072 離さず駆けろ
書物が山と積まれた寝台から、ありとあらゆる邪魔な荷物を次々に取り除き、ようやくそれらしい姿を取り戻した寝台の上へとアーデルロールをそっと寝かせた。
十五歳の少女らしい背丈に、艶色の良い若草色の髪。間違いなく彼女はアーデルロール本人だと、わたしは確信をしている。
彼女はまぶたを閉じ、深い呼吸をしながらに眠っていた。
光の粒子から人の姿へと変わり、書庫の床上に現れた時から一度も目覚めてはいない。手を握り、名を呼んでも何の反応もしめさなかった。
焦りの中にあるわたしの頭をよぎったのは、よりにもよって眠り姫の童話だった。
こんな時に幼いころの妹が好いていたおとぎ話を思い出すのはどうしてだろう。さんざん読み聞かせをして、文言を憶えてしまったからか? と、内容を思い返し、あらぬ想像に胸が締め付けられるようにきゅっとした。眠り続けた姫が目覚める、その切っ掛けを思い出せば尚更に。
……もしやこのまま寝かせているだけでは目覚めないのだろうか。
まさか、あれをしないといけないのか? だと言うのであれば、最後の手として実行をしないわけにはいかないのだが、しかし確証が無いままに――、
「よお、何とかっつう人形さんよ。なんだってアルルの奴は眠ったままなんだ? まさかこのままってわけじゃねえんだろ」
腕を組み、じっと黙ったままだったコルネリウスが不意にエリシア三号へと尋ねた。彼女はアーデルロールをじっと見つめると、やがて羽をはためかせて寝台の上へと乗り、アーデルロールの首や側頭部に触れて、
《昏睡状態だと判断します》と短く告げた。コルネリウスが片眉をぴくりと上げ、
「ウソだろおい。昏睡って……あれだろ? 眠り続ける……どうしてだ?」
《空間転移を完全な形で完了する事が出来なかったのが原因かと思われます。申し訳ありません、緊急を要する事態でしたので……転移をした際に身を覆った、強力かつ古い魔力がこの方の中に残り、それが覚醒の妨げとなっているようです。千年前には<転移事故>として稀に発生していた事例によく似ています》
押し黙ったまま話を聞いていたわたしだが、頭の中ではイヤな想像が巡っていた。
深い眠りに落ちたアーデルロールが目覚めることなく、墓所のように静かなこの書庫で夢に囚われ続ける場面を描いてしまった。
昏睡……または意識障害。
頭を振って悪夢じみた妄想を散らした。
そんなことは嫌だった。わたしは彼女ともう一度出会い、言葉を交わしたいのだ。
「どうすれば目覚めるのですか?」わたしは言った。表情に焦りを浮かべていない自信はある。
《安定した現代の魔力が存在する場所へと移動すれば、じきに意識を取り戻すでしょう。具体的には塔の外――外界ですね。なにぶんここは古い場所ですから、内包した魔力も少々淀んでおりまして。彼女のみならず、皆様にも何かしらの健康被害が出ないとも限りません》
冒険者の悲鳴が聞こえた。彼は水筒をひっくり返し、書庫を流れる川に中身をぶちまけながら、
「おい、怖くなるようなことを今さらりと言わなかったか? おれたちはここの水をたらふく飲んじまったぞ!?」
《あらあら。運が良ければ何事も無く、しかし悪ければ……もうやめておきましょう。死は万人に訪れるものですから》
わたしはビヨンの顏を見た。彼女の顏はやはり青ざめており、先ほどの入浴はまずかったのだろうと考えているに違いない。
今更『入らなければ良かったね』と言うのはゲンコツものだな。『過ぎたことだし、後は天に任せよう』ああ、これはいい。よし。
「気にしても仕方ないよ。運が良ければ助かるってさ、やったね、ビヨン」
「――この冷血漢!」
「いてえ!? 何で俺だ!? 何も言ってねえだろ!?」腿を殴られたコルネリウスが吼える。
「ごめん、ついうっかり間違えて」
「ああそうかよ。折角だからここで脳の具合を診てもらうといい。ウソウソウソ、悪かったって」
わたしは寝入ったままのアーデルロールへちらりと視線を向けた。
この賑やかなやり取りの中に彼女が居たら、何と言ったかな。少女のころのように強気で自信に満ちた物言いをするのだろうか? それとも王家の人間として過ごした年月が生来の性格に勝り、大人しく、柔らかな言葉を口にするのか。
楽しみでもあり恐ろしい。まるで封を開ける前のプレゼントのようではないか。
「エリシア三号」と、シエールが口をきいた。「お前はここを出ろと言うが、どうにも出口が見当たらない。私が命じた出口作成の進捗はどうなった?」
《間もなく完了します。場所は上階、天文台です。皆さまが支度をなさっているあいだに作業は終了するものかと――》
じりりりりり、と鐘を激しく打ち鳴らす音が響き渡った。
