078 帰路へ
うさぎの耳をひょいひょいと左右に揺らし、水仕事に濡れた手をエプロンで拭きながらに宿屋の女主人がやってきた。
フードのついた長袖を着用している。うさぎの顏は冬気に生え代わっていて、すっかり冬支度に入っている様子だ。
「あらあらまあまあ。お帰りなさい」と女主人が開口一番に言う。
「出て行ったっきり、何ヵ月も居なくなっちゃって。随分心配したのよ? コルネリウス君が『よお、帰ったぜ』なんて言いながら玄関を開いた時は心臓が飛び出るかと思うぐらいに驚いたのだから」
背筋を伸ばし、驚いた顏をしてみせる彼女は子供のようだった。
茶目っ気を見せる彼女へ向けて、わたしは後ろ髪をかきながらに会釈を返した。
「ご心配をおかけしてすみません。その――」
事情を正直に説明しそうになるのを寸前でこらえた。
言いかけた口は『と』の発音の形で奇妙に歪み、続く言葉をすぐさまに考える。
「――……思ったより仕事が長引いてしまって」
母音が同じなら不審がられもしないだろう。
実際、女主人は目を細めて楽しそうな顔を浮かべている。
単なる話好きかも知れない。商店前やら井戸端やら。場所はどこでも構いはしないのだが、彼女が誰かと談笑している様子はすぐさまに浮かぶ。人好きのする風体だからかもしれないな。
「まあねえ。冒険者ならそういうこともあるわよねえ」
片手をひらひらと振って彼女が言う。わたしは「ええ」だの「まあ」と適当に挨拶を躱して、
「そうなんです。ところで二人は部屋に?」
「ええ、ええ。先に部屋に入って行ったわよ。あなたたちが借りた二部屋はそのままにしておいたからね」
「ありがとうございます。あんまり長く空けたら追い出されているんじゃないかと心配でした」
「それはどうして?」
「巷で評判ですよ。愛想の良い素敵なご婦人が居る宿ですから、是非宿泊をしたいと考える冒険者が多いのです」
「口が上手いのね。ふふ」
「いえ。後で菓子のひとつでも買ってきますので楽しみにしていてください」
「あらそう? 嬉しいわ。もし良ければ噴水広場の並びにある『パーラ・ローズ』のベリータルトを……それと……」
女主人はひょいと背筋を伸ばすと喜色満面の顏をして、洋菓子の名前に店名を次々と挙げていく。わたしは量の多さに途中で筆記を放棄した手帳をパタリと閉じると、
「――了解です。夕方には戻りますので」
挨拶の代わりに女主人が柔らかな笑顔を浮かべ、記憶に懐かしい部屋番号を伝えると彼女は炊事場へと戻って行った。
わたしは礼を言い、風景画の納まる額縁が並ぶ廊下を歩きはじめた。するとわたしは自分がようやく日常に戻ってきたことを実感した。
土臭い塔でもなく、剣を握り命を賭す戦場でもない。
迫る危機に耳をそばだて、気配に鋭敏になる心配はどこにも無い。
穏やかで、豊かなな時間がここにはあった。
それらが無性に懐かしく思え、心が浮き立つ。
扉の前に立ってノックを二度。「開いてるぜ」と慣れ親しんだ声が聞こえた。
相手が誰かも分からないのに、余裕の調子でそう言うのは格好つけなのか、それとも自信の表れか。ちらと考えつつ扉を開くと二人は居た。
「おはよう、ビヨン。よく寝てたね」
「好きで気絶したわけじゃないよ!」
きーん、とした声量でビヨンが言う。彼女は机に向かい、遺跡探索での記録をまとめているところだった。
細かな出来事に挿絵。帰りの馬車でアーデルロールにこれを見せたら喜びそうだ。
「アルルは起きたか?」
コルネリウスは荷をまとめていた。
ベッドの上に乱雑に並べられているのは、透明な物質で出来た柔らかな縦長の壺、ぴかぴかと光る薄い板、凹みを押すと煙が噴き出る小さな棒といった奇妙な品々。
どれもが塔で持ち帰った物品だ。荷は軽くした、と言っていたが少量は持ち帰っていたようで。手ぶらで依頼人に会うわけにはいかず、彼の機転がありがたい。
「どうにかね。今夜は首相が預かるってさ」
そうか、とコルネリウスは言う。それからわたしの顏を見るとニヤリと笑い、
「なにか大事な話があったような顏してんなあ、おい」と物知り顔を作って彼は言った。
「鋭いね。<リムルの村>に帰るようにフラメル首相から頼まれたよ。出発日は明日だ」
「俺らの実家にか? また急なスケジュールだな。大平原を突っ切って帰るだけだが、結構かかるぜ?」
「馬車を出してくれるみたいだよ。旅費も持つらしい」
