067 霧の女
胸が温かい。心臓が鼓動を打つたびに温かな血が流れ、倒れたわたしを中心にして赤い液体が広がっていく。
立ち上がろうと力んだが、痙攣をするように腕が震えるだけだった。視界の中で騎士の具足が動き、金具が鳴る。
やつはわたしを仕留めた事実と胸を裂いた剣の感触に歓喜、興奮をしているらしい。兜から漏れ出る息はふうふうと荒々しく、喜びを噛み締めるようにじわりじわりと一歩を踏みしめている。
「まさか、身に覚えのない罪で死ぬとは……思わなかったな」
どうにもならない。ここで終わり……本当にそうなのか? 反骨心が首をもたげ、闘志の炎がちらりと揺れる。
盾はひしゃげていて、剣は半ば辺りで無残にへし折られた。
武装は無く、魔力も消耗している。打てる手はない――……だからといって諦めていい理由にはならない。
拳を固く握り締め、両の瞳にありったけの魔力を集中させる。わたしに残された最後の手にして切り札――〝紋章〟。
正直に言ってこの力のことを、わたしはほとんど知らない。唯一知っているのは、一度発動をすれば圧倒的な力を得られるが、代償としてわたしは自分の肉体の主導権を何者かに譲り渡すことになる。
〝紋章〟を使用している最中の記憶は一切失われる。わたしには〝紋章〟を振るった後の結果を知ることしか出来ない。
自分を失い、自分が何をしたかの記憶が存在しないというのは非常に恐ろしいものだ。可能ならば〝紋章〟を使うことなく困難を乗り越えていきたいと、そう思っていた。
しかし……現実は厳しい。わたしはこうして打ちのめされ、無様に突っ伏し、死に瀕している。
『再会するまで死ぬんじゃないわよ』
起き上がろうと両腕で体を起こすと脂汗が顏に浮いた。苦痛の中、遠い夏の日に見たアーデルロールの笑顔がふっと蘇る。
「……アルル……」
生きねば。
どれだけ無様でもいい。何が何でもこの場を生き抜いてやる。
誰かの声がわたしの中でざわめいている。瞳に魔力が集うにつれて、山羊の鳴き声がどこからか聞こえてくる。
………………
…………
……
『――……雲海の玉座を護りし偉大なる雷龍、トーリベルドよ。
契りを結びし朋友の声を聞き届けたまえ。
我が杖が指し示す者は是、雷鳴と雨を侮る驕慢の者なり。
雷と節制の化身――知神に愛されし霊峰の翼、トーリベルドよ。
御身の大雷をここに――……雷の第五階位。<虚空灼きし雲海の大槍>』
周囲一帯の空気が灼け、濃密な気配が場を潰した。
手で顏を覆う間もない。突如として現われた巨大な魔力は階を地震のように鳴動させ、頭上に生じた黒雲は身の内でどろどろと雷鳴をとどろかせている。
あらゆる疑問が電光となって頭を巡ったが、一際まばゆい、白熱した光が視界を焼き尽くし、思考が吹き消えてしまう。
落雷の炸裂音が一帯を震わせた。鼻先に雷が降り落ちたような轟音に身はすくみ、発生した衝撃波に、わたしの瀕死の肉体が転がされていく。
おぼろげな視界。その中に黒焦げに燃え尽きた騎士鎧を見た。
圧倒的な熱によって灼き尽くされている。かろうじて銀色を見せていた鎧の表面は黒ずみ、まとっていたボロ布などは焼失していた。
この騎士はどう見ても終わっている。
肉体の首回りより上を吹き飛ばされて活動できる人間は居ない。それも……あれが人間だったなら、の話だが。
「一体……っ、ごほ……誰が……?」
こみあげるものを感じ、吐き出すと血の塊が口よりあふれた。
脱力感はひどいものだったが、体はどうにか動く。亀よりも鈍い動きだが壁にでも背中を預けて身体を休め、回復魔法で傷を癒し続ければ少しは回復するはずだ。
