066 大罪人
「なんって……ことだ」
剣戟の音が幾重にも響く。鉄が重量物に暴力的に打ち据えられ、大事な何かが破損、あるいは歪み、誰かの絶叫が濃霧の中でこだました。戦場の狂想曲。血生臭い音の嵐がここに渦巻いている。
歓喜、そして勝利の雄叫びを孕んだいななきが敗者の叫びを塗り潰した。獣の唸りはどうやらふたつ。
もやに覆われた床の上に、黒々とした巨体が横たわっている。アギルらが塔の脅威だと言った馬の怪物……わたしが今さっき殺した相手と全く同一の姿をした怪物の亡骸だ。
同じ魔物が複数体現われるのか? あご先に指を添え、思考する。
思い出すのは『馬を倒したところで、階をひとつ上がればまた現われる』というアギルの言葉だ。
冥府の炎を身に灯す怪物。この馬は不死ではなく、殺せば確かに死ぬ。何度も出現をする理由は群れで動いているからではないか?
「……あり得ない話じゃないか。けど考えるのは後だ。ビヨン! コール! どこだっ、返事をしてくれ!」
壁によりかかる人影が見え、駆け寄った。だがそれは胸部を潰された戦士の亡骸だった。頭部は半ば壁にめり込んでいて、どう見たって事切れている。
顏は――確認しなくて良いだろう。幸い、アギルで無ければメルウェンやスタン、リーナとも違い、わたしのかけがえのない仲間でも無い。
鉄が肉を裂き、何かが倒れる音が耳を打った。戦闘はどうやらまだ続いている。一体どこなんだ? グリーヴの底を打ち鳴らし、弾かれたようにわたしは通路を再び走った。頼む、生きていてくれ――。
………………
…………
……
「っ!?」
敵意を感じ、とっさに盾を掲げた。霧の奥に黒い影がぽつりと浮かんだかと思えば、次の瞬間には白いベールを突き抜けてわたしの防御に衝突し、それはごとり、と床に崩れ落ちてしまった。
「何だ? ……人……!?」
生気のない目。力なく開いた口。死者の顏。
彼女の胸は呼吸に上下せず、歪んだ手足は微動だにしない。どうしようもなく、死んでいる。
女性だと認識をした途端、わたしはハッとして息を呑んだが、直後に安堵からの深い息を吐いた。これはビヨンではない。ただその事実だけが、焦燥を覚えたわたしには何より重要だった。
警戒しろ、と。戦士としてのわたしが脳裏で警鐘を鳴らす。
馬の怪物か、それとも新手か。何者かがこの先に居る。相手は人を紙くずのように投げ捨てる膂力を持ち、おそらくは霧の中であってもなお、わたしをしっかりと睨み据えているのだろう。
勘だ。だがこの時の直感は決して無視できるものではないことを、わたしはよく知っている。
その時、前触れもなく霧が揺らぎ、ちらと見えた人影にわたしの意識の大半が向けられた。
師より譲られた緑色の大きな帽子。紺のローブに白いケープ。慣れ親しんだ金の髪――、
「ビヨンッ!」
とてもではないが冷静ではいられなかった。霧の中に何者が居ようと知ったことではない。一秒でも速くこの足で駆け、彼女の安否を知らなくては。
落ち着け、とわたしの理性が叫ぶ。
うるさい。黙っていろと内心で吼えた。
仲間が倒れ、ぴくりともしていない姿を見て冷静でいられるか? 不可能だ。出来ることなら、この冷血な理性を黙らせてやりたかった。
コルネリウスはどこだ? アギルたちは?
