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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
六章『緋眼の王』
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073 こりゃ無茶だ


 懐かしい匂いがする。

 

 気が下向いた時や夢の中なんかでたまに香る、太陽と草の匂い。

 まだ自分が子供で、立場から逃げ回っていた小さい日の匂いだ。

 あたしはこの優しい気配がとても好きだった。

 

……これを最後に感じたのはいつだったかな。

 本当に懐かしい。もうあまりにも遠くて、二度とあの地には行けないとさえ思っていたのに、こうして意識させられると涙が出そうになる。

 

 ふと、彼がそばに居るような気がした。

 そんなこともあるだろう、と口元がほころんだ。何せこれは夢なのだから、何が起こったって不思議じゃない。

 ほら、そう思えば彼が現われたじゃないか。

 

 頬に風を感じた。まるで本当に南方大陸(リブルス)に居るようだった。

 どうせなら……どうせなら、記憶の彼に触れてみようと思った。

 寝起きみたいに野暮ったい真っ黒な癖っ毛。

 突然わしゃわしゃとかき乱したらどんな顏をするだろう。

 細かいことは気にしないことにした。

 夢なのだというのなら、何でもアリだ。

 




 人を生かす緑の農地! 命を抱く巨大な森林! 竜の背骨がごとき雄大な大山脈!

 マールウィンドが誇る、悠久の歴史を見守る大平原!

 頬に感じるはリブルスの風!

 すべてを眼下に収めたこの視点はまさに絶景と呼ぶ他ない!

 

「すごいよ、見なよ! 何もかもが一望できる!」

「どはーすげえな! って言ってる場合じゃねえんだよなあ相棒!?」

()ぬ゛う゛う゛う゛ぅ゛……グェ」


 光を抜けて脱出を果たした後、わたしたちは――他の皆もそうだったと思うが――地上ではなく、高度何メートルとも知れぬ空中に放り出された。


「あっ、鳥だ」


 渡り鳥の群れが眼下に見えるのならば、やはり相当に高い場所なのだろう。

 いやはやそれにしても絶景だ。マールウィンド連邦領内で最も高い場所と言われている、<イヴニル連山>の頂上に立ったとしても、連邦領の大半を占める大平原を丸々見渡せるような視点は得られないに違いあるまい。

 

「おい、ユリウス。お前の連れが気絶(おち)たぞ」


 吹き付ける風に髪をなびかせてシエールが言う。戦闘を終えて追いついたらしいが、装いに汚れは見当たらず、相変わらずの冷たい美貌だ。

 

「相棒、美人を眺めているところに悪いが、これははっきり言ってマジにピンチだぜ。この俺が冗談成分ゼロで言うんだからな」

「だからと言ってこれはどうしようもないのでは……」


 重力に引かれ、わたしたちは地上へ向けて刻一刻と急速に落下をしていた。

 夢だろうと思いもしたかったが、全身を打ち据える強風は現実そのものである。

 四肢を伸ばし、大空の空気を浴びながら、


「ねえ、コール。このままいくとどうなると思う」

「そりゃ机から落とした瓶やら卵みたいになるだろうよ」

「あっはっは、上手い。そういえばコールは酔っぱらうとよく物を落とすよね」

「ああもうだめだ。シエールさんよ、ユリウスはおかしくなっちまった。あんたは何か解決策を持ってないか?」


 話を振られたシエールは目を閉じ、真剣な面持ちで数秒考え、

 

「そうだな……こうなれば――」

「手があるのか!?」

「いや無い。諦めが肝心だ。まあ言ってしまえば私は何とでもなるのだが、王女がどうにかなるのは流石に不味いな。ユリウス、地上に当たる直前に王女を上へと投げろ。そうすれば衝撃が軽減される……気がする。何となくな」

