082 故郷の風
草葉の海原ならぬ、マールウィンドの大平原を縦断する旅はとうとうその終着を見た。
アーデルロールやイルミナを交えての共同生活の終わりは相当に名残惜しく、どうにかもう二日ぐらいは続かないものだろうかと、青空を仰ぎながらにそう考えてしまう程だった。
しかし目的地への到着を果たしてしまった今、わたしの後ろ髪を引いてならない『たられば』の空想は振りほどかなくては。
「こうして見ると本当に何も無い場所だ。
丘に森に広い空があるばかり。
<リムル>なんて村は聞いたことが無い、なんて言う人が居るのも分からないでもないな」
地図の端の端にぽつりと記されているようなとびきりに辺鄙な土地に、まさか一国の王が落ちのびていようとは誰しもが夢にも思わないだろうさ。
復活を果たした伝説の災厄〝霧の大魔〟――またの名を八柱の神の一つ、悪神メルザ。
実際に相見え、大魔と一戦を交えた〝霧払い〟の血の果て、ルヴェルタリア王レオニダス。
北の王家の末子にして生き残りと目されるアーデルロールとルヴェルタリア王とを引きあわせることがこの旅路の目的だった。
英雄の末裔である二人が何を話し、災厄を払う手立てとして何を講じるのかはわたしには何も知れず、世に有り触れた一介の人間として運命に身を任せる他には何もない。
◆
深い森のほとりにポツリとたたずむ<リムルの村>。
牧歌的。秘境の集落。世捨て村。
いろいろと呼び名はあるし、どれも間違ってはいない。
確かなのは、わたしにとって捨てがたく忘れがたい、唯一無二の故郷だという事実。
近隣の樹木を加工し、皆で家屋を作り上げていったという村の田舎然とした景観は記憶のままだ。
けれどもまあ、半年と少々を離れただけで大きく様変わりをしているはずもないのだが。
村の家屋は煙突から煙をせっせと吐き出し、吹き付ける南風を受けた風見鶏がくるくると回っている。
若い男衆は農具を担いで畑を耕し、年端もいかぬ女が母親と並んで草原へと繰り出してはヒツジや牛といった家畜の面倒を見ていた。
めえ。
歓迎の鳴き声にしては随分間抜けだな。
なんと牧歌的な風景。
勇者ごっこをして駆けずりまわり、名も知らぬ草花を摘み、丘に寝転がっては空を仰いでいた子供のころには疑問にも思わなかったが、他の街々を見聞して歩いた今となっては、<リムル>は過ぎゆく時代に取り残されて――あるいは忘れ去られて――いるように見えてならない。
『この牧場の匂いがする田舎然とした雰囲気がいいんだよ』などと、村民の大部分が思っているからこそ、こうして劇的な変化は起きずにいるのだろうが、それだとしても流石に古い。
二、三人は増えているであろう純真無垢なチビたちに首都の摩天楼がごとき景観を見せてやったら、驚いて開いた口がふさがらないのではなかろうか。
むう、絵ハガキのひとつでも買って帰れば良かったかな。
「何ぼうっとしてんだよ。もうすぐ門をくぐるぜ」
「ん……ごめん。いよいよだね」
馬車は村の門を通ると広間にまで直進し、村人たちの好奇心を一身に集めながらに停車した。
しょっちゅう出入りをする行商の幌馬車ならば衆目は引かないのだが、黒塗りの高級馬車となってはそうはいかない。
「えらく大きい馬車が来たな」
「誰が乗ってるんだ? 貴族様が来るなんて話は無かったよな?」
「いんやあ……えらいこっちゃな。ありがたやありがたや……」
野次馬に集った人々の声が扉をすり抜けて聞こえてくる。
懐かしさと気恥ずかしさが入り混じった奇妙な気持ちになってしまう。
正直言って、顏を出すのが恥ずかしい。
どこの貴族がやって来たのかと期待をしている朴訥な村人の前に姿を現すのが、よもや村で顏の知れているフォンクラッドの家の長男を始めとした馴染みの面々だと、彼らは想像だにしていないだろう。