まったくの不意打ちにビヨンは小さく飛びあがるぐらいに驚き、目を丸くして辺りを見回す。
「な、な、なんの音!?」
「霧の探知機とは少し違うね。エリシアさん、これは?」
《……霧の侵食警報です。霧が外壁を押し破り、塔へと入り込みました。時流を同期し、北方を観測したのがまずかったのでしょう。予想はしておりましたが、しかしこうまで速いとは……》
むむむ、と彼女は小さな顏を難しげに歪め、
《皆様、無理を承知で申し上げますが今すぐにここをお発ち下さい》
「何? まだ準備にも取り掛かってないぜ?」
《財布に保険証、それと衣服があれば十分でしょう。塔は今より独立時流への退避行動に入りますので非常に! とても! 相当に! 危険です。ささ、お急ぎを》
危険だとやたらに念を押され、聞かないでいいのにどうにも気になってしまい、わたしは言った。
「一応聞いておきますけど、それに巻き込まれるとどうなってしまうのでしょうか」
《死にます》
「えっ?」
《別時流へと合流する際に接触、発生するエネルギーの衝撃波に、生身の人間は決して耐えられません。その上、今回は不完全な状態で行う緊急の退避行動ですから、施設のあちこちで爆発の二十や三十は起こり、それに巻き込まれて皆様方の半分以上は木っ端みじんになります》
「間違いなく?」
《間違いなくです。どうですか、死にたくはないでしょう! 荷物をまとめて脱出なさい!》
声も高らかに言い放ったエリシア三号の言葉を皮切りにして、皆が大慌てで身支度をはじめた。コルネリウスは「俺は疲れてねえからお前らの荷物を貸せ」と言うやに、わたしとビヨンの荷物を担いでみせる。
決して軽くはないというのに、なんという気概だ。今だけは真に男前に見えてならない。生還したら酒の一杯でも奢ってやるとしよう。
「そんなに持って大丈夫? ここで拾った物だって山ほど入ってるんでしょ?」
「ありゃ捨てた。欲張って逃げ遅れたら元も子もねえしな。だろ?」
「コールくん……成長したね……!」ビヨンが口元に手を当てて感激の声をあげる。
「おう、これで人並みだよな……なんて言うかよ! 俺だって人間だわ!」
少しいいか? と、シエールが現われた。横にはメルウェンが立ち、彼は地響きに震えはじめた床に視線を注いでいる。
「その少女はルヴェルタリアの第二王女、アーデルロール姫殿下だな。お前、彼女とは知己だったのか?」
「ええ。隠すつもりは無かったのですが、話す機会も無く……」
そうしてアーデルロールとの馴れ初めと同時にわたしは自身の幼少期を語った。長くは話さず、肝心な部分だけを淡々と。
聞き終えたシエールは褐色の頬を白いグローブの指先で悩ましげに何度か擦り、それから青い瞳でわたしを見据え、
「ユリウス、アーデルロール姫はお前が背負うといい。自覚は無いようだが、なに、自身の心に気付かない愚かさというのも若者の特権だったな。ふふ……彼女を離すなよ」
「そのつもりです。剣も盾も無い身ですから、せめて何かしらの仕事はしたいと思っていました」
「むう、お前、意外と朴念仁だな……それとも装っているだけか?」と、シエールは何事かを思いついたようで、「剣……剣、か。メルウェン。お前、まだ長剣は握れないのか?」
「残念ながらな。まだ取り戻せてねえんだ。握れるのはナイフや短剣がギリギリ。長剣を握ろうとすると手がぴくりとも動かなくなる」
まったく厄介なもんを喰らったな。メルウェンは自身へ向けてそう皮肉げに言い、わたしが質問をするとでも思ったのか、話の向きと場の空気を一挙に切り替えるようにして平手を打った。
「さあ、とっとと出ようぜ。アギルの旦那! そっちの連中はどうだ!?」
「こっちも万全だァ! いつでも行けるぜ!」
「そりゃ良かった。おい、墓荒らしどもに要らん荷物は捨てさせろよ? 走れなくちゃあくたばっちまうからな」
墓荒らしとは……一体どの口が言うのか。わたしがじっとりとした目つきで彼を見ていると、視線に気づいたメルウェンがニヤリと笑い、懐から純金の輝きを放つネックレスを取り出して、
「本物は一番価値のあるもんだけ盗む、ってのがおれの持論でな。抜かりねえよ」
実に嬉しげな顔でそう言った。死者の祟りというものがあるのなら、この男にはいつか下るに違いない。
◆
背負ったアーデルロールの体は非常に軽かった。わたしが肉体を鍛えていたから、などという話ではない。どう言い表せば良いだろう。彼女の体重は無に等しいほどでいて、耳元で呼気が聞こえなければ存在さえしていないと思えるほどに彼女は希薄だった。
何があろうと離れることのないように、互いの体を携帯用のロープで結ぼうと手を働かせているわたしへとエリシア三号が出し抜けに言う。