姿は無い。あらゆる音が――異界の先触れを告げる鈴の音さえもが遠く、おぼろげだ。いまや意識の全てが床に倒れたままのビヨンの姿に注がれている。
今すぐそばへ駆け寄り、髪を撫で、生きているという確かな証拠とわたし自身の安堵が欲しかった。
だが邪魔立てが居た。霧の向こうに揺れる黒い影。
――敵だ。わたしは睨みながらに剣を抜き、戦いに備えた。
「すぐ行くよ、ビヨン。もう少し待っていてくれ」
「イィィルルァ……」
いななきが聞こえ、二頭の怪馬がのっそりと姿をあらわす。背にはやはり骸骨の騎士。きつく睨んでいるわたしの姿が愉快なのか、やつらはカラカラと笑い、錆びた剣を高く掲げた。
威嚇でも何でもするがいい。邪魔立てをするならば黙らせるだけだ。
言葉で退かないのならば、剣を交えるのみ、ということだ。
……綺麗に表現するのは今この場に限り、止めよう。
胸の内でたぎる激情を抑え込むことは毒なれば。この怒りを嗜める仲間は今は無く、暴虐を見咎める者もまた居ない。
正直に言おう。わたしは――……わたしは、ひどく苛立っていた。
魔力の残量や節約なんて頭の片隅にもない。逸る身と心を阻む、目の前のこいつを叩き潰したくて仕方がなかった。
「邪魔だ、化け物。――……そこをっ! 退けっ!」
一歩、二歩、全力の跳躍。
腕から刃へと意識を繋ぎ、魔力の圧を奔流となって巡らせる。
狙うは慢心しきった黒馬の首。放つは〝迅閃〟の一刀!
魔力の刃が肉を裂き、間髪を入れずに実剣が同一の軌道で首の深部へ届き、頸椎へ致命の一撃を加えた。
倒れ伏す肉体。通常の生物なら必殺の傷だが、こいつは怪物。常識で測ってはならない。
大丈夫だ。今のわたしに慈悲は無く、油断も無い。徹底的にやる。
着地と同時、血の代わりに噴出した霧を剣にまとわせたまま、振り返りざまに手首を素早くしならせて怪物の腿を断つ。
攻撃の気配を知覚するやに続けざまに魔力を両脚に付与し、後方へ跳躍した。
途端、霧を食い破るようにして怪物が姿を晒した。砲弾さながらの勢いの体当たりだ。まともに喰らえば腕の一本は潰れるだろう突進を空中でどうにか躱し、身を回転させると、グリーヴのかかとで骸骨騎士の頭部を蹴りつけた。
頭蓋が陥没し、気味の悪い笑い声をあげながらに骨の身体がガラクタの山のように崩れ落ちていく。
哀れ、腰骨だけを残した主に代わり、黒馬の背にわたしはまたがった。『まるで上級騎士にでもなった気分だな』とコルネリウスなら言うだろうか? そう、わたしも普段なら冗談のひとつも頭に浮かんだだろう。
だがこの時の戦士の頭には、こいつを確実に殺る最大の好機が訪れた、という認識だけがあった。
馬が癇癪を起こし、わたしを振るい落とす前に終わらせるとしよう。
剣を逆手に持ち、手首のスナップをきかせ、鋭い切っ先を肉の横腹に素早く突き立てた。
漏れ出す霧。
下馬をしながらにも切り傷を拡げさせ、着地際に思い切りに剣を振り抜いた。
怪物の身は崩れ落ち、最後に何事かをつぶやくようにして大きく身震いをすると、それきり二頭の魔物は動かなくなった。
油断なく、しばらく見つめたがぴくりともしない――事切れている。
かちり、と剣を鞘に納めた。戦いの感触と高揚がわたしの苛立ちを鎮めたようで、わたしの中の戦士は影へと消え、理性が主導権を取り戻している。
まずいな、とわたしは小さく舌打ちをして、それから何の気なしに首に掛かったネックレの宝石部分を指の腹で撫でた。
苛立ちを暴力で解消するのはどう見たって褒められたものではないと、わたし自身そう考えていたのだが。
……それをまさか……自分で実践してしまうとは。
冷静さを取り戻すと愕然とした気持ちになり、どうしてか、そんなわたしを叱咤するアーデルロールの姿が脳裏に浮かんだ。ビヨンの叱咤はそれとなく受け流せるが、あの王女の言葉からは目を背けられない気がしてならない。
駆け足でビヨンのそばへと近付き、頭のすぐそばで膝立ちに屈んだ。
髪を指ですくい、後頭部を手で支えると彼女の顔に視線を落とした。少女らしい穏やかな顔は死人のように青白い。
取り乱しそうになる心を自制した。抑えろ、と。
逸る気持ちは分かる。だが、こういう場面こそ冷静が肝要だ。
首筋に指をあてると脈の動きを感じた。呼吸に胸が上下している。彼女は生きている!
