080 教えを乞う
空は快晴、陽射しは良好。
悪夢から飛び出たような黒雲は空のどこにも見えず、魚のうろこによく似た小さな雲が白波のように広がっている。
そよ風が草葉を撫でる音を聞きつつ、昼寝のひとつもしたい所だがそうはいかない。何故かと言えば今のわたしは審判役を仰せつかっているからだ。
「ふっ! そ、こよっ! くたばんなさい!」
「大したこっちゃねえな! 北でごろごろしてただけじゃねえだろうな!」
「あんですってぇ!? ただじゃおかないわよ!」
「おうおう。もったいぶらずに本気で来いよ、王女サマ」
時に跳躍、時に腹這い。縦横無尽に走りつつ、好機とばかりに肉薄をするやに切り結ぶ。
コルネリウスにアーデルロールの二人の若き戦士は互いに得物を握り、稽古に熱を上げていた。
この場に訓練用の模造の武器はないので、両者ともが実戦用の槍に剣を振るっている。
当然な話、「馬鹿な真似はやめろ」とわたしは忠告を口にしたのだが、彼らがそれで収まるわけもなく。
言い分を聞いてみれば、怪我をしたらば大魔法使い(自称)であるところのイルミナに治療をしてもらえば問題無いと言う。
なんという言いくるめの言葉だろうか。まさしく詭弁である。
傷を塞ぐことは出来るが魔法が及ぶ効果には限度があり、うっかり手が滑って内臓を貫きでもしたら洒落ではすまないのだが、彼らがわたしの言葉に耳を貸すことはなく、
「じゃあユリウス、審判頼んだわよ。ストップの判断はあんたに任せるから」
とアーデルロールがわたしの肩をぱっぱと叩き、晴天の下での戦いの火ぶたが切られた次第だ。
「……ストップの判断といってもな。止めても止まらないじゃないか」
簡略の、それも正式な場で行ってはいないものの、わたしはアーデルロールに剣を捧げた過去があり、言ってしまえば主従の関係だった。
鉄色に輝く実剣を振り回すような暴挙を見過ごすなど、従者にあるまじき行為だと分かってはいたが、彼女が力尽くでは止まらないこともまた悟っている。
それにしても二人とも何て良い笑顔で動き回るのだろうか。
顏に珠の汗を浮かべ、運動に励む姿は実に健康的だ。
どこぞの言葉ではスポーツマンシップ、などと言うらしく、確か正々堂々やらルールに則り健やかに、なんて意味合いだったような。
「ま、二人なら怪我するようなことも無いか。おーい。僕は用事があるから行くけど、怪我はしないようにね」
当然、返事は無い。
分かり切ったことなので別段にショックも無く、わたしは主より賜った審判役の証である白いタスキを地面に放り投げ、踵を返した。
………………
…………
……
「これは――……無理ですね。巨大な濃霧が前方にて帯状に横たわっています。
勢いに任せての突入は可能ですが、魔物の襲撃に遭い、馬を失っては元も子もない。晴れるまで待機しましょう」
目出し穴より車内を覗いた御者はそう言い、綱を打ち鳴らすと馬たちが歩を止めた。
好奇心を刺激されたわたしは馬車を降り、道の先に視線を向ける。
すると御者が言うように大きな濃霧がまるで大蛇のように平原の上へ横たわっていて、上空には暗雲が渦を巻き、雷鳴がどろどろと轟いていた。
霧の出現地点の空だけが暗黒の色に染まっている一方で、丘を三つ分は離れた場所に立つわたしたちの頭上は冬の晴れ空だ。
異常気象の一言で片づけたい気もしたがしかし、霧の変容の事情を知ってしまった今ではそうも言えない。
天候の変化も〝霧の大魔〟の仕業のひとつなのだろうか。神の一柱だという話だが、実際どこまで出来るものなのやら。何でもアリは勘弁してほしい。
「いつ頃晴れるんだろうな」
と、コルネリウスがそばで言った。
車内に押し込められた今の彼には運動量が絶対的に足りていないようで、隙あらば走り込みやら鍛錬に精を出したい顔をしている。
「僕に聞かれてもなあ」
「そりゃそうだけどよ。何かこう、退屈……手持ち無沙汰でな。動きたいぜ。
馬車の中でせめて握力を鍛えようと両手をグーパーしてたら『気が散る』なんてアルルに睨まれるしよ。はあ……折角だし稽古でもしようぜ」
「別に睨んじゃいないわよ、普通に見ただけだってば。
なに、体動かしたいわけ? ならあたしと一勝負しましょうよ」
様子を見に降車したアーデルロールが誘いを掛けた。
願ったりかなったり、とはまさにこの事に違いなく。
素早く振り返ったコルネリウスのは頭脳を少しも回転させず、本能のままに「ノった!」と叫び、二人して得物を振り回し始め、わたしは頬杖をついて戦いを見守り、結局は立ち去った後、現在に至る。
わたしが捜していた人物は馬車のそばに広げた真っ黒いシートの上に弟子と並んで座り込み、撲殺用ではないかと思えるほどに分厚い書を読んでいるところであった。
一体どこでこんなものを売っているんだ?
