089 〝ミストフォール〟
「……〝ミストフォールの四英雄〟……。尋常の英雄が私に挑むか」
夜天の下に〝ウル〟が立つ。炎の赤に煌々と照らされる力の頂点。
面に覆われた表情が見据えるのはかつての英雄三人。
霧を喚ぶ狂気――悪竜イグヴァラーンを討った黒衣の剣士、フレデリック。
ルヴェルタリア王の懐刀、紫電の雷槍にして英雄の血統、ギュスターヴ。
夢幻の導師。柔らかな光の紡ぎ手、リディア。
災厄を払いし四英傑の全ては揃わず、しかし今、絶対の力を前にしてこれ以上の布陣は望めなかった。
フレデリックは思う。
幼少の頃に愛した騎士英雄譚の一節を彩る〝ウル〟の逸話を。
剣士を志し、前進し、練達するほどに解ってしまった〝ウル〟との差を。
最強には届かない。究極には届かない。
だが、その程度がなんだと言うのか? そんなもの、彼へと挑まない理由になりはしない。
剣の切っ先で真っ直ぐに〝ウル〟の胸を差し、〝悪竜殺し〟が言う。
「ルヴェリアの剣よ。何故この<リムル>を襲う。レオニダス王が居ると知って貴方は来たのか?」
無言。
「何故貴方が世界に剣を向ける。〝大穴〟で魔を討ち、人界の平穏を保つ貴方が……いったい何故なのだ?」
無言。答えは無い。
「ここから先へ進ませるわけにはいかない。世界の希望を潰えさせるわけにはいかないんだ」
「……世界の為、か」
騎士兜の内からくぐもった声が漏れる。
呟くような声。最後には『ククッ……』と嘲笑の色が混ざっていた。
「貴公と同じだ、〝悪竜殺し〟よ。私もまた世界の為――王の為に剣を振るう。美しき過去も、退廃の現在も。私は常にその為に在り続けた」
危険だ、とフレデリックは直感する。確たる根拠は無い。
だがこの男の言動が、纏う気配が、魂の禍々しさが不穏だった。
およそ正気ではない。
〝ウル〟の狙いは恐らく落ち延びたレオニダス王の命と〝聖剣〟の奪取。古きガリアンの血を潰すのであれば、アーデルロールと……ユリウスの〝両目〟さえも奪う危険さえある。
フレデリックが直剣を振り、十字を描き、胸の前で掲げる。
マールウィンド連邦の騎士儀礼のひとつ――決闘の申し入れの所作。
「マールウィンド連邦騎士、ハルードの息子。フレデリック・フォンクラッドが御身に決闘を挑む」
「――受けよう」
世界最強がその剣を抜く。
途端、〝ウル〟のまとう外套が波を打ち、〝ウル〟が踏む大地が抉れ、土塊が中空に浮く。
圧倒的な剣気。青い光の筋は彼の力の一端か。
ふっ、と姿が消失する。
瞬間、フレデリックのこめかみに血筋が浮き、わずかな血液が散る。
真横に〝ウル〟の騎士兜の面があった。奴は言う。
「来い……」、と。
「――疾い……ッ!!」
視認出来なかった。早い、速い、疾い! あまりにも光速すぎる!