《彼女はここに居ますが、同時に居ないとも言えます》
すぐそばでブブブブと羽音を立てながらに何を言うのか。そもそも心を読まれたような気がして落ち着かない。手でしっしっと払っても彼女は離れず、根負けしたわたしは、
「謎を解くほど暇ではないのですけど……つまり?」と彼女へ言った。
《存在が安定していないのです。要因は魔力と魂、肉体の構成うんぬんの小難しい話になりますが、これを今口にするととんでもなくイヤな顔をされそうなので止めておきます》
賢明だ。
《つまり……彼女を軽く感じるのは不完全な転移が影響です。現在の昏睡状態と同じですね。外へと出れば何もかもが元へ戻ることでしょう》
「それを聞けて安心しました。あなたも来るのですか?」
《はい。私が居ないと出口の扉は本当の意味で開きませんので。さあ、参りましょう》
星紋の描かれた扉を抜け、上層へと続いているという螺旋階段を生き残った皆で駆けのぼった。
時折コルネリウスが心配の声を掛けてくれたが、アーデルロールの体重を感じないからには普段階段を利用するのとまるで変わらない。
《見えました。天文台です》
エリシア三号がそう告げ、わたしたちが辿り着いた扉は要塞の門扉のように重々しかった。
扉の中央がきらりと光り、明け色の筋が扉の縁を象るとひとりでに開きだし、豪奢な広間が目に飛び込んだ。
円形の天蓋は夕刻の空の色であり、中央に設置された一軒の家ほどもある巨大な望遠鏡はどこか虚空を向いている。
人工の空はやはり本物のように動いていて、刻一刻と形を変える大きな雲からどうしてか目を逸らせなかった。
りん、と鈴が鳴る。真っ先に剣を抜いたのはシエール・ビターだった。
「エリシア、出口はどこにある」
《ホール通路の最奥になります。今案内線を……》
足元の床に青白い光の線が浮きあがり、広間の遥か奥へとわたしたちを案内するように真っ直ぐに伸びていく。
「やべえぞ! 霧だ!」
誰かの叫びに振り返ると、開け放たれた扉から灰色の霧が現われていた。
霧は不定形なものだが、この時ばかりはわたしたちを逃がさんと迫る魔の手のように思え、同時に〝霧の大魔〟の名を連想せずにはいられず、戦慄をおぼえた。
《迷わずに走ってください。さあ!》
遠くから幾重もの馬のいななきが聞こえる。あの怪物の群れが押し寄せてきているに違いない。
「行け、ユリウス! 王女の命は今や世界と等しい重さやも知れん。振り返らずに真っ直ぐに走り抜けろ」
「『でも』だの『しかし』は面倒くせえから止めとけ。シエールの指示を聞かねえと後が怖えぞ? この場で最も重い命は、掛け値なしにその王女さんだからな。お前はそいつを運ぶ馬ってわけだ」
「メルウェンの言葉選びについては何も言わないことにしておこう。彼女を外へと連れ出すのはお前の役目だ、ユリウス。仲間の二人も先に行け、外で会おう」
シエールとメルウェンの二人……どころか他の冒険者までもが得物を抜いて、「すぐに追いつくからよ! 出たら酒でもおごってくれや!」などと意気も盛んに大きく出ている。
こうまで言われて踏みとどまるのは正直に言って無粋だろう。いくら鈍い者でもそれぐらいは分かるさ。
「分かりました。ではお先に。コール、ビヨン、行こう!」
「ありがとうございます! また後でお会いしましょう!」
「おう! おっさんたち無茶すんなよ!」
言ってコルネリウスはわたしを見た。いつになく真剣な顔で、
「短い距離で、こんなことを言う必要もねえだろうが一応言わねえとな。アルルも大事だが、今の俺にとってはビヨンとお前が何より守らなきゃならねえもんだ。頼まれたってのもあるんだが、何より親友だからな。こっから先の背中は任せてくれ。んじゃ行こうぜ!」
「えっ、ちょ、何を急に――」
さあさあ、とコルネリウスが背を叩き、わたしたちは駆けだした。
青い光に沿って硬質な床の上を走り、背中で戦闘音を聞き、目線は出口だけを真っ直ぐに見つめた。どうあろうと見つめ続けた。
コルネリウスが不意に叫び、槍を振る素早い音が聞こえ、「構わず走れ!」と彼が言う。
わたしは振り返らなかった。
背中のアーデルロールは軽いが、彼女は生きている。伝わる体温は温かく、耳に届く呼気は彼女がここに居る証だった。
真っ白な光が通路の奥に見える。
一歩が遅い。もっとだ、もっと早く走らなくてはいけないというのに。
時間がやけにのろく思える。待ち遠しい瞬間というのはいつもそうだ。
そう最後に思ったのは……いつだっただろう。
何だっていい。わたしの足がもうすぐ光に届く。
一歩、二歩。
そして一切が光に覆われる。
五章『古き緑』了




