065 冥府の馬
霧の探知機の内部に取り付けられた鈴が奏でる、涼しくも恐ろしい音色。それは人の意識の根幹に根差した恐怖を奮い立たせる、警告の音に他ならない。
魔物を産む霧が世ににじみ出た時、その魔力の歪みを感知してミストベルは鳴る。
急ぎ確認をするとガラス瓶の中で白いもやがおぼろげに揺れていた。緊張にガントレットの下の手が強張る。恐らく、戦いは避けられない。命の取り合いの時は刻一刻と近づいている。
「若いもん同士の自己紹介はもう十分だろ? 荷物をまとめろ、出るぞ」
「了解です、リーダー!」号令をかけるアギルへ向け、スタンが景気の良い笑顔で言う。
「やめろよ、こっぱずかしい。頭目なんてガラじゃねえよ」
まだ戻っていない偵察が居るはずでは? わたしがそう口に出すと、また名も知らぬ男が顏を出し、何ら問題も無さそうな顔で言った。
「あの女なら無事に決まってる。あいつをやれんのは〝霧の大魔〟ぐらいのもんだろうからな」
「〝霧払い〟の再来ってか? そりゃ冗談にしても吹かし過ぎだろうが」鉄剣を抜き、傷の走る兜を被ってアギルが笑う。赤いヒゲを撫でると大きく声を張った。「おい! メルウェン! 先導頼んでいいか!?」
矢筒を背負い、片手をひらひらと舞う蝶のようにはためかせて、薄笑いの男が軽薄な返事を返した。
「おう、任せな。ユリウス以下幸運なるガキ共よぉ、いいか? こっから先はもう魔物がいつ出てきてもおかしかねえ。死にたくなかったら死ぬ気――いや、死んだつもりで恐れなく戦え」
「……どっちだよ? よう、相棒。やるぜ」
装備を整えたコルネリウスと拳を突きあわせた。相も変わらない、快活な顔。彼が心底落ち込んだ顏をしたのは……五年前の霧の日が最後だったかな。
集団を見回し、礼儀としてわたしは自身の名を告げた。
「ユリウスです。よろしくお願いします」
「どうやらこいつらは幸運が味方してるみてえでな! 幸運の護符ってわけじゃねえが、難事が寄らねえように付いてきてもらうことにした。ん? やっぱこりゃ願掛けだな。ま、いいかァ! よろしく頼むわ!」
アギルは紹介をしたわたしの背中を平手でばんばんと遠慮無しに張った。不思議と嫌な気持ちはしない。わたしたちを幸運のモチーフといった物扱いが面白かったからだ。
生き残りたちと挨拶――といっても名前を聞き、拳を合わせるぐらいの手短さだったが、するべきことは済ませた。
通路への入口でメルウェンが立ち、出発を促している。
……ここからが本番だ。
霧の探知機がひっきりなしに鳴っている。鈴の音は間延びして響き、りーん……りーん……と夏、草葉の陰で鳴く鈴虫の羽音を思い出させた。
「すげえ霧だな。〝ガリアンの祝福〟だかなんだかで霧は当分出てこないんじゃなかったのかよ?」
「英雄さまのご利益も終わっちまったのかもな。畜生、霧なんざ本当に久しぶりに見たぜ……」
コルネリウスがぼやき、周りの冒険者も現実へ向けて恨み言を吐いた。
無理もない。わたしたちの目の前には、久しく見ていなかった霧が満ちているのだから。
恐怖の深い部分を刺激するような濃霧。一寸先を見通せないほどのものではなかったが、視界はきわめて悪い。木の根に足を取られないようにじりじりと床を踏み、わたしたちの集団は身を寄せ合い、ひと塊となって慎重に進んだ。
わたしは最後尾、メルウェンの推薦と盾の扱いを買われ、集団の殿を任されていた。
景気の良い言葉を次々に放られ、勢いのままにうなずいてしまったが、実際のところは守備に相応しい装備を持つ人間がわたしとスタン、それと歴戦の勇士らしいドワーフの男の三人しか居ないからだった。
と、不意に鈴の音の間隔が早まった。呼吸が深く、長くなり、リラックスしていた意識が冴え渡る。
りーん……りーん、りん……り、りりりりり――……。
甲高い音色が発狂したようにけたたましく、警鐘のように激しく鳴り始めた。
前を歩く全員に緊張が走ったのをわたしは見た。
普通じゃない気配が階に満ちている。全身に槍の穂先を押し当てられ、死を感じている姿を何者かに観察をされているような不快感があった。心なしか濃密な獣臭さえする。
気のせいか? いや、違う。感覚を澄ませ。
音と音の間隙を縫い、不吉な声が立ったのをわたしの耳は聞き逃さなかった。
よく知った声。そうだ、これは――……!