まさかどこぞの書庫よりかっぱらった盗品ではなかろうな。
「相談があるのですが」
あぐらをかいて座り込むイルミナ・クラドリンの背に向けて、わたしは言った。
彼女は振り返りもせずに片手をひらひらと――または追い払うようにシッシッと――振り、
「今は出来の良い方の弟子の世話で忙しい。
ああ、そうだ。いいぞビヨン、その解釈で正解だとも。
魔法は魔法書の内に記されたもののみならず、世に在る物語や伝承を独自に解釈し、魔法式に当てはめて具現をすれば、自身だけの魔法として扱うことが出来るのだ。
可能性はお前の想像力次第。さあ、その調子で次に行こう。お前は筋が良い」
これ見よがしにつらつらと他の弟子を褒めちぎる嫌な師である。
嫌がらせが趣味なのかは知らないが、やきもきをしたり不快げな顏をするわたしをからかうのが好きだろうことはよくよく知っている。
まあいい。
彼女がわたしの扱いを知っているのなら、わたしもこの外道魔法使いの扱いを知っているのだから。
「師匠、そこをどうにかお願いします」
ページの表面をするすると滑っていた指先がぴたりと止まる。
長髪を少しだけ揺らし、鼻先がようやく見えるぐらいに顏を横向かせ、
「君、今私をなんと呼んだかな。よく聞こえなかったのでもう一度頼む」
「師匠。たっての頼みなんです。あなたしか頼る者がありません、可愛い弟子の願いだと思って、どうか少しでも時間を割いては下さいませんか」
「今行く。すぐ行くぞ。ビヨン、私が戻るまではこの本がお前の師だ。挨拶をしておけ」
矢継ぎ早の返事である。面食らったのは突然に放置を喰らったビヨンだ。彼女は典型的な良い子の動作で了解を返し、
「えっ。えと、よろしくお願いします。あなたの表題は……<教会の拷問秘話>!? イルミナ師匠! これ、めっちゃ物騒な本じゃないですか!」
「知っている。私のかつての愛読書だ。読み終えた暁には感想を交わそうではないか」
わたしとイルミナは連れだって馬車の中へと戻り、対面する形でシートに腰を下ろし、本題を切りだした。
「魔力の量が足りません。対策を教えてください」
「ほう」
上体を前屈みにし、口元に手の甲をあてがいわたしを上目に見る仕草は悪戯好きの子供のようであり、また研究熱心な学者のようにも見える。
ともすれば挑発的な視線をわたしに注ぎ、
「旅で窮地にでも陥ったのか?」
「もう何度も。魔法の階位に関係無く、五回魔法を使えば魔力がすっからかんなんて燃費が悪すぎます。魔力の量はどうにか増やせないんですか?」
「無理だな」
一言でばっさりと切り捨ててくれる。彼女は視線をそのままに、
「魔力の量・質は個人個人の生来の資質だ。変動することは原則として決して無い。
他種族の臓器の移植といった外法なんぞを実行案として考えるのならば、いくらかの候補は思い浮かぶが、やめておけ。人間を辞めてもいいことは一つも無い」
「つまりどうにもならないと? 僕は自分に可能なことなら何でもやるつもりです」
「そう逸るな。お前の魔力量の異常と言ってもいい少なさには私も散々思案し、改善の手を考え続けてきた。そのひとつがこれだ」
懐から取り出したのは銀色の小瓶。軽快な音を立てて蓋を開くと、喉奥で毛玉が動き回るような不快感を催す悪臭がたちまち漏れ始めた。
「何ですかそれ……ひどいな」
「短く言って劇薬。正式名称は魂魄拡張式魔力増強薬三号。
効能は魔力量の増加に魔法出力の速度上昇などなど。
副作用は半永続的な不眠に幻覚・幻聴、全身の痺れ。個人差はまちまちだが内臓の溶解もある。それから最悪の場合は心停止。――……さあ、飲め」
物騒過ぎる。何でもやるとは言ったが、二つ返事で飲み干す前に他の案を教えてほしい。そう思うわたしの鼻先に悪臭の根源を押し付けてくるイルミナは、
「今のは第一の案。二つ目は禁術だ。
魔術院と〝五神教〟の二者から外法に指定され、一切の文献を秘匿された、表向きには存在しない禁術。
使用したことを勘付かれれば連中より追手が放たれ、命を狙われる立場になるが、それでも聞くか?」
内臓が溶解するやも知れぬ怪しげな液体を飲むよりは万倍マシ。
そう判断をしたわたしは頷き、イルミナの知恵を求めた。
「――……受け入れると思ったよ」
白い魔女は静かに笑みを浮かべ、指先を擦り合わせた。