帰って来たぜ! などとコルネリウスは良い気になるかも知れないがわたしにはハードルが高い。出来ればそそくさと家へと戻りたいものだ。
ビヨンが魔法書や羊皮紙の束をリュックにせっせと詰め込んでいて、不意にわたしと視線が交わる。
「うち、実は降りるのが恥ずかしかったりする」
「大丈夫。僕もだから」
降車をしてすぐのこと。
急ぎの旅を終えた馬の背を撫で、疲れを労う御者の男へと向けてアーデルロールは、
「本当にありがとう。貴方の案内でなければこんなにすぐには辿り着けませんでした」
と言った。
頭を下げそうになったアーデルロールを手で制すと、彼は「仕事ですので」と実直な面持ちのままで返した。しかし直後にこの一週ばかりの旅を思い出したのか、
「……久しぶりに童心に帰った気持ちでした。私こそ、貴女たちに感謝を。
こうして直接お会いをし、言葉を交わす事はもう無いでしょう。
アーデルロール姫殿下。あなたの道先に〝霧払い〟の祝福があらんことを」
口元を少しだけ綻ばせ、全員の降車を見届けると彼は馬の世話へと向き直った。
やはりというべきか、見物人の数は相当なものに膨れ上がっていた。
動ける老若男女の全てが村の広場に集ったのではないか?
彼らの好奇の視線はわたしたちの全身を漏らさず突き刺していて、気付いたものから大声で来訪者の正体を口にした。
「ユリウス……? ユリウスじゃないか! フォンクラッドの坊主だ!」
「ええと――」向けられた指先から目を逸らし、「どうも。戻りました」と苦笑いをするわたし。
そうしてあれよあれよと言う間にコルネリウスとイルミナが迎えられ、ビヨンは人垣から飛び出してきた飼い犬に飛びつかれていた。
有名人でもないというのに、村人たちは次から次へと握手を差し出し、時にはハグさえも仕掛けてくる。
わたしはその全てに応え、溢れんばかりの笑顔を寄越す彼らを見ているうちに自分の口元が緩んでいることに気が付いた。
「よう! 何だか懐かしいじゃねえか! 外はどうだった? 世界は広かったろう」
雑貨屋のおやじが太った手でわたしの手を引っ掴む。
相変わらず調子の良い笑顔だ。商人らしいと言えば商人らしいが、旅の中で出会った悪徳業者等々に比べれば良性のスマイルだ。
思えば詐欺を仕掛けようとする連中の笑顔はどことなく悪辣というか仮面というか……、
「おい、どうした? 旅の疲れで参ったか? ハハ」
「……少しだけ。長いようで短い旅でしたけど、やっぱり懐かしいですね。村も変わりないようで良かったです」
「<リムル>は昔も今もこんなもんさ。ああいや、最近少しだけ変わったかな」
「少し?」
疑問の答えはすぐに現れた。
村に似つかわしくない鉄の音が聞こえる。
鎖帷子をちゃらちゃらと鳴らし、グリーヴの底で土を踏み鳴らす独特の音。
腰から下げた鞘と剣の気配をわたしは見逃しはしない。
………………
…………
……
村の広場の奥。わたしの実家へと続く短い林道から数人の男女が現われた。
小走りでこちらへと駆ける彼らの種族は様々。
人間もあればエルフもおり、背の低いドワーフにウサギの顏をした小人のラビールも。割合に珍しい狼人間の姿もある。
コルネリウスが背負った槍へと手を伸ばしながらに、怪訝な顔を彼らへ向ける。
「どうなってんだ。自警団は年上のアニキ達で間に合ってなかったか?」
そうこぼす彼を制したのはアーデルロールだった。
彼女は幼少の記憶を振り返る遠い眼差しをしていたが、駆け走る集団へと目を向けた途端に瞳は輝きを取り戻し、とびきりに嬉しそうな笑顔で声を張った。
「あなた達! ああそんな! 信じられない、生きていたのね!」
「姫様ぁーっ!」
「本物だ! 姫様が生きておられたぞ! 姫様、姫様!」
「達しの通りだ! だから俺は言ったのだ!
