071 約束の瞳
間を置いて再開された映像はひどく不鮮明なものだった。
写真の表面に汚泥やちりを擦りつけでもしたように画は激しく乱れていて、時折に砂嵐が吹き込んだようにざらついた。
映像それ自体もひとつひとつの尺が短くなり、それぞれがおよそ一分前後で次の場面へと切り替わっていく。その様子は走馬灯か、あるいは小説のページをデタラメにめくり読むようなチグハグさ。
白と灰の山肌、凍りついた湖、誰かの私室、大木の幹をくり抜いた玉座――見間違えるはずがない。これはルヴェルタリア王の玉座だ――といった場面を何度か映すと、場面はふたたび雪原へと戻った。
《外界時流へと戻りつつあります。これは……今朝のものです》
「難しい話はさっぱり分からねえが、何やら俺たちゃとんでもねえ遺跡に来ちまったのかも知れねえな……」コルネリウスが誰にともなく呟く。
時刻は早朝。雪原には相変わらず霧が立ち込めていて、吹き込んだ風に霧がふわりと揺らぐと、空虚な白色の上に倒れ込んだ魔物の亡骸とうずくまった騎士の姿が見えた。
続けざまに彼方より雄叫びが聞こえ、そして激しい戦闘音を映像が拾った。
まだ戦いは続いているらしく、誰かの『優勢だ。このまま押し潰すとしよう』という喜びを隠しきれない声音が聞こえた。
ここで映像がまた途切れ、つま先で床を何度か叩くと映像が再開した。
映しだされた光景は……同じ場所とは思えないほどにおぞましいものだ。
時刻は正午。たった数時間でここまで死に果てるとは。
「これは今と同じ場所ですか?」
《同一の地点です。座標は一致しています》エリシア三号がわたしの問いに答えてくれる。
正直に言ってこれは……正視しがたい。何が原因かは知れたものではないが、霧がほんの少し薄まっているせいで雪上の状況がよく見えてしまう。
屍山血河。
騎士も獣も、それぞれが等しく死に迎えられている。大勢は既に決したのだろうか。半ば無念の心で光景を見ていると、魔物の死骸の数は人類に比べて倍も多いことに気が付いた。
視点が回り、雪上で剣を振るうルヴェルタリア軍の姿が視界に入る。彼らは銀の大波となって魔物を食い潰さんとし、一気呵成の勢いで攻勢をかけていた。
魔物の軍勢はもはや大海原に取り残された島のように心細いものでいて、わたしの目には勝敗は既に決していると見えた。そして、戦の局面は詰めの掃討戦に踏み込んでいるとも。
「大噴霧なんつうから焦ったが、さすがはルヴェルタリアの騎士団よな。よくもまあ山のような魔人やら龍に突っ込めるもんだ」
「まさか負けるんじゃねえかとも思ったがおれが小心者だっただけらしい。はは、魔物の野郎、とっととあの世に行っちまえ」
「見ろよ。〝魔導〟のドラセナの大槍だ。最後は〝四騎士〟の派手な魔法で蹴散らそうって腹積もりらしい」
楽観的な荒くれ共がわたしのすぐそばで言う。軽い調子だな、と思わなくもなかったが、この映像で肝心なのは大噴霧に際して現われた魔物の軍勢を相手に、ルヴェルタリア軍が勝利を収めた――正確には収めつつ、だが――ことだ。
ルヴェルタリア王城の方角の空に、黄色い光がいくつか瞬いた。
魔法の徒、知恵を求める者、堕ちたる魔人。
いくつもの名を持つ最高位の魔法使い。
〝四騎士〟の四席に名を飾る〝魔導〟のドラセナ卿の放った高位の魔法が、遥か彼方の王城より戦線へと飛来する。
雷の矛先は地上へ向き――……ルヴェルタリア騎士の軍勢の中心へと降り落ち、轟音とともに爆ぜた。
◆
「え……?」
呆然とした戸惑いが誰かの口から漏れた。わたしか他人か。答えは分からない。
電光の雷。その一撃は銀色の波の中央にぶち当たり、多くの騎士を紙切れかゴミのように軽々と吹き飛ばした。
雷はふたつ、みっつと続き、着弾し、衝撃波を生む度に騎士たちが悲鳴とともに転がされていく。
整然としていた戦列はもはや無い。裏切りの槍が落ちた地点は黒ずみ、物言わぬ死者が増えていくだけだった。
「――……おい、どうなってやがる。ドラセナはルヴェルタリアの騎士だろうが! 何だってこんな狂った真似をしてやがんだ!?」
「あの女は狂人だ」
眉根をひそめたシエールが言う。彼女は腕を組み、難しい顏をして、