「ほう……何だよ、俺はもう少し連邦領の北側をぶらつきたかったな」
「ワガママ言わないの」
丸めた画用紙でコルネリウスの頭をビヨンが叩く。ぼすり、とした音。それから彼女は筆を置き、
「フラメル様の指示なら従うしかないでしょ。出発は明日……とすると、塔の拾得物を依頼人に渡し、報酬を受け取るなら今日しかないよ!」
「ああ、ビヨンの言う通りだね。すぐに向かおうかと思っていたんだけれど、二人は準備の方は?」
「万全だ」
「いつでもばっちりだよ」
二人ともが席を立つ。コルネリウスが背伸びをし、その拍子に空腹の音が大きく鳴る。
「あー……悪い」
「お金が入ったらどこかで昼食でもとろうか」
「賛成だ!」
「うちは食べ歩きをしてみたかったんだあ」
「いやいや、実を言うと僕は美味しい海鮮料理の店を知ってるんだ。そこで是非……」
わたしとビヨンの二人がガイドブックをするりと取り出す。コルネリウスは「質より量だろ!」と声も高々に言い放つが、わたしは鼻をふんと鳴らすばかりである。
「やれやれ、これだから素人は困る」
「ほう……?」
………………
…………
……
依頼人であるベイカー氏の邸宅は記憶のとおりに鬱蒼としていて、屋敷の中にはすえた匂いが充満していた。幽霊が出そうな雰囲気はそのままだ。相変わらず清掃の手は入れていないらしい。
「それで、どんな品を持ってきた?」
ぎしぎしと軋む椅子に腰を掛けてベイカー氏は言う。
指でなぞれば筋を描けそうなぐらいに埃の積もった机もそのままだ。
時間の止まった部屋の主の顔もまた不健康そうな色合いである。
「こちらです」
塔の拾得物を手渡した。依頼人の憂慮げな目つきがガラリと変わり、好奇心が渦を巻いたのが見て取れた。
ためつすがめつといった具合に古代の品々を見回し、不可思議な言葉をぶつぶつと呟いているがわたしにはとんと分からない。
ビヨンとコルネリウスも同様らしく、わたしたちは互いに顏を見合わせた。
そうしてわたしは依頼人へと塔の様子を詩人のように語り聞かせ、ようやく終えた頃には彼女の顏は興奮に紅潮をしていた。
「――……実に良い。古代の品に触れながらに物語を聞く時間はやはり素晴らしいな」
「お喜びいただけたようで嬉しく思います」
「報酬は弾もう。それ」
依頼人が取り出した革袋は見るからにずっしりと膨らんでおり、開いた口からは黄金の輝きが覗いている。横に立つビヨンが「ふぉお……」と唸り、それを手で嗜めた。
「ありがとうございます」
「いやいいんだ。感謝はこちらの台詞だからな。ところで……」
「何か?」
「その、寒くはないのかと思ってな。
今はもう冬に差し掛かる頃だと言うのに、お前たちは夏服のままだから……驚いてしまっただけだ。金が無いのであれば、その金貨で買うといい。
ではな、感謝するよ冒険者諸君。また他人に頼むようなことがあれば次は君たちを真っ先に頼ろう」
◆
宿への帰り道。わたしの両手は洋菓子が入った紙袋で塞がっていた。
大きな街というものは実に多様な魅力にあふれている。
人々の活気といった賑わいの空気はどこか祭りのようでいて、眺めているだけで面白いというから不思議でならない。
喫茶に食堂、服飾屋や雑貨屋等々が立ち並ぶ通りの景観は大都市にならではのもので、視線を動かすたびに興味をそそられる。
思えば故郷より遠く離れた連邦の首都へ訪れ、道中で得た路銀で観光を満喫する、ということは一年限りと定めたこの旅の大きな目的のひとつだ。
首都に到着してからというもの、落ち着いた時間はほとんど少しも――わたしにとってはだが――無く、コルネリウスらと並んで都市の通りを歩く行為への喜びは隠しようもなかった。
「何ニヤけてんだよ? 腹減ってる内に美味そうな物でも見つけたか?」言いつつコルネリウスがわたしを小突く。
「誰かさんと違うんだからそんなことないでしょ」
「いや……実は当たりなんだ。そこの店でお茶でも飲もうよ。観光らしく、さ」
卓に着き、それぞれが好き好きにオーダーを口にする。
ビヨンが手に持った革袋の重さに感動を覚え、コルネリウスと言葉を交わす中、わたしはフラメル首相らに聞いた話を正確に思い出していた。
無論、彼らに事情を語るために。
記憶の振り返りは注文をした茶が卓につき、口をつける時まで続いた。
「話がある。大事な話だ」
意識をして真面目な顔を作り、わたしは二人の顏を順に見た。
災厄の到来を。これから世界に起こることを。