安堵を覚えるとわたしはもう一人の、決して失うわけにはいかない男の姿を探して周囲をぐるりと見た。
コルネリウスはどこだ? 焦りをあざ笑うかのように濃霧は視界を阻み続けている。舌打ちを堪え、なおも薄もやの中に親友の姿を探した。
「ユー……リ……く……」
彼女がまぶたを薄く開き、見慣れた瞳がわたしを見ていた。弱々しい声を励ますようにしてビヨンの細い手を取り、もう片手を彼女の後頭部に添えて支える。
「ここに居るよ。何があったか話せる?」わたしの言葉に、彼女はあごを少しだけ下げてうなずく。
「霧が……押し寄せて、きて……気が付いたら、ユーリくんが居なく……なってて……代わりに黒い馬が、たくさん……」
するとビヨンが苦しげに咳込み、酸素をもとめて口が小さく開かれる。ビヨンがわたしの手を引き、真摯な声で言う。思いがけずに強い力でいて驚きを覚えた。
「けど、危ないのは……馬じゃないの……気を付けて。あいつが来る」
「あいつ?」
………………
…………
……
――りぃん。
りん、りん、りん。
じりりりりりりり。
発狂のごとくに鳴り響くと腰に下げた霧の探知機のガラスにひびが走り、ぴしりと無残に砕けた。
間髪をおかずに尋常ではない悪寒が背筋を登る。視線? 違う、これは殺気だ。
「何かがまずい。何だ!?」
振り向きざまに盾を掲げる。角度も方向も何もかもが勘だったが、ヤマは当たった。打ち据えられた衝撃に左腕が軋み、不利な体勢での防御のツケは無様な転倒で支払われた。
薄汚れた鎧、身にまとわりつくボロ布、胸に突き立てられた漆黒の矢。
その姿はあまりにも特徴的であり、また忘れるにはあまりにも印象が鮮烈に過ぎた。
「――悪よ! 死ぬるが良い!」
「お前……っ! さっきの騎士!」
血に濡れた剣を握り、殺意を隠しもせずに殺戮の騎士は面をこちらへ向けた。
この騎士は言葉のやり取りを求めず、赤錆びのこびり付いた籠手を軋ませ、空気を割断する一刀を振り下ろした。
顏を覆う騎士兜が厄介だった。
視線からの狙いが読めず、否応なしに戦闘の難度が加速度的に引き上げられる。
汚らしい甲冑で覆った腕の動き、鍔の向き、死を与えんと鈍く光る剣の先端。あらゆる兆候を見逃すな。
両の瞳に意識をやり、あらんかぎりの集中力を振り絞って脅威を睨む。
ブレる剣身。やはり疾い――いや、疾過ぎる――!
盾で一撃を受けたがあまりの衝撃の強烈さに腕が震え、骨に痺れを覚えた。上体が仰け反るが、ここで倒れれば死を受け入れることに繋がってしまう。耐えなくては。
奥歯を噛んでどうにか踏みとどまり、斜め上より袈裟の筋で下される暴力を視認する。
左腕は痺れ、とっさに盾を掲げられそうにはない。
剣で受けるか? バカな、右腕まで麻痺してしまえば反撃も出来なくなる。そうなればなぶり殺しだ。
「――ふっ!