ラビールの小人がアーデルロールのすねに抱き着き、ドワーフがそれを引き剥がす。厳かな面持ちの割につぶらな瞳は涙にうるみ、彼は恥も外聞もなく村のど真ん中で大声をあげてむせび泣いた。
「勇神ブランダリア様は我らを見放してはおらなんだ! 戦いの果てに希望をお残し頂けるとは! おおおおぉぉ!」
彼らは次々にアーデルロールの手を取り、ある者はうるむ目元を腕で押さえ、ある者は噛み締める顏を浮かべた。
「アルル、彼らは?」
「ルヴェルタリアの騎士よ! 皆、イリルに居るものかと思っていたわ。こうして会えるなんて、ああ、何て嬉しいことなの! あなた達はどうしてここに?」
「王陛下がこの地へと転移なされる際、我らも同行を願い出たのです。
この<リムル>に身を隠されて以降は王の近辺警護に務めております」
雑貨屋の店主が腕を組み、しみじみとした調子で、
「霧が出た時にゃあ大助かりさ。
ここんとこの霧は怪しい上に気配も妙だが、フレデリックの旦那と北騎士の連中が居れば安心でな」
「<リムル>の方々には感謝の言葉しかありません。
彼らは傷ついた我々を事情も聞かずに匿ってくれた。あの日に頂いた温かなスープ以上に心を震わす料理を私は知りませんでした、アーデルロール姫」
大袈裟だよ、と村民の女が言い、つられて周囲の村人たちが笑い声をあげる。
エルフの騎士が「大袈裟なことではありません!」と気真面目な顔で返すと、故郷の人々は「いつでも振る舞ってやらあな」と温かな言葉を返すのだ。
「優しき騎士。あなたの名前を私に教えてくださいませんか?」
「自分はイディオという名であります!」
姫に名を訪ねられ、ラビールの騎士が胸を張り、耳をゆらゆらと揺らして応じた。
「イディオ、そして皆。あなた達の善行と忠義を王は誇りに思うことでしょう。
ルヴェルタリア騎士に相応しき振る舞い、ご苦労でした。皆、ありがとう」
「姫殿下……!」
「私は王陛下に会わねばなりません。王の許へと案内を頼めますか?」
「はっ! ただちに!」
騎士らは背を正すとアーデルロールに一礼を捧げ、殿の一人を残すと列を成して元来た林道へと下がっていく。
アーデルロールは迷わずに騎士達の後に続き、
「さあ行くぞ。村人たちと懐古話をしに帰郷したわけじゃないだろうに」
イルミナがわたしの背を叩き、歩みを促す。
わたしはただの帰郷の気分を拭うと、懐かしき我が家への道筋を辿った。
◆
この丘を思い出さなかった日は一日だってない。
わたしの実家を囲む石塀。
小さな頃にはよじ登らなくては座れなかったが、今は楽々と腰を掛けられる。成長を実感する機会というのはいつだって身近なものだ。
わたしの視線が石塀から家へと続くステップストーンに移っていき、やがて丘の上にぽつりと建つ一軒の家に留まる。
風に回る風見鶏。
木造の家屋に不釣り合いなガラス張りのサンルーム。
ウッドデッキにはロッキングチェアに、並んで座るためのベンチ。
二階にはわたしと妹の二人の部屋があり、開け放たれた窓からは水玉のカーテンが揺れている。
玄関先にひとりの男が立っていた。
癖っ毛の黒い髪に真っ青な瞳。
年齢を感じさせない強壮な体をしているが、顏は寝起きのようにぼんやりとしている。
まるでわたしの鏡写しのような男だ。
彼もまたわたしを観察していて、ぼんやりとした顏がハッとしたものに変わり、それからプレゼントを見た子供のように嬉しそうな顔をする。
動けないわたしに向かい、彼が――父、フレデリックがその手を伸ばし、握手をしながらに変わらない笑顔で言う。
「おかえり。デカくなったな」、と。