全身に冷や汗が噴き出す。またも〝ウル〟の姿が消失し、背後で鍔迫り合いの音。
ギュスターヴの黄金の槍の穂先が〝ウル〟の剣と噛み合い、雷が火花のように舞っていた。
「――我が喚ぶは知神の雷! 簡易魔法式――雷の第三階位<遠雷の狩人>ッ!」
完全な詠唱では間に合わないと判断をしたリディアが雷を放つ。
雷の優れた点はその速攻性。フレデリックの動体視力で追い切れぬ相手であれば、追尾能力を付与した雷の矢で追うしかない。
しかし〝ウル〟には通じない。背にたなびく深紅の外套が背面からの魔法を防ぐ――いや、完全に消失させる。
二度、三度と繰り返しても結果は同じだった。
「うっそでしょ……。あたしにどうしろってのよ!?」
「援護しといてくれ! 頼むぞリディア!」
「っしょうがないわね! 了解!」
フレデリックが走りながらに叫ぶ。剣を抜き放ち、青い瞳は最強を睨む。
「ギュスターヴ!」
「ッアァアッ!」
〝王狼〟の大槍が気合いとともに振り回され、穂先に走る紫電がその熱で丘を焼く。
獲物は――〝ウル〟の姿はどこにも無い。
二人は殺気を悟り、全力で飛び退いた。直前まで居た場所に銀閃が迸り、大地が崩れ、無数の亀裂が丘を飲む。
隆起した大地の断面からは青い光が虹のごとくに立ち昇り、〝ウル〟の剣気の程を否応なく知らしめた。
研ぎ澄まされた刃の気配。彼が有する〝力〟の圧に外套がたなびき、挑戦者へと言を向ける。
「我が名は〝ウル〟。究極の一にして、力の主。世に最も鋭き剣。挑むのならば、来い。死力を尽くさねば私に刃は通らんぞ」
「――はっ! 上等!」
フレデリックの姿が消える。壁のように隆起した大地を踏み、また次の壁へと連続跳躍。速度を高め、最速の一閃を放つ――!
「〝迅閃〟の三、<時雨>ッ!」
風斬りの音さえ無い、高速の一太刀。巨人の腕を断ち、鉄竜を裂く垂直の軌道が騎士の首を狙った。
〝ウル〟が掲げた剣とまともに衝突する。吹き荒れる暴風に家屋が軋む。
「〝迅閃〟の五、八、二っ! 瞬連ッ! <雪月花>――!」
「……」
刃のように鋭い風の隙間を縫い、疾走するギュスターヴの穂先が〝ウル〟の背を狙った。常人ならば躱せぬ速度、視認出来ない死角。
ギュスターヴの練達した刺突は音さえ生じさせず、雷を纏う一撃は最大の破壊を生む。
〝王狼〟は攻撃に際して言葉を発しない。ただ、対象を殺す。英雄であろうと魔物であろうと、王に害をなす一切を殺すのが彼だ。
「――ぬるい」
「なっ……!? 槍を掴むってか、冗談きついぜテメエ……!」
フレデリックの斬撃の嵐を片手で受け、その上で〝ウル〟は背後に生じたか細い殺気を察知し、雷撃の速度で放たれた槍の穂先を指の二本で受け止める。
北の英傑と悪竜の征伐者。
両者は互いに戦闘目的を『勝利』から『足止めを果たし、一人も欠けることなく離脱する』へと切り替える。
だがそれはあくまで理想でしかない。淡い期待でしかないのだ。
〝ウル〟を止め、無事に逃げおおせられる者など、人間を外れた者にしか成しえない芸当だった。
「〝王狼〟の血が泣いているぞ、ギュスターヴ。貴様には荷が勝ちすぎる名ではないか」
ギュスターヴに答える余裕などありはしなかった。
自己最速の槍術。雷の暴風。
紫電を体内に駆け巡らせ、自身の魔力を〝紋章〟へと注ぎ続ける。
それでも彼一人ならばやがて潰されていただろう。だがフレデリックとの連携がある。
〝悪竜殺し〟。
当時の活躍を知る人々は言った。
彼こそは神に導かれた英雄。天賦の才を誇る無双の剣士だと。
現実は違う。
フレデリックに特殊な背景はなく、特別に授かった力はひとつも無い。