何故だか笑いがこみ上げ、くつくつと自嘲する。わたしは何を根拠にして回復する、なんて考えたのだろうか。相変わらず胸の傷からは血が流れ、体の前面は変色しているというのに。
まあ……どうにかなるだろう。考えるのをやめ、楽観で取りつくろった。
床のくぼみを指先に引っ掛け、必死で這いずり進む。血の筋を残して前進をする中でわたしは騎士を仕留めた魔法の術者への考えを巡らせた。
途方もなく膨大な魔力だった。雷雲を作りだし、通路の幅ほどもある雷を放つ魔法など聞いたこともない。あの場に居合わせた魔法使いはビヨンひとりだったが……。
「はは、ビヨンじゃ、ないよな……。絶対に……ちがう」
あんな芸当ができるのならば、どこぞの王宮お抱えの宮廷魔術師か、魔法の殿堂とされるウィリアンダール魔術院の看板にでもなっているだろう。
それに――あの魔法は人間には行使できないはずだ。
巨大に過ぎる雷鳴と轟音で驚き、まさか聞き間違いだろうと思ったが、あの術者は確かにこう言っていた。
「あの詠唱……第五階位と口にしていた。どういうことだ? 人間が扱えるのは第四までのはずだ」
ルヴェリアの魔法は第七階位までがあるが、第五・第六は竜族に固有のものと定義され、第七に到っては行使不能と伝えられている。唯一の例外は〝霧払い〟の道連れであった古い賢者、〝万魔〟の名を持つエルテリシアだが――、
「彼女は千年前の人間だ。生きているわけがない」
では誰が?
答えは鈴の音を伴って現れた。
夏に吹く風に揺れて鈴を鳴らす、風鈴のような静かな音色を。
………………
…………
……
『ひとりで立てる?』
女の声――? 誰だろうか? 体は……大丈夫だ。心配は要らない。
『血まみれの上に傷だらけ。格好つけても意味ないよ。助けてって言えばいいのに』
無言。
『君はまだまだ歩かなくちゃいけない。つまらないところで死んじゃだめだよ』
無言。
『やっぱりだんまり。……ねえ、覚えてる?』
なにを?
『大きな夕焼けの前でした約束。君はそこに辿り着かなきゃいけないってこと、まだ覚えてるよね』
約束……? あなたは誰なんだ?
『ないしょ』
参ったな。
『今は我慢して。私はそっちには行けないけれど、霧の中で君を見てるよ。さあ、立って』
ぐい、と手を握られ、思いがけない手の温かさに息を呑んだ。
後ろから大勢の手がわたしの背を押し、起き上がらせている錯覚がする。
女の気配が希薄になっていく。朝日に白み、消えゆく夜のように散っていく。
『またね』
短いが、やけに名残惜しい言葉を残し、彼女は消えた。
………………
…………
……
つんとした汗臭さに目を醒ました。最初に感じたのは『風呂にぐらい入れ』、だ。場違いにも程がある感想だと気付くのはしばらくあと。
全身が上下に揺れていて、誰かの荒い吐息がそばで聞こえる。それからどたばたと走り回る音。わたしは誰かの背に乗っているようだ。
「あっ! ねえ、起きたよ」親しんだ声がする。
「ん? よう! やっと起きやがったな! 目覚ましかけ忘れたか? 霧の中で昼寝かますとは恐れ入ったぜおい!」それから探し求めた声も。
「……コール? ビヨン!?」
大袈裟で大きな声が寝起きざまの耳の中で震え、思わず顔の中心にしわが寄る。子供じゃあるまいし、わたしを抱えるコルネリウスの背から降りようかと思ったが「まあ乗っとけよ」と制された。
ふと胸元に視線を落とすと胸当ても鎖帷子もそのままだった。胸に流血は感じない。無傷? そんなばかな。動揺を隠しながらにわたしは二人へ問いかけた。
「二人ともどこに居たの?」
「そりゃこっちの台詞だぜ相棒。はぐれたお前を探すのに西に東に大冒険よ」
