084 霧払いの瞳
王家の血統の証としてその両目に緋色を灯した王の瞳は深く、真っ直ぐにこちらへと向けた視線は心の内側を余さずに見透かすようであった。
思慮と経験を蓄えたレオニダス王はわたしを見つめ、何を思っているのだろうか?
不思議と居心地の悪さは感じず、ただ疑問だけが頭の上で旋回する。
やがて王は白雪の色をしたあご髭をしわがれた指先で撫で、「そう――知らねばならぬ」と言い、静かな息を吐いた。
「まず……世に再び現れた〝霧の大魔〟、すなわち悪神メルザは伝承に語られる神の肉体を取り戻してはおらんかった。
あれは人間の肉体を依代に再臨した神の影。残滓に過ぎんわ。
千年の前にガリアン王と争った時のような、神としての権能は戻ってはいない。
今はまだ、な。
〝大魔〟の依代となった人間はわしの朋友にして王国の宰相、サランディール・ディクセン。
わしとしたことがどうして奴の変容に気付けなんだか。
あれはいつの頃からか霧に見初められ、囚われておったのだろう」
「〝霧の大魔〟の残滓は建国の時より、王城最深部の封印の奥に存在し続けた。
無論、これは王と〝聖剣〟の次期継承者、そして当代の〝王狼〟だけが知る話。
ガリアン王の真実は伝承とは違い、〝霧の大魔〟を完全に滅ぼすことは出来ず、城下に封じたんだ。
それが王城深部の大封印――黒門。
〝万魔〟のエルテリシアが手掛けた封印は掛け値なしに世界最高のものだった。
今はもう破られちまったがな。
……サランディールの野郎がどこで囚われたのかは分からねえ。
結果としてあの馬鹿野郎は消えた。それだけだ」
災厄と実際に相見えたレオニダス王とギュスターヴが互い互いに言う。
話を聞くアーデルロールは下唇を噛み、右手を握りしめていた。
サランディール・ディクセン。
……記憶が確かならば、レオニダス王が即位する以前の若き日よりの友であり高名な魔法使いであったはずだ。
王は腕を組みながらに言葉を繰る。
「最深部の大封印、黒門の前にてわしとギュスターヴは〝霧の大魔〟と見え、争った。
この時のサランディールにはもはや人の意識は無く、巨大な存在に肉体を使役される傀儡のようであった。
しかして、意識は無くとも奴の肉体は優れた魔法の行使者のもの。
〝大魔〟にとって上等の依代だったのだろう、放たれる魔法と事象はもはや神域の技に到っておった。
嵐のように乱れ舞う第六階位の魔法を前に、生身であっては到底生き残れはせぬ。
〝聖剣〟の加護なくしては立ち向かうことさえ至難だ。
あれで人を介しての魔法行使だったのだ。本来の神の身であれば如何ほどのものか……まあ良い。
わしが〝聖剣〟と契りを結びし十三の精霊王らの力を振るい、ギュスターヴが〝王狼〟としての力を解放しても尚、〝大魔〟との戦いは拮抗をし続け、終わりが見えぬようにさえ思えた。
形勢を変えたのは場に割り入った〝獣王〟――ドガ公の一撃だ。
彼は祖王ガリアン王との誓いに従い、〝大魔〟を討伐せんと勇ましい咆哮と共に全力を振るった。
無双の斧の力は凄まじく、往年の力を彼は未だに有しておったよ。
自身が持つ神秘。〝紋章〟を解放したドガ公とわしら二人の攻勢は、次第に奴を圧し始めた」
「このまま決める、と。確かにそう思ったんだがな。
〝大魔〟が切り札を切ったのは、野郎にとっての窮地だった」
「奴の切り札とは〝紋章〟よ。
奴もまた神代の力を秘匿しており、発動するやに膨大な量の霧を噴出させた。
あれは真に異質……。
霧の内に星の大海が見え、無数の異形を瞬時に生み出す魔の技。
異界と現世を繋げる技にも思えたが、本質は未だに分からん。見計る余裕など微塵も無かったでな。
わしは『奴にこれ以上〝紋章〟を行使させてはならぬ』と直感した。