「馬のいななきかっ!」
「気配が近い! クソッタレの怪物のお出ましだ! 黒髪、ケツは頼んだぜ!」
後方。霧に塞がれた視界の奥。かつて〝霧払い〟が睨んだ薄もやの中で、蹄が大地を踏みつける音が連続している。
おぼろげな白の中で巨大な影が揺れた。それは薄く、しかし次第に濃く、存在を明確になっていく。
魔力による身体強化。特に左腕を強固に、不壊の体現を!
脅威が霧を抜ける。接触まで三、二、一……!
「イィィィィルルルォォアアアァ!」
「――ッッ! 重……ッ! がッああああッ!」
黒々とした巨体の衝突を真正面から受け止めた。グリーヴは足元のレンガに食い込み、殺しきれなかった衝撃で後ずさり、かかとが床を削り、軌跡を刻む。苦悶をこらえながらに相手を視認する。なるほど――確かにこいつはまともではないな。
「これは、っ、間違いない……魔物……っ」
薄もやをまとった巨大な馬。体高は優に二メートル以上はあるだろう。
胸の高さがわたしの目線であり、見上げれば爛々と輝く青白い瞳がわたしを見下ろしている。
たてがみと四肢の先は青い炎にゆらゆらと燃え、丸太のような脚が棒術のように振りかぶられた。
盾で受け、軌道を流す。何人もを殺し潰した蹄は槍のごとくに床面に突き刺さり、一撃で幾筋もの地割れを刻んだ。
まるで場違いなケラケラとした笑い声が頭上から降り落ちた。馬の背にまたがった骸骨騎士が声の主だ。赤いマントを羽織っただけの白骨死体が顏を上向け、愉悦を呑むようにして肉の無い口を開き、笑い転げている。
危険の無い旅はここで終わり、か。これより先は戦場に他ならない。
胸の前に片手を掲げ、素早く指先で小さな円を描くとぎゅっと握り込んだ。
勇気を灯す所作。父譲りの、自らを奮い立たせる祈り。
「これが塔の正しい状態ってことか。分かった……やってやる。ビヨン! 五番だ!」
背後で音も無く魔力が練られていく。続けざまに紡がれる詠唱の声。
「過重付与――鉛の風よ! 風の第一階位、<重風弾>!」
「行動不能にすりゃあとんずらかます時間を稼げる! 生きたきゃ戦るぞ、てめえら!」
「オォォオオ!」
ビヨンの風弾が馬の足首を的確に撃ち、筋肉質の肉体がわずかに揺らぐ。
ベテランの冒険者は攻勢を途切らせてはならぬとばかりに、疾風となってわたしの両脇を駆け抜けた。
大斧が炎の灯る蹄を潰し、見慣れた鉄槍の穂先が首元を貫き、数人の振るう幾重もの剣腹が腹を裂いた。さすが、これまで戦闘を重ねて塔を登ってきただけはある。見事な連携、流れるような攻撃の波だ。
一斉に刃を突き立てられた怪物だったが、肉体より血肉は漏れず、流れ出たのは濃密な霧。
衝撃からか、馬の首が不安定に傾いた。わたしは右手に握った剣を振りかぶり、渾身の力で脈を打つ首筋を目掛け、切り込む。
「っああああああっ!」
刃の全長よりもわずかに太い獣の首。一太刀では断てず、自身の技量の足りなさに眉根をひそめた。これで〝迅閃流〟を名乗れば、シラエアに灸を据えられてしまうな。「くそっ、届かない……だが!」
剣は首の三分の一まで切り込んでいる。血の代わりにおびただしい量の濃霧が漏れ出し、馬が苦痛に身をよじり、わたしの体が振り回される。
「ユリウス! おい! 剣から手を離せ!」
「大丈夫だ、こいつはこのまま仕留める!」
馬が立ち上がり、両前足を浮かせて大きくいなないた。肉に食い込んだ剣もまた首につられて上昇し、剣の主であるわたしの体も宙を浮く。
装備を着こんだ男の体を軽々と持ち上げるとは、まったく馬鹿げた膂力だ。
ビヨンの悲痛な声が下から聞こえる。顏は――見なくても想像がつくな。
だが、これは窮地ではない。馬が力任せに首を振り、体を壁に叩きつけ、羽虫のように身にまとわりつく潰すようなことにはならない。なって、たまるか!