死にもの狂いで鍛え上げた剣術が、幾たびの戦いを越えて培った身体能力が、揺るぎない炎のごとき闘志がフレデリック・フォンクラッドの強さの源泉だった。
草原の国の騎士の剣が走る。
北の果ての英雄――〝ウル〟の剣がそれに応じる。
一合、二合、三合。フレデリックの剣が衝突に耐えられず、ガラスのように細かく砕け散った。
だが彼の闘志は潰えない。腰に吊った二刀の内の一つが潰れただけだ。
「使うぜ、師匠……!」
鞘走りの音を立ててフレデリックが必殺の剣を抜く。
直剣ではない。柔らかな反りをもつ異郷の剣――〝刀〟がフレデリックの手で息吹を得た。
「〝迅閃〟の一、<地削り>! ――リディアッ!」
翡翠の光がフレデリックの四肢に灯り、剣士が速度を倍加させる。
リディア・フォンクラッドの放つ援護。風の第三階位<エアリアル・ムーブ>。
今や〝悪竜殺し〟の剣の速度は音に等しく、人の枠を逸脱する寸前にあった。
〝ウル〟は防ぐ。防ぎ続ける。
己の身が砕け散るような苦痛をこらえ、最速が最強を越えんとするフレデリックを冷たくあしらい続ける。
不意を狙うギュスターヴが再び〝ウル〟を貫かんと迫る。
死角では無い。フレデリックを相手取り、剣を振るう右腕を潰す――。
黄金の穂先は空を切った。
騎士の姿は再び消え、フレデリックがどしゃり、と大地に崩れ落ちる。
「フレッド! あなた、大丈夫!?」
「ぜっ……! ぜえっ……! だい、じょうぶだ、クソッ、これでも駄目ってのは、信じられないな……」
尋常では無い汗を顔に浮かべたフレデリックの疲労と消耗は凄まじいものだった。だがそれでもマールウィンドの英雄は笑う。
その横顔はかつての師、シラエアに挑みかかった若き日のフレデリックによく似ていた。
過去と現在のフレデリックを知るリディアの胸には不安があった。こうなればフレデリックは止まらないことを知っているのだ。
まして彼は今、多くの命を守らんと剣を振るっている。決して引き下がるはずがない。
「――捨て石になるなんて言わないでよ」
「……読心術が使えるとは、付き合い長いけど知らなかったな」
「バッカ言わないでよ! 死んだら殺すわよ!」
「はは、どうすんだ、それ……」
地に突き刺した刀を支えにフレデリックが身を起こす。虚脱感がひどい。
何も言わずにリディアが回復の光を放ち、少しでも疲労を軽減させようと不安をこらえて魔力を結ぶ。
「……参ったな。あの野郎、ほとんど守勢のままだ。遊ばれている」
「ちょ、っと待ってよ。嘘でしょ」
「冗談なんかじゃないさ」
視線の先。再度の出現を果たした〝ウル〟はフレデリックらへとじっと顏を向けていた。言葉は無く、ただ静かに剣を構える。
背中の紅蓮がなびき――騎士が跳ぶ。
飛翔は無く、駆ける音も無い。ただ一度の跳躍で〝ウル〟が彼我の距離を埋め、神速の一撃を放たんとした。
「っぶね……ッ!」
フレデリックが得物の刀身で受ける。が、瞬間に感じた攻撃の重さに防御を捨て、回避へと思考を切り替える。
二分される刀。斜め下から天へと斬り上げた〝ウル〟の一撃は空気を断ち、風を分かち、頭上を覆う暗雲を裂いた。
言語を絶する力。
切断された雲のあいだには星の海が覗いている。
「うっそだろ、おい……」
「呆けてる場合じゃ! ねえだろう、がっ!」
殺意の軌道にギュスターヴの槍の穂先が割り入り、火花を散らして致命の機会を遠ざける。
そのままギュスターヴは〝ウル〟の腹に膝蹴りを叩き込み、ズン、と周囲を震わせる鈍い音が立つ。獰猛な顔をこちらに向けもせずにギュスターヴが叫ぶ。