続けざまに〝聖剣〟の輝きの全てを解き放ち、捨て身の覚悟をもって霧に覆われつつあった〝大魔〟の身を貫いた。
あの感触は今でもまざまざと思い出せる。
霞を切ったようであり、肉を断ったようでもあり……。実に奇妙だった。
一撃を受けた奴は一切の動きを止めたが、続けざまの噴霧にて身を隠しおったわ。
だが――効果はあったようだな。まだ世に霧が満ちておらんのがその証だろう」
王はくつくつと笑い、包帯に覆った右腕をさっと隠した。
「野郎は消え失せたが、場を離脱しようにも冗談みてえな霧の獣共が辺りを取り巻いていやがってな。
ドガ公が身を張って血路を切り開き、城の転移陣を利用してこのリブルスまで落ち延びることが出来た。
これがオレと王の旅路。北の戦いの顛末さ」
王は息を整え、萎えた片腕をベッドの内側でさすった。
よく見れば彼の体には黒い斑紋が浮かんでいて、あれが呪いの痕跡なのだと、話を聞いた今に思い到るのは容易なことだった。
「――……〝四騎士〟の長にして千年前の英雄であられるドガ公は霧に囚われてしもうた。
戦いの結果、我々は対魔の要であるルヴェルタリアと〝四騎士〟を失った。
〝霧の大魔〟は今やこの世にあり、いずれ力を取り戻すことは想像に難くない。
一方でガリアン様が後世のためにと遺された〝聖剣〟は輝きを失した。
口惜しい。実に口惜しい。まさにわしの無念と至らなさよ。
いずれ現われる〝大魔〟を滅ぼすことこそが王家の使命であったというに、わしの剣は奴の首に届かなかった」
「……星詠み。そうだった。お爺様はあの災厄の復活を知っていらしたのでしたね」
然り、とレオニダス王がゆっくりと頷く。
寝台の上に居ながらに彼の周囲には権力者としての、貴族としての気配がある。
所作のひとつひとつが小さいながらも力を持っていた。
「〝霧払い〟……ガリアン・ルヴェルタリア王もまた承知をしていた。
だからこそ彼は〝聖剣〟を遺したのだ。いずれ現われるであろう破滅に対処をする為に。
先にも言うたがわしは〝大魔〟を仕留め損ねた愚物よ。
しかし希望を繋ぐことには成功をした。此度の戦で誇る点があるとすれば、まさしくこれよ」
「希望、ですか?」
「いかにも。これよりは希望の話。
心して聞け、アーデルロール。並びにユリウス・フォンクラッドよ」
するり、と王が手元をベッドから引くと、彼の片手は木製の柄を握っていた。
それはシーツの裾から徐々に引き出されていく。時間がやけに遅く感じられた。
木製の柄から鍔が晒され、剣身の根本を彩る十三の宝玉が視界に映る。
赤、青、緑、黄、白に黒。
宝玉はそれぞれに色彩が異なるが美しい宝石の数々。
華美でいて精巧な宝飾に目を奪われたわたしは、不意に視線に似た強い力を感じた。宝石を通してわたしを見ているのか? 一体誰が? ……分からない。
違和感を置き去りにし、わたしの意識は銀色に輝く剣身へと移っていく。
耳鳴りに似た冷たい音が聞こえるほどに静かな剣だ。
極めて優れた刀剣の類というものは、こうした厳かな気配を宿すという話を耳にしたことがあるが、それはまさに目の前の事象に違いない。
「――……〝聖剣〟の名で呼ばれるこの剣は、真に神殺しの性質を得た神代の刃。
世界を構成する属性それぞれを統括する十三人の古き王らと契約を結び、その力を行使しうる〝聖剣〟は言うなれば世界そのもの。
アーデルロールよ。
〝聖剣〟を携え、世界を巡り、古き王らに拝謁し、契りを結ぶのだ。
全ての宝玉が輝きを取り戻した時、我らは再び〝大魔〟を滅ぼす力を得る」
「私が〝聖剣〟を……」
「……ガリアンの血統は今やその多くが失われた。
本来継ぐべきであったお前の父、アルフレッドは王都が呑まれた際に消え、アリシアムとヴィルヘルムの二人は何者かに隠されてしもうた。
そしてこのわしはもう歩けはせなんだ。