身を倒し、頭部を狙った剣閃を寸前で躱す。
冷や汗が肌に噴き出した。完全には避けきれず、髪が切断される感触を感じたからの震え。
騎士の腕は伸びきった。反撃を与えられる隙に見え、心がうずく。
と、同時に本能が迫る危険を訴えた。すると予測をしていたタイミングよりもずっと速くに二撃目が繰り出されているではないか。
とっさに後ろへと跳び、棒立ちでいたなら自分の上半身を両断していたに違いない剣を見送る。
――誇張抜きに強敵だ。霧の中でこれほどの強者と出会ったことは一度もなく、指先が震えた。恐怖か武者震いか。今は判断をくだせない。
やつの攻め手は少しもゆるまず、騎士はわたしとの距離を瞬時に詰めた。全身を甲冑で覆っているとは思えないほどに軽快で鋭い踏み込みに息を呑んだ。
魔力で肉体を強化してはいるのだろう。だが、それにしては速すぎる。まるで重量を感じていないようではないか。
戦い慣れている。わたしとは場数が、越えてきた死線の数が違う。
思考は隠そうともしない騎士の殺気と、ガントレットをかすった際の金属音によって中断された。
剣の嵐のすべてを命からがらに回避、あるいは防御をし続けた。だが一刀が振るわれるたびにわたしの体は傷ついていて、消耗の果てに殺されることは明らかだった。
まだだ……どこかに好機を見つけ、反撃をせねば。このままでは終われない。
わたしが倒れたあと、ビヨンへ剣を向けられる想像の場面が脳裏をよぎり、荒く息を吐くばかりだった胸に熱が灯った。
「っ! あああああっ!」
骨身が砕けたのではないかと考えるほどに重い一撃を盾で受け、衝撃を吸収するように腕を引き――騎士剣を懐へ引き込むと渾身の力でふたたび盾を掲げた。
攻撃の勢いを利用し、相手に隙を生ませる戦闘技術のひとつ――受け流し。
騎士の腕が上がり、腹がさらされる。
がら空きの懐――……対象は鋼を打ち鍛えた金属鎧。
貫けるか? 大丈夫だ。わたしならやれる。こいつを倒せないようではこの先へは行けない。
「貰った……っ!」
剣の切っ先を素早く向け、裂帛の気合をもって鋭い刺突を放った。反撃の機会に焦がれていたわたしの剣先が鉄に突き立ち、甲冑を食い破る。
剣身の半ばまでもが腹部に食い込んだ。人間なら……いや、生命であれば致命傷であることは間違いない深い傷。
騎士の腕がだらりと下がり、全身に脱力が走るのをわたしは見た。やつは名のある像のように立ちつくし、腹に突き刺さった剣も、胸を穿ったままの黒い矢も見ず、騎士はわたしを見つめている。
「……やった、のか?」言いはしたが、勝利の実感は無かった。
「…………」
騎士は語らない。事切れたのだろうとわたしは思い、剣を抜こうと腕を引いた。その時だった。
「貴様は――……貴様は己が犯した罪を憶えているか」しわがれた重い声だった。
胸の鼓動がばかに大きく聞こえる。籠手の中で手汗が噴き出した。早く、早く剣を抜かなくては。だがわたしの口はひとりでに動いていた。そうとしか思えないほどに自覚が出来なかった。
「ここまで僕を狙うお前は誰だ? 罪とは何だ?」
「……貴様の罪とは即ち〝殺戮〟である」
「何?」
これまでに剣を振るい、血を流したことはあった。だが殺戮と呼ばれるまでに外道なことをした覚えは一切なかった。父か? いや……違う。この騎士はわたしを見ている。
「有史以来……最大級の殺戮。それが貴様の犯した罪だ。貴様の引き起こした災いにより犠牲となった者は億にもなろう」いや、と騎士は小さく言葉を漏らし、「それでさえも……足りぬかも知れぬな」
言葉が出ない。
この騎士はやはり狂っている。億人を殺した殺戮者? 十五の男がそんな大それたことを出来るわけがない。
『忘れるな』
心の奥底で誰かの声がした。
誰だ? 誰が居る?
『お前がせんとする事は人を、世界を殺す事になる……ゆめゆめ忘れるな』
これは――……これは、わたしの知らないわたしだ。
封じられていた記憶の暗闇に何者かが居る。わたしを責めんとささやくお前は誰だ?
ぐらり、と騎士の身が揺らぎ、現実に意識を引き戻された。
奴の身に力が入り、剣を握りしめた籠手がぎしぎしと音を立てている。
「我が運命を誇りに思わねば。霧に迷った私が……私だけがルヴェリアの大罪人を斬り伏せる好機を得られたのだから。死ね――貴様は現世にあってはならん命だ」
ぼっ、と死を振るう音がした。
視認。距離があまりにも近すぎる。回避は不可能だ。
盾――騎士の手が伸び、腕を押さえられている。防御も出来ない。
どうする、どうする、どうする。
そうだ。〝紋章〟を――。
胸に衝撃を感じた。
鉄の胸当てが薪のように切断され、鎖帷子は裂かれ、わたしの胸を鋭い鉄が舐めた。
そして、鮮血が遺跡を染める。