剣を握る右手に魔力を集中させた。瞬間的に筋力が上昇し、短時間ではあるが多少の無茶はきかせられる。
予想の通りに黒馬は激しく首を振るう。上下左右に振り回され、視界が激しく揺れた。手から力は抜かない。まだだ、まだ食らいつく。と、最善のタイミングで体重の中心をずらし、慣性のままに上方へとわたしは飛んだ。
「魔力を両手へ集中付与!」
炎の揺れるたてがみを引っ掴むと、馬の首へとまたがり、瞬時に両手で剣の柄を握りしめる。
青い炎が身を焼くが、苦痛に構ってはいられない。ここで仕留めねば被害が出る可能性がある。止めなくては。
背後で骸骨騎士が剣を握る音がした。鍔が鳴る音はあまりに特徴的であり、わたしの習慣に馴染みすぎている――聞き漏らすはずがない。
わたしを仕留めるつもりか? 残念だが遅い。
「っだあああっ!」
握り込んだ剣の柄を握りしめたまま、床面へ落下するように体を前傾させた。まるで曲芸師の真似事をするように。
降下際、首の深くまで切り込んだ剣を更に押し込むようにして力を込めた。ぎち、と肉を裂く感触が剣から手、腕から背筋へと伝わる。戦いの高揚。恐れはもうほとんどなりを潜めている。
わたしは魔物を――霧を潰す。楽しんでは……いない。やるべきことを、やるだけだ。だから、肉を裂く感触に口元を歪めてなんていない。
切断寸前まで首を断ち、馬は大柄な図体を倒し、床に伏した。相当な体重の持ち主らしく、ずず、と鈍い音が立ち、周囲の霧がわずかに揺らいだ。
「イィィイ……ルル……ゥ……」
まだだ、まだ息がある。逃がすか。必ず仕留めてやる。
周りに人は居るか? ビヨンとコルネリウスは――居るだろう。
わたしはこれから凄惨なとどめを刺す。殺しの場を見られるのは落ち着かないが仕方がない。相手は魔物……人界を脅かす怪物なのだ。慈悲はかけられない。
「はっ、はっ……、魔力、集中付与……」
両腕、そして剣に魔力を纏わせ、深々と食い込んだ剣の柄を握り、力任せに下方へ向けて振り切った。
音はささやかなものだった。両断された面からは蒸気のように膨大な霧が立ち昇り、黒々とした肉体を一際強く震わせると怪馬は活動を停止した。
明確な終わり。……ひとつの死だ。
「これで……はっ、っ、一匹……」
霧より現われる魔物と対峙する時、わたしは死をより一層身近に感じる。
難としか言えない戦闘だが、奴らと向き合って良いと思える点がひとつある。それは得物の刃が血で汚れないことだ。
連中は霧を噴き出し、死に果てる。
どうして血を有していないのかは今をもっても分からない。千年前より霧と戦い続けている古い騎士国、ルヴェルタリアの大書庫ともなれば彼らの秘密や研究の文も眠っているだろうが、わたしのような小市民にはそれらを目にする機会は無いだろうな。
「……ビヨン? コール?」
ふと気付けば辺りには誰も居なかった。
スタンも、リーナも。ここまで生き残ってきた冒険者たちも。
死んだのか? いや、人の死体は見当たらない。
周囲には霧があるばかりで、相変わらず霧の探知機はわたしの腰でやかましく警告音を奏でている。
脅威はいまだ去ってはいない。
「…………ッ! で……だ! ……ぞ!?」
「――あっちか」
道の先から人の叫び声が聞こえた。微かな声量だが、人の名残ならば無視は出来ない。
わたしは馬の死体から熱の残る蹄を斬り落とし、回収すると絶叫のもとへと駆けた。