アーデルロール。愛しき孫娘。
お前の細い手に世の行く末を、世に唯一の希望を託すのはあまりにも重い仕打ちであることは分かっておる。
血を分けた肉親に苦難を強いることを喜ぶ者などおらぬとも」
寝台の上のレオニダス王の言葉は深く、柔らかかった。
しわの刻まれた彼は慈愛の眼差しをアーデルロールへと注ぐ。
ただ事実を述べられ、自らの歩む先を告げられた彼女は呆然とした様子だった。
それは王にも分かっているのだろう。
だが彼は口にすべきことを知っており、止めることはない。
「〝霧払い〟の血の果てとして、わしが剣を振るったように……。
お前もまた、成さねばならぬのだ。アーデルロールよ」
彼女は握り拳を作ったままだった。緋色の瞳で王をすっくと見つめ、
「それは――それは、かつてガリアン王が辿った道を歩め、ということですか」
「いかにも」
「王の……お爺様の命であり、この身に流れる血の宿命であるならば、私は身命に賭して必ずや成し遂げましょう! しかし――」
「『仲間の協力が必要だ』、そうだろう?」
王は発言を見透かしていた。口元をやわらげた彼の視線がアーデルロールからわたしへと移る。
力強い瞳だと思った。
まるで両目の中に太陽が宿っているようでいて、アーデルロールのそれとはまた違う色味を有している。有無を言わさぬ意志の強さが炎となって揺らめいているようだ。
「……ユリウス・フォンクラッド。わしは君のことをようく知っておる」
「僕をですか?」
「ああ、君をだ。
君の来歴。身の秘密。もう一つの瞳の色もな」
心臓を掴まれた思いだった。
背筋を嫌な感触が舐め、呼吸がわずかに止まる。
あからさまな動揺だった。
横に立つアーデルロールが怪訝な目をわたしへ向ける。
「ユリウスに……? 彼に特別な過去があると仰るのですか?」
「然り。彼の所持する力は目的を成し遂げるにおいて必要不可欠なものだ。
決して欠かすことは出来ん。否が応でも同行をして貰わねばならん」
「それは、どういう――」
「ユリウス。君の持つ〝紋章〟をわしにちいと見せてくれんか?」
………………
…………
……
わたしは咄嗟にギュスターヴに視線をやった。
かつてわたしの力の使用を禁じた彼の指示を仰ごうと考えたのは反射に近い行動だった。
彼は大柄な体をこちらへ向け、重い調子で頷きを返す。
明確な許可のサインだった。
「王は一切を承知している、気にすることはねえ。
あの日のように暴走をしそうならオレが止める。
使え。ユリウス・フォンクラッド。
お前の瞳を世に示す時が来たんだ」
有無を言わさぬ語気だった。
わたしの背後、リビングへと続く扉にもたれかかった父は何も言わずにじっとこちらを見つめている。
しかし彼の言わんとしていることは明らかだった。『従え』、だろう。
わたしは顏をそっと下向け、自身の胸の傷を意識し、続けて胸の内で魔力を練り始めた。火のように熱い目に見えぬ糸――魔力の筋が身を巡り、やがて両の瞳へと至る。
詠唱の文言は呟かなかった。
あの言葉を口にすれば、何者かの意識が表層にあらわれ、肉体を支配することをわたしは知っている。そうなればわたしは主導権を失い、傍観者へとなり下がってしまう。
――両目がひどく熱い。
火焔が、太陽が宿り、眼底で燃え盛っているようだ。
一拍を置いて顏を上げた。
わたしの瞳を目にした父以外の全員が大きく息を呑む。
アーデルロールは目を見開くやに口元を手で覆い、「嘘でしょ」と小さく呟いた。
腕を組み、重石のようにギュスターヴは静かに座り続けていたが、彼の薄灰の鋭い目線はわたしを真っ直ぐに見つめている。
「おお……」
と、溜息に似た感嘆の声を漏らしたのはレオニダス王だった。
「〝太陽の瞳の紋章〟……。これか……っ、これが祖王の瞳……!