「人間の扱い得る魔を極め、しかしそれでも足りぬと考えて己の胸に竜族の心臓を移植するような女だ。果てに自我が崩れたか、あるいは狂気に飲まれたか」
と、雨のように飛来する雷を鷲掴み、怒気を露わにする騎士の姿があった。
蒼氷の長髪をたなびかせ、拳を突きだした巨人――〝巨人公女〟が雷の大槍を握りつぶす。彼女は王城を鋭く睨みつけ、殺到する雷の嵐を太陽のごとく輝く拳で砕き、大剣で払い始めた。
『白木の忌子めが……人になれと躾けたつもりだったが、やはり狂ったな』
そして映像の視点が動き出す。
メルグリッドの強壮な巨躯のそばをすり抜け、騎士らの戦線を超え、再び戦意を高揚させ始めた魔物の群れのあいだを視線はくぐり抜けていく。
その速さときたら空を駆ける鳥のように素早く、映像はやがて〝大穴〟の前へと辿り着き、ある一人の騎士の姿を注視し始めた。
その騎士は無数の獣をたった一人で相手にしていた。
三対六本の多腕の魔人、あるいは三つの頭を持ち火炎の息吹を吐く地獄の猛犬、あるいは山ほどの大きさの骨の巨人、あるいは影に潜む龍、あるいは雲海に棲む大羊。
相対するには大勢の軍が必要に違いない脅威の群れ。それを前にして騎士は孤独に、一振りの剣とただひとつの盾を頼りにして戦っていた。
軽く振るわれた剣が十の魔物を二つに断ち、腰を落とし、突きだした刺突は百の魔物を死に至らしめる。
疾すぎる剣、鋭すぎる刃。殺意に震える獣に少しの抵抗も許さず、騎士はただ無言で斬り潰していく。
わたしは――わたしたちはこの騎士を知っている。
背になびく深紅の外套。人智を越えた剣力の騎士。
「――……〝ウル〟」
世に最も鋭き刃、世界最高の力の主、武の化身を見間違えるはずもない。
〝ウル〟が視界一面を覆っていた獣の群れを掃討するのはあっという間の出来事だった。彼は息を乱した様子もなく、剣を抜いたままで立ち尽くしている。するとどこからか霧が現われ、彼の銀鎧を包むように取り巻きはじめた。
〝ウル〟は黙ったままで身動きひとつさえ――と、不意に彼が顏をあげた。
頭部は騎士兜で覆われていて表情は不明だ。それでも彼がルヴェルタリア王城の方角へと顏を向け、見据えていることははっきりと分かった。
『陛下……!』
しわがれた、あるいは疲れた声で短く彼は叫んだ。
続けざまに剣を振る。すると彼は周囲の霧を払った。
その様はあまりにも伝説的で、奇跡的だった。誰しもが脳裏に思い描いたのは古い英雄の逸話――……〝霧払い〟のガリアンの伝説に違いない。
彼の剣によって濃霧は残滓さえも残さず、ことごとくに掻き消された。続けて〝ウル〟はその場に膝立つと力を溜めこみ、目に見えぬ力に赤い外套が震え、そうして瞬時に消失した。
映像には死骸の山以外何も映ってはいない。
局地的ではあったがここに霧は無く、丸く切り取られた青空が頭上に見えていた。
◆
《外界時流との同期を完了しました》
「……つまり、ようやく本当の外の世界が見えるということか」
《そうなります》
「そうか……続きを頼む」
驚きが冷めやらぬままに映像が切り替わる。
室内――白を基調とした大広間だ。平時ならば壮麗なのであろうが、今現在ではあちらこちらに人が倒れ、白の上にぶちまけられた赤い汚れがひどく目立っていた。
誰かの悲鳴が細く聞こえた。
もしも、だ。これがルヴェルタリアの王城だとして……霧が噴出したというあの、騎士国の城だとして。これは、もう……。
《……緊急の事態が発生しています。マスター・エルテリシアからのオーダーを実行。対象の保護へ移ります》と、出し抜けにエリシア三号が言う。
視点が大広間を抜けていく。すると階段を登った先、細い通路の奥に二人の人間の姿が映った。
この時のわたしが得た感情というものは言葉では到底表現できないだろう。
驚き、喜び、憤り。三つの感情が一斉に沸き返り、知らずのうちにわたしは彼女の名を口にしていた。
「――アルルッ!」
忘れもしない若草色の髪、華奢な体、年相応に伸びた背丈、意志の強い顔立ち、一時たりともこの胸を離れない朝焼けの色の瞳。
間違いない、アーデルロールだ。彼女が居る。
アーデルロールは革鎧に身を覆い、手に剣を握ったままで壁を背にしていた。
瞳には憎しみと敵意があり、迫る男を――……赤い外套を羽織った銀の騎士、〝ウル〟を睨み据えている。