慣れない語りに唇は乾くだろうが、ここならば問題はない。
………………
…………
……
「じゃ、じゃあルヴェルタリアは本当に無くなっちゃったの?」
「王都は霧に飲まれ、騎士団は撤退。国は無くなったと考えていいはずだ」
喫茶店にわたしたち以外の客の姿は無い。
店主はカウンターの内側の椅子に腰を掛け、新聞を読み耽っていて、聞き耳を立てているようには見えない。
掛け時計の振り子がカチリカチリと小さく音を立てていた。
「で、<リムルの村>に北の王様が居ると。アルルを連れて行き、二人を引きあわせろってか」
「そこから先はどうなるか分からない。僕が首相に命じられたのは村まで行け、という事だけだ」
「〝霧の大魔〟って……あれだろ? ガリアンが千年前に倒したって言うバケモノ。神様やら世界が滅びるだとか。突拍子も無くて飲み込むのに時間がかかるな」
唇を尖らせてコルネリウスが言うが、彼の言葉はもっともだ。
茶でも飲んで話そうと入った喫茶店の隅っこで、世界の行く末に関わる深刻な事態をとつとつと語られて動じないというのは無理がある。
ビヨンはストローを歯で何度か噛み、コルネリウスは天井付近の花瓶を見つめている。と、彼は何かに勘付いた顏をした。
「あー……〝霧の大魔〟は神様なんだよな?」
「イルミナが言うにはね」
「で、神様は人間には倒せない、と」
「普通の人間にはどうにも出来ないって話」
何だか冒険小説や新聞の連載記事について、意見や感想を突き合わせている気分になってきた。
やはり話のお題が突拍子も無さすぎるのだ。受け止めねばならない事には違いないのだが、どうにも非現実刊が強い。
「はーん……なら、ガリアンは人間じゃなかったのかもな」
「どういう事?」
「いいか? あの童話――〝霧と聖剣〟を思い出してくれ。
ガリアンは現れた時にこう言った。『私は主神ランドールより、ひとつの使命とそれを成す力を授かった』ってな。
これはつまり、ガリアンは神様連中と面識があり、連中に何かをされたんじゃねえかって事だよ」
彼らしからぬ鋭い意見に驚きを覚えた。
飲み物に何か怪しい物でも混ざっていたのか?
「何も入ってねえよ! 何なら飲んでみろよ。ほら」
「いや、苦いし……。それで、ガリアンは神様に何をされたと思うのさ?」
「さあな」
返事は短く、実に簡潔だった。
彼は苦々しいコーヒーを一息に飲み干し、氷を噛み砕くと、
「ただ思っただけだよ。勘とか閃きとか、そんなようなもん。
だけどガリアンは普通の人間じゃない、ってのは間違っちゃねえと思うぜ?
〝聖剣〟を持っていたり、〝四騎士〟が仲間に居たりと条件は恵まれていたけどよ。
ほどんどが霧に沈んだ世界を解放し、物語の最後には神様――〝霧の大魔〟を叩きのめしたんだ。
普通の人間にはそんなことは出来ねえ。無理だと俺は思う。それにだな――」
矢継ぎ早に言い放つとコルネリウスは白い歯を覗かせてニカリ、と爽やかに笑った。少年のころ、将来描いた夢を語っていた頃と同じ眩しい笑顔で。
「――そっちの方が面白いだろ? 勇者に憧れた少年としては、よ」
◆
その晩遅く。
間もなく日付も変わろうかという夜の頃。都会の夜は賑やかで眩しいのだと、今更に思い知った。
部屋のカーテンは街灯の明かりを完全には遮れず、窓ガラスの向こうから酒に酔った男たちの鼻歌が聞こえてくる。なんとも賑やかな夜だ。
横のベッドではコルネリウスが大いびきを立てて寝入っていた。両手足をベッドの上に投げ出し、夢の中の冒険に繰り出しているのだろう。
一方でわたしは寝つけなかった。
疲労か、心配か、それとも旅の終わりを惜しんでいるのか。
「……あるいは胸騒ぎかな」
ベッドに腰掛け、足元に視線を向けると自分の胸を手で覆う。
この胸に走る大きな刀傷の由来は未だに知れない。だが、これはわたしという人間を成す上で大事なものであるという予感があった。
答えは得ていない。いつ得られるかの保証も無い。
しかし心の内で何かが言うのだ。
この傷こそ、わたしの起源……わたしが在る切っ掛けなのだと。
そっとベッドを立ち上がり、静かに扉を開くとわたしは廊下を歩き、宿のラウンジに落ち着いた。
暖炉に薪をくべて火をともす。
特等席のロッキングチェアには先客の黒猫が居て、彼――あるいは彼女――はわたしを見るやに床へと飛び降りた。自分は寝るから、火の始末はしておけよ。という意味合いだろうか。