「真面目な顔でアホ言わないでくださいよ」


 地上との距離はぐんぐんと近付いている。空より降る冒険者の一団の面々が、


「実は小さいころ星になりたかったんだ」

「おれは鳥になって世界を見たかった」

「酒さえ飲めばいつでも空を飛べる(気になれる)」

「また来世でな! 今度は西大陸(ローレリア)で産まれる予定だからよ!」

「そりゃいい。オレもそうすっかなあ」


 などとたわけたことを抜かしている。そのまま星になってしまえ。

 と、背中にずしりとした重さを感じ、次いで何かがもぞもぞと動き回った。


 はっとした。わたしとしたことが何てことを。

 高所から見下ろす世界の美しさに気を取られ、アーデルロールを背負っていたことを一時とはいえ忘れてしまうとは。


「ん……あれ、ここ……」


 耳元で懐かしい声がそう言い、

 

「外……? って! みぎゃああああああああ!? ど、どどどおおおおなってんのよおぉお!? 空!? 鳥に山!? あ、でもなんか綺麗。天国……グェ……」


 と両手で耳を塞いでもなお鼓膜をつんざく大音量をもってひとしきり叫び倒すと、アーデルロールは黙ってしまった。

 

「アルル? ねえ?」

「………………」


 揺すろうとも後ろ手に腰を叩こうともうんともすんとも言わない。

 また昏睡に戻ったりしたらたまったものではない。これがただの気絶であることを祈ろう。

 そういえばビヨンも気絶をしていたのだった。ビヨンの方へ視線を向けると、彼女は白目を剥き、空中で仰向けになり、重力に身を任せている。

 後で「すごい顏をしてたよ。例えばこんな――」と真似をしたら殺されそうだ。

 

 

 

 連邦首都<ウィンドパリス>が刻一刻と迫っていた。このままでは近郊の草原地帯に落着をしそうだが、草葉の上でも街路の上でも結果は変わらない。

 本当に笑えなくなってきた。麻痺していた恐怖が遅刻気味に顏を出しはじめ、必死に打開策を探したがどうにも手の打ちようがない。

 

 ちり、と。

 誰かの言葉を思い出した。

 そうだ、光を抜ける時に誰かが――、

 

「大丈夫……のはずだ」

「何だと? 俺が密かに信奉していた愛神ルピス様が助けてくれるとでも言うのかよ!?」

「メルウェンさん、あなたにそんな趣味があったとは……神頼みとはらしくないですね。それとも神にしか情愛を持てないんですか?」

「ほっとけ。それで?」


 脱出後の保護は万全です、と誰かが言っていた。

 の、だが。一体どんな手段でこの自由落下から身を守ってくれるというのか。見渡す限りでは誰も救出をしてくれそうにはなかった。


「――今すぐに証拠は示せません。自分が根拠もなく大丈夫だと言い放ってるイカレだというのも分かっていますが! どうにかなるんですよ! それにこうなっては身を任せるより他にないのでは!?」


 声を張った。耳元を風がごうごうと吹き抜けていて、大声を出さねば通じないのだ。


「まあな! しゃあねえ、信じるぜ! これでくたばったら来世はお前の背後霊になってやるからな!」

「そのまま無に還ってください」

「今なんて!?」

「何でもないです!」


 山脈の高さを下回り、立ち並ぶ風車へとわたしの体はぐんぐんと迫っている。

 アーデルロールはどうあっても目覚めない。こうなれば本当にシエールの言うとおりに、彼女だけでも助けるべきだ。

 体を結ぶロープをほどこうと指をかけようとしたその時、ダークエルフの美麗なる女が「まさか」と驚きを口にした。

 

「強力な魔法が広がるのを感じる。風……? 違うな、まさか……重力魔法か!?」

「何ですかそれ!?」

「〝万魔〟の見送りだということさ! さあ来るぞ――……備えろ!」

「っ!」

「ああ畜生、南無三――!」




 地上に激突をする寸前――正確には風車の屋根を過ぎた辺り――にわたしの体は不可視の膜につつまれた。

 それは見えざる蜘蛛の巣、あるいは見えざる巨人の手。正体不明の力がわたしと地上とのあいだに在り、高所からの衝撃を吸収し、消滅せしめたのだ。

 