眩い。あまりにも眩い。希望とはかくも眩いものか……」
「お爺様! これは一体!?
緋色の瞳とは私たち、ルヴェルタリア王家に固有のものではなかったのですか!?」
しわがれた手で顔をぬぐい、王がため息と共にゆっくりと言う。
感嘆か、驚愕か。彼の胸に去来した感情はわたしには分からない。
「我らが千年の長きに渡り、ガリアン王より継いだのは瞳の色のみ。
彼――ユリウスが得たあの瞳は〝霧払い〟の本質である」
レオニダス王がわたしを真っ直ぐに見据えながらに語る。
言葉が段々とぼやけてくる。耳に膜があるかのようだ。
だが彼の言葉は聞かねばならない。聞き漏らすわけにはいかない。
「本質?」
「ガリアン王は世に数少ない〝紋章〟の所有者の一人であった。
我らルヴェルタリア王家は彼の血と瞳を受け継いだが、〝聖剣〟以外に〝霧払い〟の力を所有してはおらなんだ。
彼の力の本質である〝太陽の瞳の紋章〟は、王が隠れると同時に失われてしまったのだ、アーデルロールよ。
以来千年の長きに渡って世に現れることはただの一度として無かった。
それが……今、この時に現れるとはな……これなるはまさに定め。宿命であろう」
「そんな。まさか、ユリウス……あんたが……?」
「ユリウス・フォンクラッド。
君がどのように歩み、どのような縁を辿り、かの王がかつて宿した〝紋章〟を得たのかはわしには分からん。
だが、その輝きは世を救う兆しのひとつであることは確かであろうよ。
ユリウス・フォンクラッド。並びにアーデルロールよ。
改めて、お主らにこの老骨よりたっての願いがある。
世界を巡り、力を蓄えるのだ。
力とは即ち、輝きを取り戻した〝聖剣〟のみならず、世に在る〝紋章〟の所有者たちである。
これより満ちるであろう霧を払うには、彼らの力は決して欠かせぬ」
わたしは次第に悪化していく立ち眩みをどうにか堪え、王の言葉に耳を傾けた。
アーデルロールもまた強張った顏でじっと聞き耽っている。
祖父王の言葉を一語たりとも聞き漏らさんとしてのことだ。
「しかし王よ。〝紋章〟所有者自体が世に数人という希少な存在です。
彼らを探すなど容易なことでは……」
「分かっておる。
安心せよ、わしの生涯で知り得た所有者らを訪ねてみるが良かろう。
幾人かの行方は知れぬが、お前が誠意をもって接すれば必ずや力になろう。
〝巨人の拳の紋章〟 メルグリッド・ハールムラング
〝日輪の闘志の紋章〟 ドガ・ヴァンデミオン
〝絆の炎の紋章〟 バレンドール・デュラン
〝死せる咆哮の紋章〟 ミド・シュタイン公
〝大地の骸の紋章〟 ガガリオン・ハールムラング巨人大公
〝夢幻の旅人の紋章〟 イルミナ・クラドリン
〝大雷の狼の紋章〟 ギュスターヴ・ウルリック
そして〝太陽の瞳の紋章〟の担い手――ユリウス・フォンクラッド。君だ。
主らの旅は言うなれば二度目の〝霧払い〟。
どうか……頼む。世の憂いを、今度こそ払いたまえ……」




