烈な既視感が俺を殴りつける。
フードの中の黒髪。前髪とフードで二重に隠されてなお輝く、イエローブラウンの両目。
……まさか、という疑問が沸き起こり、死んでいたいつかの記憶につながる回路に電流が走る。
その疑問に答えたかのように、彼女はわずかに唇の端を動かして、書店の外に駆けだした。
「…山野辺、親父によろしく」
「え?あ、あの、芳樹?」
「父さんが来たら、先に帰ってくれって!頼む!」
顔を真っ赤にした山野辺に後を託して、俺は彼女を追いかけた。
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「はっ、はっ、はっ――!」
彼女の白いコートを視界に収めながら、ただ追いかける。
耳に飛び込んでくるのは、暴れる自分の呼吸だけだ。
住宅街を駆け抜ける。
違和感は今や完全に既視感へと代わっていた。
いつか砕けて消えたものが、きれいに修繕されて再び戻ってきたような感覚があった。
その感覚が彼女という形をとって目の前を走る。
逃げられたくなかった。俺の視界の中に、手の届く範囲に彼女を捉えていたいと感じた。
ただその一心で俺は走って。
彼女が立ち止まったのは、近所の川に架かる橋の真ん中だった。
彼女が振り返る。
夕日に照らされてオレンジに染まった白いコート。
膝までを隠したスカート。
フードの中で俺から逸らされた両目。
川岸の風がふたりに吹き込む。俺は彼女から目を離せずに立ち尽くし、彼女は俺から視線を外したまま、コートを気流ではためかせ続けた。
ひときわ強い風が吹いた。
彼女が手で押さえるよりも先にその波に乗ったフードが、ばさりと外れた。
中でまとめられていた黒髪の長さが重力で引かれて姿を現して、風になびいた。繊細そうな髪の一本一本で反射された陽の光が、きらきらと瞬いた。
「―――!」
記憶の奥底で何かが目を覚まして、心の表層へと顔を出す。
熱がベクトルになり、どこかに向かって真っすぐ突き進む。
それでも加速を続ける熱は意識の境界を飛び越して、俺の体をひとりでにあやつる。
頬が紅潮する。息が詰まる。
脳の内側がぐしゃぐしゃにかき回されて、怒りと喜びとが溶けていく。
――俺は彼女を知っていた。いつかの俺をばらばらに切り刻んでいったあいつ。
何かを話したい。でも、いざ口を開くと緊張に満ちた荒い息を漏らすのが限界だった。
逸らされていた彼女の視線がこちらに向けられる。風になびいた長い前髪の奥で輝く双眸。冬の日差しで絞られる瞳孔。きらきらと光るイエローブラウンの虹彩。
心臓が止まる。
俺を中心に時空が凍り付く。
川の流れる音が。飛ぶ烏の群れが。気流が。硬質な日差しが。冬の大気が。
すべてが静かに凍り付いて存在感を失う。
その温かく凍てついた世界を背景に。
ただまっすぐな視線を俺に向けたまま。
その唇が開いて言葉を繰り出した。
「……ただいま」
彼女の発した一撃で時空はあっさりと砕かれた。
世界の凍結は一瞬で融かされて動き出す。熱波が俺を呑みこんだ。
俺の意識は波に呑まれてひたすらに駆けあがる。
まるで実体験のように、正体不明の感覚が次々に襲う。
それは体を貫く透明な無数の矢。天文学的な熱。それは世界中に吹き荒れる嵐。宇宙を揺する光。
銀河スケールで展開する情動の波は俺の心をたやすく攫って手の届かない遥か彼方に連れていく。黄金色をした彼女の両目から視線を外すという選択肢を失わせる。
俺を構成するすべてのものが彼女に焦がれていく。内側から襲い来る熱量は止まることなく肌から放出され続けた。
熱にあてられた体がふらつき、前のめりに倒れこむ。目の前の彼女はひらりとかわし、軽やかな動きで俺の右手首を掴んで引き込んだ。その手の感覚がひたすらに懐かしかった。
忘れるはずがなかった。
俺が7歳のとき、学校の帰り道に現れたあいつ。
公園の東屋の下、テーブルの上で体を丸めて眠っていたあいつ。
もこもことしたコートに身を包み、被ったフードから黒髪を垂らしたあいつ。
近づいた俺の腕をぱしりとつかんできた、熱を帯びた手のひら。
欠伸でわずかに潤んだ瞳。
冬が近づいた空の下で、初めて出会ったあの日のことを。
「――おかえり」
俺と時空を繋ぎ止める言葉を声帯から捻り出す。砕けた時空の向こうから俺の意識は帰還する。彼女の顔は見る間に晴れていき、記憶通りの笑顔を浮かべた。
ぼやける視界を拳で拭う。
日が落ちようとしていた。空がオレンジとネイビーのグラデーションで染まる。
今日は12月23日。
クリスマスが近い。
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