「な、なんだこれ」

「浮いてる? いやさっぱり意味がわからねえ。どうなってんだ?」

「重力魔法による力場だろう。地上とのあいだに落下の衝撃を和らげる膜が存在するのだ……と言っても、体験するのは私も初めてなのだが。はは、すごいな、これは」


 手足は自在に動く。ただ体が空中で静止をしているだけだ。

 人間とは不思議なもので、驚きの熱が引くとすぐさまに疑問ばかりが頭に浮かんでくる。

 

「これ、どうやって降りるんですかね」

「……さあな。いっそ命じてみるか? 降ろしてくれ!」


 ぱしり、とシエールが平手を打つ。

 

「まさかそんな都合よ――っ!?」

「勘打ちのくせによく当たりますね!?」


 景気の良い音を拍子に、わたしたちを支えていた力場はぱっと消え、今度こそ本当に地上へと落着した。

 はるか上空からではなくなったものの、今度は風車のほぼ天辺からの落下。並の一軒家の五階分は優にある。気持ちがぞっと冷えたのは大目に見てほしい。

 他の面々は好き勝手に着地をしようとしていたが、アーデルロールを背負っている以上、わたしは背中に負担をかけられなかった。

 

「ぬっ……ぐ……やるぞ、やるぞ本当にやるぞ!」


 両脚にありったけの力を込め、次いで覚悟を決し、かかとで大地を踏みつけた。

 足先から腰へと衝撃が稲妻となって走り、形容しがたい痛みに歯を食いしばるばかりである。


 着地の勢いは止まらない。

 余勢のままにもう一度体は浮かび、膝から地面に倒れ、うつ伏せのままでザリザリと大地に体を擦った。

 

 背中には本当に気を遣った。これでお叱りを貰いでもしたら、さすがのわたしも気落ちをしてしまいそうだ。

 

「もうこんな体験はしたくない……」

「上じゃあ絶景に興奮しまくってたとは思えないゲンナリ具合だな。相棒、立てるか?」

「なんとかね。ありがと、コール。ところでビヨンは?」

「いいってことよ。ビヨンならまだくたばってるぜ。あっちで魔法使いの女が面倒見てる」


 親友の差し出した手を掴み、震える膝を誤魔化しながらに立ち上がる。

 アーデルロールの意識は未だに戻ってはいない。「うんうん」とうなされている声が聞こえるからには、放っておけば起きるのだろう。

 

「俺が背負ってもいいぜ?」

「いや、これは僕がやるよ。お願いだ」

「気が多い男は苦労するって言うけどな。ま、相棒の頼みなら断れねえな。相談ならいつでも聞くからよ」

「何の相談をするのさ」

「そりゃ恋の……っ!? おい、空見ろ! 空!」

「空? ……なんっだこれ……?」


 頭上には見慣れた空があるはずだった。

 昼には青空が広がり、夜には満天の星を見ることの出来るいつもの空。

 

 けど、今はそんなもの――どこにも見当たらない。


 墨を溶いたような黒々とした雲がいくつもうねり、それらは互いに絡み合い、ドロドロと雷鳴を轟かせている。

 時折雲の切れ間に溶岩のように赤い筋が走り、竜の叫びにも似た甲高い雄叫びが辺りに響き渡った。

 特にわたしが驚きに目を見張ったのは、雲と地上とのあいだに出現をした緑色に発光をする光のカーテンだった。

 

「オーロラ……」と誰かが名称を言葉に乗せる。


 オーロラは空の果てまで続き、てらてらとした燐光をただ静かに放ち続けている。

 

 異様だった。

 間違いない。この世界に何か、重大な出来事が起こったのだ。

 それはルヴェルタリアと〝大穴〟、そして〝霧の大魔〟に関連しているという確信がわたしにはあった。

 

 そして誰かの霧の探知機(ミストベル)が警報をがなり立て、

 

「ここに居るのは危険だな。今、この時の霧に捕まるのは非常にまずいと判断する」

「同意だな」アギルが体にまとわりついた葉を払い、「幸い<ウィンドパリス>が近い。とっとと走って逃げ込もうとしようぜ」


 誰にも異論はなく、わたしはアーデルロールを、コルネリウスはビヨンを担ぎ、霧の気配を背に感じながらに一目散に駆けだした。

 

 

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