「オレは〝血〟を使う! フレッド、それでも届かなかったらお前に任せっからな!」
「――ギュスターヴ……、分かった。任せてくれ」
「おう、頼んだぜ!」
次いで巨大な雷が〝王狼〟と〝ウル〟を包むように落ち、森を抜けた先、山の中腹で粉塵が立ち昇った。
ややあって青い剣閃が夜闇を彩り、山肌が裂かれ、また空が割れていく。
まぶしいほどの雷をまとう大狼が縦横無尽に立ち回るのが遠目に見えた。ギュスターヴが切り札を使ったのだろう。
「……リディア、話がある」
「長く聞きたくないわ。手短にして」
この女は自分をよく分かっている、とフレデリックが苦笑を漏らす。
「ギュスターヴでも〝ウル〟を止められはしないだろう。狼を討った〝ウル〟は必ずここへ戻る」
「王様の方に行くんじゃ?」
「いいや。決闘はまだ終わっていないからだ」
「……何よ、それ。また剣士の矜持だとかって話?」
「ああ、そうさ」
妻を振り返るフレデリックの顏は純真だった。最強を前にしての恐れは無い。自分の技が通じぬことに驚きを覚え、しかし気勢は萎えず、どう振れば通すことが出来るのか。その興味ばかりがあった。
世界の局面を握るかも知れない戦いに立ち、大勢を気にもせず、剣士としての心に素直になる自分はなんと不義理なのだろうとフレデリックは思う。
「切り札を切ったとしても、〝ウル〟には届かないとあいつも内心で分かってたはずだ。次に〝ウル〟を止めるのは俺。最後はリディア、君だ」
「そ。やれるだけやるわ――!?」
フレデリックがリディアの腕を掴み、ぐいと引き寄せるとその唇を奪う。
二秒。
永遠に思える二秒だった。
ややあってフレデリックが顏を引き、幼い日から知る女を、心より愛した女の目を青い瞳で見据え、言う。
「君のところへは決して行かせない。俺は必ず〝ウル〟を止めるよ」
「ば、ば、ばっ――バカ言わないでよ! 死ぬって言ってるようなもんじゃない!」
「リディア」
「っとに……バカじゃないの。あんたが居なかったら、あたし、どうしていいか、分かんないわよ……ユリウスに、ミリアになんて言えばいいのよ……」
「泣かないでくれ、愛しいリディア。約束する。必ず君のもとへ帰るよ」
柄にもないことを、と思い、そういえば人生でたった一度だけフレデリックがこんな顏をしたことがあるのを、リディアは熱くなる一方の胸の中で思い出していた。
あれはプロポーズの日のことだった。
いつもはのらりくらりと適当なことばかりを言うフレデリックが指輪を片手に握り締め、見たことがない真剣な顔で『愛している』と言ったのだ。
今でも鮮明に思い出せる。リディアという女はこれ以上無い愛を感じていた。
甲冑が歩む音が聞こえる。
木立ちのあいだから銀の騎士が紅蓮の外套を揺らし、現われた。
ギュスターヴの姿は無い。が、〝ウル〟の剣は血に濡れている。
「リディア、行け」
「約束、必ず守ってよね」
目元をぬぐい、リディアが男の背中へと言う。
夫は――フレデリックは少しだけ顏を横向け、柔らかく笑った。
リディアが遠ざかる。
変貌した丘の上には二人の剣士。
一方は災厄を終わらせた英雄。
一方は力の頂点。
英雄が三本目の剣を抜く。
指先を立て、胸の前で円を描き、拳を握りしめ、言う。
「〝悪竜殺し〟、フレデリック・フォンクラッドが再度の決闘を挑む。受けるか、否か」
〝ウル〟は剣を払い、眼前に掲げ、か細い息と共に答える。
「――……私に名は無い。だが貴公の剣と心に応え、世が私に与えた称号を名乗ろう。ルヴェルタリア古王国騎士、〝四騎士〟の二。〝ウル〟が貴公の言に応える」
来い、と空気が揺れ、
〝悪竜殺し〟が死線を疾走る。