赤い炎が起こり、薪を熱しながらにゆらゆらと揺れ始める。
いつか見た書には『星の海を頭上に望む高原で私は夜を明かした。薪に灯った炎は暖かく、火の先に遠い故郷を見た』と書いてあったことを思い出す。
「……父さんと母さん、それに妹、か。元気にしているかな」
春先に村を出たのが遠い昔のように思えた。
今はもう冬の足音が聞こえ始める頃になり、まだ一年も過ぎていないというのに十年や二十年も留守にしたような気持ちだった。
わたしの家族は元気にしているだろうか。
「夜更かしすると朝起きるのが大変だよ」
と、慣れ親しんだ声が背後から聞こえた。ビヨンだ。
彼女は寝間着の上に紺色のカーディガンを羽織り、暖かそうな室内履きを履いている。イルミナから手渡された魔法使いの大きな帽子は無く、薄い金色の長髪を背に垂らしていた。
「それはビヨンもだよ。寝なくていいの?」
「もうちっとだけね。明日で村へ帰るんだし、寝ちゃうのは勿体ないなって」
わたしは彼女にロッキングチェアを譲り、手近な丸椅子を引き寄せて隣に座った。
暖炉の中で火が弾ける音に、ビヨンの細い吐息が混ざり聞こえる。
「良かったね」とビヨンが言う。
「何がだろう」
「アルルちゃんが起きて。ううん、また会えて良かったねって」
「ああ……そうだね。すごく嬉しい。
再会の仕方は信じられないようなものだったけど。
だって、イリルからこっちまで転移したって言うんだよ? 父さんや妹に話してもきっと信じてくれないな」
「冒険小説でも書いたら? 話をどかどか盛れば、塔の経験だけで一冊書けそうだよ」
「文章は苦手だな。それはビヨンに譲るよ」
綺麗な緑色の瞳がわたしを向き、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「じゃあもっと冒険しないとだ。どうせなら大作を書きたいもん」
「ビヨンは旅は楽しかった?」
「とーぜん。色々あったよね。星を見上げる野宿でしょ。それに野草の鍋に、詐欺を喰らいそうになったりもしたね」
あれもこれも、とビヨンが旅の思い出を振り返る。
さすが記録をつけていただけあり、彼女は事細かに覚えていた。話を聞き、わたしも場面を鮮明に思い出す。
当時はどれもこれもが初めてのことで、対応に四苦八苦をすることも多々あったが振り返ってみれば何もかもが笑い話になるようなものだった。
「つらい思い出じゃなくて良かったね。全部楽しい、なんてすごいことだよ」
「ユーリくんとコールくんとの三人だったからだよ」
「そうなの?」
「そうなの。だって、二人と旅をしたら絶対に面白いって分かってたもの」
ふと。コルネリウスも旅の中でそんなことをわたしに向けて言ったことを思い出した。そしてわたしも……わたし自身も、二人と旅をしたかったのだ。
遠い世界を見たかった。
ひとりではなく、友人と一緒に。
「ねえ、ユーリくん。〝色〟は見つかった?」
「色……」
彼女が何の事を言っているのかはすぐに分かった。
遠い昔。コルネリウスとビヨン、そしてわたしの三人で霧の森に入った後のことだ。
村のベンチに腰掛けた彼女へと向け、わたしは自分に人生に何を求めているかを語ったことがある。
『僕は人生に〝色〟が欲しい。生きてるってことをもっと知りたいんだ』と、あの日のビヨンへとそう言った。
旅を終える今。あれから数年が過ぎた今。
わたしは胸を張ってこう言える。
「たくさんの〝色〟を見たよ。
青から赤まで色んな空の色。山から昇る朝陽。金色の平原。
たくさんの人の笑顔。酒場の喧嘩。失敗の悩み。
それからコールの兄貴然とした顏に、ビヨンの嬉しそうな顔。
この旅は本当に、とても楽しかった。生きて色々なものに触れるのは素晴らしいよ。
また……また、必ず旅をしよう。ビヨン、君は来てくれる?
その時は多分、コールと……アルルも一緒かもしれないけど」
わたしの旅の振り返りを聞き、彼女がどう思ったかまでは分からない。
けれど、彼女は嬉しそうな顔でわたしを見つめ、それから少しだけ目元を潤ませ、
「ずっとついてくよ。色んな所に行こう。……ありがとね、ユーリくん」
とはにかみながらに言った。
この時のわたしがどんな顏をしていたか。それはここでは語らないことにする。
ただ、真摯な気持ちを真っ直ぐに向けられ、平然とはしていられなかった。とだけ言っておこう。