『貴様……〝ウル〟……!』
彼女は〝ウル〟へと剣を向けた。その先はわずかに震えている。まるで彼女の動揺が見えるかのように。
『ドラセナに続き貴様までもが……。何故……何故だ? あなた程の忠臣が、あなた程の騎士が何故! 今この時に我らを裏切った!?』
『王女殿下。ここは危険です。どうか私の手をお取りください――さあ』
〝ウル〟がガントレットを装着したままの手をアーデルロールへそっと伸ばす。それは彼女の怒りを煽るようなものでいて、アーデルロールは逆上さながらに〝ウル〟を斬りつけ、怒声をあげる。
『ふざけるなッ! 父を斬った逆臣が私を救うつもりか!? その首、今この場で刎ね飛ばしてくれる!』
『殿下。参りましょう』
アーデルロールの握る剣が突然四つに割れた。断面は鋭利であり、まるで剣で断ったように……だが〝ウル〟は剣を振ってはいない。あるいはわたしに見えなかっただけか。
〝ウル〟は淡々と歩み寄り、アーデルロールは一歩だって退いてたまるかと、キッとした顏で騎士を睨んだ。握り締めた拳は震え、彼女の心痛と得体のしれない恐れが手に取るように分かり、わたしは彼女の危機にどうとも出来ない己が恥ずかしく、悔しさに奥歯を噛み潰さんばかりだった。
甲冑に覆った手がアーデルロールの細首へ伸びる。彼女の身体が軽々と宙に浮き、両手で鎧を殴りつけるが〝ウル〟はぴくりとも動じない。
『が…………っ、く……っそ……絶対に……さない……!』アーデルロールの顏が苦悶に歪み、『……ユ……リウス……』と彼女が苦しげに名を呼ぶ。誰あらん私の名を。
決壊した。わたしは身を乗り出し、手の平に爪が食い込むほどに拳を握りしめ、力の限りに彼女の名前を何度も呼んだ。
「アルル! アルル! 畜生……ッ! アルルッ!」
遠く離れたこの遺跡で何を叫ぼうとも現実は何も変わらない。
映像の中は何も変じず、〝ウル〟は彼女の首を押さえている。
《血筋の危機を検知。塔内魔力炉の駆動制限の解除を申請》
エリシア三号が早口で文言を口にしている。わたしにそちらを見る余裕は無い。
《申請……受理。魔力炉イル、ドゥリ、バーラの三基を解放。空間転移陣の遠隔起動を開始します。魔力阻害要因の打破…………完了。カウントを開始。三、二、一……》
実行。
アーデルロールの姿が突然に光に覆われた。つま先から頭へと段々に光となって彼女の姿がほどけて消え、最後には完全に映像の中から姿を消した。
〝ウル〟が何かをしたのか、とわたしは焦った。だが――どうやら違う。
『ああ、また……』
ぞぐり、と。
直前までアーデルロールがあった壁が前触れもなく大きく抉れた。まるで見えざる巨人が壁に拳を撃ち込み、力尽くで剥いだかのように。
誰も居なくなった大広間に〝ウル〟が立ち尽くす。背には哀愁か、怒りか、それとも何も感じていないのか。何かしらの感情があるように見えたが何にも触れられない。
すると〝ウル〟がゆっくりと振り返った。
騎士兜の面は映像の視点を正確に向いている。視点が急速に背後へと引いていく。危機を前にして逃げ出す様に似ている。
距離がどんどんと開いていく。呼吸ひとつのあいだに、奴が豆粒のように見える距離まで視点は後ろへと下がり――、
『お前が居るのか?』
〝ウル〟の姿が現われた。彼我の距離を跳躍……いや、その更に上、転移をしたとしか思えない圧倒的な速度をもって奴は移動を果たした。
そして視点は真っ黒に潰され、何も映さなくなり、エリシア三号は《観測器が破壊されました。信じられません》とわたしたちに告げた。
驚くような物事をいくつも前に並べられて、すぐさまに飲み込むというのはどうにも難しい。人生経験を積めば違うのだろうが、わたしはまだその域には及ばない。
そも、今もっとも気になるのはアーデルロールの行方だった。
彼女の体は光となって消えた。死んではいない、それだけが救いだ。
だが一体どこに?
わたしの呼び声に何かしらの祈りや効果があったのかは知れない。
足元に光の粒子が集まり、それは段々と人の足、腰、胴体、頭の形に固まると、
「……まさか。こんな事があり得るのか」
若草色の髪をした女性――アーデルロール・ロイアラート・ルヴェルタリアの姿へと変じた。