「も、盛り過ぎ……。ユーリくん、うちらがキャンプを出て、霧の中を進んだのは覚えてる?」
並走するビヨンが言った。鈴の音が鳴り、わたしたちは生き残りのグループと合流をして霧の中へと繰り出した。そして霧から現れた馬の怪物と戦闘をはじめ……、
「そこだ」
コルネリウスが言い、周りに居る生き残りの冒険者グループをあごで示す。
「化け物とやり合っている途中でとびきり濃い霧が吹きつけてきやがってな。顏を手でかばって息を止めなきゃならねえぐらいにひどかった」
「それでどうにかやり過ごしたと思ったら――」ビヨンが言葉を引き継ぎ、
「お前が居なくなってたってわけよ」コルネリウスが不敵に笑った。
彼らとわたしでは認識の齟齬があった。なんだか噛みあわせが悪いような、気味の悪さがある。
振り返ってみれば、最初の戦闘の後に全員の姿が消えていて、わたしは遠く聞こえる戦いの音を頼りにして駆けた。
その中に冒険者の亡骸と顔色の悪いビヨンを見て――……これは口にするべきことではなさそうだ。白昼夢を彷徨っていた、なんて正直に言いたくない。わたしは肝心な部分を伏せ、「はぐれてごめん」と謝罪を口にした。
「生きてりゃそれでいいって」大したことじゃない、とコルネリウスがまたも笑う。
「『ユリウスを探すぞ』って最初に言い出したのはあの蛇みたいな顏の人だったんだよ。名前、なんだっけ……」
「メルウェン・リーナーが?」
意外だな。
「そうそう! 血相変えて、何だか分からない小道具まで取り出してね。『魔力が定まらない』だとか『ヘマしちまったら殺される』なんて言ってたよ」
「これがまあ中々見つからなくってよ。馬をあしらいながら散々探してたんだが、急に霧が引きやがってな。通路の壁にもたれかかってスヤスヤ眠りこけてるユリウスを見つけたってのが今回の話のオチだな」
「僕の他に誰か居た?」
コルネリウスとビヨンが顏を見合わせ、首をかしげた。心当たりは無いらしい。
「人は居なかったが、黒焦げになった鎧なら落ちてたぜ。そういやお前が昼寝をしてた通路は随分荒れてやがったな」
「壁も天井も丸く抉られて、通路の果てまでそれがずーっと続いてるの。うちが話した『迷宮に棲む大蛇』の話そっくりに! ああ、これはやっぱり居るんだなあ。世界は広いなあ」
「アホ。ありゃそういう作りになってるに決まってんだろ。なあ?」
ビヨンが両手に拳を握り、憤然とした顏で「アホはそっちでしょ!」と言い、コルネリウスはやれやれ、お前もそう思うよな? と呆れ顔でわたしを見ている。
なんてことのないやり取り。いつもの空気。それが無性にうれしく、微笑みを浮かべるのをわたしは堪えられなかった。
思えば二人とはぐれてから、わたしは一人でずっと霧の中を彷徨っていたようなものだ。あれは……寂しい。孤独の感がひどく増し、もう誰とも出会えないような悲しさに胸が引き締められるようだった。
「いや、きっと蛇は居るよ」わたしは笑いながら言った。
「おいおい冗談に乗るのかよ? 参ったな、じゃあ俺もビヨンのうわ言を信じるフリしなきゃな」
「ほんとに居るんだってば!」
「そうだね。ねえ、ところでこれはどこへ向かってるのかな」
集団は通路を前進し、進むべき道を知っているように迷いなく曲がり角を折れ、走り続けている。
「上の階さ」
「! 階段が見つかったんだ?」
「おう。しかもな……恐らく、ありゃ出口だって話だ。これまでも罠やら扉だらけやらと気味悪い階が多かったが、次はとびきりだってよ。ま、期待しとこうぜ。出られるんならそれに越したことねえだろ?」




